箱庭の空

白黒yu-ki

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プロローグ

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自分が初めて「死」というものに触れたのは、幼い頃に飼っていた金魚がそうであったと思う。子供の頃の自分は朝起きて「おはよう」と金魚に挨拶をし、餌をあげる。それが日常だった。その日もいつものように餌をあげようと金魚がいる水槽を覗くと、いつもであればすぐに寄ってきて餌を欲しがる金魚が水面にプカプカと浮かんでしまっていたのだ。どれだけ声をかけてももう金魚が動くことはない。それが子供心にとても悲しかったのを覚えている。母親は泣く自分に「この子は天国にいったんだよ」と慰めてくれた。
 社会人になった今、無宗教の自分は科学的な根拠もない天国なんて場所を信じているはずもなく、死の先は何もないと考えている。そんなことを考えてしまっている理由は、地元の幼馴染の訃報が原因であろう。実家の近所に住む女の子で、昔はよく「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と後ろをついてきた可愛い妹のような存在だった。享年16歳。蒼井空あおいそら蒼井空は短い人生を終えたのだった。
 
 幼馴染の訃報を受け、俺、生明光太郎あざみこうたろう生明光太郎は5年ぶりに田舎である地元に戻って来ていた。最寄りの無人駅を出るが、そこから見える景色は5年前と何も変わっていない。山に囲まれ、緑に囲まれた生まれ故郷。5年の都会生活で忘れがちであったが、故郷に都会のような喧騒はなく、聞こえるのは鳥の鳴き声くらいのものである。
 駅前で10分程待つと、喪服姿の母親が車で迎えに来てくれた。俺は助手席に座って開口一番「ショックだったよ」と呟いた。運転席に座る母の目は少し赤い。近所の親しい子が亡くなって、泣き腫らしたのだろう。母は「本当にね」と小さく答え、アクセルを踏んだ。
 幼馴染の家に向かう途中、小さな川が見える。昔はよくあの川で一緒に遊んだなと故人との思い出を馳せる。幼馴染の家に到着すると、そこには喪服姿の大人たちが集まっていた。蒼井空には両親がいない。肉親は姉だけだ。まだ20を少し過ぎたばかりの姉だけではと、近所の大人たちが手続きや式の受付などを引き受けていた。車から降りて辺りを見渡すが、姉の優月ゆづきの姿はない。キョロキョロしている俺を察したのか、母は「まだ自分の部屋にいるかもしれないね」と2階の優月の部屋を見上げる。優月ちゃんに顔を出しておいでと言われ、顔見知りの大人たちに頭を下げて玄関をあがり、優月の部屋の前まで向かう。
 
「優月、いるのか?」
 
 扉をノックして訊ねるが、返事はない。一息ついて扉を開ける。そこには喪服姿の優月が背を向けて立っていた。手には俺と優月、空の三人で撮った写真立てが握られていた。俺は何度か声をかけるが、優月がこちらを振り向く様子はない。これ以上声をかけても無駄かと部屋を出ようとすると、そこでやっと優月の口が動く。
 
「・・・光太郎は、こんな時しか帰ってこないんだね」

「・・・」

「空からの手紙、何度か届いてたよね? 帰ってきて欲しいって、空はずっと言ってた」

「・・・仕事が忙しかったんだよ」

「・・・そうかしら。私には空を避けてたように思えたけど?」

「・・・」
 
 仕事が忙しかったのは事実だ。だが進んで帰省する暇もないスケジュールを組んでいた。それで自らを納得させていた。帰れなくても、仕方ない、と。
 
「光太郎に避けられてると気付いた空がどれだけ傷ついたか分かる?」

「ああ、俺は最低だと思うよ。だからこうして空の最後を見送る資格も無いと思う。優月が出てけと言うなら、俺はこのまま東京に戻るよ」
 
 蒼井空は昔から体が弱く、大人しい子であった。空が普通の子であれば、俺は空を避けたりしないし、田舎を出ようとも思わなかったろう。つまり、空が「普通」ではなかったからだ。空は村では特別視されていた。古い仕来りに縛られ、『神憑きの巫女』なんてものに担ぎ上げられていたのだ。神様なんてものを信じていない自分からしてみれば、気味の悪いことこの上ない。空に悪気はなかっただろうが、俺はある日、空から不吉な予言なんてものを賜ってしまった。空を避け始めたのもそれからだ。
 そんなことを思い出していると、1階から母が俺を呼ぶ声がした。
 
「それで、優月。俺はどうすればいい?」
 
 式に参加していいのか、それとも出ていけばいいのか、その二択を委ねるために訊ねる。優月は少し悩む姿勢を見せたが、小さくため息をついた。
 
「・・・いいわ。空も光太郎に会いたいだろうし、このままいなさいよ」

「・・・すまない」
 
優月からの許可を得た俺は、部屋を出る為扉に触れる。
その僅かな時間、俺は一度だけ瞬きをし、そして背筋を凍らせた。扉と俺の体の間に、死んだと聞かされていた空が立っていたのだ。
 
 
 
『…助けて…お兄ちゃん…』
 
目に涙を浮かべる空は震える声でそう呟き、俺の視界は暗転した。
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