【完】仕合わせの行く先 ~ウンメイノスレチガイ~

国府知里

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シリーズ5 ~ウンメイノユメタガエ~

Stoty-1 テリーへの旅(3)

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 レインの突然の来訪の意図をサラはこう語った。

「なんだかよくわからないわ。謝りに来たのは確かなようだけど、それにしても態度が妙なの。
 でも、もういいわ。謝罪も受け入れたし、これでもうレイン様とは関係ないもの」

 それを聞くとアリスは残念そうな顔をし、そのあたりの事情を知らないキューセランは、とりあえずレインに茶を勧めに応接室に戻っていった。
 ベンジーもサラと同じで、確かにこれまでのレインの態度とは違っていることにいささか疑問を感じはしたが、その理由はわからなかった。
 モリスとシーラはわずかに視線を合わせたが、互いに何も口にはしなかった。
 予定の時刻から一時間ほど遅れて、サラ一行はマリ―ブラン家を出発した。
 馬車の中で二人きりになってから、シーラはサラにこのようなことを訪ねた。

「レイン様はどのようなことをおしっゃたのですか?」
「あの夜が忘れられないとか、初めてだとは知らなかったとか。でも今更、単なるいいわけよね。
 私の中ではなかったことになっているから、あなたもそうしてくださいって言ってやったわ」
「そうですか……」

 シリネラを出た一行は、ホーミーとシュラの案内でマルー川とザンダル樹海を渡った。
 数日間の険しい道だったが、シュラの案内は正確で、予定通りの日程でザルビアに到着した。



 ゼルビアは冬支度の終盤に差し掛かっていた。
 干し草集めや、干し肉や燻製づくり。木の実を割って袋に詰め、新しい瓶詰と古い瓶詰の棚を入れ替えたりしている。
 宿を借りている農家の手伝いをサラとシーラは進んでやりたがった。
 そうした営みの一つ一つが、ふたりの幼心に灯りをともして、過去にそこにあった幸せを思い出させるのだった。
 サラとシーラは今はない屋敷と、ファースラン夫妻と使用人たちの墓を参り、長い時間をそこで過ごした。
 都会風のドレスを脱ぎ、田舎風のワンピースドレスに身を包み、はだしで駆け回り、サラとシーラは思うままに数日間を過ごした。
 その姿はいつかキューセランが言っていたように、美しい水辺にすむ少女たちだった。
 モリスとベンジーが注意するのも聞かず、二人は二人だけで森や湖に出掛け、おなかがすいたら帰ってきた。

「私たちよりこの森や湖を知っている人たちはいないのよ」

 探し回ってはいつも徒労に終わるモリスとベンジーが怒ってみても、サラとシーラはくすくす笑ってすこしも悪びれないのだった。
 その日の朝もサラとシーラはこっそりと厩から二頭の馬を連れ出そうとしていた。

「こんなことだろうと思って先回りしていたんだ」

 厩を出たところでモリスとベンジーに見つかってしまった。

「明日は出発なんだ。少しは控えたらどうだ」

 サラとシーラは構わずに言った。

「今日はクレイミーとダズと一緒に六色丘を見に行く約束なのよ」
「今日しか見れないんです」

 クレイミーとダズというのは、サラとシーラと昔からよく一緒に遊んだ幼馴染だった。
 冬支度が落ち着いて、ようやく四人で会えるのを楽しみにしていたのだった。
 その話に仕方なく納得したモリスとベンジーは、モリスとサラ、ベンジーとシーラはそれぞれ馬に相乗りして、
 六色丘なる丘が見える湖の対岸へ向かった。
 そこにはクレイミーとダズがもう来ていて、農家らしいパンやソーセージ、果実酒などが用意されていた。
 クレイミーは二人の貴族紳士にもじもじとし、ダズは食べ物を四人分しか用意してないことを謝った。

「いいのよ、ダズ。それより、ふたりはいつ結婚するの?」

 クレイミーとダズは二人で顔を染めて照れながら、来春一緒になると話した。
 そしてクレイミーは籠から大事そうにきれいな布を取り出した。

「サラ様、これ、なんだかわかりますか?」
「わあ、きれいな刺繍。これ、クレイミーの花嫁衣裳ね?」

 するとクレイミーは首を横に振った。

「これはサラ様のものです」
「え?」
「あたし、このベールの刺繍を奥様にこれを頼まれていたんです。サラ様が十五になる少し前に」
「お母様が?」
「どうぞ、受け取ってください」

 クレイミーは優しい手つきで、サラにベールを渡した。
 クレイミーは町で一番といわれるくらいに刺繍が上手で、よくいろんな仕事を引き受けていた。
 クレイミーはベールの刺繍を指さした。

「ここからここは、奥様。ここからここは、あたし。この花はリータ、この星はエレンの奥さん、それから……」

 クレイミーの説明によれば、ベールの刺繍は町の女たちの合作なのだった。

「奥様の故郷では、花嫁のベールに百人の女性たちに一つずつモチーフを入れてもらうしきたりがあるのだそうです。
 奥様はこれをサラ様にかぶってもらう日を楽しみにしていました」

 話の途中からサラの眼に涙があふれ、ベールのモチーフがかすんで見えなくなった。
 思いは涙と嗚咽となってサラの肩を揺らし、クレイミーとシーラがその肩をやさしく抱いた。
 シーラの頬にも幾筋もの涙が光っていた。
 ダズがおもむろに荷物袋の中からバイオリンを取り出し、そして優しい曲を奏で始めた。
 ベールを抱きしめたサラが、シーラの手を握った。

「私、ゼルビアに必ず戻ってくるわ。そして、お屋敷を立て直すの。またみんなとここで暮らしたい」

 シーラはうなづいて、サラの手を握り返した。

「クレイミーとダズに女の子が生まれたら、その子のためにベールに刺繍するわ。
 ねえ、シーラ? そのときまで、私もっと上手にできるように練習するわ」
「はい、サラ様」

 それから幼馴染の四人と貴族紳士の若者二人は一緒に食事の支度をした。
 クレイミーは手際よく火を起こし、パンを切った。
 ダズは釣糸を湖にたらし、あっという間に二匹のマスを釣り上げた。

「ダズ、君って、釣りの名人だね」

 ベンジーが言うと、ダズはてれくさそうに頭をかいた。

「そうでもないですよ。ここはいつも食いつきがいいんです。誰でも簡単に釣れますよ。ベンジー様もやってみますか?」
「いいね」

 ベンジーが釣竿を受け取ると、ダズが針に餌をくくりつけた。

「どうぞ」
「よし」

 ベンジーが勢いよく竿を振ると、糸は瞬く間に振れた。

「おっ、かかった!」

 引き揚げると、脂ののった手ごろなサイズのマスが勢いよく踊った。

「本当だ、入れ食いだね。これは楽しいや。モリスさんもどうですか?」

 モリスはそんな誰でも釣れるような場所で釣れても、おもしろくもなんともないだろうと言いながらも釣竿を受け取った。
 ダズが餌をつけた針を、モリスは湖に投げた。
 しかし、浮きは少しも反応しない。

「あれ……」

 ダズは首をかしげた。
 針をあげてみると、餌だけ食べられていた。
 それから何度か試してみたが、結果は同じで、ダズは妙に焦ってしまった。

「おかしいな、こんなことめったにないんだけど……。今日はばれちゃったみたいですね」
「…………ふっ、こうなってからが釣りの醍醐味というものだ」

 それからモリスは自分で餌のつけ方を工夫して、竿の振り方などいろいろと試したが、結局一匹も釣れなかった。
 いつのまにかモリスはむきになって、再三同じことを繰り返した。
 その執念というかプライドに、だれも口をはさめなかったが、サラがいいかげんおなかがすいたからもう食べようといって、ようやく釣りをやめた。

「初めての釣り場だからな、攻略には時間がかかるものだ」

 モリスの言い分に誰もなにもいわなかった。
 食事が終わった後、サラとシーラはボートを乗りに行った。
 モリスは引き続き釣り場の攻略に燃え、餌やなにやらダズをあれこれ質問攻めにした。
 ベンジーはクレイミーが片付けるのを手伝いながら、サラたちが戻ってきたら飲むお茶の準備をした。
 クレイミーは終始ベンジーに遠慮がちだったが、いい機会とばかりに気になっていたことを口にした。

「あの、ベンジー様。サラ様のお相手は、モリス様なのですか?」
「そう思う?」
「はい。モリス様のサラ様を見る目をみるかぎりには」
「でも、片思いみたいなんだよね……。サラ様に振り向いてもらうにはどうしたらいいと思う?」
「そうですね……」

 クレイミーは顎に手をやってしばし考えた。

「サラ様は普通のお嬢様と違うので……。なんというか、普通の恋では満足しないような気がしますね」
「あ……」

 ベンジーはクレイミーの言葉で気がついた。

「そうか、君たちも、サラとシーラの入れ替わりの件を知っているんだね」

 クレイミーははっとしてまずそうに周りを見た。

「大丈夫、モリスさんも僕もその件は知っているけど、だれにも話さないよ」
「そ、そうなんです……。むしろシーラの方がお嬢様みたいというか。今日久しぶりに話しても、やっぱりそうでした。
 昔からサラ様は、好奇心と想像力がいっぱいで、型にはまらない方ですから。
 そういうサラ様を理解してくださる方なら、と思います」



 一方、サラとシーラはかわるがわるに漕ぎ手を交代しながら、日陰線にそって小舟を進めていた。

「ああ、気持ちいい風」
「はい、この眺め、サラ様とまた一緒に見ることができて、うれしいです」

 色づいた木の葉が湖を染め、小舟の通った道を作っている。
 日陰の水に手を入れると、もう冬を思わせる温度を返してくる。

「ねえシーラ。私、この数週間の間、いろいろ考えていたの」
「はい」
「これからどうするかを」
「はい」
「マルーセルの裁判が終わったら、マルーセルの処刑を見届けて、私はまたゼルビアに戻ってくる。
 お父様の残したお金で、ゼルビアに屋敷を建ててもらえるように話してみるつもりよ。
 シーラと一緒に帰ってきて、ここで過ごしてみて、改めて思ったわ。私、この町が大好きなんだって。
 この町、私とシーラは姉妹として暮らすの。きっと楽しいわ」
「はい……」
「それから、グレイ・ヘイレーンの貿易会社だけでなく、お父様のお仕事をもっと学んでみたいの。
 ゼルビアの館の主人として、この町を収める仕事を引き継ぎたいわ。
 それに、お父様が出資してきた会社のことや、資産の運用について勉強したい。
 そうすれば、お父様からの資産をそのまま運用できるようになると思うの。
 でも……、わたしにできるかしら?」
「サラ様なら、きっと」
「正直言うとね、あんまり自信はないの。だって、私あんまり勉強が得意じゃなかったでしょ。
 家庭教師に褒められるのはいつだってシーラだったもの」
「わたくしで力になることでしたら、なんでも致します」
「そういってくれると思ったわ。シーラと一緒なら、私頑張れる気がするの」

 サラはシーラは手を取り合って固く握った。

「でも……」

 シーラは少しためらいがちに口を開いた。

「ハリー様やモリス様のことはどうされるんですか?」
「それは……」

 サラは思わずため息をついてしまった。

「ねえ、レティ叔母様の話覚えているでしょ?」
「はい、もちろん」
「お母様のように私も誰かにうっとりするときが来るかしら。
 前みたいな勘違いの恋じゃなくてよ」
「そうですね……。気がつくとその人のことをいつも考えてしまう、そんなお相手がサラ様にも現れるといいですね」
「ええ……」

 サラはふと顔をあげてシーラを見た。
 シーラは水面に視線を落とし、まさに今、誰かのことを思っているような、そんな表情をしていた。

「シーラ?」
「えっ、あ、はい」

 シーラは夢から呼び戻されたように顔をあげた。

「シーラ、もしかして、誰か気になる人でも?」
「い、いいえ! まさか!」

 シーラは勢いよく首を振った。
 サラはだてにシーラと長い付き合いをしているわけではない。

「シーラ、ああ、シーラったら!」
「ほ、本当になにもありません」
「シーラ……。私にだけは本当のことを言って。ううん、言ってもいいと思えたときでいいの。
 だけど、ああ……。シーラがお嫁に行っちゃうなんて、考えただけでも涙が出そう……」
「わ、わたくしは、お嫁になんか行きません……!」
「シーラ、ねえ、お嫁に行くなら、私と姉妹になってからよ。
 それだけは守ってほしいわ。ね?」
「サラ様……」
「約束して」

 サラの目には言葉通り涙が浮かんでいる。

「わ、わかりました。でも……」
「でもはなしよ。結婚しても、私たちの縁は切れないのよ」
「はい……」

 シーラはサラの一生懸命な態度に、ただこくりとうなづいた。



 サラとシーラが岸に戻ったころには、日が陰り始めていた。
 小船をよせてくれたのはダズだったが、降りるときにサラに手を差し伸べたのはモリスだった。
 ベンジーが温かいお茶を配ってくれた。
 クレイミーがサラとシーラを手招いて明るく叫んだ。

「そろそろ始まりますよ!」
「なにがはじまるんだ?」

 モリスとベンジーの疑問に、幼馴染の四人はただ見ていればわかるというのだった。
 湖の向こうの六色丘には夕日がさしかかり始めた。

「きれいですね」
 ベンジーのつぶやきに、ダズがいった。
「これからもっとすごいものが見れますよ」
「あっ、始まった」

 六色丘の裾に、ぽつぽつと松明がともりだした。
 それは丘を取り囲むように等間隔にともって行く。
 そして、その火がなにかの合図で一斉に、丘に移った。
 火は丘の裾を焼き、勢いづきながら丘を駆け上る。
 風にあおられ、炎が揺らめき、夕日とともにあたりを赤々と染める。
 ダズがバイオリンで郷愁に満ちた牧歌的な音楽を奏で始めた。
 丘が真赤に燃え、炎が枯れ草を焼き尽くした後を、黒く染めていく。
 誰も言葉を発しなかった。
 ただ、秋の風に頬をなでられながら、赤い火と夕日の色をその目に焼き付けている。
 炎は次第に勢いを失い、丘から姿を消していった。
 全ての火が消えたころ、夕日も沈み、あたりには夕闇が訪れていた。

「今年も、秋が終わったな……」

 ダズが一言つぶやいた。
 モリスがサラを見ると、サラとシーラは身を寄せ合い、固くその手を握り合っていた。



 ・・・・・・


 ゼルビアを出た一行は、川沿いに北上し、シーラの故郷があるペシュトランに向かっていた。
 気候は次第に冬らしくなり、一行はそれぞれ思い思いの上着や帽子などを着用するようになった。
「六色丘の六色目は白よ。雪に染まった丘に、誰が一番初めに足跡をつけるのか、いつも競走したわ」
 道行の途中でサラとシーラは六色丘のことをモリスとベンジーに説明した。
 ベンジーが指を折る。

「ええと、じゃあ、枯草色、草を焼いた後の黒、雪が降った白、若草の緑色。花が咲いた花の色、これで……。
 あれ、五色しかありませんよ?」
「火と夕日で燃えた赤、これで六色だろう?」
 モリスがそういうと、サラとシーラは顔を見合わせて、くすくすと笑いだした。
「ちがうのか?」

 モリスの言葉にサラもシーラも答えずにただ笑うだけだった。



 ペシュトラン郊外のクリット家に一行がついたのは、風が冷たくなって、朝夕には水に氷が張るようになったころだった。
 クリット一家は、刈り入れの終わった農地に現れた一団に目を丸くしたが、馬車から現れたのが五年ぶりに帰ってきたシーラだと分かると、
 一転一家は大喜びとなった。
 正確に言えば、シーラが戻ってきたのは十三年ぶりだったが、この際そんなことは誰も気にもしなかった。
 そして、サラはクリット夫妻に初めましてとあいさつされ、お悔やみやらシーラのことを感謝されるやらで、
 それはそれでおかしかったが、サラはマリ―ブラン家のお嬢様として挨拶を返した。

「まあまあ、お嬢様がまさかこのようなところへ足を運んでくださるなんて。
 それに、立派な紳士まで……。いったいこの小さな家でどうお迎えしていいのやら……」

 現在のクリット家には、シーラの父マシューと母ミラー、長兄アレクとその妻テトと、その息子のピット三歳。
 そして、十五歳になる三男フックと十二歳の四男トマが暮らしている。
 次男パットは所帯を持ち少し離れたところに家を構え、長女のケーラは隣町に嫁に行っている。
 サラは大勢で押し掛けたのは私たちなのだから、気にしないで。ちゃんと自分たちの面倒は見れるだけの準備をしてあるといったが、
 お世話になっているサラを寒空の下で寝かすわけにはいかないといって、クリット一丸となっていろいろと世話を焼いてくれた。
 夜には次男のパット夫妻が毛布や薪なんかをつんで手伝いに来た。

「ああ、これでケーラがそろったら、どんなにか幸せだろうね」

 母ミラーがエプロンの裾で涙をぬぐうのに、シーラはじんわりと胸をうたれた。
 サラはシーラが両親と兄弟に囲まれている姿を眺めて、心底ここへ来てよかったと思った。
 父マシューは去年あたりの農民たちと一緒に仕込んだという二種類の酒を振舞ってくれた。
 この酒造りに精を出しているのがアレクとパットで、この辺りは麦と米と両方とれるので、アレクは麦で、パットはコメで酒造りに励んでいるという。
 これがなかなかの評判で、今年仕込んだ分は首都へも売り出すつもりでいるという。

「うん、この麦酒(ビール)なかなかだな」
「モリスさん、この米酒もいけますよ」

 サラはそれほど酒に強くないので、どちらも少しにしておいた。
 シーラは胸がいっぱいで飲めないと泣き笑いした。
 旅の面々も大いに飲み、食べ、暖かな火のもとで時間を過ごした。
 その夜、サラとシーラは同じベッドで眠り、女たちは家の中で眠った。
 ほろ酔いの貴族の若者ふたりと旅の一行たちは納屋を借りた。



 ・・・・・・



 翌朝、冷たい手に白い息を吹きかけて台所に火を入れたのは、農家の主婦ミラーと背にピットを背負った兄嫁のテトだった。
 働き者の彼女たちによって、昨日の宴会の後はことごとく片付けられ、あっという間に朝食の準備が整った。
 そこへ起きだしてきたのは、シーラだった。

「あら、もう少しゆっくりしてれば?」

 優しい言葉に、シーラは思わず母に抱きついた。

「やだねぇ、子どもじゃないだろうに」

 そう言いながらも、ミラーは愛おしそうに娘を抱いた。

「私も手伝うわ」
「じゃあ、おかゆの様子を見てくれるかい? 一応パンと両方準備したけど、サラ様はどっちがお好きかねぇ」
「どっちもよ」

 シーラは笑いながら、おかゆの鍋のふたを開けた。
 その途端、シーラは強い吐き気を感じて、思わずよろけた。

「シーラ?!」

 ミラーは娘の体を支えた。
 ミラーは娘の青い顔を見た瞬間、それを確信した。

「シーラ、まさか、妊娠しているのかい?」

 避けようのない母の視線を、シーラはすぐにはうけとめきれなかった。
 ミラーは顔色を失いながらも、気丈に兄嫁のテトに台所の戸口に立つように目配せした。

「相手は誰だい? あの紳士のどちらかかい?」

 シーラは首を横に振った。

「一団の中にいるのかい?」


 シーラはまた首を振った。
 ミラーは質問を変えた。

「サラ様は知っているのかい?」

 すると、シーラは顔をあげ、その目に涙を浮かべて首を横に振った。
 ミラーはシーラを抱きしめると、絞り出すような声でああと嘆いた。

「ばかな子だよ、お前は……!」



 ・・・・・・



 各々が起きだして、顔を洗い、歯を磨いて家の台所に集まりだすと、ミラーとテトは子どもたちに手伝わせながら、みなに朝食を振舞った。
 サラも目をこすりながらそこへ合流した。
 しかし、そこに先に起きているはずのシーラはいなかった。

「シーラは?」

 ミラーはややかたい笑顔で答えた。

「水を汲みに行かせてます。サラ様も、さあ、召し上がってください」

 食事がすんだ後もシーラは見当たらなかった。
 そばではベンジーとバルサと相談している。

「シーラのためにはもう少しここにいてやりたいが、あまり長居すると、クリット家の冬の食料を我々が食いつぶしてしまいます」
「そうですね。昨日我々二十二人の腹と喉を満たしてくれた分は、旅の食料と旅費から幾分かはクリット家に置いていかねばならないでしょう」
「その通りですね。ベンジー殿、計算を手伝ってもらえますか」
「いいですよ」

 サラはモリスを捕まえて、シーラを見ていないかと尋ねた。

「そういえばみてないな。荷物を整えたらもうすぐ出発するぞ」
「ええ……」

 サラはもういちど家に戻った。
 台所へ行くと、ミラーとテト、そしてシーラがなにやら話し込んでいた。
 サラはせっかく家族水入らずのところを邪魔するのも気が引けたが、壁をこつこつと鳴らした。

「サラ様」

 驚いたように三人が振り向いた。

「ごめんなさいね。久しぶりの家族との時間に水を差したくはなかったんだけど、荷物を整えたら出発するって」

 しかし、三人の女たちの間には妙な空気が漂っている。

「でも、タルテンからの帰りにもここへ寄るわ。だからまたすぐ会えるのよ」

 すると、ミラーはサラに深々と頭を下げた。

「申し訳ありません。サラ様。どうかお許しください」
「なあに……?」

 ミラーは頭を下げたままふり絞るような声で言った。

「親というものはどれだけ歳を重ねても我が子がかわいいものです。
 こうして久しぶりに我が子の顔を見れば、どうしてもそばに置いておきたくて、仕方ないのです。
 シーラを手放したころ、シーラのすぐ下には三男が、おなかの中には四男がいました。
 暮らしぶりも今より大変で、マリ―ブランのご主人様がシーラをサラ様の付き人にと求めてくださって、どれだけ私たちが救われたかしれません。
 シーラをお屋敷にあげたおかげで、わたしたちは家畜を殖やし、農具を買い、このように家族全員平穏に暮らすことができています。
 ただ、我が手で育ててやれなかったシーラのことを、私は一日とて忘れたことはありませんでした」

 ミラーの言わんとしていることが、サラにも見えてきた。
 シーラを見ると、シーラはひたすら母を見つめている。

「サラ様、勝手なのはわかっております。
 どうか、シーラを私どもにお返しください。
 これからは、この子とも一緒に暮らしたいのです」

 サラの耳には妙に大きな音で、自分の鼓動が打っているのが聞こえた。
 声を出そうとしたが、空気だけが漏れて、サラはもう一度息を吸いなおした。

「シーラも、そうしたいの……?」

 シーラは青い顔でじっとサラを見つめると、黙ってこくりとうなづいた。
 息が止まる気がした。
 サラは浅い呼吸を何回か繰り返し、口を開いた。

「だって……、シーラ……。一緒にゼルビアでまた暮らそうって言ったじゃない……」

 ミラーはもう一度頭を下げた。

「申し訳ありません!」

 ミラーに続いて、テトも頭を下げた。
 サラはシーラをじっと見据えたまま、シーラの言葉を待った。

「も……、申し訳ありません、サラ様……。わたし……、い、行きたくない……。
 ここにいたいんです……」
「うそ……」


 サラは首を横に振った。

「私たち、本当の姉妹になるって、言ったわ…」
「ごめんなさい、本当の家族と一緒にいたくなってしまったんです…。サラ様…」
「本当の家族…?」

 サラの目が、ミラー、テト、その背に追われたピット、そしてシーラの順に移った。
 シーラの言う、本当の家族というのはこのことを言うのだろうか。
 まさに、そうだった。
 サラは強い痛みをその胸に感じた。

「わ…、私とは本当の姉妹にはなれないって…、そういうことなの…?」

 シーラは立ち上がると、サラの手を握った。
 そして深々とその頭を垂れた。

「ごめんなさい…」

 サラの手を握るシーラの手が冷たかった。
 かつて、こんなに冷たいシーラの手があっただろうか。
 サラはしばらく何も言えずに、ただシーラのはちみつ色の髪を見下ろしていた。
 サラは放心の顔のまま、かすれた声で言った。

「わかったわ…。これまで、本当に、ありがとう。あなたの退職金は、叔父様に言って送ってもらうわ…」

 本当につらいとき、人は涙も出ないのか、と妙に冷静で乾いた思考がサラの頭をよぎった。
 シーラの手がサラの手から離れた。
 それでもシーラは顔をあげようとはしなかった。
 サラは見定まらない目線で、ふらふらと台所を後にした。
 サラはそのまま馬車に向かった。
 その途中で、シーラのことを訪ねるモリスに向かって、サラは聞き取れそうもないような小さな声で答えた。

「シーラは行かないわ。準備ができたら出発してちょうだい」

 サラは馬車に乗り込むと、窓のカーテンを閉め、内鍵を閉め、外から何を言っても返事さえしなかった。
 さすがに妙だと思ったモリスはシーラのもとに向かった。
 そして、シーラがここへ残ることにしたというの聞き、モリスももれなくその理由をシーラに質したが、
 シーラの答えはサラが聞いたものと同じだった。
 そして、サラがそれを承知した以上、モリスに何もできることはなかった。
 出発の準備が整った。
 一団は重い空気のまま、馬車に引きこもってしまったサラを連れて出発することになった。
 サラは見送りのために並んだクリット一家に顔を見せることはなかった。

「進め!」

 バルサの声とともに、一行が動き出した。
 馬車の規則的な揺れが重なるたびに、シーラから離れていくのがサラにも分かった。
 自分の中でこらえていたものが、馬車の揺れとともに重く心に積み重なって、その辛さに喉を詰まらせた。
 サラはカーテンを開けた。
 そして、そこから見えたのは、家の前に並ぶ、クリット家の顔ぶれだった。
 そのはじに、シーラがいるのを見つけると、サラの胸はつぶれるように苦しくなった。

「シーラ…!」

 次の瞬間、サラは叫んでいた。

「馬車を止めて!」

 止まるや否や、サラは馬車を飛び出し、来た道を駆け戻っていた。


「シーラ!  シーラ!」
 一団はサラが飛び出していくのを見て、一斉に馬を止めた。
 サラはもつれながらも、まっすぐシーラに向かって走った。

「いやよ、いや!  シーラ!」

 サラが泣きながら向かってくるのを、シーラも泣きながら見つめていた。

「サラ様…」
「あなたが行かないのなら、私も行かない!」
「サラ様…!」

 シーラは思わず、駆け出していた。
 ミラーが止めようとしたが、その手は空を切り、シーラの足はサラに向かってまっすぐ向かっていった。

「シーラがここにいたいなら、私もここにいる!
 あなたのいない人生なんて、私にはかんがえられないの!」
「サラ様!」

 二人は互いに抱き合うと、その場に崩れるようにして倒れた。
 そして、どちらも止めようがないほどに声をあげて泣いた。
 二人は互いが泣き止むまで、互いの体を決して離そうとはしなかった。



 ・・・・・・



 再びクリット家に戻ったサラとシーラは、ふたりだけで部屋の一つに落ち着いた。
 そして、シーラはサラの右手を握り、握り返してくれるその力に勇気を得て、告白を始めた。

「サラ様は、きっと呆れて、わたくしのことを…嫌いになってしまうかもしれませんけれど…」
「嫌わない。呆れないわ」
「サラ様…」
「それなら、わたしのほうこそシーラに呆れて嫌われてもおかしくないことばっかりだわ」
「わかりました…。全てお話します。
 大人のキスを試したときのことです。サラ様とわたくしとで。
 サラ様はあのとき、すぐに、なにかが違うとおっしゃいました。でも、わたくしは、違ったのです」
「そうなの…?」
「はい。わたくしは、うれしかった。これまでサラ様のことを思っていた気持ちは、このためにあったんだと思いました」
「そう…」
「はい…。驚かれましたか?」
「ええ、少し…」
「嫌いになりました?」
「えっ、私が? どうして!」
「はあ…、よかった…」

 シーラは長い息を吐いた。
 まるで、胸につかえていたものをひたすら吐き出すかのように。

「でも、どうして言ってくれなかったの? 私たち、何でも話してきたじゃない」
「言えなかったんです…、どうしても…」
「なぜ? 私があなたを嫌いになると思ったの?」
「それもあります。でも、それよりも、サラ様と違うことが…違うと認めることが怖かったんです」
「どういうこと?」
「わたくしたちは、幼いころからずっと一緒でした。サラ様が旅に出た後も、わたくしはサラ様に成り代わって、マリ―ブラン家でサラ様としてふるまうことで、ひたすらサラ様と一緒にいる気でいたのです」
「わたしだってそうよ。どこにいても、いつでも、あなたのことを考えていたわ。私の旅はシーラの旅でもあったのよ」
「はい。だから、サラ様がわたくしの前に現れたときも、わたくしは確信していました。
 ふたりのつながりはきっと特別なものだ。なにがあっても、マハリクマリックがわたくしたちをつないでいるって」
「ええ、その通りよ。その通りだったわ」
「ですから、わたくしはこう思っていたのです。
 サラ様とわたくしが唇をかさねたら、きっとお互いに思うことは同じに違いないと」
「シーラ…」
「ええ、実際は違いました。わたしは目を開けたとき、サラ様も同じ気持ちでいると思っていたのです。
 でも、違いました。わたくしは、それがショックだったのです…」
「……」

 サラはしばらくだまったままのシーラの手をぎゅっと握った。

「ちっとも気がつかなかったわ…。ごめんなさい、シーラ…」
「いいんです。サラ様が悪いわけじゃありませんもの」
「……」
「…そのときのサラ様はカインがドレイク様だと思い、ドレイク様に心を惹かれていきました。
 わたくしは、その様子を間近で見ていて、きっとわたくしの方がなにか間違ったんだと思いました。
 つまり…」
「つまり?」
「わたくしも、男性と大人のキスをしてみれば、サラ様と同じように、男性を好きになれると思ったんです」
「シーラ…」
「ばかすぎて、呆れましたでしょう…?」
「そんなにことない、そんなことないわ」
「すべて白状します。そう思ったわたくしは、モリス様に頼んでみたのです。わたくしに、大人のキスをしてみてくれないかと」
「モリスに!?」
「はい…。結局は断わられましたけど…。わたくしのこの気持ちを、モリス様には相談していたのです。
 モリス様はわたくしと同じように、主人に熱心な忠誠心を持つ方でしたから…。わたくしの悩みもわかってくださると思って…」
「そ、そうだったのね…。わたし、今とてもびっくりしているわ…」
「申し訳ありません。このあと、もっとサラ様を驚かしてしまうと思います…」
「そ…、そうなの…?」
「申し訳ありません…。モリス様に断られた後、カインの正体がレイン様だと明らかになりました。
 わたくしは、サラ様を傷つけたレイン様が許せなかった…。
 サラさまの唇を奪っておきながら、あのような態度…! この世から抹殺すべしと思ったのです」
「シーラ…。そこまで思わなくても…」
「いいえ、わたくしは実際その覚悟でした。本当に抹殺することは叶わなくても、あの美しい顔に傷の一つでもつけてやるつもりでした」
「シーラ…」
「そのためにわたくしは、あの夜、刃物を持ってレイン様の部屋を訪ねたのです」
「えっ、刃物…?!」
「はい、刃物といっても手直にあるものはペーパーナイフしかありませんでした。でもいざとなったら鏡でも椅子でもなんでも使って、レイン様に思い知らせてやるつもりだったのです」
「うそでしょ…」
「本当です」
「シーラ…、わ、私、今、心底びっくりしているわ…」
「申し訳ありません。まだ続きがあります…」
「えっ…!?」
「モリス様にレイン様部屋を案内してもらいました。もちろん、抗議しに行くとだけ言って、ペーパーナイフを持っていることは言いませんでした。
 レイン様はわたくしを部屋に入れてくださいました。でも、ひどく酔っていらして、レイン様はわたくしだとは思わなかったのです。つまり…」
「もしかして…」
「わたくしをサラ様だと勘違いなさったのです」
「……」
「わたくしの抗議に対して、レイン様はなにか都合の良い理解をされたのでしょう。わたくしに…」
「何かされたの…?」
「わたくしに、キスをしました」
「…あ…あの男、性懲りもなく…」
「そして…」
「えっ?」
「わたくしはレイン様と一夜をともにしてしまったのです」

 サラは驚きで声も出なかった。
 だが、それであのレインの奇妙な態度だったのかと、今理解したサラだった。
 しかし話はここで終わらなかった。

「そして、いま私のお中にはその時の子が…」
「へっ?」


 サラの口から出た上ずった声に、シーラは申し訳なさそうな顔を向けた。
 サラはシーラのおなかを見つめた。
 大事そうにシーラに抱えられたおなかは、まだ膨らみもない。

「ほ、本当なの…?」
「はい…。月のものが来ないのでもしかしたらと思っていました。このところ体調もよくなかったですし…。
 でも、今朝、母に妊娠しているのかと聞かれて…、それでやっぱりと思って…」
「ああ…、シーラ…!」

 サラは驚きで頭がいっぱいだったが、シーラを抱きしめていた。

「サラ様…! お呆れになったでしょう?」
「はあ…」

 サラは何度か深呼吸をして、それからシーラの手を取った。

「頭の中がぐちゃぐちゃよ…。でも、よく話してくれたわ。それで…」

 シーラの不安そうな顔に、サラはできるだけ明るい笑顔を見せた。

「これが私から離れようとした理由なの?」
「…はい…。母に、恩を仇で返すようなことはしてはいけないといわれて…」
「それを聞いて、安心したわ」
「サラ様…」

 サラは少し笑って見せて、それから慎重な口ぶりでサラに言った。

「シーラ、これから聞くのは、とても重要なことよ。
 まず、私があなたのことをどう思っているかを言うわね」
「はい…」

 シーラは緊張した顔でサラを見つめた。

「私が今までシーラに言ってきたことは、これからも変わらないわ。
 あなたを家族と思ってるの。お父様やお母様と同じくらい。ううん、親とは違う、特別な家族よ。
 私はあなたのことを私の半身のように感じるの。あなたがうれしいと私もうれしいし、あなたが傷つくと自分のことのように辛い。
 あなたの手に触れるものは私に触れるものだし、あなたの目が見るものは私が見るのと同じように感じるの。
 あなたと切り離された人生なんて、考えられない。全然想像できないわ。
 あなたの告白を聞いた今も、姉妹になりたいというのはかわらない。ううん、むしろ、あなたを守るために絶対にそうしなきゃと思うわ」
「サラ様…」
「だけど、さっきあなたが言うように、私とあなたには違うところもあるわね。
 だけど、違ってたってかまわない。あなたが幸せなら。シーラも、そう思わない?」
「思います…」
「そう、よかった…。つまりね、大事なのはあなたの気持ちよ。シーラがこれからどうしたいかということ。
 私はこれまで通り、シーラにそばにいてほしい。子どもだって私たちの手で育てればいいと思うわ。
 だけど、シーラはどうしたい? 」
「わたくしは…」
「大事なことだから、正直に答えて。たとえ、あなたがどんなことを望んだとしても、私は受け止めるわ。
 私たちは強い絆で結ばれた家族なのよ」
「わたくしは…、産みたいです…」
「そう…。認知はしてほしい?」
「それは…まだわかりません…。レイン様は一夜を過ごしたのがわたくしだとは思っていませんし…」
「シーラ、あなたの希望にできるだけ沿うようにするわ。私にやれることは何でもするつもりよ」
「……」
「シーラがもし、レイン様に想いがあるのなら…」
「そんな、まさか! 農家の娘がそんな…」
「シーラ、あなたが、気がつくとその人のことをいつも考えてしまうって言っていたのは…レイン様のことじゃないの?」
「……」
「私はあなたの味方になるわ。たとえ、全てがかなわなくても、最善を尽くすわ」

 シーラははっと顔を手で覆った。

「あ、あの方が好きです!」
「ああ、シーラ!」

 サラはシーラを抱きしめた。

「わかったわ…、シーラ。正直、レイン様にあなたを取られると思うと、本当に悔しいけど、本当に悔しいけど!」
「……」
「あなたが幸せな気持ちで子どもを迎えられるようにする。約束するわ」

 シーラはぽろぽろと涙をこぼして、サラの背に手を回した。

「ああ、サラ様…! わたくしをどうか許してください!」
「ばかね、シーラ…。はじめっから、許してるわ。私があなたのことを大好きだってこと、知らなかったの?」
「知ってました…!」

 サラはシーラの涙が枯れるまで、シーラの髪をなで続けた。

・・・・・・
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