成瀬さんは世渡りが下手すぎる

喜島 塔

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第三部

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 東京は、夏季休暇を利用して里帰りする人や、国内外を旅行する人々による一時的な人口減で閑散としていた。八角重工の夏季休暇初日のこの日は、翌日に岡崎家と成瀬家両家の顔合わせを都内の料亭で予定していた唯香が、若村とゆっくり話をできる貴重な日だった。新宿駅南口から甲州街道を西へ歩いたところにある栞とよく行く純喫茶は、いつも以上に閑散としていて大都会東京から隔離された秘密基地みたいだった。ドアベルのカンラカンラという音に反応したダンディーな髭のマスターが、テノールのオペラ歌手みたいな声で、「いらっしゃいませえ」とふたりを迎え入れ、マスターの奥さんと思われる少しハスキーボイスのウェイトレスが、店舗奥のベルベット素材のダークグリーンのソファ席に案内してくれた。アイスコーヒーを注文し待っている間、緊張のためなのか終始落ち着かない様子の若村が店内に流れるBGMに反応した。

「あ……この曲……私、好きなんです」

 若村は昔を懐かしむような柔和な表情をして唯香に言った。

「ああ、ドビュッシーの『月の光』ね。若村さん、クラシック音楽聴くの?」

「いえ……私は、クラシック音楽とか全然わからなくて……でも、好きな人が、よくこの曲を聴いていたから……この曲を聴くと、彼のことを思い出すんです」

「いい曲よね。ヴェルレーヌの詩にインスピレーションを受けた曲らしいわね。私も詳しいことはわからないのだけれど……『彼のことを思い出す』ってことは、その彼とは別れてしまったの?」

 唯香は、若村が言うところの“彼”が岡崎さんなのか、かつて結婚の話まで出ていたのに美希に盗られてしまった男のことなのか、或いは、他の男性のことなのかを特定するために探りを入れた。どうか、岡崎さんでありませんようにという願いを込めて。

「片思いだったんです……当時“彼”には奥さんもいましたし、私以外にも“彼”と付き合っているというひとはいましたから。私は“彼”に利用されているだけだって分かっていました。それでも、彼の傍に居たかったんです……大好きだったんです。岡崎さんのことがっ!」

 ――沙織、『岡崎さん、岡崎さんっ』て騒ぎ出しちゃってぇ……その頃は、岡崎さん奥さんいたんだけど、夫婦仲あんまりうまくいってなかったみたいでぇ、若い女の子を弄んでたんだよねぇ……


 ――女遊びが激しくて、愛人がナイフ持って自宅に乗り込んで来たこともあったし……とにかく、最低な男なのよ! ヤツはっ!

 美希と岡崎さんの元嫁の片山理花の言葉が唯香の脳裏をかすめた。

(ああ、やっぱり、そういうことか)

 杞憂であってほしいという唯香の願いは粉々に砕かれた。
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