【完】左手だけの婚約者~Hanamun Life~一緒にワープした婚約者は、左手だけなのに最強です!?

国府知里

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20、客観の域

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 マロー以降の数か月は、辛すぎて今でもところどころはっきりと思い出せない。
 ときが締め付けられた記憶の糸をほどき、現実を受け止めらるようになって、すこしずつ自分を取り戻し始めたのは、ハナムンの冬が過ぎ、春を迎えようとするころだった。

 トラントランに着いて、わたしはローワンに抱きかかえられながら門をくぐった。
 わたしの姿に、悲痛な面持ちでクランが駆け寄ってくるのが見えた。
 クランの顔を見た途端、視界が真っ白になって消えた。

「うあぁぁん……っ」

 消えた視界の中で、クランの腕と花の香りが、本当にトラントランに戻ってきたんだと実感させてくれた。
 もうやだ、もうやだ。
 トラントランを離れたくない。
 ここを離れたくない。
 クランやみんなのいるこの場所を絶対離れたくない。
 泣きながら、同じことばかりずっとずっと考えていた。

 部屋に運び入れてもらうと、クランとミックさんがすぐにわたしの世話をしてくれた。
 ミックさんだって疲れていたはずなのに、わたしの服を脱がせ、砂を落とし、体を洗ってくれた。
 髪を乾かし梳かし、きれいな寝間着を着せてくれた。
 ほとんどぼんやりとしていたけど、いい香りのするお湯や花石鹸が、旅の垢を落としてすっきりさせてくれたことはわかった。

 そのままわたしは布団に寝かされた。
 クランとミックさんでは私を持ち上げられないので、このときはゼンジさんが運んでくれた。
 誰がなにをしてくれたかはわかっていた。

 でも、返事をしたりとか、感謝を述べたりすることを、わたしはすっかりできなくなっていた。
 自分でも不思議に思うほどに、回路の壊れて知った電子機器みたい。
 旬さんの手を握ると、わたしはそのまま動かなかった。
 ただ、そのまま天井を見つめた。
 天井を見つめ続けた。

 動かない足首。
 あのときの痛み。
 赤く染まった絹の靴。
 目をつぶっても、開けていても、あざやかに思い出してしまう。

 眠りたいのに眠れなかった。
 一日になんどもなんども、クランとミックさんが様子を見に来てくれた。
 温かい食事を用意してくれたのに、全然喉を通らない。
 水さえもほしくない。

 旬さんの手の感触と、クランの姿、ミックさんの声。
 わたしを生かしてくれるものは、この三つだけだった。

 一日の始めと終わりに、ゼンジさんが足の様子を見に来てくれた。
 リハビリのように動かしてくれて、ちゃんと足の腱がくっついていて、動くことを確かめてくれた。
 でもわたしは動かされるたびに怖かった。
 動くたびに、あの痛みが来るんじゃないかと思ったし、突然ぶっつりとまた切れるんじゃないかと思った。
 熱い血が噴き出すんじゃないかと。
 わたしの力では、足首はぴくりとも動かせなかった。

 何日経ったかわからない。
 定期的に受ける世話以外、わたしの視界は天井がただ明るくなったり暗くなったりするのを見ていた。
 旬さんと話すことも、できなかった。
 ただ、旬さんの手を離すのが怖かった。
 あるとき、なんのきっかけかわからないけど、なにか食べなくてはと、急に思い出した。

 クランが運んできた昼食。
 自力で口につけると、クランが驚きながら、涙をこぼした。
 この日まで、一か月近くほとんどなにも食べていなかったらしい。
 初めは少しずつ、次第に食べられるようになると、体力も戻ってきた。
 気力も回復してきた。

 でも、足首だけは動かない。
 お湯に入るときも、トイレに行くときも、ゼンジさんか誰かに抱えてもらってベッドを降りた。
 すこしずつ、足首を動かさなきゃ、と考え始めるまでに、多分そんなに時間はかからなかったと思う。
 だけど、実際に動く、足が動く、動かせる、と信じられるまでには、とても長い時間が必要だった。

 いつの間にか、窓の外は雪になっていた。

 足は動く。
 動かすためには、あの日なにがあったのかを、きちんと納得する必要がある、そう思った。
 冬の朝、硬直に加え、寒さでますます動かない足首を、クランが温めてマッサージしてくれていた。

「わたし、印帳を落としたの」
「え?」

 突然語り始めたわたしに、クランは驚いていた。

「落とした印帳を拾って、顔を上げたら、みんなの姿が人ごみに消えてた。あたりを見わたすと、カーツさんの横顔が見えた。
 そっちへ向かおうとしたら、人波にさえぎられて、姿を見失ったの。
 知らない町で、置いていかれて焦ったわ。
 でも、すぐに気を取り直した。
 大丈夫、わたしはハナムン語を話せるって」

 わたしは一息ついて、もう一度あたりを見わたした。
 みんなもわたしがいないことに気がつけば、探してくれるはず。
 少し人込みを避けて、落ち着こう。
 そう思って、通りの脇のよけた。
 旬さんに話しかけたかったけれど、動く左手を取り出して、変な注目を集めるのは嫌だった。
 袂の中の旬さんと手を握りあって、わたしは心を静めた。

 しばらくたたずんでいると、マシンくんの声が聞こえた。
 美波浮者、と呼ぶ声。
 ほっとして、息をついた。
 その声のするほうへ行こうとしたとき、大きな壁がぶつかってきた。
 次の瞬間、わたしの目の前に見えていたのは、雑踏を行く人々の足を背景に、大きな男の靴が速足で歩く映像だった。
 まるで荷物みたいに腰から宙づりに掴まれて、そのままどこかへ連れていかれた。
 
 倉かなにかだと思った。
 そこがどこで、みんなとどれくらい離れてしまったのか、わたしにもう見当もつかなかった。
 大きな男の陰に、頭ふたつ分背の低い男がいた。
 ふたりとも、布で顔を隠していた。
 わたしは床に投げ出された。
 確かめるように、旬さんの手を握った。

 男たちは、不思議がっていた。
 ――本当に、こいつが浮者か?
 トラントランのハナムン語より、すこしなまって聞こえた。
 ――印帳を持っていたし、こいつの連れが浮者と呼んでいた。間違いない。
 ――だが、こいつの浮、なにか妙だぞ。浮が安定してない。一部に固まっていやがる。
 ――まだこちらに来て間もないんだろうよ。使い方を知らねぇのさ。
 ――でも、随分流ちょうなハナムン語をしゃべっていた。
 ――考えるのは俺達の役目じゃねぇ。さっさと金に換えようぜ。

 なにが起こりかけているのかわかってきた。
 どうしたら逃げられるのか、あたりを必死に見わたした。
 唯一の灯り取りの窓は、はるか上にあった。
 わたしの身長では届きそうになかった。
 心で旬さんに呼び掛けた。
 どうすればいいの――?

 大男が近づいてきた。
 ――ちょいとこの薬を嗅いで、静かになってもらうだけだ。逆らうなよ、へたに動くと怪我するぜ。
 腕を掴まれた瞬間、抵抗した。
 すぐにねじ伏せられた。
 袂から旬さんと印帳が転がるように投げ出された。
 ――ちょっと待て、なんだこれは!
 ――死体の手首なんか持ち歩いてやがる。気持ち悪りぃ。
 ――いや、違う、動いてやがる。この手首だ! 浮は女のものじゃない。この手首が浮を持っていやがるんだ。
 ――そんなの聞いたことねぇぞ。
 ――だが、実際そうだ。そうかわかった、この女、浮者を殺して手と印帳を盗みやがったんだ。
 ――なんだって、ふてぇ女だな!

 旬さんがわたしを守ろうとかばってくれたけど、小さいほうの男が素早く旬さんを捕まえてしまった。
 ――左手だけとは珍しい。面白れぇ。こいつは高ーく売れそうだ。
 ――女はどうする。
 ――薬を使うのも勿体ねぇ。どうせろくでもねぇ盗人だ。
 ――だが若いし、珍しい顔立ちをしているぜ。
 ――足の腱を切っておけ。どうせ色町に売られれば同じことだ。

 大男は返事をするや否や、わたしの足首に冷たいものを押し当てた。
 次の瞬間、熱さと鋭い痛みが左に、右に走った。
 気が狂いそうだった。
 痛みでじたばたするあいだに、暗闇の中クランのくれた白い靴が赤に染まっていくのが見えた。
 
 痛みと恐怖と、旬さんへの助けを求めて泣き叫んだ。
 気を失う寸前、青い光が一面に光ったのが見えた。

 次に目を覚ましたとき、わたしはマローの宿屋の部屋にいた。
 生きているのはわかったけど、とたんに恐怖が押し寄せて、体中が震えた。
 旬さんがすぐに来てくれたけど、あの後なにがあったのか、わからなかった。
 恐怖と痛みの記憶だけが、わたしを長い間支配した。

 何日も何日も、ただ旬さんを抱きしめたまま、動けなかった。
 震えが止まらず、目を閉じることもできず、なにもしゃべれない。
 頭の中はずっとパニックだった。
 ミックさんがいろいろと世話をして、ゼンジさんが薬を用意してくれたのがわかったけれど、体は硬直したまま、震えが止まらず、旬さんの手を爪の跡がつくほど、そこから血がにじむほど握りしめていた。

 ようやく震えが納まり始めて、わたしの頭は自分が無事らしいということ理解し始めた。
 それでも恐怖は消えなかった。
 マローにいる限り、わたしはひたすら怖かった。
 トラントランに帰ることになり、わたしは自分の足首が切れていないことに初めて気がついた。
 それまで、怖くて見れなかったのだ。
 どうしてなのか、わからない。
 でもあの痛みは、体に刻まれた恐怖は、嘘じゃない。
 足首が全く、動かない。

 トラントランへの帰りの馬車の間、わたしは旬さんの手を抱え込んだまま、毛布にくるまっていた。 
 ミックさんとゼンジさんが代わる代わる支えてくれた。
 マローと離れていくにしたがって、震えは収まっていった。
 それでも恐怖は消えなかった。
 自分の身になにが起こったのか、頭と体と心がちぐはぐだった。
 どこの神経がなのか分からないが、失神状態ずっと続いていた。
 それが、自我を保つ唯一のやり方だったんだろう。
 クランに会うまで、わたしは本当の意味で安全な場所にいるとは思えなかった。

 今ようやく、自分になにがあったのかを客観視している。
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