吸血鬼と棘荊

弥架祇

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憎しみ

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「ふーん…なるほど、なり損ないとは云えど吸血鬼。
容姿だけは美しい。」

突如入ってきた男に髪を強引に掴まれ、顔を上げさせられる。
ニコニコと笑ってはいるが、その目は笑っておらず、瞳の底で憎悪が渦巻いていた。

「いっ……。」
強い力で引き寄せられ、小さな痛みに声が洩れる。

「やあ、はじめまして。
"なり損ない"君。
僕はヴァンパイアハンターのトップ。
ヴィクトール・ゲオルニクスだ。
まだ5歳だからわからないかな?」

「は、はじめまし、て…?
僕は…アベル。」
若干気圧されながらも、アベルは真っ直ぐに見つめ返した。

「フランの、上司?」
「それよりもっと上の立場にだ。
さすが吸血鬼。頭脳の成長だけは早いじゃないか。
おまけに能力も、な。」

ニヤリと笑う男が恐ろしくて、アベルは身を引こうとするが強い力で顎を掴まれて逃げることは出来なかった。

「…何か用があるんなら、早く言って……忙しい、人でしょ?」
男はただ口元の笑みを深くする。

「ねぇ、初めて吸血鬼を傷付けてみて、どうだった?
楽しかった?嬉しかった?面白かった?」
アベルは目を見開き、ガタガタと震えだす。

冷汗が背中を伝う。

いけない。
この男は、いけない…

「ねぇ、答えてよ」
「いっ…!」
ぎりぎりと男の腕に力がこもる。
アベルの苦痛の声などものともせず、男は不気味なほど穏やかに笑っている。

「楽しく…なんか!ないっ!
嬉しくも、面白くもっない!
人を傷付けて…楽しいも何もあるわけないっ!」
アベルは負けじと強い瞳で男を睨みつけた。

「ほう。でも、あれは吸血鬼で人じゃない。
あんな低俗な奴らを傷付けて何が悪い。
悪には、正義を以ってして裁くべきだろ?
君、虐待されてたんだってねぇ… 
ちょうどこんな風に、ね。」

ヴィクトールは乱暴にアベルの頬を叩く。
アベルはベッドに崩れ落ちた。
目を見開き、呆然と倒れたまま、何の反応も見せない。
殴られた拍子に口の中を切ったのか、口の端から僅かに血が溢れている。

「吸血鬼どもにとって、さぞかし君は目障りで邪魔だったんだろうねぇ。
だって君は、何にもなれない。
何者にもなれない。
吸血鬼でもなければ、人間ですらない。
この世に君の居場所は何処にも存在しない。
君は、必要のない存在だ。
だから、殴られて蹴られて続けた。
君だって本当はわかってたんじゃないかい。
自分に存在価値なんてないってことに。
だから、抵抗しなかったんだろ?
可哀想に。
そんな憎い奴らに復讐をして何が悪い。
悪人は裁かれるまで、自分が悪だって気付かないんだよ。
ねぇ、"アベル"!」

アベルの唇がわなわなと震えている。
ヴィクトールはそれを怒り故だと思い、密かに笑った。

"嗚呼、堕ちたな"と。

「ちがう…」
ヴィクトールは眉をひそめた。
「何?」

アベルは震えて掠れそうになる声で、懸命に語る。
「そんなのは、違う。
貴方の言うことは…恐らくは間違っていない。
でも…正しくも、ない。
いくら、僕を殴ろうとも。
人と相容れず、罪を犯しても…
それが、彼らを傷付けていい理由にはならない…
それが裁きで…罪に対する罰だったとしても…
そんなものを裁く権利が、誰にあるというの」

静かな声だった。
でも、強い意志がこめられていた。

「そうか…それが君の答えか……」
ヴィクトールはぽんぽんとアベルの頭を撫でた。
アベルはいまいちヴィクトールの行動が読めなくて、ヴィクトールを避けるかのように布団に潜る。

ヴィクトールは笑いながらこう言った。
「宜しい。今日はこれでよしとしよう。
でも、君が要らない存在であることに変わりはない。
ならばせめて、自分の存在価値を我々に示してみたまえ。
君の吸血鬼に傷を負わせたあの能力でも、その聡明な頭脳でも何でもいい。
本来なら殺す筈の君を生かしてあげるんだ。
精々、我々の役に立ってみたまえ。
そのほうがフランも喜ぶだろう。」

フランに反応して、アベルの身体が小さくはねる。

ヴィクトールはその様子をクスリと笑いながら、病室を出て行った。

アベルは恐る恐る布団から顔を覗かせ、ヴィクトールが出て行ったのを再確認した。
ふうっとため息がこぼれる。

ヴィクトールに言われた言葉がぐるぐると頭の中を渦巻いている。

"要らない存在"
"居場所なんて何処にもない"
"本当は、自分でもわかっていたんだろう?"

その通りだった。
自分がどういう存在だったかなんて知らなかったけど、必要とされていないことだけはわかっていた。
そんなこと、とっくの昔にわかっていたんだ。

抵抗しなかったんじゃない。
アベルは抵抗することすら、知らなかった。

だってそれが普通だった。
物心ついたときからそんな毎日だった。
それが当たり前だと思っていた。
そんな日々だったから、気付いたら心の痛みなんてどうでもよくなってしまっていて…

ただ、粛々と身体と心の痛みを受け入れる他なかった。
偶に外の光がさすことがあった。
隣の牢屋の囚人が逃げ出そうとしていたことも多々あった。
それでも外に逃げようとは思わなかった。

これが当たり前なら、何処にいっても変わらない。
そんな確信めいた憶測が心の奥に根付いていた。

希望をもつことすら、アベルは知らなかったのだ。

身体に与えられ続けてきた痛みも慣れてしまえばそこまで酷いものではなかった。
痛みが辛いのならそれに鈍くなってしまえばいい。

心がどんなに悲鳴をあげようとも、アベルはそれに気付くことはなかったし、たとえ気付けたとしてもそれをどうすることもアベルには出来なかっただろう。

生まれてから僅か5年で既に、アベルの心は壊死しかけてしまっていた。

泣くことすら出来ないアベル。
表情を動かすことなんてなかったアベル。

アベルの心は、まだあの牢獄に囚われたままだった。

ほら、また誰かが手を振り上げる。
乾いた音が鳴り響いた。

幻だ。

でも確かに耳に残っている。

アベルは目を閉じた。
余計なことは考えないように。

寝てしまおう。

うつらうつらと、アベルの意識は夢の中に吸い込まれていった。





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