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第二部
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夕方五時を少しまわったところで、栞とのお茶会をお開きにした唯香は、アプリコット色の夕陽が紺色の夜闇に呑み込まれていく様子をぼんやりと眺めながら、速足で過ぎゆく月日のはやさに焦りを感じた。老いも若いも富める者も貧しい者も、各々、同じ時間の流れに乗って生きている。その中で、どう生き、どう死んでいくのか?
唯香は、商店街のアーケードを足早に歩いた。幼子の手を引きながら大きな買い物袋を持って家路を急ぐ母子の姿を横目に唯香はその母子と自分の姿を重ね合わせた。もし、本当に岡崎さんと結婚して子を出産したとして、自分は、良き母になれるだろうか? 守るべき存在を慈しみ強く守り抜くことができるだろうか? そんなことを考えながら、マンションに到着すると、三階の一番奥の部屋のカーテンから光が漏れていた。
(アイツ……何考えてるのよっ!)
「ちょっと! 鍵はちゃんと閉めてっていつも言ってるでしょう?」
タケルには戸締りをするという概念がないのだろう。このマンションでふたりで暮らした約五年間、タケルがきちんと戸締りをしたことは唯香が記憶する限りほぼ皆無だ。
「あっ! おかえり、唯香ちゃん! 今日は栞ちゃんと会ってたんでしょう? 栞ちゃん元気にしてる? 懐かしいなあ。大学時代はさ、唯香ちゃんと俺と、栞ちゃんとミナトと四人でよく遊んだよねえ」
“ミナト”というのは、タケルが大学時代やっていたバンドのメンバーだ。タケルという男は、よく言えば天真爛漫、悪く言えば鈍感なアホだ。タケルが唯香をポイ捨てし大金持ちのピアニストのご令嬢と結婚することを打ち明けた時、激昂した唯香と栞に病院送りにされたことなど、すっかり忘れているのだ。
「あのさっ! 私、ちゃんとメールしたよね?」
「うんっ! 唯香ちゃん、おめでとう! 憧れの岡崎さんと結婚を前提にお付き合いなんてすごいじゃんっ! 俺、自分のことみたいに嬉しくて、唯香ちゃんとお祝いしようと思ってワイン買ってきちゃった」
「あのねっ! 結婚を前提に付き合っている女の一人暮らしのマンションに、しょっちゅう妻子持ちの元カレが遊びに来てたらまずいでしょうがっ!」
「さすがに、俺でも、そのへんのことはわかってるって! だから、今日は、合い鍵を返しに来たの。俺だって、唯香ちゃんが幸せになることを邪魔したくないじゃんよ。だから、この部屋で過ごすのは、これで最後っ!」
唯香はため息を吐いた。もう、ずーっとタケルには振り回されっぱなしだ。完全に縁を切らなくてはと思いつつ微妙な関係を続けてきたけれども、それも今夜で最後だと思うと、なんとなく寂しくもあった。
「唯香ちゃんは白ワインが好きだよね? ちょっと奮発してお高めのワイン買っちゃった! 今宵は唯香ちゃんと語り明かそうと思って、おつまみも張り切って作ってるからね! もう少しで出来上がるからちょっと待っててね!」
いつものように、唯香のピンクのギンガムチェックのエプロンを纏ったタケルは、今やタケルの聖地と化したキッチンスペースで主婦顔負けの手際の良さで、次々に料理を作り上げていく。美味しそうな香りが唯香の食欲をそそる。
唯香は、商店街のアーケードを足早に歩いた。幼子の手を引きながら大きな買い物袋を持って家路を急ぐ母子の姿を横目に唯香はその母子と自分の姿を重ね合わせた。もし、本当に岡崎さんと結婚して子を出産したとして、自分は、良き母になれるだろうか? 守るべき存在を慈しみ強く守り抜くことができるだろうか? そんなことを考えながら、マンションに到着すると、三階の一番奥の部屋のカーテンから光が漏れていた。
(アイツ……何考えてるのよっ!)
「ちょっと! 鍵はちゃんと閉めてっていつも言ってるでしょう?」
タケルには戸締りをするという概念がないのだろう。このマンションでふたりで暮らした約五年間、タケルがきちんと戸締りをしたことは唯香が記憶する限りほぼ皆無だ。
「あっ! おかえり、唯香ちゃん! 今日は栞ちゃんと会ってたんでしょう? 栞ちゃん元気にしてる? 懐かしいなあ。大学時代はさ、唯香ちゃんと俺と、栞ちゃんとミナトと四人でよく遊んだよねえ」
“ミナト”というのは、タケルが大学時代やっていたバンドのメンバーだ。タケルという男は、よく言えば天真爛漫、悪く言えば鈍感なアホだ。タケルが唯香をポイ捨てし大金持ちのピアニストのご令嬢と結婚することを打ち明けた時、激昂した唯香と栞に病院送りにされたことなど、すっかり忘れているのだ。
「あのさっ! 私、ちゃんとメールしたよね?」
「うんっ! 唯香ちゃん、おめでとう! 憧れの岡崎さんと結婚を前提にお付き合いなんてすごいじゃんっ! 俺、自分のことみたいに嬉しくて、唯香ちゃんとお祝いしようと思ってワイン買ってきちゃった」
「あのねっ! 結婚を前提に付き合っている女の一人暮らしのマンションに、しょっちゅう妻子持ちの元カレが遊びに来てたらまずいでしょうがっ!」
「さすがに、俺でも、そのへんのことはわかってるって! だから、今日は、合い鍵を返しに来たの。俺だって、唯香ちゃんが幸せになることを邪魔したくないじゃんよ。だから、この部屋で過ごすのは、これで最後っ!」
唯香はため息を吐いた。もう、ずーっとタケルには振り回されっぱなしだ。完全に縁を切らなくてはと思いつつ微妙な関係を続けてきたけれども、それも今夜で最後だと思うと、なんとなく寂しくもあった。
「唯香ちゃんは白ワインが好きだよね? ちょっと奮発してお高めのワイン買っちゃった! 今宵は唯香ちゃんと語り明かそうと思って、おつまみも張り切って作ってるからね! もう少しで出来上がるからちょっと待っててね!」
いつものように、唯香のピンクのギンガムチェックのエプロンを纏ったタケルは、今やタケルの聖地と化したキッチンスペースで主婦顔負けの手際の良さで、次々に料理を作り上げていく。美味しそうな香りが唯香の食欲をそそる。
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