【完】左手だけの婚約者~Hanamun Life~一緒にワープした婚約者は、左手だけなのに最強です!?

国府知里

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2、何が起こっているの?

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 何かが頬をなでている。
 どうやら草のようだと気づいて、目を覚ました。
 ……わたし、倒れたの……?
 真っ暗闇で何も見えない。
 体を起こそうとすると、右手に温かな感触があった。

「旬さん……?」
 
 返事がないままに、右手の先に目を凝らしたけれど、自分の手すら見えない。
 旬さんの手がぴくりと動き、わたしの手を握り返した。
 よかった、旬さんはそこにいるのね……。

「旬さん、大丈夫? わたしたち、どうしたんだろう。真っ暗でなにも見えないよ……」

 空いている方の左手で、そこにいるはずの旬さんを探した。

「あれ、旬さん? えっ……?」

 ……やだ、なに?
 なにかおかしい。

「しゅ……」

 闇に慣れ始めた目に、それがぼんやり浮かんだ。
 わたしがつかんでいたのは、手首までしかない誰かの左手だった。

「いやあああっ!」

 思わず振り払っていた。
 どうなっているの?
 なにが起こっているの?
 なにあれ?
  なんだったの?
 あれは、まさかあれは、旬さんの手なの――?
 少し離れたところで、ぼてっと落ちた音が聞こえた。
 
 必死に記憶を手繰る。
 ――そ、そうだ!
 わたしたち、晴美先生と東京駅で待ち合わせしていたんだ。
 八重洲口の交差点で、横断歩道の向こうに晴美先生が見えた。
 わたしたちは手を振って、信号が変わってから互いに歩み寄って、それで……。

 そう、横断歩道を歩き出した途端、わたしはなにかの穴に吸い込まれたのだ。
 足元にマンホールのような、いや、もっと大きかった……!
 軽自動車が落ちてもおかしくないような、真っ黒で丸い穴があった。
 吸い込まれそうになったわたしを助けようと、旬さんが手を掴んで、引き戻そうとしてくれた。
 そうだ、わたし、あの穴に吸い込まれて、落ちたんだ……!
 
 じゃあ、ここはあの穴の中?
 だとしたら、おかしい……。
 慣れてきた目であたりを見わたした。
 落ちたのは、東京駅の付近の地下のはず。
 それなのに、視覚の慣れとともに微弱な星の光で浮かび上がってきた景色は、どう見ても森の中のようだった。

「ここ、どこなの……?」

 静まり返った木々と闇に閉ざされた森。
 凍えるほどではないが、ひんやりとした湿った空気。
 地面から漂う土の匂いと草いきれ。
 野草や苔に覆われた大地の手触り。
 見上げた空には薄もやのような雲が流れ、その切れ間からちらりちらりと赤や緑、橙や紫の星がのぞいている。

 お、落ち着かなきゃ……。
 東京にも公園はある。
 でも……。
 東京の夜空はもっとずっと明るいはずだ。
 スモッグもあるから、星はもっとかすんでいるはずだし。

 気を失っている間に、明治神宮の森の中にでも連れてこられたのだろうか?
 東京ならまだいい、もしかしたら富士の樹海ということもありえるかもしれない……。
 い、いやいや、まさか……そんなことあるわけない。
 でもまさかだとしたら、誰が、なんのために?

 それはそうと、旬さんは?
 無事なの?
 どこにいるんだろう……。
 それに、晴美先生は……?

 ま、まさか、あの手が旬さんだということはないよね?
 ううん、まさか!

 でも、樹海の自殺者の手だったとしたら……。
 自分の想像に、ぞっとする。
 思わず着ているツイルコートの見返しを胸に引き寄せた。
 
「と、とにかく……救助をお願いしなきゃ」
  
 ポケットにスマホは入っていなかった。
 あれ、バッグのほうに入れていたんだっけ。
 だけど、持っていたはずの白のレザートートもない。

「落としたのかな……困ったな。せめて雲が晴れてくれれば……」

 そうつぶやいたが偶然か、木々の隙間からぱあっと光が差し込んだ。
 雲が去り、肉眼でもくっきりと見える、カラフルな星々と共に青い月が姿を現した。
 
「すごい色……。あんなに青い月、今まで見たことない……」
 
 辺りを観察していると、自分が倒れていた場所は巨木の下だとわかった。
 おそらく大人が五、六人いても、幹の周りを囲うには足らないかもしれない。
 なんて力強い木だろう……。
 幻想的な青い月あかりに照らされた巨木には、不思議と安堵感を覚えた。

「……よ、よし。ここを基準に周りを調べてみよう……」

 巨木のまわり、巨木から五歩の距離、十歩の距離、十五歩の距離と、少しずつ範囲を広げて探索してみる。

「はあ、はあ……。だめだわ、バッグはないみたい。もう足も痛いし……」

 五センチとはいえ、森の中をヒールで探索するのは無理がある。
 巨木に背を預けて座り込むと、スクエアトゥのパンプスを脱いだ。
 せめてチャンキーヒールだったらもう少しましだったかもしれないけど……。
 土に埋もれて傷と土だらけになった無残なルイヒールが悲しい。
 奮発して買ったのに……。
 とにかく今は靴のせいで余計に体力を使うし、そのうち石でも踏んだら足をひねりそう。

「あ、やだ……、かかとから血が出てる……」

 絆創膏もなければ、血を拭くハンカチもない。
 それどころか、救助を求めるための連絡手段がない。
 どうすればいいんだろう……。
 残念なことに、虚弱なわたしは今まで一度だってキャンプなんてをやったことがない。
 森の中で安全に過ごすアウトドア術を持ち合わせているわけがない。

「どうしよう、旬さん……、はあ、はあ……」

 探索でかいた汗が、今度は急激に体を冷やしていく。
 着替えはないし、当然火をおこす方法なんて知らない。
 それに、巨木に背中を守られているとはいえ、ひょっとしたら野生生物に出くわさないとも限らない。
 よくわからないけど、熊って、春になったら冬眠から目覚めるんじゃなかったっけ?
 明治神宮にはさすがにいないと思うけど、富士の樹海なら熊ぐらいいるんじゃないの?
 なにか身を守れるようなものを探したほうがいいかもしれない。
 だけど、なにを!?
 
 なにかしなきゃいけないのはわかる。
 だけど……わたしにはなにをすべきなのかがわからない。
 できることがなにもない……。
 それに……。
 それに、もう疲れた……。
 体力的にも精神的にも、動ける気がしない。
 両腕をこすりながら、じっとしていると、じわじわと不安が迫ってくるのがわかった。

「はあ……、はあ……、旬さん、どこにいるの……」

 ――ガサッ!
 
 ひいっ!
 悲鳴がでそうになるのを、かろうじて飲み込んだ。
 正確には、怖すぎて、声にもならなかったんだと思う。
 そっと音のした方に目を凝らすと、放り投げたはずのあの左手首が、月あかりの下に落ちていた。
 き、気持ちわる……。
 まさか、あれじゃないよね……、さっきの音……。
 目をそらそうとした瞬間、戦慄が走った。
 その手首が、こちらに向かって進んできたのだ。
 
「ひえっ……!」
 
 なにあれ!?
 なんで!?
 なんで、手首だけで動くの?
 こっ、怖っ!
 慌てて靴をつかんだ。
 履こうと思ったけれど、裸足のほうが速く走れるかもしれない。
 すぐに逃げられるように立ち上がった。
 それと同時に、左手首が再びこちらに向かって、地を這うようにぐいぐいと進んできた。
 ホ、ホラーすぎる!
 全身が凍り付く。
 今度こそ大声を上げそうになった。
 
 ……!
 ……でも、待って、あれ……?
 
「そんな、うそ……」

 信じられない。
 月あかりにきらりと光ったもの。
 誰か、嘘だといって……。
 薬指にはめられた、プラチナのリング。

「うそ……でしょ……」

 おそるおそる、ひとりでに動く左手首に近づいた。
 左手は、まるでわたしを待つかのようにして、そこにとどまっている。
 注意深く観察する。
 だんだん特徴がわかってきた。
 同じブランドのリング。
 手の大きさ、指の節の具合、爪の形……。
 そしてなにより、中指と同じくらい長い薬指……。
 わたしの知っている旬さんの手の特徴に、ぴったり合致している。

「しゅ、旬さん、なの……?」

 左手首が、指で歩くようにして、わたしの左手の上に重なった。
 その指が、わたしのリングを確かめるように撫でた。
 ……信じられない。
 けれど、でももう、この直観は無視できない。 
 その瞬間、旬さんの左手を抱きしめていた。

「旬さん……!」

 何があったの?
 何が起こっているの?
 旬さん、無事なの?
 旬さんの身に何があったの?
 わたしは冷静さを失い、泣き崩れた。
 怖い……!
 こんなのやだ……!
 旬さんが……!
 旬さんの手が!
 手が……

 パニックに陥ったまま、わたしは気を失ってしまった……。


***

 ……うっ、まぶしい……。
 鼻先をつく湿った土の匂い、鳥の鳴き声。
 肌を濡らす草の露、日光に温められた空気。
 森の中、ああ……。
 やっぱり、夢じゃなかったんだ。
 
「旬さん」
 
 一瞬戸惑ったけれど、旬さんの左手をぎゅっと握った。
 ここがどこで、なぜここにいるのかという謎以上に、解けそうにない。
 世にも奇妙な左手の旬さん。
 旬さんは優しく握り返してくれて、労わるように親指でなでてくれた。
 こうして手をつなぎ合っているだけでわかってしまった。
 何が起こっているのかはわからない。
 だけど、これは旬さんに間違いない。
 わたしにとっては、唯一の愛する人で、大切な人で、希望だ。

「これからどうしたらいいのかなあ、旬さん」

 旬さんの左手に話しかけても、返事はない。
 本体が見えないのに手首だけがここにある理由はわからないけれど、口がないのだから、しゃべれるはずもない。
 わたしの声もきっと届いてはいないに違いない。
 左手だけとはいえ旬さんがいてくれるのは心強いけれど、コミュニケーションが取れないのが悲しい。

 旬さんの手を握りながら、光の差し込むほうを見上げた。
 こんな状況でも空は青いんだ……。
 そのまま、しばらく途方に暮れてしまった。

 昨晩、身を寄せていた木は、思っていたよりも遥かに立派な大樹だった。
 五、六人でも囲めないと思ったけれど、十人でも囲めるかどうかわからない。
 どっしりとした幹、大地をしっかりと蓄えた太い根。
 青々とした葉と、天に伸びた枝が健やかに風に揺れている。
 居心地が良くて、このままここにいたいと思えるくらいやすらぎを感じさえする。

 ふと周りに目をやると、自分の下着が脱ぎ捨てられていた。

「えっ!? なんでっ……?」
 
 一瞬混乱したけれど、すぐに思い出した。
 そうだ、汗をかいたのが冷えて、途中で目を覚ましたんだった。
 風邪をひきそうだったから、自分で脱いだんだ……。
 やだもう……。
 人影がない上に夜中だったとはいえ、油断してた。
 は、恥ずかし~……。
 ……でも、風邪をひかなくてよかった……。

 靴擦れを見ると、皮がめくれた状態で血が固まっていた。
 腕時計は、十時過ぎを指している。
 お腹もすいたし、でこぼこした地面の上で寝たせいか、首や肩も痛い……。
 ただでさえ体力に自信がないのに、朝とはいえすでに気力も相当削られている。
 だけど、明るいうちに行動しなくちゃ。
 とりあえずは、もう一度木の周りを探索してみよう……。

 旬さんの左手を一端手離そうとすると、旬さんがわたしを引き留めた。
 左手の人差し指が、わたしの手の甲の上を滑り出した。

「わあっ……! そっか!」

 旬さんの左手がひらがなを書いた。
 ぶ じ か ? ど ん な じょ う きょ う ?
 うれしい!
 わたしもならって、旬さん手の甲に文字を書いた。

「も、り、の、な、か。しゅ、ん、さ、ん、ぶ、じ、な、の、?」
 
 旬さんの左手とわたしは順番に指で言葉を伝え合う。
 明るいと、旬さんの手に間違いないということが、はっきりと分かった。
 途切れている手首の断面を見ると、昨日吸い込まれた穴のように真っ黒だった。
 不思議と血の跡もなく、肉体や骨の断面らしきものは全く見受けられない。

「ぶじだ。でも、ひだりて、うしなった」
「失ったって……、どういうことなの?」
「わからない。うごくし、さわれる。でも、てくびから、さきがない。だんめんは、くろい」

 どういうこと……?
 旬さんの体に何が起こっているの……? 
 現象を目の前にしても、検討もつかない。
 幸い痛みはないそうだ。

「あっ、ねえ! えっと……。あのとき、なにが、あったの?」
「みなみが、ブラックホールのような、あなに、すいこまれた。たすけようとした。つよい、ひかりがみえた。ひかりが、きえたとき、みなみも、ひだりても、なくなっていた」

 やっぱり、間違いじゃない。
 旬さんもわたしが見たものと変わりはないんだ。
 だけど、旬さんにも何が起こったのかは、わからないみたい……。
 道向かいでその場に居合わせた晴美先生も、同じものを目撃していたらしい。
 晴美先生が心配していると、指が伝えてくれた。

「いまどこ」
「わからないの。スマホもバッグもなくて。すごく大きな木のある森の中よ。これからどうしたらいいの?」
「きゅうなんしんごう。みずのかくほ。あめかぜを、しのげるばしょ」
「そ、そんなこと言われても……。やったことないよ……」
「しじする」
「う、うん……」

 汗の乾いたブラとショーツ、キャミソールを身に着けると、旬さんの左手を抱えた。
 旬さんはわたしが手を離すと不安になるらしい。
 それはわたしのほうも同じだ。
 旬さんにはわたしの姿が見えない。
 ほとんど感触だけが頼りなので、できるだけ離れないようにと言った。

「ほとんどってことは、他にもなにか感じるの?」
「ゆびわ、かんじる」
「えっ、婚約指輪?」
「めをとじると あたまのなかに みなみのゆびわが、かがやいてみえる」
「それで昨日もわたしの位置がわかったのね」

 そうなんだ……、なんだか安心しちゃった。
 同時に、すごくうれしい。
 普通は、婚約指輪をペアでつけることはあんまりないと聞くけれど、わたしたちは今後のことも考えて話し合い、婚約指輪と結婚指輪を兼用することにしていた。
 この指輪がお互いを結ぶ意味はそれだけ強いということだと思っている。
 だから、こんな摩訶不思議な状況においても、指輪がわたしたちをつないでくれていたなんて、なんだかすごくロマンチック!
 これなら、もし離れ離れになっても、お互いをきっと見つけられるはずだよね……。
 
「かわ、さがして」
「うん、探してみる」

 靴擦れの痛みをこらえて歩き出す。
 さっきまでどうしたらいいかわからなくて途方に暮れていたけど、ひとりじゃないというだけで、力が湧いてくるから不思議。
 足場の悪い森の中、手がふさがるのは危ないので、旬さんの定位置はわたしの右肩の上になった。

 木々の間を進み、なだらかな斜面を下る。
 木陰せいか気温はそれほど高くはないけれど、慣れない道を進むにつれて、だんだんと汗がにじんできた。
 肩越しの体温か、上がってきた息に気づいたのか、旬さんの手が肩を伝って来て、わたしの頬にちょんと触れた。
 手に取ると、旬さんが手の平の上で指を滑らせた。

「だいじょうぶか」
「はあっ、はあ……っ……。今のところ、なんとか……」
「むりするな といいたいが、せめて、みずの、かくほ、がんばれ」
「ありがとう、旬さん」
「てんきは」
「天気は……、晴れてる」
「へんかに、ちゅうい」
「うん」

 斜面に沿って、太陽の位置から見て南方向へを進んでいる。
 見ると時計は一時を回るところだった。
 朝からなにも口にしていない。
 空腹はなんとか耐えられても、喉の渇きは予想以上に辛い。
 旬さんを心配させたくないから、指では伝えていないけれど、正直、運動習慣のまったくないわたしの体は、もう音を上げそう……。

「ご、ごめん、旬さん、ちょっと休憩……」
「だいじょうぶか」
「はあ、はあ……。川ってなかなか見つからないんだね……」

 わたしは街を出たことがほとんどない。
 学生時代、林間学校や登山は決まって欠席してきた。
 当然、山歩きやフィールドワークのようなことをしたことがない。
 近所の公園や川辺だってそんなにいかない。
 運動といえば、通勤の間の徒歩と、買い物の間の荷物を持つことくらいだ。
 そんなわたしに、この道のりは本当にきつい。
 
 それでも、旅行は一度だけ、台湾へ行ったことがある。
 けれど、それも都市部を観光しただけ。
 それも、一緒にいたメンバーの後をついて回るだけだったから、見知らぬ土地で過ごすための感を培うということも、当然なくて……。
 つまるところ、わたしは人より体力がない上に、自然環境になじみがないだけでなく、知らない場所をひとりで行動することにも、まったくの自信がない……。

 なんとか検討をつけて、水下へむかって歩いているつもりだけど、同じ場所をぐるぐるしているような気がしてならない。
 大樹の場所から離れたはずなのに、斜め右方向に見えるのは、同じ木のような気がする……。
 でも、森の中に大きな木がたくさんあるのは、多分普通のことなんだろうし……。
 それでも、時間とともに太陽の位置が変わってきているのはなんとなくわかる。
 ……逆をいえば、わたしにわかるのは、それぐらいしかない。

 はあ……、川ってどんなところにあるんだろう。
 岩場とか、湧き水がありそうな湿っぽい場所、かな……。
 歩いてゆうに一時間以上が過ぎているけれど、水音はしてこないし、目に見える景色がはっきりと変わった様子は見受けられない。
 森がそれだけ広いのか、単純にわたしの足が遅いのか。
 その両方な気はするけど……。

「てんきは」
「うん……、まだ大丈夫みたい」
「まわりに ひとのけはいは」
「それが全然。登山道みたいなのもないみたいで」

 ニュースや雑誌などで見る登山道や管理された森林には、確か木に印がつけられていたり、ロープが張ってあった気がする。
 道も踏みしめられていて、幹や枝につけられたリボンのようなものや、あるいは注意喚起の看板とか……。
 今のところ、そういう人の手が加わった様子は見られない。
 でも、熊出没注意の看板があったら、どうしよう……。

「たべられそうなものは」

 それも歩きながら注意して見ていたつもりだったけれど、それらしいものはまだ見ていない。
 食べられるかどうかの判断がつくのかどうかは、全然自信がないけど……。

「あれっ、なんか、小さな赤い実がある」

 比較的日当りの良さそうな地面に、点々と赤い小指の先ほどの大きさの実がなっていた。
 ひとつぶ取って、旬さんに渡した。

「食べられるのかな?」
「ヘビイチゴみたいだな」
「えっ、これ、いちごなの? じゃあ食べていいの?」

 一瞬気分が明るくなった。
 ところが、旬さんはヘビイチゴを手放すと、わたしの手に「まだ たべるな」と書いた。

「え……、どうして……」
「もりのくだものは、ひをとおさずに、たべてはいけない」
「えっ、そうなの?」
「かんせんしょうの、おそれ。みずも、すぐのむ、だめ」

 そ、そうだったんだ……。
 聞いておいてよかった。
 今、川を見つけていたら、喉の渇きのままに、危険を知らずに飲んでいたに違いない。

「じゃあ、どうやって飲み水を確保するの?」
「ひをおこして、わかす。あきかん、ある?」
「空き缶……」

 そういえば、管理の形跡だけでなく、そういったごみもまだ目にしていない気がする。
 自然を大事にすることは当然大切だけれど、今は生死に関わるかもしれない状況だ。
 どうしても人類の英知に頼らざるを得ないと思う。
 不謹慎だけど、どうか、空き缶が捨てられていますように……。

「ひおこしに、ひつようなもの」
「わたしに火おこしができるかなあ……」

 旬さんは、乾いた草や木の棒など、火おこしの道具になりそうなものを一通り教えてくれた。
 なんとなくのイメージはあるのだけれど、正直自分にできる気がしない。
 空き缶と一緒にライターが落ちていればいいなぁ……。

「ひが、のろしになる」
「のろしってなに?」
「きゅうなんしんごう」

 あ、そうか……!
 じゃあ、火は絶対に必要なんだ……。
 さっきまで自分にはできないかもしれないと、ぼんやり考えていたけれど、自分でやらなければ、自分のいる位置を知らせることもできないし、飲み水も手に入らないのだ。
 なんとなく、二、三日中には誰かが助けに来てくれるだろうと考えていた。
 けれど、本当はこの状況、もっとまずいのかもしれない。

「ど、どうしよう……、旬さん、急に不安になってきちゃった……」
「おちついて」
「川もないし、空き缶もないし、あっても、わたしに火もおこせるかどうか……。このまま誰にも見つけてもらえなかったらどうしよう……」
「そうさくを、たのんでみる」
「で、でも、ここが何県のどこなのかもわからないんだよ……」

 旬さんの左手に力を込めながら、ふと気づいた。
 そういえば、旬さんは今どうしてるの?
 不安で、心細くて、わたしばかりが旬さんを頼りっぱなしだ。
 けれど、左手を失った旬さんだって、苦労しているはずなのだ。
 わたしが消え、同時に左手を失い、突然現れた黒い穴に吸い込まれましたという出来事を話したところで、すんなりそうですかと理解や協力を得られるのだろうか?

「旬さん、警察にはなんて話したの?」

 わたしの問いかけに、旬さんの手はしばらく動きを止めた。
 やっぱり、うまく説明できてなんだ……!
 あたりまえだよ、わたしたちだって何が起こっているのか、わかっていないのに。

「こうさてんの、かんしカメラに、えいぞうが、のこっていた」
「ほ、本当!?」
「じえいたいや、せいふきかんが、きた」
「自衛隊……? 政府……?」
「いろいろきかれた。みなみのこと、ひだりてのこと」
「それで……?」
「まだなにもわからない」

 頭が真っ白になった……。
 しばらくお互い言葉がなかった。
 しじまが去った後、頭の奥がひんやりと冷静になって、わたしにもはっきりとわかった。

「……自分でやらなきゃいけないんだね」
「おれがいる」
「うん……。旬さん、側にいてね」

 体を奮い立たせて、疲れた足を一歩前に踏み出す。
 動かないと、つい気が緩んで、泣き出してしまいそう。
 泣き顔も声も、旬さんには多分わからないはずだけれど、それでもなんとなく空気で伝わりそう。
 心配させるのは、嫌。
 きっと、旬さんだって不安でいっぱいなはず。
 それに、泣いたら多分、立ち上がれそうにない……。
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