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シリーズ5 ~ウンメイノユメタガエ~
Stoty-1 テリーへの旅(1)
しおりを挟む収穫祭が終わって、数週間たったある日、サラのもとをロイスが訪ねてきた。
「アビゲール様から手紙が来たの、サラ」
「わたしにも来たわ、ドレスの件ね」
部屋に迎え入れると、サラ、ロイス、そしてシーラはお茶をしながらさっそく相談を始めた。
ロイスはアビゲールから手紙を持参し、そこに書かれているアビゲールのオーダーをサラとシーラに見せた。
「このドレスのオーダーが届いたときにはびっくりしちっゃたけれど、ザルマータのお城では誰にも相談できる相手がいないのでしょうね。
そう思ったら、やっぱり協力して差し上げないと、と思って」
サラとロイスに届いた手紙には、オーダーのほかにはこのような要望が書かれていた。
サラには女装できる場所を、ロイスにはドレスの代理発注の協力を請う。
ロイスには、君のサイズに合わせて、オーダーの通りのドレスを作ってもらいたい。
細かいところは、センスのいいロイスに任せる。
お金は必要なだけ送るから、追って見積もりを知らせてほしい。
近いうちに、サラはシリネラのマリ―ブラン家に戻るであろう。
そうして頃合いをみて、ロイスはドレスをもってマリ―ブラン家を訪ねてほしい。
その日に合わせて、僕もマリーブラン家を訪ねる。
そこで、僕の新しいいドレスを着たいと思っている。
そして、君たちとまた会えるのを楽しみにしている。……
「そうね、またきっと面白いに違いないでしょうね。
でも、近いうちって、いつ頃のことを言っているのかしら。
私はまだ帰る予定を立ててはいないのだけれど」
「あら、ええと…」
ロイスが自分の手紙を改めた。
「手紙には、こう書いてありますわ。
先日マルーセルを検挙することができた。
裁判は今月末にも判決が下るであろう。
はやければ、来月の中ころにでもサラはマリ―ブラン家へ戻ることができるであろう…」
「え…?」
「サラ様。
この、裁判って…もしかして…」
サラとシーラの顔に驚きが走った。
驚いたのはロイスも同じだった。
まさか、当のサラとシーラがこのことを知らないとは思わなかったのだ。
ロイスは、サラにまつわる事件を新聞などで追って知っていたので、
アビゲールの指す裁判というのが何なのか当然知っている。
シーラがロイスの手紙を受け取った。
「この様子だと、ザルマータでは、今マルーセルの裁判が行われているということですね。
サラ様の手紙にはそのようなことは書かれていませんでした。
サラ様、御覧になってください」
シーラの言うとおりだった。
この明白な差は、サラとシーラが知らなくてはならないことを知っていない状況を示すものに違いなかった。
・・・・・・
ロイスが帰った後、サラとシーラは王宮図書館へ急いだ。
図書館に保管されている新聞には毎日一通り目を通していたはずだが、ザルマータの裁判の記事は目にしていない。
もしかすると、ザルマータに関する記事は抜き取られていたのだろうか。
念のため、紙面を数えると、何部かの新聞には、紙面の足らないものがあった。
「サラ様、ザルマータでは一体何か起こっているのでしょうか?」
「わからないわ。
狩猟大会の時にアビゲールはなにもいわなかった。
ドレイク様やレイン様もよ。
なにより、モリスが私たちにこんな大事なことを話さないなんて…」
「モリス様に確認しましょう」
「そうね」
サラとシーラは使用人にモリスを探させ、また自分たちもモリスがいそうな場所を訪ね歩いた。
結局見つからず、部屋に戻ると、ちょうど使用人が戻ってきた。
「モリス様は今、士官学校にいらっしゃいます。
御用が済み次第、こちらへ参るそうです」
サラはすぐさま使用人に士官学校に案内を頼んだ。
サラとシーラはややこわばった表情で使用人の後をついていった。
・・・・・・
王宮から士官学校の門の前へ馬車を乗り付けると、使用人は受付に言づけた。
士官学校へは入館許可を得なければ入ることができない。
サラとシーラはその許可が下りるのを馬車の中で待った。
しばらくすると、ベンジーがやってきた。
「サラ様、ここまで来るなんて、よほど急ぎの用があるみたいですね。
すみませんが、モリスさんはもう少し時間がかかるそうなので、僕がそれまでお相手するよういいつかりました」
サラとシーラは顔を見合わせた。
「町を一周しましょうか、それとも美術館の庭でお茶でもいかがですか?」
「ベンジー様、今はそういう気分じゃないの。
モリスの用が終わるまで、ここで待つわ」
「そうですか…」
サラがかたくなな態度を見せたので、ベンジーはしかたなく、士官学校内の応接室にサラとシーラを連れて行った。
「あの、今日はどうかしたのですか?」
サラとシーラのいつもと違う様子に、ベンジーは声をかけてみたが、サラは今はモリスとしか話したくないというだけだった。
応接室で少し待たされた後、モリスがやってきた。
「こんなところまで、いったいどうしたんだ」
「それはこっちのセリフよ」
サラはすぐに本題に入った。
「ザルマータで何が起こっているの?
どうして、裁判のことを私たちに教えてくれなかったの?」
モリスはピクリと眉をあげて、そのあとふうと息を吐いた。
「どうしてそれを?」
「やっぱり、あなたは知ってたのね。
知っていて、私たちに隠していたのね?」
サラの目に、なぜという疑問がありありと映っている。
「……誰から聞いたんだ?」
「そんなことより、なぜ教えてくれなかったの?
私たちが何のためにここへきて、何のために狂言を演じているのかわかっているはずなのに。
どうして?」
「それは…、お前たちに心配をさせたくなかったからだ…」
モリスはどこか歯切れが悪い。
「心配…?
ねえ、一体、今ザルマータで何が起こっているの?
どうして私たちにそれを隠すの?
新聞記事まで抜き取るようなことまでして」
「わかった…。
話そう」
モリスは狩猟大会にザルマータの皇太子たちを呼んだ本当の理由とその後の経緯を話した。
ドレイク皇太子にザルマータ内政の腐敗を気づかせ、マルーセルのことを調査するように進言することが目的であったこと。
レイン皇太子がその役を負い、リバエル国はその協力をしたこと。
そして、皇太子たちが祖国へもどった後、ドレイク皇太子が指揮を執って精力的な調査が行われたこと。
ドレイクは、不正と汚職に染まった貴族たちひとりひとりに声をかけ、マルーセルとの癒着を切るようにと説得して回った。
レインは、これまで調べてきた事実の整理と、証人の保護に、特に平民たちがうけた被害や事件について明らかにした。
アビゲールは、法務局に残されているこれまでの裁判をすべて見返し、不正や矛盾のあるものを洗い出した。
そうして、マルーセルの有罪とその立証が堅くなってきたところで、三人の皇太子は、マルーセルが失脚した後の法制について、
これまでの法制のぬけ穴や諸外国の好例をもとにに、新しい法制のたたき台を作成した。
これらをもって、ドレイクが父王に陳情と進言をしたところ、国王はマルーセルに大いに怒り、
マルーセル一族は子ども老人に至るまで一族もろともがとらわれた。
そして、現在ザルマータでは、歴代の法務に携わってきたマルーセル家の悪事を暴き、罰するための国王による裁判が行われている最中なのだった。
モリスの話を聞くうち、サラとシーラの顔は色を失い、サラは震えるようにいった。
「どうして、こんな大事なことをも私たちに黙っていたの?
ああ、それより、シーラ!
わたしたち、今すぐシリネラに戻らなきゃ!」
「はい!」
サラとシーラが立ち上がって、ドアに向かったところをモリスが前に出て、ふたりのいく先を止めた。
「こうなると思ったから、言わなかったんだ」
「どいて、モリス!」
「ドレイク皇太子殿下より、裁判が終わるまでサラとシーラの保護はハリー様に預けられている」
「そんなの、聞いてないわ!」
「ああ、言っていない。
言ったところで、シリネラには行けないのだから、お前たちの心労を増やしたくなかったんだ」
「モリス!」
サラはいらだつように叫んだ。
「もう一度言うわ、そこをどいて。
今すぐ」
モリスもぐっと眉間にしわを寄せた。
「だから、行かせるわけにいかないんだ。
マルーセルは捕らえられたとはいえ、サラとシーラは事件の証人だ。
何があったかは、リバエル国が証人として、ドレイク皇太子に伝えてある。
だから、証人としてシリネラに戻る必要はない。
だが、マルーセル派がまだのこっているかもしれない今、お前たちがシリネラに戻るのはリスクしかない。
今はただ裁判が終わるのをここで静かに待つのがいいんだ」
「そんなこと、人に決められる覚えはないわ」
「行ったところで、お前にできることはない」
「そんなこと関係ないわ、私たちはマルーセルの最後を見届けなきゃいけないのよ!」
「サラ、お前のことだ。
どうせ、無謀なことをするつもりだろう」
「何をしようと私たちのかってよ!」
サラはモリスをよけて、ずいとドアに向かった。
シーラもそれに倣った。
モリスが二人の腕をつかむと、ドアから引き離しにかかる。
「離しなさいよ!」
「わからないやつらだな!
誰のために黙っていたと思ってるんだ!」
「サラ様に無礼を働くと、承知しませんよ!」
いかに腕に覚えがあるモリスとはいえ、ふたりの少女がてんでばらばらに抵抗するのを抑えるのは難しいと見えて、
モリスは苦戦をしいられた。
サラとシーラは興奮に任せてモリスの拘束を精一杯解こうとする。
そうした騒ぎを聞きつけて、呼び声とともにドアが開いた。
そこには、ハリーとベンジーがたっていた。
ハリーベンジーがはいってようやく騒ぎは収まったが、サラとシーラの興奮は収まらなかった。
「誰が何と言おうと、私たちを止められないわ。
モリス、あなたのこと、信じていたのに、私たちの見当違いだったようね!」
サラは息をきらして叫んだ。
すると、サラを抑えていたハリーが突然こういった。
「君たちに黙っているように言ったのは、私だよ、サラ」
「え?」
サラとシーラは一緒になってハリーを見た。
「君たちの狂言の記憶喪失のことも、聞いていた。
それも、しらないふりをつづけるよう指示したのも私だ」
サラとシーラは顔を見合わせた。
ハリーがサラを解放すると、ベンジーも倣ってシーラを解放した。
ふたりは暴れることを忘れてハリーを見つめた。
「いつからですか…?
ハリー様」
「収穫祭のすぐあとだ。
モリスの様子と君たちの様子に、明らかに妙な空気があったから、モリスを問い詰めた。
そして、記憶喪失が狂言だったことをきいたのだ。
正直いって驚いた。
すっかり騙されたよ、サラ、シーラ」
ハリーの言葉に、サラとシーラは気まずそうに下を向いた。
「ご、ごめんなさい…、ハリー様」
「申し訳ありません…」
ハリーはくすっと笑みを浮かべた。
「いや、いいんだ。
それを聞いた後、こちらもそのままのほうが都合がいいとおもって黙っていたのだからな。
お互い様だ。
私にはドレイク殿から預かった君たちを守る責任があったし、
それに、演技だったとはいえサラが私に子どものように抱きついてくれるのはずいぶん気持ちがいいものだった」
サラはこれまで子ども然としてハリーに大いに甘えた演技をしてきたことが見破られていたと分かり、
思わず顔を染めずにはいられなかった。
「だが、知れてしまったからには、君たちをここへとどめておくことは難しいだろう。
それに、君たちがここを出ていく理由が、残念ながらもう一つできてしまったのだ」
サラとシーラは互いに何のことだかわからず顔を見合わせた。
「実は、たった今もそのことについて三人で話をしていたところだったのだ」
ハリーは胸元から、一通の手紙を取り出して見せた。
・・・・・・
ハリーからサラに手渡された手紙の差出人は、サラの知らない人物からだった。
タルテン国のグレイ・ヘイレーン。
「誰かしら…。
全然知らない名前よ」
その問いに答えたのは、ハリーだ。
「余計なことだと君は怒るかもしれないと思ったけど、調べさせてもらったよ。
グレイ・ヘイレーンは、ファースラン殿が出資していた貿易会社の頭取だ」
「そんな人がどうして私に?」
サラはまだ手紙を開けるのをためらっていた。
「お父様の遺産は、今キューセランおじさまが管理しているはず。
伯父さまのところへ行くはずの内容なんじゃないのかしら」
「開けてみたらわかるけど、おそらく内容は、君の叔父では果たせないから、君のその手紙が届いたのだと思うよ。
私たちは、キューセラン殿にも相談して、君にその手紙を渡す時期について検討していたんだ」
サラはシーラをに視線を送った後、意を固めて手紙の封を開けた。
そこには、タルテン語が書かれていた。
サラは日常会話と優しい文章しか読めなかったので、代わりにシーラが読み上げた。
「親愛なるサラ・マリ―ブラン様…」
内容はこうだった。
差出人は、ナモール国とタルテン国の国境の大都市テリーで海運業を営むグレイ・ヘイレーン。
サラ嬢の父ファースラン・マリ―ブラン公と、グレイの父ブノア・ヘイレーンはかねてよりよき仕事仲間として
長く関係をはぐくんきた。
そんな折、ファースラン公の突然の死は、遠くタルテンまで聞び、ファースラン公の一人娘であるサラ嬢に
お悔やみの挨拶をと考えているさなか、ブノアが急逝した。
それによりグレイの後継が重なり、結果として挨拶が遅れてしまって申し訳なかった。
あらためて、お悔やみと、ヘイレーン社の新頭取としてご挨拶の機会を設けさせていただきたい。
また、ファースラン公の出資金について、弟君のキューセラン殿から引き揚げの勧告を受けたが、
これはサラ嬢の意思であるのか確認をさせてもらいたい。
ファースラン公はヘイレーン社とともに大儀と理想を共有しともに事業を進めてきたのであって、
いかにサラの遺産管理人のキューセラン殿とはいえ、相談もなく出資金を引き揚げるとはいささか乱暴すぎはしないだろうか。
ファースラン殿の娘であるサラ嬢においては、この事業の価値と将来性をどのようにお見受けか。
ぜひとも、ヘイレーン社にサラ嬢をお招きしたい。
その目で、ヘイレーンの船と運用実績をご覧いただいて、それから判断をしていただきたい。
ヘイレーン社の仕事を見てもらえれば、ファースラン公とともに描いてきた海運貿易の意義をきっとサラ嬢にも理解してもらえるものと思う。
なお、ファースラン公からサラ嬢にと預かっているものがある。
連絡をお待ちする。……
・・・・・・
サラの目にその意思ははっきりと映っていた。
「グレイ・ヘイレーンに会わなくちゃ。
タルテン国のテリーへは、シリネラからザルビアを経由していくわ」
「はい、サラ様」
サラとシーラは互いにうなづきあった。
サラはハリーに向きなおった。
「ハリー様、いろいろとありがとうございました。
本当に感謝しています。
マルーセルに絡んだ事件においては、本当に力になっていただきました。
モリスにも、ベンジーさんにも、ここにはいないけれど、ケインさん、アリテさん、ベリオさんにも。
皆さんの力添えがなければ、私たちはこうして生きていなかったかもしれません。
本当にありがとうございました。
心から、感謝しています。
だけど、どうかもう私たちをとどめないでください。
私たちの復讐は、マルーセルが罪をみとめ、裁かれるのを見届けるまで、おわりません。
それに、こうして父を知るグレイ・ヘイレーンというひとからの手紙が来た以上、
わたしは父の関わった事業について知らねばなければならないし、それに、父の残したものを受け取りにいきかなくは行けません。
私たちがここにとどまる理由はありません」
サラはまっすぐとハリーを見つめて、素直な言葉を伝えた。
ハリーはじっとサラを見つめて話を聞いていた。
ハリーはサラの曇りのない瞳を見つめて、ようやくサラの目のなかに自分が映っているのを実感した。
防災大会のあの日見たシーラ・パンプキンソンが、ようやくここに、目の前にいる。
あれから数か月の間、どれだけこの日を待っていたか。
記憶を失ったサラではなく、マハリクマリックをその手で叶えてきたサラとして。
なぜ、彼女にここまで惹かれるのか、ハリーには少しずつそれがわかりかけてきていた。
これまでは、なにかがひっかかるのはわかっていたが、具体的に何がということを言葉にはできなかった。
今ならそれがわかる。
この瞳の力、意思の力だ。
マハリクマリックという歌の力をかりて、サラは信じて求め、何か行動を起こしていけば、
必ず目的に達することができる、そう信じている。
もっというならば、信じ切っている。
意志信じるその強さ。
自らの人生の物語を信じる強さだ。
ハリーは思う。
おそらく、自分はサラのこの信念の強さに惹かれ、そして彼女と一緒なら、なんがあっても乗り越えていける気がする。
そういう気がしたのだ。
ただ用意されたものを当たり前のこととして甘受するのではない。
誰かが作った物語を演じるのではなく、自らが描いた物語を歩む人生。
ハリーがサラに見たのはそうした人生の輝きだったのだ。
「サラ、少し二人で話そう」
ハリーはサラを庭に誘った。
サラはハリーの後ろを少し離れてついていった。
これまでのように子供のふりをして手をつないだり、腕を組んで歩くことはできなかった。
やにわにハリーが振り向いて、サラに手を差し伸べた。
「サラ、もっとそばに」
「えっ?」
秋色にそまった庭園の中で、ハリーとサラは微妙な距離を空けて立っている。
サラは思わず首を横に振った。
「申し訳ありません、ハリー様。
私にそんな資格はありません」
「誰がそんなことを君に言ったんだ?」
「誰に言われたわけじゃありませんけれど…。
これ以上、ハリー様のご温情を受けることはできません」
するとハリーはさっとサラの手を取って、甲にキスをした。
サラはこれまでの演技がばれていた気恥ずかしさと、たった今キスを受けることの心苦しさとが相まって、ひどく困ったような顔を浮かべた。
「俺のキスがそんなにいやか?」
「そ、そうじゃありませんが…」
「つい昨日までは頬へのキスを許してくれたのに、今君の頬にキスをしたら殴られそうだな」
「そ、それは…」
サラは返す言葉に困ってしまった。
すると、ハリーは明るい声で、あははと笑った。
「サラの困った顔は新鮮だな。
初めて会ったときから、サラ、君は俺にとって特別だった」
「そ…、そうでしょうか…」
するとハリーはまた笑い声をあげ、おかしそうにしてにこにことサラに笑いかけた。
ハリーがあまりにくったくなく笑うので、サラもどこか肩の力が抜けて、ふふっと笑ってしまう。
「ようやく笑ってくれたな」
ハリーは温かな瞳でサラを見つめた。
ハリーはサラの手を自分の腕において、庭を歩き始めた。
「サラは私が嫌いか?」
「いえ、まさか」
「だったら、グレイ・ヘイレーンを訪ね、裁判を見届けた後…」
ハリーは立ち止まり、明るい瞳でサラを見つめた。
「俺と結婚してくれないか?」
サラはハリーの瞳を見つめ返しながら、どこか他人事のような気分だった。
「あの…、私…」
サラは思っていた。
ハリーは嫌いじゃない。
むしろ、好きだ。
だけど、それはどこか父を思わせる雰囲気に親しみを感じ、温かく優しい人柄に安心感を感じているのであって、どこか恋とは違う。
勘違いだったとはいえ、ドレイクへ感じたあの情熱とは全く違う。
あの心も頭も体さえも自分で制御できなくなってしまうあの勢いは、ハリーには感じない。
サラは正直に答えた。
「ハリー様のことは好きです。
だけど、結婚は考えられません。
そういう好きとは違うんです…」
「今もドレイク殿が好きなのか?」
サラは思わず顔を赤らめた。
それは恋による紅潮ではなく、勘違いによる手痛い初恋の痛手と恥が全身に思い出されたからだった。
「ちがいます。
…だけど…」
サラは染まった顔を少しうつむけた。
「私にとってはドレイク様が初恋でした…。
でも、今になってみれば、私はいったい何に対して恋をしていたのか、よくわかりません…」
ハリーはサラの初恋のいきさつについて、全てモリスから聞き出していた。
故に、サラがレインの口づけをドレイクのものと勘違いしていたこと、
しかもその口づけが別人と間違われてのことだったことは、ハリーは知っている。
「正直俺はほっとした。
ドレイク殿もレイン殿も、どちらも恋敵としては手ごわい相手だったから」
その言葉を聞くや否や、サラはぱっと顔をゆがめ、ハリーの腕から手を離した。
「どうしてハリー様がそれをご存じなんですか?」
サラはゆがんだ顔を染めて、ハリーから退いた。
「モリスに聞いたんですね!」
「待ってくれ、サラ」
「離してください!」
恥ずかしさのあまりサラが背を向けて駆け出そうとするのを、ハリーは捕まえた。
「ひどいわ!
モリスも、ハリー様も」
「サラ」
「わたしがどんなに無様で惨めだったか…」
「モリスから無理やり聞き出したのは俺だ。
だからモリスを責めないでくれ。
あいつは立場上拒むことはできないのだから。
収穫祭の後、記憶喪失の狂言の話とともにきみの初恋の顛末を聞いた。
俺はサラが無様とも惨めとも思わない。
むしろ、君がまだ本当の恋を知らないことの方が俺にとってはありがたいくらいだ」
「本当の恋?…」
サラは肩越しにハリーを見た。
「そうだ。
君はまだ本当の恋知らない」
ハリーの確信に満ちた表情に、サラはそれは一体何なのかと答えを探そうと見つめ続けた。
ハリーはそっとサラの頬に手をやった。
「俺と君は、ようやくその出発点に立ったところだ。
俺が君とこうして向き合うまでに、どれだけの時間をかけてきたか。
これからは、君が俺を受け入れてくれることに時間をかけるつもりだ。
結論を急がないでくれ、サラ。
僕らはまだであったばかりだろう?」
優しい瞳の色とその声に、サラはようやく落ち着きを取り戻した。
「わかりました…。
でも、タルテン国と裁判には行きます」
「ああ、そうだね。
その前に」
ハリーはぐいっとサラを抱き寄せた。
「出発の前に、試してみるのはどうだ?」
「試す?
なにをですか?」
「大人のキスだよ」
「えっ…」
サラは肩をこわばらせた。
ハリーは相変わらず明るく、そして少しいたずらっぽくわらっている。
「試してみなければわからない。
シーラともそうしてみたんだろう?」
「……っ!」
サラは頬を染めて、また避難がましくハリーを見た。
「そのことも聞いたんですね!
もう、ハリー様には全部筒抜けなのね?」
わははは、とハリーは高く笑った。
「もう、これ以上、意地悪しないでください。
わたし、恥ずかしくて顔をあげられない…」
「それなら、俺の胸に顔をうずめていなさい」
ハリーはだしぬけにサラを抱きしめた。
そして、サラの髪に、ハリーは優しいキスをした。
サラはそのぬくもりと心地よさに、心が緩んだ。
「わかったわ、私」
「うん?」
「ハリー様って、本当によくお父様に似てるんだわ。
そうやって私やシーラをおちょくったり、そのくせなんでもお見通しだったり」
「それは光栄だ。
でも、早いところ、お父様みたいは卒業してほしいがね」
「そんなこと言われたって、急には無理です…。
あの、ハリー様、もう離してくださって結構ですけど…」
「誰が解放するといったかな」
「えっ…」
「俺とのキスを試すまでは離さない。
それも、ちゃんと大人のキスでないと」
「……」
サラは急にどぎまぎとし、いままで心地よいぬくもりだったはずのハリーの腕が、急に熱く感じられた。
サラは無理に振りほどこうと抵抗をしては見るものの、簡単に腕をほどくことはできなかった。
見上げると、ハリーは微笑みを浮かべながらサラの顔が染まっていくのを眺めている。
「ハ、ハリー様、冗談はやめてください!」
「冗談などではない。
初めからこうするつもりだった」
「そんな…」
「はっきり言っておこう。
抵抗しても無駄だ。
君がどんなに抵抗しても、俺の力には叶うまい。
また叫んでも無駄だ。
君が叫ぶ前に、俺がその口びるをふさぐから」
「は、離してください!」
「だめだね。
さあ、観念して、瞳を閉じてごらん」
「む、無理です!」
サラは顔を真っ赤にして、ハリーの腕の中でじたばたとする。
ハリーはその用を見ながら、くすくすと笑った。
「そんなに嫌か、俺のことが?」
「そんなこと、急に言われても、こ、心の準備が…。
お願いだから、離してください!」
ハリーは相変わらずたのしそうにしている。
それなのに、サラはさっきから子どものように怒ったり焦ったり赤くなったりして、まるでハリーにいいように遊ばれているような気になってきた。
「ハリー様はずるいわ!」
すると、ハリーはまた明るい声で笑って、わかったわかったとサラをなだめるように言った。
「じゃあ、キスの代わりに別なことにしよう」
「別なこと…?」
サラは慎重な視線でハリーを見つめた。
ハリーは急に腕を緩めて、サラの肩に手をやった。
「サラ、君のことがもっと知りたい。
タルテン国から戻った後、裁判が終わった後でいい。
もう一度リバエルを訪ねてほしい。
そして、君が歩んできた道のりとマハリクマリックの話を君の口から聞かせてほしいんだ」
「…そんなことでいいの?」
サラはほっとしたように息をついた。
ハリーはにこりと笑って、
「初めからこうするつもりだった」
といったので、サラは思わず拳でハリーの胸をたたいた。
「ずるい!
本当に、お父様そっくり!」
・・・・・・
それから数日後には、サラはシリネラに向かう汽車の中にいた。
一等室では、いつものようにシーラとサラが互いの手札からトランプを引き抜きあっている。
そのすぐそばで、モリスとベンジーが新聞や本を読んでいる。
サラとシーラは、モリスがあえてマルーセルの情報を伏せていたことや、ハリーにすべてを話しながらも、
記憶喪失のふりを続けさせたことについて、一定の納得はしていた。
だが、それは決して晴れやかな気持ちになる納得の仕方ではない。
結局のところ、モリスはサラたちのものではなく、
ハリーのものであることは疑いようも揺るがしようもないことなのだと改めてはっきりしたということだった。
そして、ひきつづきハリーがサラたちにモリスを同行させたのは、ハリーの意図に違いなく、
それはつまり、場合によってはモリスは必ずしもサラたちの思い通りには動かないということだった。
ハリーの命を受けたモリスが、ハリーにとって不都合な行動だとみなされた場合には、
サラたちの復讐を邪魔するかもしれないということになのだ。
その緊張感が、サラとシーラのなかに少なからずわだかまりを生んでいた。
サラとシーラは、以前と同じようにモリスにすべての信頼を預けることについては、やや消極的な気持ちがもたげていた。
「ねえ、モリス、ベンジー」
「はい」
サラはなんでもない様子を努めて声をかけた。
「隣の客室もあるのだし、わざわざこの部屋に詰めなくてもいいのよ」
ベンジーはにこっと微笑んだ。
「お気遣いなく。
ハリー様から片時も目を離すなといわれていますから」
「そう…」
サラはうわべだけの笑みを返した。
モリスはむっつりと黙ったまま、新聞に目を落としたままだった。
サラの旅行にあたって、ハリーはサラにモリスとベンジーのほかに、四人の兵をつけた。
兵士たちは彼らは部屋の外で時間制で見張りをしている。
サラは正直、息が詰まる思いだった。
特に、わだかまりの溶けないモリスと同じ部屋にいると、なおさら空気が重い気がした。
全てが明らかになった日から、モリスはサラになんら釈明や言い訳をしなかった。
あの時のサラは頭に血が上っていたのもあって、そのあともモリスとは話をしなかったのだ。
シーラならサラのこの気持ちがわかるだろうと視線を送った。
しかし、シーラはなにやら下を向いて、顔色がすぐれない。
「どうしたの、シーラ?」
「すみません、カードを見つめていたら、酔ってしまったかもしれません…」
汽車の揺れに酔ったのか、シーラは今にも倒れそうな勢いだった。
「シーラ、大丈夫?」
「私が運ぼう」
モリスがすっと立ち上がると、シーラを抱きかかえベッドに運んだ。
すぐに介抱を始めたサラに、シーラはなんども謝った。
「本当にすみません、サラ様…」
「いいのよ。なにか薬を持ってくるわね」
「いえ、少し休めば大丈夫です…」
「そう…。じゃあ、目を閉じて。心配いらないから」
「はい…」
サラはモリスとベンジーに向かって、しばらくふたりだけにしてと伝え、ふたりはそれを了承して部屋を出ていった。
サラはため息をついた。
こういってはなんだが、シーラが体調を崩してくれたおかげでモリスと一緒にいなくてよくなったことはありがたかった。
・・・・・・
しばらくして、シーラは寝息を立て始めた。
昨日眠れなかったのだろうか。
そういえば、このところシーラはあまり元気がない。
聞けば大したことはない、季節の変わり目で少し体調がよくないというだけだった。
シリネラの屋敷に戻ったら、シーラにいつもの季節の変わり目に飲むハーブティーを飲ませてあげよう、とサラは思った。
そんなことを思っていたころ、ドアがコツコツと鳴った。
「サラ、いいか?」
モリスだった。
サラは一拍おいて気持ちを整えてから、どうぞと答えた。
「シーラは大丈夫か?」
「ええ。今眠ったところよ」
サラとモリスはそれぞれ椅子に座った。
モリスは少し間をおいて、呼吸を整えるように何度か息を吐いてから口を開いた。
「お前に、ちゃんと謝らないといけないと思っていた」
サラはいったんモリスの顔から眼をそらし、車窓からの景色を見た。
もう一度モリスの顔を見ると、モリスもまっすぐにこちらを見返していた。
「何を謝るの?」
「それは、つまり…」
「あなたはあなたの信念にのっとって行動したのでしょ?
私たちはあなたがハリー様に忠誠を誓っていることを知っていたし、
私たちよりもハリー様の命令を優先するだろうということもわかっていたわ。
私たちはそんなあなただから、信じたの。
あなたのしたことは、きっとあなたにとっては間違いないことなんでしょう?
だったら謝る必要はないでしょ」
サラは落ち着いて話すつもりだったが、それでも途中から早口になっていた。
窓の景色の方をやや乱暴にみやったサラは、赤や黄色にそまった流れる景色を目で追った。
「ただしご存じのとおり、わたしもシーラも、あなたに対していい気持ちばかりじゃないわ。
でもあなたを責めることはできない。
あなたを選んだのは私たちだもの。
あなたがこの先、私たちにとって本当に望ましい仲間でなかったとしても、その責任は私たちのものだわ」
サラの言葉に、モリスはここ数日のあいだにできてしまったわだかまりと遠くなった距離を感じた。
・・・・・・
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