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4、旬さん、お願いだから
しおりを挟むこんなことって、ありえない……。
地球儀に混乱したわたしは、ひどく取り乱してしまった。
あっという間に再び高い熱とめまいがぶり返してきて、ベッドに逆戻りになった。
ぼんやりとした意識の中で、ゼンジさんがクランさんに怒られている様子がわかった。
布団の中でわたしは呪文のように繰り返していた。
信じない……。
そんなわけない。
あれはきっとなにかの間違いなんだ……。
わたしは、日本に帰る……。
旬さんの居る場所に、戻るんだから……!
絶対、ぜったいに……。
数日間の熱の後、わたしはようやく苦しさから解放されつつある。
余裕が出てきた思考力と、少し頼りないけど回復してきた体力を感じながら考えた。
とにかく、旬さんの左手を探さなきゃ……!
まずは旬さんに、落ち着いてこのことを話してみよう。
きっと、わたしが知らないだけで、この国は地球のどこかに存在していて、ちゃんと日本に帰る船か飛行機があるはず。
あの地図や地球儀は、かなり古びていた。
外界と遮断された民族が持っていたものなら、少しくらい変な地図や昔の地球儀をそのまま大事に保管してたって、きっと不思議じゃない。
大丈夫、きっとそうに違いないんだから……。
その朝、クランさんが来るよりも先に、わたしは身支度に取り掛かっていた。
漢服というのか唐装というのか、よくわからないけど、この国の女性物の着物を身に着けている。
寝間着は上下に分かれた着物だったけれど、普段着でもこの上下セットの襦袢のようなものを下着の上に着る。
下着にはキャミソールみたいなのと、真ん中で切れたハーフパンツみたいなのを着ている。
正直、わたしにとって下の下着にはかなりの異文化ギャップがあって、スース―するし、なんか落ち着かないような気もするけど、気がついたときにはもう着せられていたから、もうそういうものだと思うことにしている……。
中国風の襦袢の上に着るのは、プリーツの入った巻きスカート。
その次は裾が作務衣より長く着物より短い糸絵の着物で、なぜか無用に袖が長すぎる。
わたしには不便にしか思えないんだけど、でも昔の時代って確かこんな袖をして手はあんまり見えなかったような気がする……。
生地は、やっぱりアジアのどこかの民族っぽい織物。
素材は綿と麻かな。
今まで着ていたような既製品服と比べると、手触りは荒く厚みがある。
工業製品にしては風合いが強いから、もしかして、伝統工芸とかの手織りなのかな……?
着心地は、けっこうかさ張って重いし、わたしにはちょっと暑いかも……。
もともとの着ていた下着や服はと言うと、洗濯して部屋の棚にしまわれていた。
こっちを着ようかとも思ったけど、ひざ丈とはいえこの国の女性は足を見せるのは一般的ではないみたいだし、お寺の中でヒールを履くと思うと、なんとなく気兼ねしてしまう。
日本と違ってどうやらこの国では建物の中でも下足のようで、下足ならヒールでもいい気もするけど、カツカツと音がするのかどうも……。
それに、クランさんがまめまめしくこちらの国の身支度や道具を毎日のように整えてくれるので、なんとなくその気持ちを無にはしづらいというか……。
そんなことで、慣れないながらもこの中華時代劇みたいな服装で、ヒールのないぺたんこの布靴を履いている。
それでも同じアジアだからか、服一つをとっても、日本との共通点がいろいろあるように思える。
和服と同じで、男女ともに右前で身頃を重ねるとか、着るのにボタンやバックル、ゴムやファスナーなんかはいらないとか。
まあ、和服なんて成人式の時にしか着たことがないんだけど……。
こんなわたしでも、この服は体調のいい時に一度クランさんに着つけてもらっていたので、自力で着ることができた。
服を着たあとは、その上から腰から巻くエプロンみたいなのをして、帯を締めるんだよね。
この帯の締め方が、よくわかんない。
あと、最後の帯締というのか、ただの飾りの紐なのか、よくわからないけど、この紐の結び方もよくわからない。
クランさんの二本の紐を器用に結んでくれたけど、わたしは一本しか使っていない。
しかも、はっきり言ってただの蝶々結び。
それでも、八割がたは着れていると思う。
あ、でも、腰に足れ下げるなんかよくわからない飾りみたいな布、これいらないや。
肩にかける謎の布もあるけど、これも必要性を感じないから、つけないでおこう。
天女の羽衣みたいなのも着せてもらったときは羽織ったけど、これもわたしには動きづらいので、すいません。
正直、このエプロンみたいなのもいらない気がするけど……。
これがなくても、日本でいえば袴みたいなことだよね?
汚れないようにつけてるのかな……。
緩まないようにもう一度腰の紐をぎゅと引き締めていると、クランさんがやってきた。
「ミナミ・フーシャ。オメザメ、デシタカ」
「おはようございます、クランさん。わたし、聞きたいことがあるんです」
「……」
わずかにクランさんの表情が曇った。
そんな顔されたら、わたしまで緊張してしまう。
でも、これ以上時間を無駄にしたくない。
「デハ、オショクジノ、アトニ……」
「その前に聞きたいの。お願いします」
沈黙の後、クランさんは静かにうなづいた。
その前にと、わたしの着方の間違いを直してくれた。
よかった、イとモの着方は合ってるみたい。
上に着るのを衣、下に履くのを裳って言うんですね、わかりました。
あ、帯の締め方、ゆっくり見せて下さい。
紐も、もう一回結んで見せてもらっても?
え、この紐やっぱりなくてもいいの?
てことは、エプロンもいらない?
……あ、これはつけてたほうがいいのね……。
フーシャなのに、簡素すぎる?
うーん、ちょっと意味がよくわからない。
すいません、それでも動きやすい方がいいんですけど……今だって、結構重いし暑いんですけど。
わかりました。じゃあ、エプロンまでは着けておきますね?
妥協点を見出した後、クランさんは案内をしてくれた。
廊下に出ると、お経みたいな声がする方へ進んでいく。
この声は、朝晩毎日聞こえてくる。
発生源は、ゼンジさんと隠れるようにして通り過ぎた本堂だった。
なんとなく感じていたけれど、やっぱりここはお寺のようだ。
一番奥に座している背中が多分コルグさんだ。
そこから一段下がった板の間には、同じく僧のような恰好をした男性が二十人くらい座っている。
全員の声が合わさったお経は、朗々として深く響いて、お堂全体がを震えているようだった。
脇の方に座ってお経が終わるのを待つ間、辺りを観察する。
僧侶たちが揃ってむかう方向には、信仰の対象らしきご本尊がある。
当然、仏像だろうと思ったけれど、内陣の中に祀られていたのは、変哲もない一本の枝だった。
どんな謂れがあるのかわからないけれど、本当にただの枝にしか見えない。
内陣には、日本のお寺のようにきらきらした吊り下げのお飾りみたいなものもない。
チベットのようなカラフルさも、ミャンマーのようなまぶしい金色もない。
枝が納められている宮殿は立派な造りに見えるけれど、色合いははっきり言って地味。
僧侶たちの姿も全部合わせても、全体的にわたしの知っているアジアの仏教寺のイメージからすると、ずっとずっと質素な感じに見える。
何ていうか修行の場っていうか。こういう雰囲気のお寺、なんだっけ……前に雑誌で見たような……。
福井県にある有名な宗派の修行寺……永平寺って言ったっけ?
あれ、それでも、お寺でも内陣はきらびやかだったよね……。
えっと、そうすると……?
ここはお寺というより、神社みたいな気もしてくるんだけど……。
そう考えれば、質素堅剛に見えていた造りも、無駄のない形式美だと納得できる気がする。
だって、木の枝とか自然のものを祀るなんて、どっちかっていうと神道だよね?
あ、てことは、この人たちは宮司や神職見習いってこと?
服はどう見ても、僧侶って感じなんだけど……。
でも日本では、神職の人たちが、頭を丸めたり、袈裟や雲水みたいな僧服を着ている姿なんて見たことない。
いろいろ考えたけど、わたしの知識ではよくわからない。
いいや、とりあえず、わたしの中ではお寺と呼んでおこう……。
経文か祝詞かわからないけど、とにかく一斉唱和が終わり、コルグさんが振り返ると、わたしたちに気づいてくれた。
僧侶か神職かわからないけど、彼らに下がるように指示をしたあと、わたしたちをそばに招いてくれた。
「ミナミ・フーシャ。オハヨウゴザイマス」
「おはようございます、コルグさん。あの、わたし……」
「オシリニナリタイコトハ」
コルグさんは先んじてわたしの言葉を遮った。
「スベテ、ツツミカクサズ、オハナシイタシマショウ」
「は、はい……」
「アナタハ、カラダニ、フガ、タリテナイゴヨウス。スコシデモ、ツカレヲカンジタリ、グアイガヨクナケレバ、ムリヲシテハ、イケマセン」
その言葉をありがたくいただいて、うなづいた。
でも、フ?
が足りないって、なんのことだろう……。
「あの……、今さらですが、助けていただいてありがとうございました」
「ナンノ、フーシャヲ、ミチビクノハ、ダイダイノ、リューシャノツトメ」
そういえば、そのフーシャっていうのもなんのことなのか……。
いや、それよりも先に今は確かめないと。
「わたしが倒れていたとき、どんな様子でしたか?」
コルグさんによれば、わたしが倒れていたのは、ここから五十里離れたユーファオーの森と呼ばれる場所らしい。
里という単位が何キロメートルなのかよくわからないけれど、ニュアンスからするとそんなに近くではないみたい。
ユーファオーの森は、僧侶が修行のために入る聖域で、普段人が立ち入る場所ではないらしい。
その時はたまたま行に入っていた若い僧侶がいたため、わたしは見つけてもらえたそうだ。
なるほど。
翻訳的には、お寺、経文、僧侶でいいんですね。
発見されたときは、川辺に倒れて気を失っていたらしい。
そういえば、何日か森をさまよって、ようやく水音を聞いたと思ったら、足を滑らせて落ちたんだった。
そのとき、旬さんとはぐれたのかも……。
「変なことを聞くようですが、そのとき、わたしのそばに左手はいなかったですか?」
「ヒダリテ?」
「はい。これと同じ、薬指に指輪を付けた、男性の左手です」
わかってます、変なこと言ってるって……。
でも、本当なんです。
珍妙な話に、コルグさんもクランさんも眉をひそめた。
わたしだって、こんな状況でなければ、頭がおかしいと思うはずだ。
「変に思うでしょうけれど、その左手は生きてるんです。左手首だけでも動くし温かいし、指で意志を伝え合うこともできます。わたしの大切な人の左手なんです」
「……アナタヲハッケンシタモノニ、ハナシヲキイテミマショウ」
クランさんが発見者を呼びに行ってくれた。
しばらくして現れたのは、まだ十代前半と思しき小柄な小坊主のマージンくんと、ゼンジさんだった。
仮にもお坊さんにくん付けでいいのかわからないけれど、そう呼んだ方がしっくりくるような年恰好だ。
ゼンジさんはわたしを無断でベッドから連れ出したことを叱責され、すこし気がねしているふうに見えたが、目が合うと人懐こそうな笑みを送ってくれた。
「なぜゼンジさんまで……?」
「ゼンジハ、クスシミナライ、ナノデスガ、キンヲヤブッテマデ、ユーファオーノ、フノコモッタ、ヤクソウヲ、トリニイクノデ、コマッテイルノデス……」
つまり、ゼンジさんは修行僧じゃないのに森に入っちゃいけなかったってことだよね?
ふたりがわたしを救助してくれた時のことを話してくれた。
通訳はコルグさんがしてくれた。
「マージンガ、アナタヲミツケタノハ、ヒグレドキダッタ。セイイキニモカカワラズ、ルドゥーナルモノガ、アナタニ、ガイヲナソウトシテイタ。マージンハ、ヤミヨノナカ、ルドゥート、カクトウシ、チニホフッタアト、アサヒガノボルマデ、アナタノソバデ、ミハッタ。ツギノアサ、ゼンジト、グウゼンデアイ、フタリデ、テラニモドッタ。ト、イッテイマス」
ルドゥー……?
またわからない単語が……。
わたし、その変なのに襲われそうになっていたの?
今更ながら、怖わ……。
記憶がないから余計に怖いんだけど……。
「マージンくん、クラシュン。ゼンジさん、クラシュン」
頭を下げたあと、改めて二人を見た。
「ルドゥーがなんなのかよくわからないけれど、そのルドゥーの他に、左手がそばにいませんでしたか? 左手は、わたしのいる場所がわかるんです。だから、はぐれたとしても、そんなに離れてはいなかったと思うんですけど……」
コルグさんによる通訳を聞いたふたりは、そろって首をかしげた。
まさか、何の情報もなし……?
じゃあ、旬さんは今どこに……。
それに、そのルドゥーとかいうのが、まだ森の中にいるとしたら……。
まさか、旬さんも危険な目にあってるんじゃ……。
そんなの、やだ……!
二の次が出ないわたしに変わって、機微を読んだクランさんが補足してくれた。
「ミナミ・フーシャ。ヒダリテハ、ユビワヲシテイタ、トウコトデスガ」
「は、はい、これと同じものです……」
「マージン、ゼンジニ、ミオボエガアルカ、キイテミテハ?」
「は、はいっ」
わたしはすぐにふたりのそばに行き、指輪をはめた左手を差し出した。
すぐにマージンくんが、ぱっとひらめいた。
口早に何かを言うと、それを聞いたクランさんが驚いたように目を見張った。
「ルドゥーニモ、オナジモノガ、アッタソウデス!」
「えっ……!?」
「マージンノ、ミタモノガ、ヒダリテナラバ……」
「うそっ、うそでしょ……?」
うそ……。
やだ、どうして!
旬さん、まさか……!
今にもパニックになりそうなわたしの肩に、ぐっと強い力が籠った。
はっとして見上げた。
コルグさんが厳しさといたわりとがないまぜになった顔で見下ろしていた。
「スグニ、ユーファオーノモリニ、ソウリョヲ、オクリマス。ミナミ・フーシャ、イキヲ、トトノエテ」
「わ、わたしも行きます……!」
「アナタデハ、ムリデス。アシデマトイニ、ナリマス」
「……っ」
「ナンドモ、ギョウヲ、オコナッテイル、ソウリョデスカラ、モドルマデニ、フツカトカカラナイデショウ。オチツイテ、マチマショウ」
そんなこと言われても……。
ここへ来てからもう、十日は優に経っている。
落ち着けと言うほうが、無茶だ。
どうしよう、もう、涙が出そう……。
「マージンガ、コウイッテイマス。ヒグレノモリノナカハ、クラクテ、ヨクミエナカッタ。オオキナ、クモガ、アナタノマワリヲ、ウロツイテイタ。ワタシニハ、ソウミエタ」
マージンくんは顔をゆがめ、唇を噛んだ。
その姿を見たら、堪えていたものが溢れて、わたしは泣いてしまった。
マージンくんは、悪くない。
わたしのことを守ろうとしてくれたんだ……。
旬さんには、助けなのか敵意なのかが、わからなかったのかもしれない。
わかったとしても、状況的にマージンくんと意志を通わせることは多分難しかっただろう。
だけど、旬さんはわたしを守ろうとしたはずだ。
左手だけでも。
わたしのために……。
ああ、お願いだから、旬さん……!
無事でいて……!
どうか、どうか……!
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