【完】仕合わせの行く先 ~ウンメイノスレチガイ~

国府知里

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シリーズ3 ~ウンメイノユキチガイ~

Story-2 流れものカイン(2)

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 サラは言われるがままに、ペンを拾い上げた。

「さあ、書け」

 ジュリアンはサラの前に二枚の書類を差し出しながら、拳銃を向けた。
 銃が出てきた瞬間、サラは血の気が引いたが、恐怖で泡立つ体を抑え込んだ。
 ジュリアンは私を殺しはしない。
 なぜなら、サインを書かせることこそがジュリアンの目的なのだから。
 これは単なる脅しだ。
 脅しに屈してサインをしたとき、はじめてジュリアンは勝利する。
 サインをしないかぎり、サラは負けはしないのだ。
 サラはペンを持ちながら必死に恐怖をぬぐい、思考を巡らせた。
 ここで、ただ書かないと突っぱね続けても、事態は好転しそうにない。
 サラは自らを奮い立たせ、もう一芝居うつことに決めた。
 サラは指を震わし、ペンを落とした。

「グスマンに会わせて……」

 サラはおびえる演技をしながら、といっても実際恐怖と闘いながら、あわれっぽくジュリアンを見た。

「サインを書いたら、会わせてやってもいい」

 拳銃の脅しが有効と見るや、ジュリアンは形勢を示そうとした。

「あんたがサインをしないならしないでもいい。だが、あんたは二度とグスマンには会えないだろう。
 あんたに選ばせてやろう。そこにサインすれば、グスマンにもう一度会わせてやる。サインをしなければ、おまえはここで死ぬ。グスマンも、同じ目に合わせてやる」

 サラは、息をのみ、肩を震わせ、目に涙をためた。
 そんなことがまさか自分にできようとは正直驚いたが、必死になれば人間には自分の体を思うようにコントロールする力が備わっているようだ。
 サラは嘘泣きをしながら、もう一度震える手でペンを拾った。
 書類にサインを書こうとするふりをしながら、サラは葛藤を演じた。
 何度もジュリアンに哀願の視線を送り、そのたびに拒絶され、絶望を思い知る少女。
 その演技にジュリアンはすっかり騙されていた。
 そして、サラはやっぱりペンを投げ出してその場に崩れた。

「できない……」

 相変わらず空白のままのサインの欄は、ジュリアンに苛立ちを感じさせた。
 ジュリアンはサラの腕を持ち上げると、銃をその腹に押し当てた。

「いいんだな? このままグスマンに二度と会えなくてもいいんだな?」

 サラは首を振った。

「じゃあ、書くしかないだろう」

 サラは再びペンをとり、ジュリアンを見上げた。

「わかったわ……」

 サラがはっきりと服従の意思を言葉にし、ジュリアンはにわかに気を緩めた。
 サラはその表情をみのがさずに、さらに哀れっぽい様子で言った。

「でも、ひとつだけお願いがあるの。そうしたら、サインをするわ……」
「……なんだ?」
「書類を一緒に出す約束をしているの。そこで待ち合わせることになっているわ。あなたとの書類にサインする前、グスマンに伝えたいの。
 私の心はあなたのものだって」
「それは無理だ」
「じゃあ書けない!」

 サラは子どものように首を振った。

「私の気持ちが本物だって、どうやってわかってもらえばいいの?
 サインをする前でなきゃ、あなたに乗り換えたと思われてしまうわ。
 それなら死んだも同じ事よ!」

 サラは、わっと床に突っ伏して泣き声を上げた。
 ジュリアンがじっと黙っているので、やりすぎたかとサラは少し肝を冷やした。
 だが、ジュリアンは納得したらしい。

「わかった。ただし妙な真似はするなよ。
 少しでもおかしいと思ったら、そのときはまずグスマンを撃つ」

 サラは嘘の涙を拭きながら、うなづいた。
 成功だ。
 これでこの屋敷を出ることができる。
 サラは我ながらに自分の演技に胸の中で精いっぱいの拍手を送った。

「法務局が空くのは十時だ。それまではここにいてもらう」

 サラは再び縛られ、部屋の中に閉じ込められることになった。
 ジュリアンはサラを横目に、いくつかの書類か手紙を作成したようだ。
 そして、町が朝を迎えると、近所の子どもを捕まえ小銭と封筒を握らせた。
 それはきっと、サラを囲い込むための手段に違いなかったが、今はじたばたしても始まらない。
 サラはいざというときに逃げ出せるように、今は余力を残しておくことに決めた。
 窓の外を眺めていたサラがうとうとし始めたときだった。
 窓に映った人影があった。
 カインだ。
 あの羽のついた帽子と古びた深緑のマント。
 サラは反射的に体を起こした。
 その様子に鋭く反応したジュリアンが窓辺によると、ちっと舌打ちをした。

「流れ者のカインか……。グスマンめ、まさかカインを使ったのか?
 確かに、このところドナテッラの店にちょくちょく顔を出していたが……」

 ぶつぶつとつぶやくジュリアンに、サラはそしらぬ顔をしておいたほうがいいと感じ、何も言わずに黙っておいた。
 しかし、気の緩んだらしいジュリアンは、ひとりでにサラに情報をもたらしてくれた。
 囚われていた店の名前。
 流れ者のカイン。
 おそらくカインはもともとは、不当な手段で連れてこられたあの娘たちを助けようと画策していたのだ。
 奇しくも同じ店にサラが囚われ、娘たちは自分たちを救うために、カインと協力してこの計画を実行した。
 サラはカインが彼女たちをなんとか救い出してくれればいいと願ったが、それには懸賞金がいるはずだ。
 懸賞金はきっと、ドラが戻ってくる前に彼女たちの手元に欲しいのだろう。
 そう思うと胸に焦りが広がったが、サラはじっとこらえた。
 さっきサラがまだ囚われたままだということに気付いたとすれば、ケインは娘たちの為に何かしらの行動をとってくれるだろう。
 それがどのような策かはわかりようもないが、とにかく今はそう祈るしかない。
 サラはもう一度瞼を閉じ、つかの間の休息をとることに徹した。

 ・・・・・・


 ホテルに使いがやってきてからすぐに旧モーリス邸へ駆けつけたモリスとケインは、首尾よくカインと落ち合うことができた。

「よかった、あんたらがすぐに来てくれて」

 ほっとした様子のカインに、モリスは素早く状況を確認した。

「あの屋敷の中に、ジュリアン・モーリスとサラ嬢がいるというのは確かだな?」
「ああ、そうだ」
「敵は一人か?」
「入っていったところを見たのはひとりだ。先にいたとすれば、それは何人いるのかわからない。俺が監視をしていた限りでは、確認できたのはジュリアンだけだ。さっきジュリアンは子どもを使いにやった。仲間に連絡を取ったことは間違いない」
「そうか……」

 モリスとケインは顔を見合わせた。
 手元にある武器はモリスの剣とケインの弓、そしてカインの剣だけだ。
 ケインの弓は単なるポーズに等しく、実際の戦力にはならない。
 モリスは、何人いるとも知れない屋敷にこの人数で押し入るのは厳しいと判断した。

「憲兵を呼ぼう。あの屋敷の規模からして、十人、いや五人でもいい。
 ケインさん、呼びに行ってもらえますか」
「ああ、わかった」

 すると、カインがそれを止めた。

「だめだ! 憲兵を呼ぶな!」
「なぜ?」

 ケインは怪訝な顔でカインを見つめた。
 カインは言葉に詰まり、はっきりとした理由を説明できなかった。

「とにかくだめなんだ。あんたらだけで、あのお嬢さんを救い出してくれ。
 そして、マリーブラン家へ連れて行ってくれ」
「僕たちだけでは無理だ。
 モリスは別にしても、ぼくは戦闘の役に立てる気がしない。
 その言い方では、あなたも戦いに加わる気はないということか?」
「ああ、そうだ。俺はあの屋敷の中には入れない。
 憲兵も呼ぶな。あんたらだけで助け出すんだ」

 モリスは構わず言った。

「ケインさん、いいから憲兵を呼びに行ってください。
 カイン、あんたに懸賞金をすべて譲ってやる。だから、あんたは黙っていろ」
「それはできない。俺にも譲れないことがある。
 俺だって懸賞金が欲しくてこんなことをしているんじゃない。
 俺はただ、あのお嬢さんに約束を守ってもらいたいだけだ」
「約束?」

 カインは話すかどうかを迷い、念を押すことにした。

「モリスといったよな、あんた。今、懸賞金をすべて譲るといったのは本気か?」
「ああ、サラ嬢を無事に救い出せるならな」

 カインはこの目の前の男たちにもなにか訳があると踏んで、話をする意を決した。

「わかった。俺の条件を飲んでくれるなら、今後俺は一切口出ししない。
 ただし、それには俺の話を信じてもらう必要があるが……」

 カインは端的にこれまでの経緯を二人に説明し、懸賞金はドナテッラの三人の娘に全額を渡すことが条件だと話した。
 モリスとケインにとっては、にわかに信じがたい話だったが、それでも昨日見たこととつじつまが合う。

「ブルーノたちをそれぞれの国に返してやれれば、俺はそれでいい」
「わかった。私たちも、サラ嬢が無事に戻ればそれでいい。
 交渉は成立だ。カイン、あんたはその三人の娘たちと一緒にいろ。
 夜までに必ずあんたのもとに懸賞金を届けさせると約束しよう」

 三人は互いの意思を確認し合うと、それぞれの場所へ散った。

 ・・・・・・



「起きろ」

 ジュリアンの乱暴な揺さぶりで、サラは目を覚ました。
 ジュリアンはサラの足の縄をほどいてくれたが、手の縄はほどかなかった。
 そして、せわしなく窓の外を警戒してる。

「どうやら囲まれたらしい。来い」

 ジュリアンは書類と銃を入れたカバンをつかみ、サラの腕を乱暴に引っ張って、居間のふるぼけたカーペットをめくった。
 その下には地下に通じる隠し階段があった。
 ジュリアンにせっつかれ、薄暗い地下へサラは入った。
 初め全く見えなかった暗さに目が慣れてきたころ、前方に明かりが差し込むのが見えた。
 そこには梯子があり、梯子を上ると外へ出ると、そこはマリーブラン家からほど近いあの公園だった。
 ここに通じていたのか、とサラは声なき声を漏らした。

「こっちだ」

 言われるがままについていくと、そこには箱馬車が用意されていた。
 しかも、紋章付きの立派な箱馬車だった。
 サラは弓とスズランをあしらったその紋章を見て、どうやらジュリアンの背後にはもっと別な黒幕がいることを察した。
 そういえば……。
 サラは記憶の中の言葉を思い出した。
 グスマンは、たしか、お偉方という言葉を使わなかったか?
 あの時は聞き流してしまったが、そのお偉方というのが、この弓とスズランではないのだろうか。
 サラの思案とは無関係に、馬車は走り出した。
 隙あらばと目を配っていたサラだが、今はとてもその隙はない。
 逃げ出すチャンスは、法務局へ着いて馬車を降りるとき。
 あるいは、現れるはずのないグスマンを待つ間。
 建物に入ってしまうと逃げ出すにはむつかしそうだが、建物に入る前、つまり門の前で馬車を下りる時なら、 大声を上げて町の人の注目を集めることができるだろう。
 上手くすれば門兵がジュリアンを捉えてくれるかもしれない。
 サラは始めのチャンスをそう踏んでいたが、その思惑はあっさりと流された。
 紋付きの馬車は、法務省の門を素通りして、そのまま建物に横付けしたのだ。
 サラは、そうか、と唇をかんだ。
 だから紋章付きの箱馬車だったのだ。
 サラが窓から後ろを振り返ると、門はあっという間に閉ざされていた。
 これでは逃げるにも逃げられない。
 ジュリアンはサラの手の縄に手をかけるとそれをほどいた。
 その代わりに、銃をわき腹に押し当てた。

「いいか、つまらんまねはするな」

 サラはつばを飲み込んだ。

「グスマンは? どこにいるの……?」

 いるはずのないグスマンを探した。

「探してみるわ」

 サラが馬車を下りようとすると、ジュリアンは銃を強く押し当てた。

「グスマンが来るとすれば、あの正門からだ。
 あそこに奴の姿が見えたら、近くに馬車を止めてやる。
 そこで別れをいえ。それまで馬車を下りることは許さない」
「…………」

 ジュリアンはどうやらお偉方の力を借りて、すっかりサラを囲い込んだらしい。
 無駄とわかっていても、サラは言ってみた。

「もう建物の中にきているかもしれないわ」
「それはない。今日の法務局には私たち以外、まだだれも来ていない。
 局長と門兵以外はな」
「どうしてそんなことがわかるの?」
「今ちょうど十時だ。それより前に門が空くことはない」
「確かめてもみないで、そんなこと……」
「私が局長にそう頼んでおいたのだ。間違いはない」
「…………」

 手詰まりだ……。
 サラは馬車の窓から門を眺め、来るはずのない助けを祈るほかなかった。

 ・・・・・・



 一方、旧モーリス邸の周りに集まってきた憲兵たちは、屋敷の周りをとり囲んだ。
 そこまではよかったが、なにやら統率がとれておらず、誰が指揮を執るのかもはっきりしない。
 リベル王都で一糸乱れぬ隊列を組むのが当たり前だったモリスには、そのばらばらとした動きが不快にさえ思えた。
 モリスが突入はいつかと聞くと、あいつに聞いてくれ、こいつに聞いてくれ、さんざんたらいまわしになった挙句、 最初の人物に戻る始末だった。
 モリスはケインと顔を突き合わせた。

「このままではらちが明かない。
 マリーブラン家の私兵と私たちだけで突入しましょう」

 モリスとケインが、憲兵におなじく旧モーリス邸に集まっていたマリーブラン家の私兵たちにそれを伝えると、 最年長のバルサという男が念のため、主人に確認したいと言い出した。

「わかった、私も行こう。ケインさんは、ここを見張っていてください。
 すぐ戻ります」

 モリスとバルサは馬に乗り、連れだってマリーブラン家へ急いだ。

「こっちのほうが早い」

 バルサは大通りではなく、小道を選んだ。
 モリスがそのあとをついていくと、小道を抜けた先は、屋敷にほど近い公園だった。
 公園からはちょうど馬車が出ていったところだった。
 公園を横切ると、マリーブラン家はもうすぐの所にあった。

「こんなに近かったのか……」

 モリスは手綱を引いて、公園のほうを見渡した。
 モリスは旧モーリス邸とマリーブラン家、そして運河からの距離を頭の中で地図に落とし込んだ。
 そして、はっとした。
 この公園はサラ嬢がジュリアンにさらわれた場所だ。
 だとすれば、あの馬車は、もしかすると……!
 モリスの頭に鋭い閃光が走り抜けた。

「バルサ殿、あの馬車を追う! ついてまいられよ!」

 モリスとバルサは馬車の行方を追った。
 尾行を悟られないよう、距離を開けて負ったその先は、法務局だった。
 馬車は検問無しで門の中へ入っていき、建物の入り口前に止まったが、馬車の中からは一向に人が下りてこない。
 モリスは馬車の紋章を差していった。

「あれは?」
「あれは、法務局局長、法務大臣のドルクレイ・マルーセル様の紋章です」
「マルーセル家」
「はい。三代目局長からそれ以降は、局長か大臣、あるいはその両方が、マルーセル家の人間から任命あるいは兼任されています。
 この国ではマルーセル家はザルマータの法の番人と言われています」
「……それで、バルサ殿はそのマルーセル家の馬車があの公園に止まっていたことをどう見ますか?」
「ええ……。いささか、妙といえば妙ですね。
 マルーセル家の屋敷はマリーブラン家から離れていますし、馬車を止めるにしてもあの公園より、もっと利便性のいいところがありますから」
「馬車からだれも下りないのはなぜだと思いますか?
 用があるからここへ来たはずなのに」
「確かに変ですね。誰かを待っているように見えますが……」
「私の意見を聞いてもらえますか?」
「はい……」
「仮に、あの馬車に旧モーリス邸を抜け出したジュリアンが乗っていたとして、サラ嬢のサインが書かれた書類を持っているとすれば、 それを目の前の法務局に提出すればそれで済むことです。
 その場合、サラ嬢はまだあの屋敷の中にいる」
「ええ」
「ジュリアンがサラ嬢とともにあの馬車に乗っていた場合、ジュリアンはサラ嬢をひとり馬車に残すことはあり得ない。
 ジュリアンが書類を提出するために馬車を下りるとしたら、それはサラ嬢と一緒に降りるか、 あるいはもうひとりあの馬車の中に見張りとなるものがいる」
「サラ嬢が拘束されて身動きできない状態ということもあり得ます」
「ええ、その通りだと思います。
 しかし、今のこの状態は、そのどちの場合にも当てはまらない。
 私の考えは根拠のないかんに過ぎないが、多分、あの馬車の中にはサラ嬢とジュリアンがいる。
 そしてジュリアンは用があってここに来たにもかかわらず、馬車を下りてこない。降りてこれない理由があるのでしょう。
 彼らがあそこで何かを、誰かを待っているとすれば、いったい誰を?」
「あの馬車にジュリアン一味が乗っているのだとすれば……、待っているのは仲間に違いありません。……ただ、あの馬車から降りてくるのが誰であれ、この法務局内でその人物を捕まえるのは困難です。
 そして、書類はサインに問題さえなければ、マルーセル大臣によって確実にかつ迅速に受理されるでしょう」
「マルーセルというの男の評判は?」
「表向きの顔と、裏のそれとはかなり違いがあると聞きます。
 ただ、そのことをこの国の誰も表立って非難はできないようですが……」
「この一連の事件のうら筋らしきものが見えてきたようですね。
 マルーセル相手だとして、バルサ殿は貴殿の独断で、あの正門を突破できますか?」
「……無理でしょうね」

 バルサはためらいながらも正直に答えた。

「わかりました」

 そういうと、モリスはやにわにマントや防具などの余計ものを取り外した。
 その代わりに、モリスは顔を隠し目だけが現れるように布を巻いた。

「何をする気ですか」
「ここから先は、貴殿は何も知らなかったことに」
「モリス殿」
「今から私は、フックシャーから来た一介の懸賞金ハンターです。何があっても、マリ―ブラン家にはかかわりのないこと。聞かれたらこう答えてください。
 サラ嬢を救出したハンターは、その日のうちに懸賞金を全額受け取り、 シリネラ町内の娼婦宿から三人ほど女を買いとって、ナモール国へ出発した」
「モリス殿、まさかひとりで挑む気ですか」
「こう見えて、潜入には少しばかり心得があります。それに、私の目的はサラ嬢の奪還のみです。むやみに戦うつもりはありません。
 バルサ殿、建物の構造を知っていたら教えてくれませんか」
「あ、ええ……」

 バルサはリバエル貴族の若者たちがサラ嬢のためにあれこれと動くさまを見てきたが、 なぜ彼がここまでするのかは知ってはいなかった。
 彼の主人であるリバエルの王弟の命であることは知っている。
 だが、彼のやろうとしていることは、それこそ命がけの、無謀そのものではあるまいか。
 以前彼は自分のことを士官学校の生徒だといっていた。
 彼はまだ正式な職についてすらいない、実任経験のない若者なのである。
 しかも、リバエル国の士官学校といえば、リバエル貴族の中でもエリート中のエリート。
 自ら手を汚す必要のない立場と未来が約束されている。
 だのに、彼のこの迷いのなさはどういうことだろう。
 こういっては、祖国に泥を塗るようだが、ザルマータとリバエルははるか昔から隣り合わせの国であるのに、 彼のように王に忠実な部下が、このザルマータにいかほどいるのだろうか……。
 バルサ自身、以前は憲兵の端に席を置く人間の一人だった。
 地方の下級貴族の五番目に生まれた彼は、長男と違い親から譲り受ける土地も資産もなかった。
 頭より体力に自信があったため、中央の兵役につくことを選んだ。
 しだいにその頭角を現し、徐々に上役とかかわることが増えていった。
 だが、バルサが仕事に嫌気を感じ始めたのもそのころからだ。
 宮廷にはいつも企みが潜んでいて、誰もかれもが利権に絡み、または絡まれて身を削りあっていた。
 生来まっすぐな性質だったバルサは、その場所に信じるものを見いだせなくなり、そして憲兵を辞めた。
 いっそ労働の対価が金だけという単純な仕事、すなわち傭兵や私兵に就くようになった。
 そんなバルサには、リバエルの若き戦士の行動はまぶしく、それと同時に気をもまずにはいられなかった。

「モリス殿、やはり貴殿をひとりで行かせるわけには……。
 いったんマリ―ブラン家に戻り、キューセラン様にお伝えしたほうがいいと思います」
「おそらくそれだけの時間的余裕はないと思います。
 あの馬車の中にジュリアンがいるなら、いや、きっといると思いますが。
 法務局に来ている時点で、あと一手だということに違いありません。
 サラ嬢のサインが書かれた書類が受理された瞬間から、ジュリアンにとってサラ嬢の命は一気にその価値を失います。……そうか!」

 しゃべっている間にモリスは何かひらめいたらしい。

「どうしたんですか?」
「サラ嬢はあの馬車の中にいる。だが、まだ書類にサインをしていない。
 きっとサラ嬢はなにか条件を付けたんですよ!
 監禁されたままでは逃げ出すことも、助けを期待することもできない。
 だから、危険を冒しても外へ出で、そして、時間が稼げるように、ジュリアンに何かしらの条件を突きつけた。そうか、はははは……! 」

 モリスは思わず笑っていた。
 バルサは驚きながらも、言葉を待つようにモリスを見つめた。

「ああ、そうだ! あのシーラ・パンプキンソンが、ただ黙っていいようにやられるわけがない!」

 ・・・・・・



 時計の針が十一時を回ったころ、ジュリアンが窓の外をみつめるサラの背中に言った。

「これ以上待っても無駄でしょう。グスマンは、あなたがわたしの手に落ちたことに気づいて、身を隠したようです。サラ様、あなたは捨てられたんですよ」

 サラは振り向かなかった。
 だが、ジュリアンの次の行動は予測できた。

「さあ、観念して、ここにサインを……」
「建物の中を探すわ。グスマンを一緒に探して。
 絶対中にまっているはずよ。このままじゃ納得できない」

 ジュリアンはすっかり冷静な自分を取り戻していた。
 サラの願いを突っぱねることもできたが、それでサインを書かないとごねられては元も子もない。
 ジュリアンはもう一度交換条件を口にした。

「これが最後ですよ。建物の中にもグスマンがいなかったらその時は、サインをしてもらいます」
「わかったわ……」

 サラにとっても、これが最後のチャンスだった。
 なんとしても、ここでジュリアンから逃れるしかない。
 馬車を降りたその時、サラは急に腰に紐を回され、まるでペットかあるいは罪びとのように紐でつながれた。

「なにするの! 離して!」
「ええ、いいですよ。サインが書きおえたらですがね」
「こんな姿を法務局の人に見られたら、あなたの立場は……」
「誰に見られるというんです」

 ジュリアンは建物に入るなり言った。
 サラも続けて入り口をくぐると、そこには無人の窓口があり、左右の廊下には人の影はなく、また息遣いや布ずれ、靴音もなかった。
 人払いしたというのは本当だったのだ。
 サラは、結び目に力をこめてみたが、固く締められた紐はとてもほどけない。

「さあ、どこから回りますか?」

 ジュリアンはわざと紐を持ち上げて、サラに呼び掛けた。
 その時、天窓の外を影が走った。
 サラは窓辺に駆け出そうとしたが、ジュリアンが素早く紐を引いたせいで、動きを止められた。
 それどころか、ジュリアンは紐を手繰り寄せて、サラを間近にして紐を短く握った。

「まさか、グスマンか……!」

 ジュリアンは憎々しげに言ったが、グスマンでないことはサラにはわかっていた。
 だとしたら、あの影は一体……。
 サラには既視感があった。
 あんな離れ業をできる人間を、サラは一人しか知らない。
 天窓にモリスの影を探すサラを、ジュリアンは乱暴に引き寄せた。

「来い!」
「痛っ! 離しなさいよ!」

 ジュリアンが慌ててサラを引きずってきたのは、法務局長室だった。
 局長室のドアにも弓とスズランのエンブレムがあった。

「マルーセル局長!」

 ノックもせずにあけられたドアに、局長は目をむいた。

「ジュリアン・モ―リス、これは一体……!」

 ジュリアンは返事もせずに鞄から書類を取り出し、局長の机の上に乱暴に置いた。

「局長、説明はあとにします。
 今、サラにサインを書かせますから、受理してください!」

 局長は横に広い顔を、さらにつぶすようにしかめたが、わかったとだけ言った。

「グスマン! 聞こえているんだろう!」

 ジュリアンは屋根の上にいるであろうグスマンに向かって声を張り上げた。
 屋根の上のモリスは聞き覚えのない名前に首をひねったが、 自分に向かって言われていることには違いなさそうだったので、じっと耳を傾けた。

「よく聞け、グスマン!
 今からお前のサラお嬢様からお前に最後の告白がある。
 さあ、言え、サラ!」
「撃たないで、ジュリアン!」

 モリスはサラの機転にすぐ気づいた。
 ジュリアンが飛び道具を持っていることを知らせているのだ。

「ジュリアン、お願い、ふたりだけにさせて」
「無理だ」
「お願いします。局長さんからも言ってください。
 ふたりだけ、に、させてほしいんです」

 モリスはサラの言葉に耳に澄ませた。

「あの人の、ほかに誰もいないんです」

 そのあとも、サラはなんどもなんどもジュリアンにすがるように同じ言葉を繰り返した。

「ふたりだけ」
「ほかに誰もいない」

 モリスはサラからのメッセージを受け取った。
 そして、窓の外から目標の位置を狙い定めると、モリスは助走をつけ、窓に向かって突っ込んだ。
 ガシャン、と激しい音とガラスの飛散とともに、モリスの突っ張った両足はマルーセルの肉の厚い背中に勢いよくめり込んだ。
 勢いづいたゴムのボールのように跳ねとんで、マルーセルは床に突っ伏して倒れた。
 モリスは素早く回転しながら体制を整え、もう一人の敵を見据えたとき、モリスの目には青いドレスのサラが映りこんだ。
 青いドレスの上に降りかかるはちみつ色の髪、娼婦風のドレスはサラの少しやせた体に吸い付くようにぴったりと合っていた。
 モリスが見とれていたのはほんの数秒だった。
 だが、ジュリアンが銃を構えるには十分な時間だった。

「危ないっ!」

 サラはジュリアンに体当たりした。
 バランスを崩したジュリアンは狙いを外した。

「小娘が!」

 ジュリアンは怒りに任せてサラを縛っていた紐をぐいと引き倒した。
 ただ倒れただけならよかった。
 だが、紐に縛られていたサラは、紐の長さで横に振られ、ちょうどその位置にはキャビネットの角があった。
 ゴツ、と鈍い音がして、サラはその場に倒れた。

「サラ!」

 叫ぶモリスの前にジュリアンが立ちはだかった。
 だが、ジュリアンがシリンダーを回すより、モリスがジュリアンの顎を蹴り上げるほうが早かった。
 ジュリアンは意識を失って崩れ落ちた。
 モリスがサラに駆け寄り抱き起すと、サラの後ろ髪はすでに真赤に染まっていた。

「サラ!」

 モリスの声はサラの耳には届いていなかった。

*おせらせ*  本作は便利な「しおり」機能をご利用いただく読みやすいのでお勧めです。さらに本作を「お気に入り登録」して頂くと、最新更新のお知らせが届きますので、こちらもぜひご活用ください。

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