片翼を失ったピアニスト

喜島 塔

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第十章

「ヴォカリーズ」1

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 港区のマンションに引っ越してきて、一週間ほどの時が過ぎた。祖母と俺は、毎日、母の見舞いに行っている。

「部分健忘」「記憶の改ざん」……要するに、母が、この世で一番愛していた愛息子“泉”がこの世から居なくなった、という現実を受け入れることができずに、泉と同じ容姿をした俺を“泉”に置き換え、元々、息子は一人だったという、母にとって都合の良い願望を“母にとっての現実”とすることで、母は、崖っぷちの状態で生きている。

 母の退院時の為に祖母が用意した経堂のマンションには、母が創り上げた虚構の世界に齟齬を生じさせ、錯綜させないために、その引鉄になり得る可能性のある物、つまり、幼少期の家族の写真やら、俺の存在を証明する物、泉の死を証明するものは一切置いていない。だから、泉の仏壇は港区のマンションにある。それに、テレビや新聞、雑誌の類も置いていない。十九歳という若さでこの世を去った天才ピアニストだった泉は、七年という歳月が流れた今でも、たまに、テレビで「本当に惜しい人を亡くしました……」などと、語られることがあるからだ。

 何度も入退院を繰り返している母だが、ここ一年は比較的安定した状態が続いていたため、すっかり安心していた祖母が、半日ほど、息抜きに外出をしている間に、母は睡眠薬の多量摂取で自殺を図ったらしい。帰宅した祖母が、昏睡状態に陥った母を発見して慌てて救急車を呼び、一命を取り留めたとのことだ。実を言うと、母の自殺未遂は、今回で二度目だ。家庭用ホースより一回りも大きい管を麻酔なしで口から胃まで挿入し大量の水で胃洗浄。大量の輸液と下剤による、尿の排泄と便の排泄……温厚な田辺医師も、二度目ともなると、流石に切れ気味だ。仏の顔にも翳りが見える。仏の顔もあと一回が限度だろう。意識を取り戻し、容態が落ち着いた母に対し、
「こんなことを繰り返すようなら、もう、睡眠薬は一錠足りとも処方できませんからね!私は、谷村さんの主治医として、あなたの苦痛を少しでも和らげるために睡眠薬を処方しているんです! こんなことの為に処方しているのではないんです!」
 と言った。俺は、田辺医師の言うことに心の中で激しく賛同した。

 祖母の話によると、母が創り上げた、虚構の世界に歪みが生じ始めているらしき言動が何度かあったそうだ。「泉と同じ顔をした男の子が夢の中に出てきたの……」などと言ったりしていたらしい。
「私が、あの時、油断して外出なんかしなければ……」
 病院から帰宅する途中のタクシーの中で祖母が呟いた。
「おばあちゃんの所為じゃないよ。自分を責めたりしないで! 今まで、おばあちゃん一人にお母さんを任せっきりでごめんね……これからは、俺も役に立つからさ! たまには息抜きに出掛けたっていいんだよ」
「本当に舜くんは優しい子だねえ……こんな優しい息子のことを忘れちまうなんて、本当にあの子はバカだよ! 大バカだよ!」
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