憂悶日和

喜島 塔

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 一時間一寸車を走らせて、無事、病院に到着。かかりつけの病院は昔からある病院で二十年ほど前に酷い精神状態になったときにお世話になった。東京に住んでいたときもメンタルクリニックには通院していたから特に抵抗はないのだけれど、知り合いと出くわしたら嫌だなあとは思う。最初にかかった病院がどこだったかは憶えていない。上野うえのあたりだったか、日比谷ひびやあたりだったか、銀座ぎんざあたりだったか……その三院のどれかがデビュー病院だったと記憶しているが、忘れちゃった。あの頃は今よりもっと心の病気に対する世間様の偏見の目が厳しかったから、私は「心療内科」を併設している病院に通院していた。不思議なもんで、「心療内科に通院している」と他人に言うことは「精神科に通院している」と言うよりも容易い。「心療」っていうくらいだし、まさに、心の風邪って感じがするもの。それに対して「精神科」って言葉の響きはものすごく重い。「精神科に通院している」なんて言おうものなら、白い目で見られて、腫れ物に触るように扱われることだろう。いちおう言い訳をさせてもらうけれど、精神科の外来って、案外普通。内科や外科の待合室と然程変わらないんじゃないかなあって思う。私が今の病院に通院し始めて三年近くになるけれど、待合室で大声を出したり暴れている人を見たのは、たったの二、三回。さすがに元気溌剌な患者さんに出くわしたことはないけれども、そんなの、他の科だって同じでしょう? 
 病院入口の非接触体温検知カメラの顔枠に顔を近付ける。三十八度二分と画面に赤い数字が表示され、
「温度が高いです、温度が高いです」
 と、AIが異常を伝える。この酷暑の中、入口付近に設置されているのだから異常値が出て当然だ。設置場所を変えればいいのにと思う。近くにいた医療スタッフの人が、「外、暑いですからね」と微笑んだ。お互いに暗黙の了解といったところか。私が、少し時間を空けて装置に顔を近付けると、AIは自分の非を断固として認めない頑固な上司みたいに「温度は正常です、温度は正常です」と、何事もなかったかのように、気味の悪い機械音を垂れ流した。受付に診察券と健康保険証とお薬手帳を提出して、主治医の先生の診察室付近の長椅子に腰掛ける。私の主治医は非常勤医師で、普段は都会の大きな病院で働いているらしい。若い先生だが熱心で良い先生だ。昔はお医者なんて呼ばれて天狗になって大威張りしている医師が多かったけれども、患者が病院を選べるようになった今、SNSなどで悪い評判を立てられたら患者も減って経営難に陥るのは目に見えている。医者が天狗になる時代は終わった。若くて腕の良い医者が増えるのは、とても良いことだと思う。辺りを見渡す。いつもより混んでいるな、と思う。ほとんど全員がスマホを弄っている。騒ぎ立てる患者はおらず、皆、静かにお行儀よく、自分の受付番号が呼ばれるのを待っている。多分、入院病棟の方は、騒々しいのだろうな、と思う。今の主治医の前の先生が、入院病棟で患者さんに殴られるのは日常茶飯事と言っていたのを思い出した。精神科の先生は問診だけで手術などがない分、楽なのではないかと思っている方もいらっしゃるかも知れないが、私がもし医師に成れるとしたら、絶対に精神科は選ばない。自傷行為を繰り返す患者や希死念慮が強く、ちょっと掛ける言葉を間違えれば自死してしまう患者を毎日診なければならないのだ。考えただけで気が狂いそうだ。
 通院の日は、待ち時間を有意義に過ごすために、本を何冊か持ってきている。今日持参したのは、『太宰治集』と、猫飼い初心者のための二冊。しかし、どうにも本を読む気力が湧かないので、他の患者さんと同じようにバッグからスマホを取り出して見る。ネットニュースは今日も今日とてくだらない話題で大賑わい。つい先日までは人気お笑いタレントの性加害疑惑の話題で持ち切りだったのに、今、大炎上しているのは、人気ユーチューバーが人気お笑いタレントに対し酷い誹謗中傷をしたという話題だ。SNSもこの話題で持ち切り。心底どうでもいい話題だけれども、これだけ騒がれていたら嫌でも目に留まる。この話題に喰らいついている一般人もどうかと思うけれどもね。匿名なのをいいことに言いたい放題。余程暇なのか、ストレスが溜まっているのか、ただ単に面白いからなのか? スマホが普及していろんなことが便利になった。家に居ながらにして買い物ができるし、SNSなどを通じて情報(正しい情報を見極める目が必要だけれども)を得たり、いろんな人間と繋がることができるようになった。故に、その手軽さと警戒心のなさが原因で、犯罪に巻き込まれ命を落とす人が後を絶たないのだけれども。今、最も旬な、芸能人同士の誹謗中傷関連のニュースに対する一般人のコメントを見ていたら、思わず吹き出しそうになった。『社会の底辺から天罰を下す』『社畜豚』『四股かけたい』って……ハンドルネームにストレスと願望が見え見えでしょうが。社会の底辺からどうやって天罰を《下す》のか? ある意味、なんてセンスが良いのだろうと感心してしまった。皆、ストレス抱えて生きているんだよなあ。私は、右隣に座っている金髪黒マスクの青年を『社会の底辺から天罰を下す』さん、斜め前の席に座っているスーツ姿の人を『社畜豚』さん。左隣に彼氏らしき人と一緒に居る矢鱈とウエストが細い美女を『四股かけたい』さん、と命名した。『社会の底辺から天罰を下す』さんは、誰かとLINEでやりとりをしている。マスクで顔半分が隠れているけれども、相手から返事がくる度に瞳に怒りが灯るのがわかる。『社畜豚』さんは、会社を中抜けしてきたのか小刻みに腕時計を確認し、タタタ、タタタとつま先を床に叩きつけている。『四股かけたい』さんは、ガタイのいい彼氏に身を預けている。か細い白い腕には無数のリストカットの跡が残っている。嗚呼、皆、闇を抱えながら生きているんだなあ、と思ったら、何だか少し気が楽になって安堵のため息が零れた。
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