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# 最悪のキス
しおりを挟む運命の日、白いコックコートからお気に入りのドレスに着替えた宮岡杏奈 (アンナ)はパーティホールに向かっていた。今日のドレスは自分に一番似合うと自負しているものを選んだ。首がすっきり見えるサブリナネックに、きゅっと絞ったウエスト、それから生地をたっぷり使った裾の広がったミニ丈。低い背をカバーしたいが、高いヒールは失敗しそうだから、改まった場所でも無理はしない。これがアンナにとってベストなスタイル。そして、このドレスがアンナに自信を与えてくれるのは、アンナが一番気にしている身長の割に大きすぎる胸が悪目立ちしないからだ。
例えば、既製服の基準からすれば適当なSサイズのTシャツを着ると、胸元のプリントははちきれんばかりに左右に伸びきってしまうし、深いUネックや大きく開いたデコルテネックでは胸の谷間がたっぷりと見えて品がない。だからアンナは自分に似合わない服を人よりよく心得ていた。胸を自分より上の視点から男性に眺められるのも、ひどく嫌っていた。ときどき同性からうらやましがられるくらいでは、不躾な男たちの品定めするような視線に耐えることと、胸のせいで着たいと思う服をいつもあきらめなければならないこととでは、到底引き換えにならない。
エレベーターに乗り込むとひとりでにつぶやく。
「大丈夫よね、ヒュー。このドレスが一番わたしらしいでしょ。それに今日見てもらうのは、わたしじゃなくて料理なんだから」
会場階に着いてホールを進むと、ついさっき奮い立たせたはずの自信を一気に失いそうになった。パーティホールに出入りする人々の様相といったら……。十八時からのゆったりとした雰囲気にふさわしいドレスの花々。スレンダーでセクシーな体を包む滑らかなシルク。流行の型にきらびやかなジャエリーやファーをあわせたゴージャスな装い。ベーシックで上品なドレスにあえて外した小物を組み合わせるハイセンス。どれもこれもが目移りするほど美しい。
さすがは新興財閥の戸川家が主催するパーティだ。停滞する現在の日本経済に母体を置きながら、各種事業と主要先進国家間での取引を広げてきた戸川グループ。どれくらいの資本を基準に財閥というのかアンナは全く知らないが、世間ではそういうことになっている。GDPや従来の基幹産業において低迷する日本社会にあっても華々しい躍進を見せる戸川グループに、マスコミや経済紙はやや過大な評価を寄せているのかもしれない。しかし、誰もが勝ち馬に乗りたがっている今、儲けさせてさえくれば成り上がりだろうと眉唾であろうと関係ない。パーティにはそんな下心を持った者たちが集まっているのだろう。
「わたしもその一人なのね。でも、今はそれしか方法がないわ」
そう思うとどこか空寂しい気持ちになる。それでも気持ちを立てなおして前に進んだ。今アンナはそれこそ藁にもすがりたい状況なのだ。親友のマリヤに言われたとおりに受付に関係者パスを見せると、受付の男性が丁寧に対応してくれた。自分もこのパーティに相応しい人間の一人として扱ってもらえたような気がして、少しばかり安心をする。だが会場に入った途端に、つつましい安堵はどこかへ吹き飛ばされてしまった。
目を開けていられないほどにきらめくシャンデリア、見たこともない豪華な調度品。生演奏のカルテットが手の込んだ生け花の大作と共に一角を占め、映画かテレビの中でしか見たことのないシャンパンタワーには特設したと思われる循環式の噴水から女神がレモンクオーツのような色の飲み物を注いでいる。広い会場に咲き乱れる優雅な女性たちと彼女らに腕を貸す高価なスーツを着こなした男たち。海外との取引も多くまた経営陣に欧州欧米系の人種が複数いるためか来客の肌も色とりどりだ。聞こえてくる言葉も日本語と英語だけではない。立ちくらみがしそうだ。こんな中にとても一人ではいられない。足は鉛になったかようにぴくりとも前へ進まなくなった。
そんなとき、戸川マリヤが白の大人っぽいドレスで弾むようにやって来た。
「来たわねアンナ! 喜んで、大好評よ!」
一瞬なんのことかわからず、じっとマリヤを見つめた。
「なに、ぼうっとしてるのよ。あなたの料理、とってもすばらしいわ!」
「あ……、ありがとう」
ようやく我に返って、パーティに来た目的を思い出した。今日アンナはここへ就職活動に来ているのだ。今年三月に製菓学校を卒業したものの、就職できずにもう半年間が過ぎてしまった。今日は親友のマリヤの計らいで、就職先を融通してもらうためにある人物を紹介してもらうことになっている。その人物こそ今日のパーティの主賓ジェイダン・カートランド・キタガワ。グループ総裁の次男だ。マリヤとジェイダンの関係は従兄妹同士にあたる。
ニューヨークで弁護士をしていた戸川・C・ジェイダンはこのほどグループに買収された旧メディアックス出版社の代表に就任することになった。戸川グループとして改変する以前のメディアックス社は、都市部のレストランやグルメ関係に強く、主にその手の情報誌やムック本を多く扱っていた。そこでアンナが希望する西洋菓子店へのコネクションが期待できると踏んで、マリヤが面倒を見てくれたのだ。
「これならジェイダンも文句なくあなたの就職先を斡旋してくれるわよ」
「だといいんだけど」
「あなたがそんな自信のない顔をするなんて、なにかの料理で失敗したの?」
「そうじゃないわ、でも……」
就職活動を応援するマリヤによってアンナはこのパーティのトレトゥールを任されていた。トレトゥールとはお菓子屋が作る惣菜のことで、顧客の指定する元に出向いて食事を配膳、提供するケータリング料理のことだ。マリヤは従兄のために歓迎を祝した最高のトレトゥールをアンナに注文した。それに応えてアンナは、定番のパテやキッシュ、テリーヌなどに加え、めったに扱うことのできない高級食材を使ったレパートリーや、和食や東南アジア系のメニューをアレンジした個性的な惣菜もさまざまに準備した。前々からマリヤと段取りを確認し、できうる限り最高の食材を揃えた。とはいえアンナひとりで対応しきれるはずはなく、百余名分の料理をつくるためにホテルから補助として貸してもらった厨房スタッフとは何度も何度も打ち合わせをした。料理の並べ方や皿の入れ替えのタイミングなどもホテルスタッフと細かく打ち合わせをした。アンナに手抜かりなどない。
普通ならパーティの料理はホテルのシェフが用意するはずだった。どう考えても製菓学校を出たばかりでなんの経歴もないアンナが任されるような仕事ではない。しかし、ホテルはマリヤの父の所有物であり、またパーティは親族とグループ関係者、そして新会社の社員しか参加しないという比較的小さな内々のものだった。加えて、マリヤに対して清算するべき約束があったマリヤの父の命により、ホテルスタッフ一同は令嬢のいっさいのわがままを受け入れることになったのだ。こうして、どうしてもアンナにトレトゥールを作る機会を与えたいというマリヤの強引な計画が見事に実現したのだった。
アンナにとっては、百名分のパーティ料理を取り仕切るというのは、貴重というレベルを超えたかけがえのない経験だった。マリヤは小規模なパーティだといったが、大小の感覚はアンナとマリヤでは大きなずれがあったことはいうまでもない。才能には恵まれていても、経験の浅いアンナには埋められない要素が複数あった。その穴を埋めてくれたのが、アンナのためだけに貸し出されたフランス人の中堅シェフだ。慣れない仕事に悪戦苦闘しているアンナに、仕入れから段取り仕上げまで事細かにアドバイスとフォローをくれた。感謝をしてもし足りない。彼のおかげでアンナは今日の料理を全てイメージどおりに仕上げることができた。そんな料理には、いっさいの不安はもっていない。
「でも、なに? あなたがなんと言おうと、あなたの料理は最高よ。特にお菓子はもう大盛況! あなたのチョコレートガレットはもうなくなりそうよ」
「本当?」
アンナの視線はテーブルのほうへ走った。ケーキやお菓子が並べられた一角にはとりわけ人が集まっていて、テーブルの様子が見えないほどだ。ようやく萎えていた自信を復活させることができた。
(そうよ、わたしには菓子職人としての腕がある)
このパーティのために五つのスウィーツを用意した。定番のフレッシュフルーツを使ったものと、女性の好きなチーズをふんだんに使ったもの、そして季節柄マロンのケーキは外せない。一番苦心をしたのは日本人の父とイギリス人の母を持ちながら長く両国を離れアメリカで仕事をしてきたジェイダンのために作ったひとくちパイだ。典型的なイギリスのパンプキンパイに和の求肥(ぎゅうひ)を入れて和英をミックスしたアンナのオリジナルレシピだ。イギリスの懐かしい味と伝統的な日本の味を久しぶりに楽しんで欲しいというアンナの心遣いだった。
そして、スウィーツの最後のひと品はこの話を引き受けたとき、つまり一番最初から決めていた。それがガレット・ブルトンヌ・ショコラ。チョコレートのガレットだ。見た目はぱっとしない素朴な焼き菓子だ。本来ならとてもパーティ料理と並ぶようなものではない。だが、このガレットに絶対の自信があった。この菓子のおいしさは自分意外の誰にも作れない。アンナは次第に落ち着きを取り戻して心境を吐露した。
「この雰囲気に飲まれそうになっていたの。世界が違いすぎて」
「そんなこと心配しなくても大丈夫よ。あなたはすばらしいパテシエールで、しかもとってもキュートだわ。そのドレスよく似合ってる」
「ありがとう。正直、ここにいる人が皆ゴージャスでセクシーだから萎縮してたの。あなたもすごくきれいよ。あなたの脚っていつ見ても惚れ惚れするわ」
「これがわたしの武器なの」
マリヤは脚を組替えて見せた後、
「あなたもその胸を使ってもっとアピールすればいいのに」
小さなクラッチバックでアンナの大きい胸を指した。アンナはあからさまに顔をしかめる。
「男性を寄せ付けたくないの。わたしの武器は菓子職人としての腕だけで十分よ」
「冗談よ。でもジェイダンの前ではそんな仏頂面はしないほうが賢明よ」
「関係ないわ。わたしは女としてでなく職人として評価してもらうためにここに来たんだから」
「そうだったわね。それじゃあ早速といいたいところなんだけど、ジェイダンがまだ会場に来てないのよ。飛行機はもうとっくに着いてるんだけど」
「なにかトラブルでもあったの?」
「ん……トラブルといえばまあそうね。でも必ず来るわ」
わずかに心配を押し隠すようすが見えた。
時間は流れ、十八時から始まったパーティは主賓のないままに二時間が過ぎようとしていた。十分に用意した料理もあらかた片付き始めている。そんなときマリヤの携帯電話が着信音を鳴らした。
「はい、ベン? そう、ジェイダンが来るのね! わかったわ、わたしもすぐ行くわ」
「ようやくお出まし?」
「そうみたい。わたしジェイダンを迎えに行って来るから、ここで待ってて」
「わかったわ」
マリヤはすらりと伸びた脚を優雅に翻して会場を出て行った。若かりし日にパリコレで活躍した八頭身の母に持っているだけあって、マリヤはその姿から立ち振る舞いまで人の視線を惹きつけてやまないものがある。両親から日本人としての遺伝的特徴を引き継いではいるが、目鼻立ちがくっきりとしており、本人は父親似の丸い鼻を嫌っているが、それを差し引いて見積もったとしても上の下という美貌の持ち主だ。アメリカ留学のおかげか勝気で明るく行動力があり、海外でも活躍できるようにと西洋で最も親しみやすい女性の名前をもらったマリヤは、常に自信と魅力にあふれている。加えて戸川グループの取締役令嬢とあってはもう文句のつけようがない。
アンナはマリヤと出会ったのは運命のいたずらだと思っている。そうでもなければ、どこにも接点のなかった二人が親友になれるはずはなく、菓子職人としてささやかな夢を追うアンナがいきなりこんな大きな仕事を任され、そして盛大なパーティに参加することなどありえないのだ。
マリヤが出て行った後、アンナは誰にも話し掛けることもなく、また話し掛けられることもないように壁際の花になっていた。慣れない場所というのはそれだけで気疲れてしまう。それに、話し掛けられたところでどう振舞ったらいいかわからない。シャンパンのグラスを片手にぼんやり人々の姿を眺めていると、会場の入り口付近がにわかにざわつき始めた。
アンナが目を向けると今度はつんざくような声が響いた。どこから発せられたのかわからないが、品のない女の笑い声だった。それはあまりに唐突で、バイオリンとフルートはびっくりして演奏の手を一時止めてしまったくらいだった。
「これはこれは、皆さんお揃いで! 楽しんでいるかい? ああ、それは結構!」
どうしたことかというように、会場全体がざわめきだした。見ると、一人の男性が五人の女性を連れて酔っ払っているのか、ふらふらとあたりの客に挨拶をして回っている。いかにも陽気なプレイボーイ然とした男だ。
「やあ、どうも! 今日はありがとう! おっと、失礼! これはまだ酒が足りないな」
男は寄りかかった隣の男性の手からグラスを奪うと、一気にそれを飲み干した。そうかと思うと、はす向かいの女性に詰め寄って、でたらめにドレスを誉めたりした。男の身なりは立派で、背が高く体格のいい姿をしている。金に近い明るいブラウンの髪だ。しかし、その立ち振る舞いがひどすぎる。しゃべっている言葉はろれつが回っていない上に、どこかスラングのような英語が混じっている。
男が早口の英語で何かいうと、それを解した西洋人らしき連れの女性が、たっぷりとした金髪を揺らして声高く笑った。隣のチャイナドレスを来た黒髪の女性は、彼にも勝る早口で、なにかを中国語でいい出した。中国語がわかったのかわからないのか、南米系ともアフリカ系ともつかないグラマラスな女性は大きな身振り手振りを交えてその中国人と話している。後の二人はいかにもキャバクラ嬢といった風体で、わけもわからず笑っているように見える。
「さあ、どうぞ、皆さん遠慮せずに食べて、飲んでくれ! さあ!」
男の醜態を前に周囲の面々には困惑が浮かび、五人の女たち意外に笑うものはいなくなった。誰も彼を注意しようとも追い出そうともしないところを見ると、彼は戸川グループの関係者なのだろうか。アンナはホテルの給仕係たちをちらりと見たが、彼らはマイクで通信した後、あきれたように首を振っただけだった。どうやらホテル側で摘み出してかまわないような人間ではないらしい。
運命を左右する大事なときを前に、トラブルに巻き込まれたくはない。マリヤに今日新任したばかりの社長を紹介してもらい、どうしても就職先を紹介してもらわなければならない。そうでなければ、企業の求人採用の時期に乗り遅れてしまったアンナは、これから将来性も発展性もない職場でアルバイトをしながら、アンナの必要とする資金も貯められずに、きっと生活に追われることになるだろう。そしてなにより、アンナにとって一番辛いのはそうした生活苦よりも、自慢の腕が単なる宝の持ち腐れになってしまうことだ。それだけはどうしても避けたかった。
アンナは触らぬ神になんとやらと思い、ケーキのテーブルの前で込み合っていた人の中にそっと身を隠すように紛れ込もうとした。
「エイミー!」
男は突然大きな声をあげた。アンナがはっとして顔を上げると、なぜかアンナは男と目が合った。
「エイミー、君も来てたんだね?」
アンナはまさか自分のこととは思わずに、さっと顔をそむけた。すると男はなぜか一直線にアンナの元へやって来た。
「まさか僕の顔を忘れたわけじゃないだろう! エイミー……、エマ!」
男の後ろから女たちがぞろぞろとついてきた。
「なあに、この子、あなたの知り合いなの?」
と気の強そうな金髪の女性が英語でいった。
「She is my niece. 久しぶりだから、ぜんぜんわからなかったよ。This is Emmie.」
アンナはようやく状況が理解できた。男はアンナのことを自分の姪だと勘違いしているのだ。男は多めに見積もっても三十台半ばというところだ。アンナは手伝ってくれたフランス人シェフが三十六歳だといっていたのを思い出す。とすると姪の年齢はともかくとしても、アンナと似たような背格好なのだろう。アンナは今年の五月で二十一歳になったが、東洋人の容貌はえてして幼く見られるし背の低いアンナはとりわけそうだった。酔いのまわっている男の目にはきっとその違いまではわからないのだろう。勘違いしたまま男は自分の連れをアンナに紹介している。
「Emmie, This is Risa, Barbara, Chan, and …… 」
男が偽りのエイミーを女性たちに紹介している間、アンナはじっと男を観察した。白い肌は赤く染まり、きれいに整えられていたであろう柔らかそうなサンディブロンドの前髪は、少し崩れて目にかかっている。ノーネクタイのシャツははだけ、仕立てのいいスーツはここへ来る前に楽しんだと思われる席で、すっかりしわだらけにしてきたようだ。今にも正体を失いそうにとろんとしている目は、ややグリーンがかったブルーだったが、深酒のせいか白目はすっかり充血していた。
それでも、その体つきは長身のモデル体型で、外国人女性を背にしてもよく釣り合いが取れている。スーツの上からでもはっきりわかるセクシーな身体の線は、日ごろから鍛えている証だろう。極めつけにその顔はファッション雑誌に出ていてもおかしくないほど整っていた。男が酔っていなかったら、アンナはきっとため息を交えて、美しい顔立ちを観察していたことだろう。だが、多くの人々の前で平然との恥をさらしているところをみると、彼の内面に重大な問題があるのはあきからだった。顔立ちの美しさやセクシーな身体ではどうにも取り繕いようのないことだ。
しらふならはまだしもこのような正体を無くした男を前に、アンナは慌てる必要はなかった。アンナは男に向かってはっきりいった。
「失礼ですが、わたしはエイミーじゃありません」
男はぼんやりとした顔をこちらへ向けた。そして、緩んだ顔をにやっとゆがめた。
「エイミー、なにをいってるんだ?」
男は突然、アンナの両肩に手をやった。アンナは不快な気持ちを一瞬顔に浮かべたものの、その手を振り払うことまではしなかった。話せばわかると思ったのだ。
「人違いされてますよ、ミスター」
「君の髪は祖母の家の匂いがするね」
唐突に男がいった。日本人のキャバクラ嬢たちがクスッと噴き出した。アンナはわずかに顔色を変えた。
(祖母の家の匂いって、どういう意味?)
まさかアンナの髪から老人特有の匂いがするわけではあるまい。キャバクラ嬢の一人が他の三人の女性たちに男のいった台詞を通訳したらしい。女たちはあざけるような視線でアンナを見た。
「子どもっぽいドレス。あれじゃ彼じゃなくたって姪っ子と間違えるわ」
「彼女のドレス、うちの祖母の家のカーテンの柄にそっくりよ」
金髪の女性と肌の黒い女性は、お互いのいった言葉に顔を寄せ合って笑った。フランス語だった。今度は黒人が訳して中国人にいった。すると中国人は身体をのけぞらせて笑い、キャバクラ嬢たちは冷ややかな視線でアンナを見た。アンナにはそれらの侮蔑がはっきりとわかった。
「失礼ね!」
アンナはたまりかねて男の手を払った。アンナが抗議のために口を開いたその瞬間だった。アンナの身体はいきなり、ふわりと重力に逆らった。同時に、頬を添えられた大きな手によってアンナは自由を失い、アンナの唇は言葉を失った。アンナの開きかけた唇に男の熱い唇が重なったからだった。
(な、なんで!)
アンナはわけもわからないまま、男から離れようと必死になった。アンナの抵抗にも関わらず、男は力強い腕と腰でアンナを後方に追い詰めて自由を奪った。あたりが騒然としているのがアンナにもわかった。わかったがどうすることもできない。男の唇は執拗にアンナを逃がすまいと絡んでくる。息ができない。アンナは男のたくましい腕をこぶしで打った。しかしちっともその力が緩む気配がない。アンナは男の髪を掴んで、引き離そうとしたが、それも無理だった。
(誰か、助けて! だれか!)
どうして誰も助けてくれないのだろう!? アンナはもがいて脚をばたつかせた。次第に強引なキスは激しさを増し、アンナの口の中に男の舌が入りかけた。ぞっとすると同時に思い切りその舌を噛んでやった。男がうめき声をあげてひるんだ。そのすきに、アンナはすばやく身をかわし、立て続けに男の頬をめがけて強烈な平手をぶちかました。パン、とはじける音があたりのざわめきを一瞬にして黙らせた。
「なにすんのよ、この酔っ払い!」
アンナはあらん限りの声でいい放った。
これまで感じたことのない怒りが湧き上がっていた。この気持ちをどう表現したらいいのだろう。そんなことを考える余裕もなく、アンナの口は男を罵倒し始めていた。
「あなたって最低な人間ね! あなたがどんな金持ちでハンサムで地位や肩書きを持っていたって、わたしがこんな無礼を許すいわれはないわよ! 女なら誰でもあなたにキスされたら喜ぶとでも思ってるの? だとしたらあなたは最低な上に、超がつく最低最悪の大ばか野郎よ! あなたが誰だか知らないけど、わたしをとやかくいう前に、自分が周りからどう見えているか考えてみたら? 今日みんながここに集まったのは新しく就任した社長を祝うためよ! あなたのその自分勝手な態度がここにいる人の目にどう映っているか、その充血した目で周りを見わたしてみなさいよ!」
ホールに響き渡るように堂々といい切ったところで、アンナは酸欠状態になりかけていた肺に酸素を取り込むために、激しく肩を上下した。男はあっけに取られたように、ぽかんとしていたが、しばらくするとアンナの様子をじっとみつめた。
「君も新社長を祝うためにここに来たのかい?」
そうだ、とはとっさに答えられなかった。それは息が苦しかったためもあるが、就活のためにパーティに来ているのであり、新社長のお祝いのために料理を作ってはいるが、純粋な気持ちから祝うとものとはかけ離れていた。それ以上に、この男の無礼な振る舞いを受けた後で、なぜ質問に答えてやらねばならないのか腹立たしくもあった。
アンナは無視して会場を出ようと男の横を通り抜けようとした。ところが男はその鍛えられた体躯をもってその道を塞いだ。彼は自嘲したような妙な笑みを浮かべた。
「そうか。僕のために集まった人々の面前で、僕をひっぱたくのが、君の祝い方なんだね」
アンナはやにわに顔色を変えた。なにか聞き違えたのではないかと思った。アンナの景色ばんだ顔を見ると、男は奇妙なまでにうれしそうな、確かにうれしそうな顔でアンナの打った左頬をなでた。
女たちがはじかれたように笑った。
「もしかして、あなた知らなかったの? この人が今日のパーティの主役、ジェイダン・カートランド・戸川だってこと!」
アンナの背筋が水を浴びたように冷たくなる。聞き間違えではない。聞き間違えだったら、どれほどよかっただろう。だが後悔してももう遅い!
「あなたのパーティであなたを知らない人間がいるなんて。どこのもぐりなのよ、この女!」
金髪の女が威嚇するようにアンナに身を乗り出した。アンナは一瞬ひるんだが、その一方でどこか開き直る自分がいた。
「本人とも知らずに戸川グループの御曹司に平手を打って、よくもいけしゃあしゃあと説教をできたものだわ。わたしだったら恥ずかしくてとてもここにはいられない」
「ばかみたいでかわいそうね」
「道理でこの子だけなんかおかしい気がしてたのよね。だってこのドレス、どう見たって通販カタログの中国製じゃないの?」
「恥ずかしい子ねぇ」
美しい女たちの醜い罵倒を聞いていると、逆にアンナは冷静になれる気がした。所詮自分にとってここは別世界。住む世界が違うのだ。その事実をこれほどまでに納得できるのを、アンナはどこか誇らしくさえ感じた。
(終わった……。わたしのキャリアがここから始まることはない。始まらなくてよかった! こんな人たちを頼るくらいなら、どれだけ貧乏をしても、時間がかかっても、自分の力で道を築くほうがいい。社長が社長なら連れている女も女だわ。マリヤには悪いけれど、彼が本当にマリヤの紹介しようとしていたジェイダンだったとしたら、わたしのほうから願い下げだわ。平気で人に無礼を働いたり、さげすんだりすることがこの人たちの習慣なのだとしたら、わたしはそんな人間にはなりたくない!)
アンナははっきりと心の中でつぶやいた。
自分の気持ちが整理できると、アンナは自分でも思わなかったほど落ち着いた気分になった。
「わたしのやり方が気に入らなかったのなら、別にいいわ。わたしにはこれ以上の祝福をあなたにあげられそうにないから」
アンナは強い口調で左頬を打たれた主賓の男を見た。アンナが男の脇を通り抜けようとすると、金髪の女が耳障りな仏語をしゃべりながらアンナの手を取った。アンナは今ごろ気が付いたが、この女たちもかなり飲んでいるらしい。
「ちょっと、この女を警察に突き出さなくてもいいの? 暴行罪でしょ、ねぇジェイダン!」
アンナはキッと女をにらみ返した。
金髪女が乱れたジェイダンの髪に気付き手をやった。
「ジェイダンったら、ハンサムさんが台無しよ」
その瞬間、ジェイダンは、ぱっと女の手を払った。一瞬にしてあたりに緊張が走った。
「あらやだ……、髪を整えようとしただけよ」
ジェイダンが怒っているのか、神妙なのかよくわからないような顔をしている。しかし、アンナに引く理由はない。怒りに燃えた目で睨み返した。
(こちらこそ侮辱をうけたのよ! まとめてあんたたちを訴えてやってもいいのよ、そっちがこんな醜態をマスコミやネットで騒がれてもいいならね!)
よっぽどそういってやろうかと思った。
「ところで、君は誰?」
アンナはむかむかと湧き上がってくる怒りが静まるのを待った。もうこれ以上彼らに関ってもろくなことはない。できるだけ気持ちを抑えていった。
「わたしがどこの誰であろうとあなたには関係ないことよ。わたしにいえることがあるとすれば、わたしたちが正式に出会う前に、あなたの本性がわかってよかったってこと。そしてわたしたちが会うことは二度とないということ、それだけよ」
「何、なんていったの?」
金髪のフランス人は若い社長と黒人の女の顔を交互に見ている。アンナはそのわずかなすきに、さっと女の手を振り解いた。
酔いがまわっていたせいか、女はその反動でバランスを崩した。彼女の長い腕が左右の黒人と中国人に当たり、高いヒールを履いていた二人はそれぞれ左右へ倒れかかった。すると、今度は黒人の長い脚でキャバクラ嬢のセクシーなヒップにクリーンヒットが決まり、中国人はもう一人のドレスを引っ張って醜態の道連れにした。女たちのドミノ倒しが次々に起こり、さすがに女五人をまとめては受け止めきれなかったのだろう。新社長も最後のドミノとなって有終の美を飾るがごとく派手に転んだ。
彼らの倒れこんだ場所はケーキや料理の並べられたテーブルの前だった。誰も彼もが何が起こったのか理解できずにわれ先に立ち上がろうとした結果、テーブルクロスを掴んだものがいたのだろう。こんどはケーキと惣菜が彼らの頭から降り注いだ。
「きゃあっ!」
「ジーザス!」
「なにこれぇ!」
最後に銀のトレーがを鈍い音を立てて、金髪の美女の顔面に落ちた。
「ぎゃふっ!」
あまりのひどいありさまにホールは唖然となった。
その顛末を見て、
(いい気味!)
と心の中ではき捨てて、アンナは会場を後にした。
後ろから一人か二人の拍手が聞こえた。拍手はすぐにやんだが、それは会場にいた人の中にもアンナと同じように彼らの素行に耐えかねていた者がいたという現れだった。アンナは自分の料理を食べてくれた客の中に、その勇気をある行動を示してくれた人がいたことにほんの少し慰められた。きっと新社長に見咎められれば即刻クビでもおかしくないのだから。
控え室のホテルの一室に戻り、のろのろと着替えた。一人になったとたん疲れを強く感じる。帰るだけなのに準備がことさら億劫だ。アンナは荷物をまとめて地下駐車場の車に荷物を詰め込むと、ホテルの厨房へ向かった。厨房ではレストランのディナーの料理の真っ最中で、それぞれのスタッフがそれぞれの担当ディッシュにいそしんでいる。アンナが顔を出すと、フランス人シェフがなまりの強い日本語でアンナに声をかけてくれた。
「君はいいパテシエールになる。来年ここを受けたらいいよ」
「それはきっと無理です……。だってついさっきグループの御曹司を怒らせてしまったから」
「そうだったの? ……そういうこともあるさ。でも残念だな。来年僕はスーシェフになるから、少しは口添えしてあげられると思ったんだけど」
「その言葉だけでも本当にうれしいです」
「君のその才能は誇っていいよ」
「ありがとうございます」
「若さに失敗や挫折はつきものだ。それと可能性とチャンスもね」
「その言葉を忘れません」
シェフはフランス人らしいやさしいキスをアンナの頬にくれた。同じ仏語でも使う人間が違うだけでどうしてこうも響きが違うのだろう。アンナも軽くシェフの頬にさよならの口づけをして厨房を出た。もう一度暗い駐車場に戻ると、まるで夢が覚めたみたいな気分だった。古びた白の軽自動車。後部座席に積み込まれた道具や器具。助手席の鞄には脱いだまま丸めて詰め込まれたドレスが、ファスナーからはみ出ている。
すっかりメイクを落としてきたすっぴんの顔を、アンナはため息と一緒に地面へ向けた。後悔はしていない。けれど状況はまったくよくなってはいない。百名分の料理を作ったことは確かにいい経験にはなったが、今はプラマイゼロというよりもややマイナスの気分だった。帰りのハイウェイで音楽を大音量にして歌いながら帰れたらいいのに、と思った。出費を渋った中古の軽はステレオが壊れている。アンナはそれを今さら無性に後悔した。
「アンナ、よかった、まだいたのね!」
振り向くとマリヤが息を切らして駆けてきた。アンナは顔を上げ、考えを整理するようにしばらく目をつむって見せた。
「もう帰っちゃったかと思ったわ。よかった、あなたに会えて」
「マリヤ、ごめんね。わたし……」
「いいのよ!」
マリヤははっきりといった。
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