蹄鉄の夢(ていてつのゆめ)

こおえい

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第六章:逸脱

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朝5時、光映みえは起きるとすぐにストレッチを始めた。

背中の可動域を広げ、股関節を柔らかくする。
四肢の関節に重心を分散させる感覚も、だいぶ身体に染み込んできた。

寝間着のまま、リビングの床に手をついて歩く。
人間の骨格で馬の動きを再現するには、肩甲骨の意識が重要だった。
それは、YouTubeの解剖学動画で学んだ。

「今日は後脚強化の日」

朝食は燕麦、リンゴ、ニンジン、そしてプロテインを溶かした豆乳。
糖質も脂質も制限していた。草食動物の消化に近づけた食生活だった。

数日後、光映みえは近所の公園で、全力の“駈歩(かけあし)”を始めた。

もちろん、四足ではない。まだ、そこまで露骨にはできない。
だが、肩を落とし、腕を振らずに腰と背中をしならせて走る姿は、誰が見ても異様だった。

その日、公園を走る光映みえの姿をスマホで撮っていた高校生がいた。
翌朝には、動画がSNSにアップされていた。

《馬になりたすぎて壊れたおばさんwww》

それが拡散されるのに、半日もかからなかった。

昼過ぎ、実家の母から電話が来た。

「……あんた、何してるの?」

「何が?」

「何が、じゃない!ネットに出てるの、見たわよ。変な走り方して、笑われて……あんた、どうかしてる!」

「私は正しいことをしてる。笑われても関係ない」

「病院、変えた方がいいんじゃない?ちゃんとしたとこ行こう?先生紹介するから……」

「もう人間の先生はいらない」

「何言ってるの……ねえ、光映みえ、お願いだから、少し休んで」

その言葉に、光映みえは静かに答えた。

「休んでるの。ちゃんと。『人間』から」

その夜、部屋の床にヨガマットを敷き、裸足で蹄鉄を手に持って歩く訓練をした。

壁一面に貼った競走馬の写真。
その中の一頭、憧れの競走馬の写真の前で立ち止まると、深く頭を下げた。

「あなたに、なります」

涙が出た。
馬を見て泣くのは、これで何度目だろう。
でもその涙はもう、悲しみではなかった。

数日後、乗馬クラブに行くと、受付の女性が少し言いにくそうに言った。

早田さなださん、ちょっとオーナーとお話してもらえますか?」

事務所に入ると、クラブの代表が真顔で言った。

「……最近のSNSの件、ご存じですか?」

「はい」

「騎乗中の姿勢や、発言について、他の会員さんから少し不安の声がありまして……」

「馬になることの、どこがいけないんですか?」

「いや、別に……そういうことを否定するつもりはないんです。ですが、当クラブとしては安全性の確保も必要で……今回は、一旦お休みいただけたらと」

「つまり、辞めろと?」

代表は黙った。

帰り道、光映みえは駅のベンチに座り、30分以上動けなかった。
身体の震えが止まらなかった。
でも、恐怖ではない。悲しみでもない。

“人間の社会から、いよいよ外れた”という実感だった。

家に帰ると、鏡の前に立ち、服を脱いだ。
人間の顔。人間の身体。
けれど、もうどこかに“馬”が入り込んでいる気がした。

ふいに、光映みえは手足を床につけて立ち、喉の奥で音を鳴らす。

「……ヒヒーン」

震えながら、二度、三度と声を出す。
部屋の隅に置いた蹄鉄を、床に当てて鳴らす。

カン、カン、と。まるで、自分の鼓動のように。
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