壮途

至北 巧

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第十一話 得心

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 賢一と一晩過ごした後、匠は久し振りに実家に戻った。兄との関係を修復できた今、親との関係も変わるのではないかと少しだけ期待していた。親の過保護に対して自分が異常に反発しただけなのだ。過保護になる気持ちは、今の匠にとってわからないものではなかった。

 実家で暮らしていた兄が入院中であることも相まって、両親は匠が戻ったことを大変喜んだ。
 三人で兄の見舞いに行き、パソコンの最適化や写真の印刷を頼まれ、正月を迎えて母の作った料理を囲む。
 実家でどう過ごせばよいか心配していたが、パソコンの修繕に時間がかかり、いつの間にか三日も経過していた。




 昼食後、アパートとは違って漫画や雑誌が乱雑に積まれた自分の部屋で、匠はスマートフォンを眺める。賢一から、明日で外泊が終わりだから今から付き合えとメッセージが届いている。年始でシティホテルがどうしても取れないのでアパートに行く、とある。
 今すぐ帰るのは面倒だが、夕方は電車が混みそうだ。いつ帰ろうかと迷っていると、着信が入った。藤花だ。
 居留守を使う性質ではないので、何も考えずに電話を取った。形式的に年始の挨拶を交わすと、不可解なことを語り出す。
『齋明くん、こないだの野木崎さんって人、どういう人なの?』
 なぜ藤花から『野木崎』という単語が出てくるのかわからない。二人は自分のアパートで会っているが、五分も顔を合わせていない。
『今度遊ばないって言ってたから三十日に一緒に遊んだんだけど、次の日琴音と遊んだって言うんだよ。ちょっと酷すぎない?』
 琴音とは同じ講座の女だったはず。どうしてその名前まで出てくるのか。
「賢一は性格悪いって、言ったよね」
 自分たちは付き合っているわけではないので会うのは自由だが、いつか賢一が良くないことをしでかすとわかり切っていたから、忠告をしたはずだ。
『そうだけど、遊んでる時はすごくいい人だったんだよ?』
 良い人間だというのも知っている。酷い人間だというのも知っている。だから忠告したというのに、それでも会ったのだ。自分のことを棚に上げて他の女に取られたと文句を言う筋合いはないはずだ。
 藤花は反省などしていない様子で言葉を続けた。
『でもさすがに酷いでしょ? あの人、今まで他になに悪いことしてきたの?』
 匠は、無性に苛立ちを覚えた。藤花は、匠が全ての人物と繋がりがあるから、共感して欲しくて電話をかけてきたのだ。匠の立場を全く無視して、自分本位で立ち回っている。
 それでも、匠は藤花が尋ねた件を回答した。
「脅迫とかして、男と無理矢理寝たりしてた」
『えっ、ちょっと引くんだけど。最悪。それ早く言ってよ』
 言う暇もなく行動を起こしておいて、こちらが悪いような言い分。その上、『引く』と、『最悪』。
「男って、俺のことだけどね」
『えっ?』
 絶句の後に、電話が切れる。自分は聞きたくない話を律儀に聞いたのに、この女は断りもなく切ってしまうのか。
 絶望的に気分が悪い。
 同じ気分にさせたくて、自分の身の上を話してしまった。
 でももう、いい。長引かせていた無意味な関係が、やっと切れた。
 匠は今すぐアパートへ帰ることにした。
 このような気分は、賢一と過ごせばきっと、忘れさせてくれるだろう。




 賢一に今からアパートに戻ると連絡して、実家を出た。
 電車に乗り三十分ほどでアパートに着くと、ベッドに伏して溜息を吐いた。まだ、気分が悪い。
 複数の人間と寝ている自分に、藤花が責められるのだろうか。そんな資格がなくても、どうしようもなく苛々する。
 それほど待たずに、賢一がアパートに到着した。ここから直接病院に帰ると言って、大きめの荷物を手にしていた。
 賢一にクッションを差し出して、自分はベッドに腰掛けた。そして、報告する。
「さっき、藤花から連絡きたよ。賢一が最悪だって」
 賢一はクッションを抱えて床に転がり、煙草を吸い始めた。
「あっちが俺のSNSわざわざ調べて、誘ってきたんだぞ。俺、あいつの名前知らなかったからな」
「琴音って子は?」
「藤花が年上の男と遊んでるトコ、見せつけたかったんじゃねーの。自分で呼んだんだよ」
 最近まで知らなかったが、藤花はそういうことをする人間だ。今回の件は、自業自得だ。
「琴音も酷いよ。藤花が匠と付き合ってんの自慢するから腹立ってたとか言って、俺のとこ誘ってきてさ。女、怖すぎだろ」
 そして賢一は、悪いことをしたとは全く思っていない。ただ、それはわかっていた。
「琴音は普通だったけど、藤花は悪くなかった。痩せてて胸なくて。匠もこの顔見たんだなと思ったら、なんか燃えたし」
 一般的に、例えば自分と藤花が真っ当な付き合いをしていたのなら、自分は彼女を寝取られた上に捨てられたという最悪の案件だ。実際には藤花に怒りが向いているので、賢一には怒りを感じないが。
「避妊はしたの?」
「当たり前だろ。匠にも毎回してるだろ」
 する意味合いが多少違うのだが、本当に最悪なことにはなっていないようだ。
 いつも思う。賢一は悪人なのに、善人だ。
 とても、損をしている。藤花も『すごくいい人だった』と言っていた。評価の高い人間なのに、自分で自分の評価をいちじるしく損ねていることが気にかかる。
「賢一は、こういうことをして、罪悪感はないの?」
 思わず尋ねて、そういえば本人が実際どう考えているのか聞いていなかったことに気づく。誤解している可能性がある、が。
「罪悪感はないな」
 賢一は平然とそう答える。そして。
「悪いことだってのは、まぁ、わかってる」
 矛盾したことを言い出した。
「よくわからないんだけど」
 問うと、賢一は煙草を捨てて起き上がり、クッションを抱えて項垂うなだれる。頭を上げると、一つ深呼吸をして口を開いた。
「俺がやってる世間体の悪いコトは、煙草と一緒なんだよ。悪いってのはわかってるけど、吸った後の気分がいいから、やめられない。やめたいとも思わない」
 とても慎重に言葉を吐き出したように見えた。
 煙草と同じだと言うなら、自分にもわかる。吸っていることに罪悪感がないうえに、自分にとって必要なものだ。自分の中の苛立ちや不安を、少しでも吐き出して楽になるためのものだった。やめることのほうが、自分にとっては損害だ。
 賢一の行動が、緩やかに、腑に落ちる。
 やりたいことを好き勝手するほうが、きっと自分の信頼を損なうことよりも重要な行為なのだ。やっていることはとても理解できないが、思いとどまるほうが大きなストレスになるのだとしたら、そのツケを払ってでもやってしまったほうが良いと考えているのではないか。
「煙草を吸うのが悪いと思ってるなら、身体を壊したり周りに迷惑かけるの覚悟してるんだろ。なら、世間体の悪いことして、相手からの評価を落とすのも覚悟して、それでもやってるってこと?」
 賢一はテーブルに肘をつき、目をつぶる。ややあって、苛立たしげに匠を睨め付けた。
「そうなんだけど? なのに匠の俺への評価がそんなに落ちてないように見えるのは気のせいか?」
「気のせいじゃないよ」
「俺はおまえの女とヤってるんだぞ? 普通ぶん殴るだろ?」
「別に彼女じゃないし。藤花のほうにイライラしたから、俺が賢一にされたこと教えてやった。縁、切れたと思う」
 賢一は、自分ではなく藤花を切ったと聞き、気のせいではないと納得したようだった。匠はどうして賢一の評価が落ちていないのか、考えて、言葉にする。
「俺も最初は賢一にがっかりしたけど、実際は俺、そんなに酷いコトされてない。兄貴に、賢一との関係、知られてない」
 彼女を寝取られてもいない。暴力を受けたりもしていない。むしろ、兄に対する考えを客観的に聞いてもらったり、絡まれたところを助けられたりしている。
「俺ほら、メンヘラビッチなんだろ。賢一を嫌いになるより、身体を必要とされてるほうが優先されたんだ。一緒にいても、賢一が最低なのはわかってるから、それ以上は失望とかしなかった 。逆になんで、俺と違って社会に適合できる人間なのに、こんなもったいないことするんだろうって腹立った」
 自分がんでいなければ、賢一の真っ当な部分を見る前に、不当な部分に嫌気が差していたかも知れない。
 賢一は苛立った表情のまま、テーブルに伏して匠から目をそらす。
「俺はどう考えても社会不適合者だろ。今までつるんだヤツには、もれなく暴言吐かれるかボコられるかしてんだぞ」
「そんなことされてたの? けど俺は、賢一が自分でやったことに自分で責任取るなら、好きなようにすればいいって思った。満足する生き方をしないほうが、賢一にとってはもったいないことなんだろ」
 賢一はしばらく無言になる。伏したまま目をつぶり、溜息を吐く。それからやっと、口を開く。
「正直言うと」
 居住まいを正して、面倒そうな表情で続ける。
「今まで好き勝手やって、愛想尽かされてリセットして、リスタートしてまたやらかしての繰り返しだった。リセットされないと、この先どうしたらいいのかわからない」
 賢一はゆっくりと立ち上がると、ベッドに腰掛けた匠を押し倒して馬乗りになる。ただ、何かをしようという意思は感じない。
「この先さぁ、俺が匠に本気になったらどうする気?」
 本気になるとは、遊び相手ではなく恋愛対象になるという意味だろうか。賢一が、無能で薄情な自分に間違いで惚れてしまったら、どうするか。
「本気になるとか、ありえるの?」
 ありえない。自分の中に、他人に好まれ得る要素が全く見当たらない。それに、身体だけの関係だから今が成り立っているのだ。賢一からの愛情が欲しいとは思わないし、自分が賢一を愛せるとも思えない。
 賢一は一転、驚いたような情けないような表情になった。
「えぇー……? マジで? 散々誘惑しといて、心当たりないとか言うのか?」
「ない、よね?」
「えぇー、マジかよ」
 匠から降りると、賢一は背中を向けて座り込み、電子煙草をセットし始める。匠は起き上がり、乱れた前髪を耳に掛ける。
 薄い煙を吐いてから、賢一は、
「まぁ、俺もどうすればいいか困ってたから、放置でいいか」
 とつぶやいた。

 匠は、この件が現状維持になったことに安堵する。

 賢一がもし本気になった時、過去に藤花へ感じた『愛せない罪悪感』を覚えることが、怖かった。
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