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シリーズ3 ~ウンメイノユキチガイ~
Story-2 流れものカイン(1)
しおりを挟むグスマンの忠告があった次の日、サラの部屋のかぎが開いて、いつもの三人がやってきた。
待ち構えていたサラは、いつも通り、腕の縄をほどかれて、ペンを握らされるのを待った。
「さあ、今日こそはここにサインをしてもらおう」
サラは、強い瞳で、ジュリアンとグスマンを見つめた。
そして、書類のサインを書くべき欄に、こう書いたのだ。
――私は、ジュリアンかグスマンのどちらかと結婚する。
目を見張った三人の男女は、互いに素早く目を走らせた。
そして、ジュリアンはこの部屋にサラが入って初めて、サラの口の布を解いた。
「どういうことですか、これは」
サラは自由になった唇と舌の感覚を確かめながら言った。
「書いてある通りよ。遺産はあなたたちのうち一人にしか渡さない。
そうだとしても、一人頭の取り分は、三人で分けるよりも多くなるのよ」
そのとたん、鋭いと叫びとともに、サラの頬に痛みが走った。
ドラが暴言を吐きながら、サラを平手で殴り飛ばしたのだ。
「子どもかと思って甘い顔してたら、付け上がって!
ただじゃおかないよ!」
サラは一瞬意識が飛んだが、負けなかった。
「……残念だったわね、おばさん!
多額の財産を持った若い娘と年増の娼婦じゃ、勝ち目がないものね!」
「なんですって、あたしはまだ二十三歳よ! 」
つかみかかろうとするドラはグスマンに抑えられたが、猫のように激しくうなった。
サラはドラに構わず、背筋を伸ばして、ふたりの男を見据えた。
「わたしはもうこんな場所うんざり。だけど、遺産をすべて取られるのも嫌。
だったら、あなたたちのどちらかと結婚して、遺産を分け合うわ。
これ以上、私は譲らない!」
ジュリアンとグスマンは互いにややこわばった視線を交えた。
ジュリアンはすばやくいった。
「なるほど、あなたは案外頭がいい。
あなたの提案については、三人でよく話し合ってみるとしよう」
サラの腕と口を封じると、三人は部屋を出て行った。
うまくいったのだろうか?…………
ジュリアンはあとの二人をうまく言いくるめて、もとの計画にもどしてしまうかもしれない。
いや、でも、ジュリアンこそ、サラと結婚すれば、マリ―ブラン家とのつながりと立場がどれだけ有利なものになるかを わきまえているはずだ。
グスマンはどうか。
平民生まれ平民育ちであろうグスマンにとって、貴族娘との結婚と多大な金は魅力的なものだろうか。
普通に考えれば、一生かかってもあるかないかの機会だ。
うまく三人が仲間割れしてくれるといいのだが……。
サラは祈るように閉じられたドアを見つめた。
・・・・・・
モリスとケインは、ふたりで各所に聞き込みに回った。
マリ―ブラン家では宮廷の動きと、憲兵の情報を探ったが、めぼしい進展はなかった。
シーラにハリーたちがいったんリバエル国へ戻ったことを伝えると、シーラは憤慨したが、 モリスたちが残ってくれたことには感謝を示した。
宿や酒場、それに先日声をかけておいた面々に会いに行った。
ミッシュアの働く病院にも出向いたが、それらしい情報は得られなかった。
町を行く途中、モリスは目ざとくカインの姿をとらえた。
「行って話しかけよう」
「いや、ケインさん、待ってください」
道を挟んだ小道の陰から、ふたりはカインを観察した。
カインはなにやら青いドレスの娘と顔を寄せて話をしている。
「どうやら、日時の相談をしているようです」
驚いたケインはモリスを見たが、モリスは素早く唇を読んでいると伝えた。
なるほど、とケインは思った。
ケインもモリスが偵察している間に何か情報を求めようと、手近な男をつかまえた。
「すみません、あの青いドレスの娘は誰ですか?」
「ああ、ありゃあ、ドナテッラの店の新顔だ」
「ドナテッラの店」
「ああ、あの小道の先をいった娼婦宿だよ。あの娘はまだ仕込み前だな。
おやおや、一緒にいるのは、ありゃあ流れ者のカインじゃねぇか。
あいつも手を出すのが早いもんだ」
ケインがふりむくと、カインと娘は熱烈な口づけを交わしているところだった。
たっぷりと時間をかけたキスの後、カインは娘のもとを去り、娘は頭巾を目深にかぶると小道の奥へ消えていった。
「ケインさん、読み取れたのは、明日、朝四時、店の裏、という単語です。
あと娘は、黄色いドレス、とも口にしていました」
「彼女は最近娼婦宿に入った娘だそうだ。
ドレスを買ってやると約束でもしたんだろうか。
それにしても、朝四時なんていう時間に空いてる店はないはずだが……」
「この様子ではカインに期待するのは無駄そうですね」
「そうかもしれないが、せっかくだし、もう少しカインを追ってみよう」
モリスとケインはカインの後ろ姿を追って、いくつかの角をまがった。
すると今度は別の、先ほどより幾分くらいの高い娼館に入っていった。
その娼館の客は金持ちや貴族が多いらしく、出入りする客の身なりはすこぶるいい。
ふたりはしばらくその店を張ったが、カインがそこから出てくることはなかった。
「それにしても、あのずたぼろのマントでよく店に入れてもらえるものだ。
なじみの女がいるということだろうが、そのような風体にはとても見えないな」
「どういう理由があるにしろ、ただの流れ者とは思えませんね。
今、ドアの男たちの話からすると、最低でも銀三十枚からだそうです。
宿泊はさらに四十枚。カインが出てこなかったということは、一晩で銀七十枚です。遊ぶ金に困っていないというには、少々度合いが行き過ぎる気がします」
「それに、さっきのドナテッラの娘にも手を出しているとすれば、他の店にもなじみの女がいてもおかしくない」
「いっそ、女のほうが入れあげていると考えるほうが自然かもしれませんね」
「そういう男が世にいるんだなあ……」
「いるんですね……」
ふたりの男たちは羨望とも嫉妬とも何とも言えない思いが胸にうずまいた。
「それで、明日の朝四時、どうする?」
「これ以上カインを追うのは無意味だとおもいますが、娼婦宿というのはサラ嬢の隠し場所としてあり得ると思いませんか?」
「確かに。だが、どう調べる? まさか……」
「潜入捜査はやぶさかではありませんが、この町にどれだけの娼婦宿があるでしょうか。それなら、まず先にカインに話を聞いてみてからでも遅くないと思います」
「では明日、もう一度カインを訪ねるとしよう」
ふたりはともに後ろ髪引かれる思いを抱きながらも、互いにそれ以上口にせずその場を後にした。
・・・・・・
サラはその日、まだ日の上りきらない明け方に起こされた。
薄暗い部屋の中で、ろうそくを灯して立っていたのは三人。
反射的に後ずさったが、よく見るとそこに立っているのは見知らぬ娘たちだった。
「サラ様……、サラ・マリ―ブラン様、ですよね?」
ピンク色のドレスを着た娘が言った。
サラはうなづいた。
すると、青いドレスと黄色いドレスの娘とで一緒になって、サラの縄をほどき始めた。
「あ、あの……あなたたちは……?」
サラは何が起こったのかわからず、娘たちの顔を見渡した。
黄色のドレスの娘が言った。
「わたち、売られ、きた。時間、あり、ません。
あなた、逃げる! 服、替える!」
サラはいまだ理解できなかった。
娘が差し出したドレスをうけとり、サラは言われるがままに自分のメイド服を差し出したが、 娘にはわずかにサイズが合わず、結局青いドレスと交換した。
その間、ピンク色のドレスの娘は回転よく回る口で説明をした。
「私は、タルテン国の辺境の村から来ました、ピンスといいます。
この子は、ブルーノ。この子は、イエニア。
ブルーノは私の隣村、イエニアはナモール国から、私たちは同じ時期に売られてきたんです。
それぞれ騙されたり、連れ去られたりして、この店に。
私たち、ドラから言われていました。この部屋には近づくなって。
でも、今町中であなたのことがうわさになっているのは知っていました。
先日、懸賞金がかけられました。
そのお金があれば、私たちは国に帰れます。だから、あなたを助けます。
だから、どうか、あなたが外へ出たら、私たちに懸賞金を支払ってください。
お願いします!」
三人の娘たちは、必死の表情でサラを見つめてきた。
サラはまさか、自分と大して年の変わらない彼女たちが、 不当で卑劣な手段でこのような人身売買の被害にあっていようとは、思いもよらなかった。
しかも、ザルマータ王国のひざ元の町シリネラで。
青いドレスを交換した少女が言った。
「外で助けになってくれる人が待っています。カインという人です。
ドラたちはなにかもめているらしくて、別の場所に行っていて今日の夜まで戻らないんです。だから、チャンスは今しかありません」
サラはようやく状況を理解して、三人の手を取って礼を言った。
「ありがとう、ピンス、ブルーノ、イエニア。
あなたたちのことも、きっと助けるから!」
ピンスはサラに顔を隠す頭巾を手渡した。
言葉の不自由なイエニアは、目でサラに強く訴え、サラはしっかりとうなづきを返した。
サラは三人の娘の案内で、店の裏口から外へ出た。
実に十数日ぶりの自由だった。
あたりはまだ暗く、朝もやに満ちていたが、あの狭く湿った地下室とは比べ物にならないすがすがしさだった。
サラが壁を伝っていくと、もやの中に、ぼんやりと人影が見えた。
「カイン……?」
サラが呼びかけると、人影はつかつかとやってきて、サラの腕をつかんだ。
すると、次の瞬間、男はサラの唇に吸い付いた。
突然のことにサラの頭の中は真っ白になった。
しかしそれは一瞬のことで、次にやってきたのは恐怖だった。
サラはもがきながら、男の腕からのがれようとしたが、衰弱した体では力も入らず、結局意図しないキスを受け入れる形となった。
混乱と恐怖の中にあっても、サラにとって初めての大人のキスは驚くべき体験となった。
ただでさえ思考力の緩んだ頭は、さらにしびれるように何も考えられず、ただただ熱い感触に囚われた。
体中の筋肉が溶けるように弛緩し、サラは男の腕の中でぐったりとなった。
サラの鼻孔をくすぐるのは、男のマントから漂うなにかの芳香だった。
「ブルーノ? おい、大丈夫か?」
男は腕の中の少女を改めて見つめた。
朝日が小道に差し込み、朝もやが晴れていく中で、カインはようやく抱いている娘がブルーノではないことに気がついた。
「まさか、サラか?」
名前を呼ばれたサラは薄く目を開けた。
すると、カインは慌てたように帽子を目深にかぶり、髭の口元をマントの襟を立てて隠した。
「す、すまない、ブルーノかと思ったんだ。
あんたは黄色いドレスを着てくると聞いていたから……」
サラはふらつく頭と体を必死に起こして、男を見た。
「あなた、カインさん……?」
「あ、ああ、そうだ。ブルーノからあんたのことを頼まれたんだ。
あんたをマリ―ブラン家へ送り届けてやる。
そうしたら、あんたは彼女たちに十分な金を支払うんだ」
「ええ……、わかったわ……」
カインはふらつくサラを抱えながら歩き出す。
サラは三人の哀れな娘たちのことを思った。
「ドラたちは今夜帰ってくるっていってたわ。
それまでに、あの子たちを逃がしてあげられるかしら?…………」
「金が入れば大丈夫だ」
「あの子たちがちゃんと国に帰るところを見届けてくれる?」
「あんたはそんな心配しなくていい。
それより前を向いて歩くんだ」
サラは不安を口にした。
「私は確かに、サラ・マリ―ブランよ。
だけど、懸賞金がいくらなのか、いつ支払われるか知らないの。
それにいろいろあって……、キューセラン叔父のことをよく知らないのよ。
ちゃんと払ってくれればいいんだけど……。
私が自分で遺産を管理していれば……、すぐにでも渡してあげたいんだけど……。
それに私……、屋敷に着いたら気を失ってしまいそうで……」
カインはさっきから人の心配ばかりを口にするサラに多少驚いていた。
「ねえ、まって、なにか書くものを持っていない?
念書を書いておくわ……。
そうすれば……、間違いなくあの子たちにお金を渡してあげられる。
私が気を失っても、あなたがそれを叔父に渡してくれればいいのよ」
「それは困る。
俺は、屋敷にあんたを運ぶだけだ。俺は貴族連中が嫌いなんだ」
「そう……。わかったわ……。なんとか叔父に話をしてみるわ。
あなたも一緒に話をしてくれるといいんだけど……」
「悪いが」
「わかったわ……。だけど、一つだけお願いよ。
叔父と話さなくても、会わなくてもいいいいから、あの子たちがちゃんと国に帰ったかどうかだけでもあなたが見届けてくれない? 特に、イエニアは言葉が不自由だったわ。これ以上悲しい思いをさせたくない……」
「わかった」
カインがそういうのをきくと、サラは黙って歩くことだけに集中した。
道の途中、この道がセントラルホテルに続く道だとサラは気付いた。
「待って、カインさん……。セントラルホテルに知り合いがいるの。
その人たちなら、きっとちゃんとお金を払うようにしてくれる……」
「だめだ」
カインはかたくなに言った。
「あんな高級ホテルに泊まる連中は、貴族と金持ちだけだ。信用ならない……。
あんたをマリ―ブラン家へ連れて行く、それが一番確実なんだ」
正直歩くのも辛いサラにとっては厳しいセリフだった。
道を行き、ホテルのそばに差し掛かった。
その場所でサラは見かけた顔を見つけた。
ミッシュアだった。
「ミッシュア?」
「あっ、シノラ様!」
サラはくすりと弱弱しく笑った。
そうか、ミッシュアはサラとシーラの入れ違いについて知らないのだった。
「いつぞやは、お許しください!」
ミッシュアが手に土をして頭を下げると、サラは首を振った。
「もういいのよ……」
「わたし、今ホテルに行ってきたところなんです。すぐに知らせたほうがいいと思ってきたんですけど、朝が早すぎたみたいで、取り次いでもらえなくて。
サラ様をさらったジュリアンを見かけたんです。
それをこのホテルにお泊りのハル様に知らせに来たんです」
「そう……」
サラとミッシュアのやり取りを怪訝そうに見ているカインに、サラは言った。
「説明してあげたいけど、今はちょっと……」
言いかけながらサラはぐらりとよろけた。
「大丈夫ですか、シノラ様!
顔色が……、ちょっと待っててください」
ミッシュアは小道にかけていくと、しばらくして水の入ったカップを持ってかけてきた。
近くの水路からくんできてくれたらしい。
サラはそれを受け取ると、喉を鳴らしながら飲み干した。
「ありがとう、ミッシュア。本当に、生き返ったわ……」
「わたし今ホテルに行って人を呼んできますから!」
かけだそうとするミッシュアをカインが止めた。
「それは困る。彼女はこれからマリ―ブラン家へ行かねばならない」
「そんな、こんなにお辛そうなのに。
マリ―ブランのお屋敷まで、まだ二十分以上あります。
あなたがシノラ様を担いでいけばいいんじゃないですか?」
「それもできない。彼女に眠られたら困る」
ミッシュアは言い返そうと鼻息を荒くしたが、サラはそれはそうだと思ったので、ミッシュアに別れを告げて、先を急ぐことにした。
あと二十分。
あと二十分歩けば、休めるのだ。
シーラにも会えるだろう。
水も好きなだけ飲めるに違いないし、きっと食事もある。
あと二十分。
彼女たちの恩に報いるまでは、決して眠ったりしない。
サラは自分に言い聞かせた。
・・・・・・
サラと別れたミッシュアもまた、帰路の道にいた。
不自然な様子のシノラと連れの男について、ミッシュアはどうにも腑に落ちなかったが、 かといってどうすることもできず、ただ道を歩くだけだった。
ミッシュアはふといい香りがする店の前で足を止めた。
朝のパン屋の香りは、格別に幸せな気分をくれる。
焼き立てのパンを買うお金があれば、なおさら幸せなんだけど。
ミッシュアはひとりでに肩をすくめた。
そんなふうにぼんやりしていたせいか、近くで声がするまでミッシュアはその
男に気がつかなかった。
「やあ、ミッシュア。こんな時間に会うとはな」
ミッシュアの前にはジュリアンがいた。
たった今そのジュリアンの居所を知らせに行ってきたばかりのミッシュアは、
動揺を隠せなかった。
「お前の兄貴は下手をうった。でも、そう長くかからずに出られるさ。
私がそう手配しておいたから」
ミッシュアは兄のサッティバがジュリアンに加担して罪を犯したことを理解していたが、 それは兄が悪いというより、ジュリアンが兄をそそのかしたに違いないと思う気持ちが強かった。
「もとはといえば、あんたのせいじゃない……」
ミッシュアはぼそっとつぶやいたが、そのつぶやきはジュリアンの耳に届いていたらしい。
「なんだって? 私に何か言いたいことがるなら、大きな声でいいたまえ」
ミッシュアは尊大な態度のジュリアンに、つい売り言葉を買った。
「いつまでも……、いつまでも、自分の思うままだと思ったに大間違いなんだからね。あんたなんか、きっとすぐつかまるんだから。
ハル様やシノラ様が今ごろあんたを追い詰める策を練ってるころよ」
すると、ジュリアンは奇妙な顔をした。
「シノラ……、聞きおぼえがある名だな」
ミッシュアはふんと鼻を鳴らした。
そして、ジュリアンを不安に陥れてやろう、ミッシュアはそう思ってわざと大げさに振るった。
「あの日病院で一緒にあった方よ。今さっきも、シノラ様に会ったばかりよ。
今度こそきっと、あなたには制裁を下るはずだわ。
その時のあなたの顔がみものね!」
だって、あんたの居場所を教えたんだから、とミッシュアは心の中で叫んだ。
しかし、ジュリアンはミッシュアの言葉から全く別の可能性を読み取っていた。
「病院で会った……、あのシノラ・コートシークか?」
「ええ、そうよ」
ジュリアンの顔が急激に冷たくなるのをミッシュアは目の当たりにした。
「どこで会ったんだ、ミッシュア」
「えっ……」
ジュリアンは感情のこもらない冷たい目で、ミッシュアを見据えると、すばやく平手でミッシュアの頬を打った。
「痛っ、なにするのよ!」
「どこだ、ミッシュア」
「どこって、あなたに関係な……」
バシッという音が通りに響いた。
「言え、ミッシュア」
「やめてっ」
執拗なやり取りが続く間、ミッシュアの両の頬は赤く腫れあがり、唇は切れた。
ミッシュアが泣きながらマリ―ブラン家と白状するまでに、ジュリアンは平手を拳に変え、容赦なくミッシュアに打ち付けた。
そして、赤くなった自分の拳をなでると、ふうと息を吐いた。
「こういう仕事はグスマンに任せておくに限るな……」
ジュリアンは地面にひれ伏すミッシュアを置いて、通りを駆け出した。
・・・・・
ようやくたどり着いたマリ―ブラン家を前にして、カインはサラの肩を下した。
「ありがとう、カインさん……。あなたへの感謝は……」
「そんなことはいいから、早くいけ。
そして、必ずあの店の娘たちに金を届けさせろ。いいな」
それだけいうと、カインはさっと身をひるがえして、道の向こうへ身を隠してしまった。
よほど貴族にアレルギーがあるらしい。
サラはドアに向きなおって、ノックしようとした。
だが、その瞬間に大事なことを聞いていなかったことに気がついた。
あの店の名前である。
店の名前がわからなければ、金を届けるにもどこへ届ければいいのかわからない。
サラは慌ててカインの消えた道を追った。
「ねえ、店の名前……!」
サラはもつれる足を何とか持ち上げて走った。
「サラ」
その声に振り向いたサラは、一瞬にして色を失った。
そこに立っていたのは、誰あろうジュリアンだった。
・・・・・・
サラが連れてこられたのは、屋敷通りから少し離れた建物で、大きくはないがなにやら落ちぶれた貴族屋敷という風情だった。
屋敷の中には誰ももおらず、明かりも音もない。
あるのは、積年のほこりと蜘蛛の巣、そしてやぶれた白い布の残骸だった。
「ここには長くいたくないが、灯台下暗しということもあるか……」
ジュリアンは屋敷の鍵を閉めると、そうつぶやいた。
「それで」
ジュリアンはサラを向き直った。
「あなたは本当に、頭がいいんですね。どうやって抜け出したんですか」
サラは口をつぐんだ。
サラを助けてくれたあの娘たちは、サラと同じように助けを求めている。
彼女たちのことを口にすることはできない。
でも、黙っていてもわかってしまうのは時間の問題だ。
ブルーノはドラが帰ってくるのは、夜だと言っていた。
しかし、ジュリアンがここに一人でいるということは、三人はそれぞれ単独で行動しているのだろうか。
ひとまず、ジュリアンはここにいる。
ドラはあの姿からして宿で働いているのだろう。
だとすれば、いつ宿に戻ってもおかしくはないが、夜まで戻ってこないと言い
残したのならその可能性は高い。
残るはグスマンだ。
グスマンがサラのいないことに気がつけば、サラと服を取り換えたブルーノが真っ先に疑われるに違いない。
サラはとにかく聞いてみることにした。
「グ、グスマンは……?」
すると、ジュリアンは眉をしかめた。
「まさか、グスマンがあなたを逃がしたのか?」
サラは意外なその反応に驚いたが、顔には出さなかった。
ジュリアンがサラにそのようなことを口にするとなれば、サラのゆさぶりは効果があったということだろう。
サラはその可能性にかけてみることにした。
ただし、慎重に。
「グスマンはどこ?」
ジュリアンはサラをじっと観察していたかと思うと、うろうろと部屋を歩き出した。
「まさかとはおもうが……」
ジュリアンはサラに詰め寄った。
「まさか、グスマンが裏切ったのか?」
サラは答えない。
下手に答えないほうが、ジュリアンはおのずと不安を掻き立てられるだろう。
「まさか……、くそっ……」
ジュリアンはひとりでに何かを納得したらしい。
「あいつがおれを出し抜くなんて。
そうか、あのあと、あいつは店に戻ったんだな。
そして、あんたはグスマンと結婚の約束をした、そうだろ?」
ジュリアンはいつもの丁寧な口調をくずし、みるからに冷静さを失って早口にまくし立てた。
サラはまだ答えない。
「あのやろう、俺に懐柔するふりを見せて、油断させようとしていたのか。
……まあいい、昨日の今日だ。まだ婚姻の書類を出してはいないんだろう?
その前に、私とあんたの婚姻届を法務局に出せばいい」
ジュリアンは手近なところから紙とペンを持ってきた。
なにもない屋敷に紙とペンが置いてあるとは。
さすがに弁護士稼業というだけのことはある。
「さあ、ここに名前を書け」
ジュリアンはサラの前に書類を差し出した。
書類は二枚あった。
婚姻届と、婚姻契約書だ。
契約書には、サラに不利な条件が書き連ねてあった。
「いやよ」
「拒否する理由がどこにある。
グスマンより私のほうが明らかにいいだろう」
サラは仕掛けてみることにした。
「私はグスマンと結婚する。
あなたとは結婚できないわ」
「なにをばかな」
「グスマンを呼んでちょうだい」
「…………」
サラがきっぱりと断るのを見ると、ジュリアンは裁判さながらの滑らかな口調でグスマンを罵った。
悪党とはいえ、よくも仲間のことをここまで悪く言えるものだ。
ジュリアンの本性がすっかりあらわになったところで、サラの答えは変わらなかった。
「グスマンをここへ呼んで」
「私がグスマンのどこに劣るというのだ。説明してみろ!
それとも、なにか……」
ジュリアンは何を思ったのかサラをじっと見つめた。
その視線がサラの唇を見ていると気がついたとき、サラはカインの口づけを思い出し、かっと熱くなった。
「そうだったか」
ジュリアンはまたもひとりでになにかに合点がいったらしい。
「小娘が、たわいもない。そうか、グスマンが初めての男。それでか」
サラにもそこでようやく理解ができた。
グスマンの女になったと思い込んだジュリアンは、サラにつめよると、ぐいっとサラの顎を引いた。
「あんな無粋な男より、私のほうが……」
サラは言い終わる前にジュリアンを突き飛ばした。
汚い言葉など聞きたくなかった。
しかし、ジュリアンはサラを後ろから羽交い絞めにし、耳元で無礼な言葉をささやいた。
サラは抵抗したが、もとより女の力がかなうはずもなくサラはあっという間に床に組み伏せられた。
ジュリアンがサラのドレスに手をかけようとしたその時、サラは気丈を奮って声をあげた。
「やっぱりあなたは最低ね! グスマンはこんなふうに私を扱わなかった。
私たちはキスをしただけよ! 初めての大人のキスだった。グスマンはほかになにもしなかったわ。
グスマンよりあなたのほうがすぐれているですって?
今のあなたを見たら、どっちがいいかなんて一目瞭然だわ。
私はあなたの思い通りにはならない! さっさとそこをどいて、グスマンを呼んで!」
ジュリアンは奥歯をかんだが、サラの話した真実と虚構を検証するすべはない。
ジュリアンはサラを解放した。
サラは立ち上がり、ほこりを払うと毅然と言った。
「グスマンをここへ呼んでちょうだい」
ジュリアンがグスマンを呼びにいけば、その間に屋敷を抜け出して、マリーブラン家へ戻れる。
しかし、ジュリアンはグスマンを呼びに行くことはなかった。
その代わりに、先ほど紙とペンを出してきた古びた戸棚から、シリンダー式の拳銃を出した。
「あんたは私と結婚する。さあ、ペンをとれ」
・・・・・・
そのころ、カインは酒場のドアを叩いていた。
「ったくうるせえなあ。なんだよ。朝っぱらから」
カインは眠気眼の店主のえりをつかんだ。
「賞金稼ぎを覚えているか」
「な、なんだよ。カインか。穏やかじゃねえなあ、おい」
「あの二人組の、ベリオとモリスとかいう」
「あ、ああ、たしか……。昨日も来たぞ。その時は一人はそのベリオだかモリスだかのどっちかで、もう1人は以前は違う男と一緒だった……」
「ああ、そいつらに至急連絡を取りたいんだ」
カインが店主から聞き出せたのは、町のある宿屋だったが、そこは部屋がとってあるだけでだれもいなかった。
しかし、店主はここへ訪ねてくるものがあったら、別の宿屋に知らせるようにことづかっていて、早速使いをやるといった。
カインは焦った。
そんな悠長なことで、計画を無事に終えられるだろうか。
「わかった、とにかく使いをやってくれ。大至急だ。
俺は旧モーリス邸にいると伝えてくれ」
カインはそれだけ言い残すと、風のごとく店を後にした。
そして、次にカインが向かった場所は、ベナドッラの店だった。
裏口から合図のノックをすると、引き継ぎの女が出てきた。
金を渡し、ブルーノを呼んでもらった。
簡単にことを説明すると、ブルーノは震えたが、カインはブルーノの震えが治まるまで抱きしめてやった。
カインはブルーノにいくつかの指示を残すと、サラが連れ込まれた旧モーリス邸へ向かった。
カインはサラと別れた後も、しばらく様子を見るためにそこにとどまっていた。
何か思い出したように来た道を戻りかけたサラの前に男が現れ、カインのなすすべなくサラは連れ去れた。
男には見覚えがあった。
ちりぢりになって離散した没落家モーリスを名乗る唯ひとりの男。
ジュリアン・モーリス。
ザルマータ貴族の間でおこる後ろ暗い問題の後処理を、ジュリアンが一手に引き受けているといわれている。
ジュリアンがかかわっているとわかった以上、出仕する貴族の中にこの一連の事件の糸を引いている者がいるということだ。
今、あの屋敷に自ら踏み込むことができたなら、どれだけいいか……!
カインは歯噛みした。
ジュリアンを誘拐の現行犯でとらえることができれば、ザルマータにはびこる不正の一端を暴くことができる。
こんな機会は二度とないかもしれない。
だが、カインにはそれができないわけがあった。
とにかく、今は、あの賞金稼ぎたちが来るのを待つしかない。
カインはじりじりとしながら、荒れ行くままの古屋敷に目を凝らした。
・・・・・・
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王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
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