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8、没入しかけてる
しおりを挟む翌朝、クランさんが朝食を持って、起こしに来てくれた。
昨日の涙で目が開けられないほど重たくて、頬はカピカピに乾いていた。
うわぁ、ひどい顔……。
旬さんに見られなくよかった……。
このときばかりは思ってしまった。
「オワラレタコロ、ゼンヲサゲニ、マイリマスネ」
クランさんはいたわるようにほほえみを送ってくれた。
水差しから洗面器に注ぎ、少しぬるい水で自分と旬さんの身支度を整えた。
一晩気が済むまで泣いたせいか、おなかがすいていた。
「……いただきます」
テーブルの上のお盆には、二つの金属の器と、三つの木のお皿、そして同じ材質の箸置きと箸がのっている。
手前の金属椀には、雑穀と豆を柔らかく炊いたおかゆ。
その隣には、青菜の浮いた味噌汁。
木のお皿にはそれぞれ、野菜の漬物、つくだ煮、煮物。
味付けは一般的な和食より、味が薄めで、特に甘みが少ない。
日本では食べたことはなかったけれど、精進料理というのは、こういうものなのかもしれない。
異世界だとはいえ、なじみやすい食品や食器であることは、ありがたいことだろう。
旬さんは、もっと変わったものが出てくるのではと思っていたらしく、ハナムンの食事事情にはちょっとがっかりしていた。
「朝ごはん食べた?」
「サブウェイで、すませた」
職場の近くのいつものファーストフード店で、簡単に済ませたのだろう。
昨日はわたしのほうにかかりきりだったせいだ。
ふたつの異なる世界に片足ならぬ、片手をかけて生活をするのはきっと簡単ではないはずだ。
それでも旬さんはこちらの世界のさまざまに対応をしてくれるし、いつでもそばにいて、わたしに旬さんを感じさせてくれる。
だけど、本当なら今頃旬さんのマンションで、わたしが作った朝食を二人で食べていたはずなのに……。
一緒に暮らすにあたって、新しい電子オーブンを二人で見に行く予定だったし、ベッドカバーやカーテンの色も変えるつもりだった。
レパートリーを増やそうと、気になっていた料理研究家のレシピ本も注文していた。本はもうきっとアパートのポストに届いているはずだ。
「旬さん……。職場への説明とか、わたしの部屋のこととか、頼んでもいい?」
「わかってる」
「あと、通帳の場所と、カードの暗証番号をいっておくね」
「だいじょうぶ。おかねのしんぱいはいらない」
「でも……。あの、旬さん……。気になっていたんだけど」
「なに?」
旬さんの指が手の甲の上で止まっている。
これまではわたしのことばっかりで、きちんと聞けていなかった。
左手を失ったあとの生活を、旬さんは日本でどうしているのだろう?
「左手をなくしてからは、日常生活にも苦労しているでしょ? 仕事にも支障があるだろうし?」
「かいしゃは、やめた」
「そうだったの?」
「そうだんもせずに、ごめん。いまは、いえでトレーダーをしている。かせいふを、しゅうさんで、たのんでる。せいかつの、しんぱいいらない」
「ご両親にはなんて話しているの?」
「きのすむように、させてほしい、といってある。しんぱいは、かけてるとおもうけど」
「そうだったのね……。サブウェイっていうから、すっかりいつもの会社の近くのお店にいるのかと思った」
「いまは、ほんやにいる」
「本屋?」
説明が細かくなりそうだからというので、筆と墨と紙を旬さんに用意した。
「異世界ハナムンを改めてネット検索してみた」
「えっ、まさかなにかわかったの?」
「俺みたいに中途半端に異世界に転移したり、異世界から戻ってきた人がいれば可能性はあったんだろうけど、残念ながらそれらしいものなかった」
「そっか……。コルグさんも初めて見るっていってたもんね」
「でも、異世界転移とか、異世界転生自体はたくさんヒットした」
「えっ、ほんとに⁉」
「ただし、オンライン小説とか、漫画とかアニメだけどな」
「……なんだ、一瞬期待しちゃった……」
「どうせフィクションかと思ったけど、ものの試しにいくつか見てみたんだ。言葉の通じない世界に転生とか、特殊能力や魔物がいるとか、ゲームと同じようにステータスやレベル上げがあるとか。俺は意外と参考になるんじゃないかと思った」
「ゲームならやり直せるけど、わたしたち、日本に帰れないんだよ……。そんなの参考になるかな……」
「まあ、そういうなよ。美波、昨日は途中からあまり話を聞いていなかったろ?」
「うん……、気持ちがついてかなくて……」
「昨日聞いた限りでは、浮者や流者にも個性や位があって、それによって使える術の性質や威力が違うらしいんだ。やみくもに訓練をするよりも、ゲームと同じように、どれくらいの労力でいつレベルが上がるのかとか、個人に合わせた特性はなんなのかとか、そういうことをわかっていたほうが効率がいいだろう?」
「……」
「美波、聞いてるか?」
「なんか旬さん、楽しんでない……?」
「ごめん、少し」
むむ……。
ゲーム好きの旬さんならそうだろうと思った。
けど、実際に知らない世界にすっぽり落とされてしまった身にもなってほしい。
気持ちは落ち着いてきたけれど、わたしはまだ旬さんほど積極的にこの世界を受け入れられないよ……。
「美波もゲームは好きだろ?」
「ゲームは現実じゃないから楽しいんだよ? それに、わたしマリオカートしか得意じゃないし……」
「美波のは得意のうちにも入らないけどな」
あっ、そういうこというんだ……⁉
もう知らない。
ふん、と顔をそむけると、旬さんはすぐに紙に「ごめんごめん」と書いた。
なによ、怒るとわかってて聞き耳立てていたたわけ?
旬さんの左手には、まだ「耳」の字がうすぼんやりと残っている。
……まあ、怒るポーズをしてみても仕方ない。
浮の力の量にしても、ゲームの攻略にしても、わたしではとうてい旬さんにはおよばない。
今までだって、これからだって、助けが必要なのは、絶対的にわたしのほうに決まっている。
「ちょっと心配……。わたしの場合、まず、浮の力を増やすところからだよね……」
「ないよりは、少しでも多いほうがいいだろうな。俺が先にやり方をマスターする。そうしたら、美波に有利なように教えるなり、補助するなりできると思う」
「自信ないなぁ……。スライムとか倒さなくていいんだよね?」
「コルグさんからは魔物の話は出なかったけど、いたらいたで、いよいよゲームの世界だな」
「また楽しんでる! RPGとか絶対無理だよ……。始まりの町から出られる気がしない」
「そのぶん俺が強くなればいいから」
「う、うーん……」
「美波には、ハナムン政情や人々の暮らしについてをもっと情報を集めてほしい。ハナムンは浮者に一体なにを求めているのか。できれば、同じ地球からきた浮者にも会って、話を聞きたい。厚遇されるっていうけど、どの程度の扱いなのか」
「そ、そんなに急にたくさんいわれても……」
「俺と違って、美波は自由にそっちの世界を歩き回れるんだから。美波が情報を集めてくれなければ、俺は判断しようがないよ」
「そ、そうだけど……」
文字だけなのに、生き生きとしているのがわかる。
今日は一時間だけのつもりが、いつの間にか朝になってた、みたいに夢中になったら、がっつり没入してしまう旬さん。
お互い気分が沈むよりはいいと思うけれど、旬さんと同じテンションでゲームプレイするなんて無理。
この世界を攻略できる気は、がぜん、まったくしていない。
このまま進めたとしても、正直、足手まといにしかならない気が、そんな気がすごくする……。
「美波?」
「がんばってみるけど……、うまくできなかったらごめんね」
「俺がそばにいるから」
「うん、いてね。ずっと……」
旬さんの希望により、お膳を下げに来たクランさんに、コルグさんに会いたいと伝えた。
クランさんはわたしたちを本堂に案内してくれた。
「キブンハ、ドウデスカ? ミナミ・フーシャ。シュン・フーシャ」
「ありがとうございます。だいぶ落ち着きました。旬さんも気分は悪くないといっています」
コルグさんはわたしと旬さんが腰を落ち着けたのを見ると、クランさんに指図をした。
ご神体として祭られている枝の下の祭壇から、クランさんが高足つきのお膳をとって、わたしたちの前に置いた。
「コレハ、インチョウ、ト、シヒツ、デス」
膳の上には、印帳と書かれた紐綴じの小冊子と、白く細い筆があった。
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