41 / 126
第二部
14
しおりを挟む
夕方五時を少しまわったところで、栞とのお茶会をお開きにした唯香は、アプリコット色の夕陽が紺色の夜闇に呑み込まれていく様子をぼんやりと眺めながら、速足で過ぎゆく月日のはやさに焦りを感じた。老いも若いも富める者も貧しい者も、各々、同じ時間の流れに乗って生きている。その中で、どう生き、どう死んでいくのか?
唯香は、商店街のアーケードを足早に歩いた。幼子の手を引きながら大きな買い物袋を持って家路を急ぐ母子の姿を横目に唯香はその母子と自分の姿を重ね合わせた。もし、本当に岡崎さんと結婚して子を出産したとして、自分は、良き母になれるだろうか? 守るべき存在を慈しみ強く守り抜くことができるだろうか? そんなことを考えながら、マンションに到着すると、三階の一番奥の部屋のカーテンから光が漏れていた。
(アイツ……何考えてるのよっ!)
「ちょっと! 鍵はちゃんと閉めてっていつも言ってるでしょう?」
タケルには戸締りをするという概念がないのだろう。このマンションでふたりで暮らした約五年間、タケルがきちんと戸締りをしたことは唯香が記憶する限りほぼ皆無だ。
「あっ! おかえり、唯香ちゃん! 今日は栞ちゃんと会ってたんでしょう? 栞ちゃん元気にしてる? 懐かしいなあ。大学時代はさ、唯香ちゃんと俺と、栞ちゃんとミナトと四人でよく遊んだよねえ」
“ミナト”というのは、タケルが大学時代やっていたバンドのメンバーだ。タケルという男は、よく言えば天真爛漫、悪く言えば鈍感なアホだ。タケルが唯香をポイ捨てし大金持ちのピアニストのご令嬢と結婚することを打ち明けた時、激昂した唯香と栞に病院送りにされたことなど、すっかり忘れているのだ。
「あのさっ! 私、ちゃんとメールしたよね?」
「うんっ! 唯香ちゃん、おめでとう! 憧れの岡崎さんと結婚を前提にお付き合いなんてすごいじゃんっ! 俺、自分のことみたいに嬉しくて、唯香ちゃんとお祝いしようと思ってワイン買ってきちゃった」
「あのねっ! 結婚を前提に付き合っている女の一人暮らしのマンションに、しょっちゅう妻子持ちの元カレが遊びに来てたらまずいでしょうがっ!」
「さすがに、俺でも、そのへんのことはわかってるって! だから、今日は、合い鍵を返しに来たの。俺だって、唯香ちゃんが幸せになることを邪魔したくないじゃんよ。だから、この部屋で過ごすのは、これで最後っ!」
唯香はため息を吐いた。もう、ずーっとタケルには振り回されっぱなしだ。完全に縁を切らなくてはと思いつつ微妙な関係を続けてきたけれども、それも今夜で最後だと思うと、なんとなく寂しくもあった。
「唯香ちゃんは白ワインが好きだよね? ちょっと奮発してお高めのワイン買っちゃった! 今宵は唯香ちゃんと語り明かそうと思って、おつまみも張り切って作ってるからね! もう少しで出来上がるからちょっと待っててね!」
いつものように、唯香のピンクのギンガムチェックのエプロンを纏ったタケルは、今やタケルの聖地と化したキッチンスペースで主婦顔負けの手際の良さで、次々に料理を作り上げていく。美味しそうな香りが唯香の食欲をそそる。
唯香は、商店街のアーケードを足早に歩いた。幼子の手を引きながら大きな買い物袋を持って家路を急ぐ母子の姿を横目に唯香はその母子と自分の姿を重ね合わせた。もし、本当に岡崎さんと結婚して子を出産したとして、自分は、良き母になれるだろうか? 守るべき存在を慈しみ強く守り抜くことができるだろうか? そんなことを考えながら、マンションに到着すると、三階の一番奥の部屋のカーテンから光が漏れていた。
(アイツ……何考えてるのよっ!)
「ちょっと! 鍵はちゃんと閉めてっていつも言ってるでしょう?」
タケルには戸締りをするという概念がないのだろう。このマンションでふたりで暮らした約五年間、タケルがきちんと戸締りをしたことは唯香が記憶する限りほぼ皆無だ。
「あっ! おかえり、唯香ちゃん! 今日は栞ちゃんと会ってたんでしょう? 栞ちゃん元気にしてる? 懐かしいなあ。大学時代はさ、唯香ちゃんと俺と、栞ちゃんとミナトと四人でよく遊んだよねえ」
“ミナト”というのは、タケルが大学時代やっていたバンドのメンバーだ。タケルという男は、よく言えば天真爛漫、悪く言えば鈍感なアホだ。タケルが唯香をポイ捨てし大金持ちのピアニストのご令嬢と結婚することを打ち明けた時、激昂した唯香と栞に病院送りにされたことなど、すっかり忘れているのだ。
「あのさっ! 私、ちゃんとメールしたよね?」
「うんっ! 唯香ちゃん、おめでとう! 憧れの岡崎さんと結婚を前提にお付き合いなんてすごいじゃんっ! 俺、自分のことみたいに嬉しくて、唯香ちゃんとお祝いしようと思ってワイン買ってきちゃった」
「あのねっ! 結婚を前提に付き合っている女の一人暮らしのマンションに、しょっちゅう妻子持ちの元カレが遊びに来てたらまずいでしょうがっ!」
「さすがに、俺でも、そのへんのことはわかってるって! だから、今日は、合い鍵を返しに来たの。俺だって、唯香ちゃんが幸せになることを邪魔したくないじゃんよ。だから、この部屋で過ごすのは、これで最後っ!」
唯香はため息を吐いた。もう、ずーっとタケルには振り回されっぱなしだ。完全に縁を切らなくてはと思いつつ微妙な関係を続けてきたけれども、それも今夜で最後だと思うと、なんとなく寂しくもあった。
「唯香ちゃんは白ワインが好きだよね? ちょっと奮発してお高めのワイン買っちゃった! 今宵は唯香ちゃんと語り明かそうと思って、おつまみも張り切って作ってるからね! もう少しで出来上がるからちょっと待っててね!」
いつものように、唯香のピンクのギンガムチェックのエプロンを纏ったタケルは、今やタケルの聖地と化したキッチンスペースで主婦顔負けの手際の良さで、次々に料理を作り上げていく。美味しそうな香りが唯香の食欲をそそる。
0
あなたにおすすめの小説
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
灰かぶりの姉
吉野 那生
恋愛
父の死後、母が連れてきたのは優しそうな男性と可愛い女の子だった。
「今日からあなたのお父さんと妹だよ」
そう言われたあの日から…。
* * *
『ソツのない彼氏とスキのない彼女』のスピンオフ。
国枝 那月×野口 航平の過去編です。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
ヤクザに医官はおりません
ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした
会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。
シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。
無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。
反社会組織の集まりか!
ヤ◯ザに見初められたら逃げられない?
勘違いから始まる異文化交流のお話です。
※もちろんフィクションです。
小説家になろう、カクヨムに投稿しています。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる