【コミック③巻、3/27発売!】私を追放したことを後悔してもらおう~父上は領地発展が私のポーションのお陰と知らないらしい~

ヒツキノドカ

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1巻

1-2

 本気で撤退てったいの段取りを考えているらしきエリカに職員は思わず尋ねた。

「なぜそこまでして撤退てったいを? プロミアス領ほどいい土地はなかなかないと思いますが」

 何しろ、この領地は資源も豊富で水源や食料にも恵まれ、人の出入りが多い。数年前まで魔物の被害が多かったらしいが、ここ最近はすっかり平和である。
 それなのにエリカはどうしてわざわざこの土地から離れようとするのか、職員には理解できない。
 エリカはごく自然に言った。

「決まってるじゃない。近いうちにこの領地がぶっ壊れるからよ」
「……はい?」
「アリシアがいなくなったせいでね」

 あっさりと断言する。
 唖然とする職員を放置し、「伯爵もほんと頭悪いわよねー」などと言いながらエリカは事業撤退てったいのための詳細な手順を考え始めるのだった。



   第二章


「わあっ……!」

 馬車の座席から身を乗り出して、私は思わず声を漏らした。
 整備された街道の右側は緑一色に染まっている。見渡す限りの木々が街道沿いに広がっている景色は壮観というほかない。

「お客さん、フォレス大森林を見るのは初めてですかい?」
「は、はい。話には聞いていましたが、間近で見るのは初めてです」

 御者台のほうから声をかけられ、私は素直にそう評した。
 フォレス大森林。
 私の領地であるプロミアス領と、隣のシアン領の境目にある巨大な森林地帯だ。
 フォレス大森林は魔力植物や魔鉱石などの資源が多い。おかげで接する二領地はどちらも占有権を主張し合い、結局は真ん中あたりで分けて分割管理しているらしい。
 シアン領に行くには、このフォレス大森林の端を南側から西へ向かって回り込む必要がある。スカーレル商会から出た私は馬車に乗り、シアン領を目指して移動しているところだ。
 この分では今日中にも目的地に着くことができるはず。
 とはいえ、こう広い森だと、心配になることもあるわけで。

「森の中から魔物が出てきたりしないんですか?」

 自然の多い場所には魔力が溜まりやすく、「魔力溜まり」からは魔物が生まれる。魔物は人を襲うこともあるうえ、普通の動物にはない特殊な能力を備えているものもいる。フォレス大森林の内部にはそんな魔物たちがうようよしているのだ。
 私の言葉に御者が肩をすくめる。

「そりゃあ魔物が出ることもありますが、襲われることなんて滅多にありませんよ」
「そうなんですか」
「ええ。それに護衛も雇ってますんで心配無用です」

 御者が私の後方に視線を向けると、そこに座っている大柄な男性が豪快に笑った。

「おうよ。魔物が出ても俺が退治してやらあ」
「頼りにしていますよ、冒険者さん」

 冒険者というのはたしか、魔物狩りやら危険地帯での採集やらをする職業のことだ。どうやら彼は護衛として雇われた冒険者らしい。

「ん? あれは……」

 森のほうを見る冒険者の男性が声を上げた。何かあったんだろうか?
 視線を向けると、男の顔がみるみる青ざめていく。

「やべえっ、伏せろ!」

 慌てたような声が聞こえた直後――ドガンッ、という衝撃が馬車を襲った。
 客車が激しく揺れ、馬が悲鳴のような鳴き声を上げる。

「な、何ですか!?」
「魔物だ! ロックリザードが出やがった!」

 どうやら魔物が出たらしい。御者の声に答えると、冒険者の男性が武器を持って客車の外に出て行く。
 私はというと――振動のせいで転び、馬車の端に頭から突っ込んでいた。こ、後頭部が痛い……!

『グルルルォォオッ!』

 客車の陰から覗いてみると、冒険者の男性が魔物と戦っている。
 魔物の正体は全長三メートルほどの巨大な灰色のトカゲだった。それだけでも恐ろしいというのに、なんとその灰色トカゲは口を大きく開けたかと思うと巨大な岩石まで吐き出している。あれが灰色のトカゲの能力らしい。
 ちなみに、馬車のそばには不自然な岩が転がっている。どうやらさっきの衝撃は、あの岩吐き攻撃が馬車に命中したときのものだった。

「おとなしくしやがれ!」
『ギャウッ!?』

 戦いは冒険者の男性が優勢だ。あの恐ろしい灰色トカゲの攻撃をかいくぐり、次々と攻撃を浴びせている。

『グルォオ……オオ……』

 数分間の戦闘の末、灰色トカゲは退治された。
 意外と呆気あっけない。
 冒険者の男性はそのまま嬉々として灰色トカゲの目玉やら角やらをえぐり始めた。魔物の素材は武具や魔道具の材料になるらしいので、きっと街で売るのだろう。
 しばらくその作業風景を見ていると、御者台のほうから困ったような声が聞こえてきた。

「動け。なあ、動いてくれよ。……ああ、参ったな」

 私は客車から降りて御者台のほうに回る。

「どうかしたんですか?」
「ああ、お客さん。いえね、実は最初の魔物の攻撃で馬が脚を怪我けがしたようなんです」

 御者の言う通り、馬の前脚からはドクドクと出血していた。灰色トカゲが吐いた岩の破片はへんにでも当たったようだ。
 馬は立つのも難しいようで、うずくまったまま動こうとしない。このままでは立ち往生おうじょうだ。

「わかりました。私がなんとかしますから、少し待っていてください」
「え? お、お客さん? そっちは森ですよ?」

 私は街道沿いのフォレス大森林のほうに歩いていく。森に近付くといっても、さっきのような魔物が出て来るかもしれないので入り口付近まで。
 近くになければ諦めるしかないけれど……あ、見つけた。
 私は「それ」を引き抜いて馬車のところまで戻ってくる。
 私が持っているものを見て、御者が不思議そうに尋ねてきた。

「お客さん、何を採ってきたんです?」
「『癒し草』という魔力植物です。聞いたことはありませんか?」
「さあ……植物には詳しくないもんですから」

 御者はさっぱりわからないという表情をする。
 癒し草はポーション作成に欠かせない鉄板素材だというのに。まあ普段からポーションの研究でもしていなければ、そんなものかもしれない。

「それをどうするんですか?」
「こうします」

 採集してきた癒し草を手で細かくちぎっていく。
 指先が緑色になり、独特のにおいが立ち込める。うん。新鮮ないい素材の香りだ。すり鉢やすりこぎでもあればもう少し細かくできるけれど、今はどうしようもない。
 ポーション作りには必須だし、街に着いたらその二つは最優先で買うことにしよう。

「すみませんが水をもらえますか?」
「は、はあ」

 御者から革製の水筒を受け取り、私はちぎった癒し草を放り込んでいく。

「【調合】!」

 癒し草入りの水筒にスキルを使うと、ピカッと強く発光した。
【調合】スキルを使えば、素材から魔力成分を取り出して水に移すことができる。その効果を移した液体を魔法薬(ポーション)と呼ぶのだ。
 ポーション作成者は【鑑定】スキルがなくとも自分で作ったものの性能を確認できる。
 さて、ポーションの出来は……


『ヒールポーションⅢ』:回復効果のあるポーション。中程度の効能。


 ……微妙だ。
 まあ、道具もないし、水も専用の魔力水ではなかったので仕方ない。
 私は完成したヒールポーションⅢを馬の傷口にかける。すると、あっという間に馬の傷がふさがり、さっきまでうずくまっていた馬が勢いよく立ち上がった。

「え、ええええっ!? この馬、さっきまでおお怪我けがをしてたのに!」

 元気になった馬を見て御者が驚いている。

「ポーションで怪我けがを治療しました。これでもう走れるはずです」
「ポーション……? い、いやいや、傷はかなり深かったですよ!? それを一瞬で治すポーションを簡単に作るなんて……」
「ポーション作りは得意なので」
「そ、そんなレベルではない気がしますが」

 そんなに驚くようなことだろうか?
 これがランクⅤ以上ならともかく、Ⅲなんて骨折も治せない程度のものなのに。
 ……まあ、こんな設備も何もない場所で作るにはある程度スキルレベルが高くないと不可能なのかもしれないけれど。

「お客さん、いったい何者なんですか?」
「……ただのポーション研究者です。あまり深く聞かないでもらえると助かります」
「は、はあ……」

 釈然としないような御者の言葉。
 身の上話はあまりしたくない。これ以上は突っ込まないでもらいたいところだ。

「とりあえず、これは差し上げます。また怪我けがしたときにでも飲んでください」

 そう言って御者にポーションが半分ほど残る水筒を返却しておく。

「――わりぃ、待たせちまったな。出発しようぜ」

 そうこうしていると冒険者の男性がこちらに戻ってきた。灰色トカゲの解体作業が終わったらしい。
 ……返り血のせいで若干生臭いのは気にしないでおこう。
 冒険者の男性の言葉に御者がうなずいた。

「そ、そうですね。では客車に乗ってください」

 御者の言葉に従い私と冒険者たちが客車に乗り込むと、馬車は再びシアン領に向けて動き出すのだった。


 このような感じで旅をすること数日、私を乗せた馬車は目的地に到着した。

「着きましたよ。ここが『トリッドの街』です」

 馬車を停めながら御者がそんなことを言ってくる。
 シアン領の東端、トリッドの街。
 フォレス大森林沿いにある中規模の街だ。
 森から魔物が侵入するのを防ぐための外壁、森からの資源を加工する工場やら保管倉庫など、フォレス大森林に関する設備が多いのが特徴だろうか。
 商人の行き来も盛んなようだし、たいていのものは街の中で手に入る。総合的にはにぎやかで暮らしやすい街だと言われているらしい。
 私は御者に頭を下げた。

「ここまで世話になりました」
「いえいえ。……それより本当にランクⅢのポーションなんて高級品、もらってしまっていいんですか?」
「ええ。あかぎれでも、虫刺されでも、適当に使ってください」
「と、とんでもない! おお怪我けがをしたときのために大切に取っておきますよ」

 大袈裟おおげさな、とも思うけれど、大切にしてもらえるのは悪い気分じゃない。

「馬も治してもらいましたし、何かお礼をしたいんですが……ああそうだ、よければこのかばんを受け取っていただけませんか? 魔道具ですので役に立つかと」

 御者が馬車に置いていた肩掛けかばんを私に差し出してくる。
 魔道具というのは何らかの魔術効果を持つ道具全般を指す。たとえば私がエリカに渡された【鑑定】スキル対策のブレスレットもその一種である。

「魔道具? このかばんがですか?」
「収納魔術が縫い込まれています。見た目よりずっと多くのものが入るんですよ。ついでに重さも軽減されます」

 証拠を示すように御者がかばんを逆さに振ってみせた。すると中からは数日分と思われる着替えやら護身用の武器やら食料やら、明らかにかばんの容量より多くのものが出てきた。
 どうやら御者の言っていることは本当らしい。

「こんなに便利そうなものをいただいてもいいんですか?」
「相棒の馬を助けてもらったことからすれば、足りないくらいですよ」
「わかりました。では、ありがたくいただきます」

 そんなわけで私は魔道具のかばんを手に入れた。
 調合師としてやっていくうえで、このかばんは大いに役立つことだろう。

「あ、宿が決まってないなら「長耳兎亭ながみみうさぎてい」がおすすめですよ。衛兵の詰め所が近いので安全ですし、料金もお手頃ですから」

 去り際、御者はおすすめの宿屋まで教えてくれた。もちろん泊まるあてなんてないので、ありがたく参考にさせてもらおう。
 私は御者と別れの挨拶をし、その場を離れた。
 さて、宿屋に向かう前にどうしても寄っておきたい場所がある。
 私はトリッドの街の商業区へとやってきた。

「調合関連の雑貨屋は……ここですか」

 フラスコと試験管が描かれた看板を確認してから店内に入る。
 店に入ると、店主らしきローブ姿の老婆が声をかけてきた。

「いらっしゃい。お嬢ちゃん、何をお求めかね?」
「すり鉢とすりこぎを探しているんです。なるべく丈夫なやつがいいんですが」

 植物を細かく砕き、有効成分を抽出しやすくするすり鉢とすりこぎは調合に欠かせない。ポーション作りには様々な道具が必要になるけど、基本はやはりこの二つだ。
 私はこの街でポーションを売って生計を立てるつもりなので、調合のための道具は早めにそろえておくに越したことはない。

「それなら奥の棚だよ」

 言われた通りほこりっぽい店内の奥に進んでいくと、たしかに調合用の器具が並んでいる。
 さて、すり鉢とすりこぎは――と近寄っていくと、私はその棚にある「それ」に目が釘付けになった。

「あ、アダマンタイト製のすり鉢にすりこぎ……!?」

 普通のすり鉢とすりこぎももちろんある。けれどその横には、世界一頑丈といわれるアダマンタイトという鉱石でできたものも鎮座していた。
 ほ、欲しい……!
 これなら一生壊れることなく使い続けることができるだろうし、危険な素材も安心して処理できる。そんなことを考える私を見て、店主が声をかけてきた。

「ああ、それかい。買うかね?」
「…………とても欲しいですが、手が出ません……」

 アダマンタイト製のすり鉢とすりこぎのセットは冗談のような値段だった。
 今の私の残金は、エリカがくれた二十万ユールから馬車での移動費などを引いて十八万ユール弱。当面の生活費のことも考えると、ここで使えるのはせいぜいその半分まで。
 どうやら諦めるしかなさそうだ。
 私は普通のすり鉢とすりこぎ、それからポーション保存用の瓶を五本買うことにした。

「これをいただけますか?」
「ああ、毎度――」

 と、私を見た店主の目が見開かれる。

「お嬢ちゃん、さっきあのアダマンタイト製のすり鉢とすりこぎが欲しいって言ってたね」
「言いましたが……」
「十万までまけてあげたら買えるかい?」
「……い、いいんですか!?」

 なんという法外な値引き。絶対に利益の出ない価格設定だ。恐怖すら覚える。

「……なぜ急にそんなことを?」
「あたしゃ【鑑定】スキルを持ってるんだ。さっきお嬢ちゃんを見たら、ギョッとしたよ。その年でそんなレベルの【調合】持ちとはね」
「……」
「嫌そうな顔しなさんな。誰にも言ったりせんよ」

【鑑定】スキルを無断で他人に使うのはマナー違反とされている。私が無言で不満を表明してしまうのも妥当な反応だろう。

「いやあ、本当に驚いた。――まさか【調合Ⅳ】とはね!」

 え? 【調合Ⅳ】?

「ⅠやⅡならともかく、レベルⅣの【調合】スキル持ちなんてそうそう見られるもんじゃないよ。あんたならあれを持つにふさわしいと思ったのさ」

 うんうんうなずく店主に私は内心で首をかしげた。
 私のスキルは【調合Ⅳ】より二段階上の【調合EX】のはず。
 ……ああ、そういえば今の私はエリカからもらったブレスレットでスキルが偽装されているんだった。店主の言葉から察するに、今の私はスキルレベルが二つ下がって表示されているようだ。

「【調合Ⅳ】なのにあれを安くしてくれるんですか?」
「何言ってるんだい、レベルⅣの【調合】持ちなんてそうそういないよ。だからまけてやるんじゃないか」

 何を当たり前なことを、と言いたげな店主。
 ……何となく私の本来のスキルレベルは言わないほうがいい気がする。

「毎度あり。今後調合関連で必要なものがあればうちに来な。安くしとくよ」
「わかりました。そのときは頼らせていただきます」

 私はアダマンタイト製のすり鉢とすりこぎ、それからガラス製ポーション瓶を五本購入して意気揚々ようようと店を出る。

「なんというか、幸先さいさきがいいですね」

 御者にすすめられた宿屋、「長耳兎亭ながみみうさぎてい」を目指して歩きながら私はつぶやいた。
 手にはさっき屋台で買った焼き菓子。この街の名物だという、ベリーを使ったクリームパイだ。買い食いである。なんだか悪いことをしている気分だけれど、今の私はもう貴族令嬢ではないので問題なしだ。
 ちなみに味は抜群にいい。……今度また買おう。
 さておき、現状についてだ。
 私の手には収納魔術つきのかばんに、アダマンタイト製のすり鉢とすりこぎ。
 ふところにはエリカからもらった当面の生活資金。
 おまけに私が向かっている宿屋は安全で、価格も良心的らしい。
 なんという順調さだろう。挫折の気配がまったくない。明日には調合師としての仕事を始めることができるだろう。

「まったく、エリカは心配しすぎなんです」

 だいたい、そうそうトラブルなんて起こるはずがないのだ。
 世の中いい人ばかりだ、ということを私は今日一日で学んだ。いくら私が世間知らずといっても、そこにつけ込むようなひどい人間などいるはずがない。
 きっとエリカは過酷な商売の世界で生きてきたせいで、人間の善性を信じる心を失ってしまったんだろう。なんて気の毒な。次に会ったときはめいっぱい優しくしてあげなくては。

「……っと」

 などと考えながら歩いていたら、ドン、と正面から歩いてきた通行人と衝突した。
 慌てて頭を下げる。

「す、すみません。考え事をしていたので」
「いやいや、こちらこそ悪かった。気をつけるよ」

 ぶつかってきたのは汚い身なりの小柄な男性だった。街の住人だろうか?
 お互いわざとではないということで、会釈えしゃくをしてそのまますれ違う。

「…………ひひ、馬鹿な女だぜ……」

 ……ん? 
 今の男性、去り際に何やらつぶやいていたような。
 私は振り返るけれど、男性はすぐに雑踏ざっとうにまぎれて消えてしまった。まあ、別に気にするほどのことでもないか。
 ――数十分後。

「…………財布が、ない……?」

 辿り着いた「長耳兎亭ながみみうさぎてい」で、宿代を前払いしようとして私はその事実に気付いた。
 まさかさっきのぶつかってきた男にすられたんだろうか。それ以外に考えられない。

「お客さん、どうしたんだい?」

 亭主の女性が怪訝けげんそうに尋ねてくるけれど、返事をする時間すら惜しい。
 私は財布を取り戻すべく、慌てて通りに飛び出した。


 結論から言うと、財布は見つからなかった。
 当たり前だ。財布を盗んだあとにその場に留まる馬鹿はいない。通りかかった衛兵にも泣きついたけれど、「あー、まあ見つけたら報告します」と、見つかるなんて微塵みじんも思っていない顔で言われた。
 エリカの心配は正しかった。世の中いい人ばかりではない。悪人たちは世間知らずのカモを罠にかけようと常に目を皿にしているのだ。
 今まで私はぬくぬくと屋敷の中で生きてきたせいで、人の悪性に警戒する心を失っていたのだ。……まあ、別にそうぬくぬくともしていなかったけれど。最後は研究室を爆破されたし。
 とにかく私は有り金をすべて失った。
 ああ、買い食いしたときに面倒臭がらずに財布を服のポケットではなくかばんに入れていれば……!
 そんな後悔も今さらだ。奪われた財布の中に入っていた私の全財産はもう返ってこない。
 けれど、世の中悪人ばかりでもない。
 とぼとぼと通りを歩いていると、「長耳兎亭ながみみうさぎてい」の女性亭主が私を追いかけてきた。
 そして私から事情を聞くと、「皿洗いをするなら一日泊めてやる」と言ってくれたのだ。
 なんて優しいんだろう。
 そんなわけで、私は初日から野宿という憂き目にわずに済んだのだった。
 貸してもらった「長耳兎亭ながみみうさぎてい」の一室で、私はぽつりとつぶやいた。

「これからどうしましょう……」

 エリカからもらったお金は盗まれてしまった。頼みの綱はかばんに入れておいた調合道具だけ。これで明日から生きていかなくてはならない。
 ポーションを作れば売れるだろう。
 この街には冒険者が多い。そして彼らには怪我けががつきものだ。ポーションの需要はきっと高い。
 しかし、今の私には素材を買うだけの元手もない。
 これではポーションを作るどころではない。
 いっそこの宿屋で雇ってもらうか――なんて考えたけれど、いや絶対無理だと思い直す。皿洗いの手伝いだけで何枚の皿を割ったことか。数日前までただの令嬢だった私は、壊滅的に家事ができないのだ。
 やはりポーションだ。私にはポーションしかない。
 材料がないというなら、自分で採取しに行けばいい。
 何しろここはポーション素材の宝庫、フォレス大森林の最寄りの街だ。どうとでもなる。

「……よし。明日は森に行きましょう」

 そう方針を決めて、私はベッドに入る。
 明日は忙しくなるだろう。早めに寝て備えなくては。
 そうだ。早く寝て、準備を整えて、森に行ってポーションの材料を採集する――自分一人の力で。魔物も出るであろう、森の中で……

「…………胃が痛い……」

 ベッドの中で私はぽつりとつぶやいた。
 不安だ。
 私は今まで研究室に閉じこもってポーションの研究ばかりしてきた。そんな自分が冒険者のような真似を無事に実行できるだろうか。しかしやるしかない。明日中にお金を稼げなければ、この宿屋からも追い出されてしまう。
 せめて相談相手でもいれば心も落ち着くだろうに、私は一人だ。たった一人では、この恐怖を吐き出すことすらできない。
 私は夜が明けるまで、何度も浅い眠りを繰り返す羽目になった。


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