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五話 愛称

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「ここは……?」

 アリアンヌが目を開けると、そこは見慣れない天井だった。

「んぅ、殿……下……?」

 アリアンヌが辺りを見回すと赤い顔をしたナイトレートと目が合った。

「アリアンヌ嬢! 気がついたか……!」
「ん、殿下……? 何故私はここに……? それと、顔が赤いですよ……? もしかして熱でもあるんじゃ……あ、もしかして私が移してしまったのかしら!? も、申し訳ありません殿下!」

 そう言ってアリアンヌはナイトレートの顔を覗き込もうとする。傍から見ればまるっきり先程の出来事の逆なのだが、記憶が混濁しているアリアンヌがその事を今すぐに理解するのは難しいだろう。

「いや、貴女のせいでは……熱もない……い、いや別に私はそんな……貴女の寝顔に見惚れていたという訳ではないし……? と、というかそもそも見てすらないし……? だから貴女のせいで顔が赤い訳でも何でも……」

 ナイトレートは必死に「自分はアリアンヌの寝顔に見惚れていた訳では無い」と釈明を続けるが、傍から見ればそれは「自分はアリアンヌの寝顔に見惚れていた」という自白以外の何物でもない。

 彼がこうなってしまうのは、ひとえに愛情を表現するのが苦手だからだ。異性に____否、そもそも人に彼は慣れていない。

 そんな彼に見詰められていた気が付かないのは、アリアンヌの恋愛に対する疎さが原因なのだろう。

「アリアンヌ嬢……その、先程は済まなかった……私が一人で興奮していたばかりに、アリアンヌ嬢が体調を悪くしているのにも気が付かず……本当に婚約者失格だな。私は」

「そんなことありませんよ、殿下。私をここに運んで下さったんですよね? 本当にありがとうございます。絶対にヨハネ殿下なら放置されてましたし……ナイトレート殿下の方がずっと立派な婚約者です!」

 アリアンヌは満面の笑みでそう答える。

____でもね……殿下のせいで倒れたんですよぉぉぉぉぉぉ!?

  漸く状況を理解出来たのか、アリアンヌは心の中で叫ぶ。

 もしも相手がヨハネだったら、あそこまで顔を赤くした挙句倒れ込む、なんてことになったりはしなかっただろう。ということはやはり、自分はナイトレートに特別な感情を抱いているのだろうか、とアリアンヌは思考を巡らせる……が、典型的な恋愛音痴である彼女が答えを出すことは出来なかった。

「婚約者……うむ、婚約者か……」

 ナイトレートは口の中で何度も婚約者、という言葉を繰り返す。彼も恋い慕っていたアリアンヌに婚約者として見て貰えて嬉しいのだろう。

「その……アリアンヌ嬢……?」
「はい? なんですか殿下?」

 ナイトレートが顔をまた赤らめながら切り出す。

「その……婚約者なんだから、アリアと呼んでも良いだろうか……?」

____あ、あ、アリアぁぁぁぁぁぁ!?


「はい、構いませんよ? では、殿下のことは何とお呼びすれば……?」


 アリアンヌは心の中で歓声をあげる。本人が自覚しているかどうかはともかくとして、恋い慕う異性に愛称で呼ばれることはアリアンヌにとって、それほどのことなのだ。しかし、アリアンヌは恥ずかしさゆえに無表情で答える。少し慣れてしまえば『氷の令嬢』であるアリアンヌにとって、それくらい造作も無いことだった。

「私のことは……うん、そうだな……な、ナイトと呼んでくれないか……?」

 ナイトレートは林檎が白く見える程顔を真っ赤にして、提案した。

「は、はい。ナイトしゃま!」
「ふふ、ありがとう。それと、体調が優れないのだろう……? 本当はもっと一緒に居たいのだが君の身体のことを考えると、そうも行ってられない。ライオット邸までお送りするよ。」
「あ、ありがとうございます……」

 アリアンヌは半ば俯きながらそう答える、が。心の中では別のことを叫んでいた。

 ____な、ナイト様の前で、噛んじゃったぁぁぁぁぁぁ!?

 そうして、アリアンヌは『ナイトしゃま』に連れられ、離宮を出たという____
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