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2 秋
すずらんさんと謎の院生
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ここまでくるのに、どれほどの試行錯誤を重ねたことでしょう。
ガスコンロに乗っかったフライパンを見つめ、わたしは、詰めていた息をようやく吐きました。
ふふ。ようやく積年の研究が、実を結んだのです。
フライパンをもっこり覆うのは、きつね色に焼き上がったカステラ。わざわざ鉄製のフライパンを探した甲斐もありました。黒猫のポアロも、にゃん、とひと鳴きし、一緒に喜んでくれました。
竹串を刺して、念のためですが、焼き加減も確認します。さくっとスムーズに刺さり、なめらかに抜けました。先っぽにも何もついていません。ふふ、完璧な焼き加減ではないですか。
「やりました! ポアロ、やりましたよ!」
「うるせえな鈴蘭! こちとら電話中なんだぞ!」
わたしとしたことが。五反田さんに怒られてしまいました。
わたしのアパートから北西に進み、小さな喫茶店の角を曲がったところに、小さなプレハブの建物があります。
そこは、目抜き通りから外れていることを抜きにしても、非常に人気のないお店です。窓ガラスには白いペンキで殴り書きした「五反田探偵事務所」の文字。そしてその下には、さらに乱れた文字で、「土・日・祝のみ営業」とあります。
そうこのお店、探偵事務所なのです。
わたしはあくまでお手伝いで、探偵さんでいらっしゃるのは、こちらの小さな男の子。背はわたしより小さくて、ほっぺたも子どものようにふっくらしています。実年齢より若く見られがちなこの男の子、それでも本業は学生とおっしゃるのですから、お客さまはみなさんびっくりなさいます。
さて、お客さまのお約束のお時間まで、あと十分になりました。
お茶とお茶請けの準備も万端で、あとは、このお部屋のお片付けを残すのみ。――なのですが、とても十分では片付かないくらい、お言葉は悪いですが、かなりごちゃついております。五反田さんのもとで働き始めてしばらくのうちは、わたしがどうにかしなければ、と躍起になっていたものですが、最近は、めっきり諦めました。とてもわたしの手には負えません。
「鈴蘭」
はい、なんでしょうか。
「今回の客は厄介だぞ。おまえの力が必要だ」
「わたしでよろしければ、いくらでもお手伝いさせていただきます」
「ああー、嫌だ。向こうが約束をすっぽかしてくれたら楽なんだけどなあ」
「もう五反田さん。そうおっしゃらずに」
ぴんぽーん、とインターフォンが鳴りました。
お客さまを出迎えるのもわたしのお仕事です。お客さまをびっくりさせないように、ゆっくり扉を開けました。
そこに立っていらっしゃったのは、すらっとした、高校生くらいの女の子です。
よく日に焼けたショートヘアに、小麦色の肌。どうやらスポーツを嗜まれているようです。女の子はわたしの顔を見るなり、
「うえーん!」
泣き出してしまいました。
「まあ! どうされたのですか? とにかく、お部屋に入りましょうか」
「お姉さん、私、えぐ、ずっと不安だったんです! ぐす。でも、お姉さんが探偵さんで、ひくっ、良かった」
「悪いが探偵は俺だ」
後ろからひょっこり、五反田さんがお顔を覗かせます。女の子はぱちくりと五反田さんのお顔をご覧になると、今度は、五反田さんに抱き着きました。
「あーん! 助けてください!」
「や、止めろ! 離せ! くそ、おまえ力強すぎだろ! おい鈴蘭! 助けろ! どこに行くんだ鈴蘭! 俺を置いて行くな!」
そんなことおっしゃいましても、わたしはお茶を淹れることがお仕事ですので。せっかくカステラも食べごろなので、美味しいうちに、いただいてほしいですものね。
お客様のお名前は「烏丸ひな子」さん。近くの私立高校に通う三年生で、バスケットボール部の元キャプテンだそうです。
始めは泣き止まなかった烏丸さんですが、例のカステラをお出しすると、ぴたりと涙を止めました。
「あの、これ。もしかして、あの有名な絵本の?」
「はい。あの絵本の」
だれもが幼いころ憧れた、あの絵本のカステラです。烏丸さんもおめめをキラキラさせて、フォークでぱくり、と食べてくださいました。
ポアロは烏丸さんのお膝の上にぴょんと飛び乗ると、リラックスした様子で丸くなり、眠り始めました。烏丸さんも、そんなポアロにすっかりメロメロです。
「この猫、可愛いですね。名前は何て言うんですか?」
「ポアロって言います」
「へえ。コナンの?」
「クリスティだ」
五反田さんは心外そうに言いました。
五反田さんもカステラをつまみつつ、お顔をお仕事モードに切り替えました。
「で、依頼は――おまえの兄さんのことか?」
「はい。そうなんです」
烏丸さんも神妙にうなずきました。確かに事前にお電話でお伺いしたことによれば、烏丸さんには大学院に通うお兄さんがいらっしゃるそうです。
「兄は、烏丸鳳といって、大学院で、どこだっけ? イタリア? アメリカ? とにかく、海外文学を専攻してます。相談っていうのは、その兄の、研究のことで」
「研究ぅ? つっても、文学の、だよな? そんなリスキーな研究、しねーよな?」
経営学部の五反田さんがわたしに確認を取ってきますが、おあいにく、わたしも心理学部出身なので、そのあたりはよく分かりません。
烏丸さんは、もう一度泣き出しそうになりながら、こうおっしゃいました。
「兄は、法律を犯す気なんです!」
「――なるほど」
一連のお話をじっくり聞いた五反田さんは、考え込むように、眉間をぐりぐりと揉みました。
「つまるところ、おまえの兄さん、えっと、鳳、だっけ? そいつは他の作者の作品を丸パクリしようとしている、と。どういうこっちゃ?」
「すいません、私、説明が上手くなくて」
「お兄さんは既存の作品を土台にお話を発表されようとしている、ということではないですか?」
「あー、そういうことか」
わたしの拙い説明でも納得してくださったようで、五反田さんは、指をパチンと鳴らしました。
「で、おまえの言うところの法律違反っつーのは、著作権法か。しかし、一体何の作品をパクるつもりなんだ?」
「確か……」
と言いつつ、烏丸さんが取り出したのはスマートフォンでした。数回何かを操作し、わたしたちに見せてくれました。
「これ、兄のブログなんですけど」
「このご時世にSNSではなくブログをしていることがロックな兄さんだな。どれどれ」
その記事には、このように書かれていました。
タイトル:豚丼だぶる♡
本文:今日のお昼は豚丼です(ウインクの絵文字)
相変わらず食堂は満席……後輩たち、ここは勉強をするところじゃないんだぞ!
隣にはクソ男子……もううんざり(泣いている絵文字)
僕ね、悲しくなってくるよね。だって、あいつらまともに勉強してないのに、女の子ちゃんたちに迷惑かけてるんだもん!
でも大丈夫! 僕が守ってあげるからね(投げキッスの絵文字)
なんて言いながら僕も勉強☆
なんと! 今僕は、ミステリ界の女王であるクイーンの遺作を復活させようとしてるんだ!
うふふ、教授たちの驚く顔が見たいなあ(笑顔の絵文字)
「えぐい!」
五反田さんが、とっても速い動きでわたしの陰に隠れてしまいました。あまりに大きなお声だったので、ポアロもおめめをまん丸にして、五反田さんから避難しました。わたしにはよく分かりませんが、五反田さんの、何と言いますか、嫌悪感を刺激してしまったようです。
「言ってることがわけ分かんねえ……異次元の人間だな」
「五反田さん、烏丸さんのお兄さまですよ」
「いいんです。身内でもキモイと思いますから」烏丸さんも冷たいものです。「それより、問題はここです! ていうか、作家さんの遺作を勝手にパクるのって、やっぱりまずいですよね?」
「遺作を掘り起こすくらいなら問題ねえかもしれねえけど、やっぱりそれ以前の問題だから!」
バンバン! と五反田さんが強く机を叩きます。ああ! 紅茶がこぼれてしまいそうです! ポアロもすっかり怯えています。
「クイーンの遺作っつーことは、たぶん『間違いの悲劇』のことなんだろうけど、これ、こんな軽いノリで完成するモンじゃねえんだよ。今日本の大御所ミステリ作家が完成させようとしてるけど、それでも難航してるんだぞ。いや、それ以前の問題なんだけど!」
「それ以前の問題って何ですか? 兄がキモイことですか?」
「今さら言うことでもねえけど、クイーンは女じゃねえし! ダネイもリーも男だし! こいつ、クリスティとごっちゃになってるんじゃね?」
ああ、言われてみればそうですね。私も何作か目を通しましたが、確かに作中のエラリイ・クイーンは男性ですもの。文学に明るくないわたしでも分かることを、果たして大学院の研究者さんが、知らないなんてこと、あるんでしょうか。
五反田さんのお言葉に、烏丸さんは顔色をさっと変えました。そしてソファから立ち上がると、五反田さんに詰め寄ります。
「じゃあ、兄さんは嘘をついてるってことなんですか? 何のために?」
「それは鳳に直接聞くしかねえよな。こいつどこの大学だ? 俺が直接話をつけに行ってくるよ」
「確か、B大学だったと思います。この市内の、国立大学です」
国立のB大学ですって。今度は五反田さんのお顔が固まりました。
それもそのはず。B大学と言えば、五反田さんが今まさに通っている大学ですもの。
ぼうぜんとした五反田さんは、ええ、とお声をもらしました。
「B大に、文学部なんてねえぞ」
ああ、なんということでしょうか。
何か事情があるとは思いますが、鳳さんが嘘をついていることがはっきりしました。
「依頼を変えてもいいですか?」
そう烏丸さんは、悲しそうなお顔で言いました。
「兄さんが、なんで嘘をついているのか、それを知りたいです。場合によっては絞め殺してやります!」
「殺すな殺すな。探ってやるから、殺人だけは起こすな」
五反田さんは、ルーズリーフに何かを書きながら言いました。そして完成したものを、わたしに手渡しました。なんでしょうか、このメモは。
「鈴蘭。おまえ、昔劇団に所属してたって言ってたよな」
「はい。でも、大昔ですよ? お力になれるかどうか」
「アドリブで、このメモの内容を鳳に伝えるんだ。おいひな子。鳳の電話番号を教えてくれ」
「分かりました。でも探偵さん、何するつもりなんですか?」
烏丸さんのもっともな質問に、五反田さんは、ニヒルな笑みを浮かべました。
「釣りをするぞ」
教えてもらった鳳さんのお電話番号に、五反田さんは本当にお電話をかけてしまいました。
ハンズフリーで鳳さんを待つこと数秒、
「はい、烏丸」
と、ようやく鳳さんが出ました。
ここからはわたしの演技力が試されます。もちろん失敗はできません。改めてメモの内容を見ながら、わたしは慎重にお話しました。
「初めまして。わたし、ひな子さんのお友達です。鳳さんと同じ大学に通っているので、鳳さんのことが気になって、お電話差し上げました」
「ぼ、ぼぼ、僕のことが気になるのかい? うふふ、こ、この、B大の大学院生のこの僕が、気になるのかい?」
「はい。イギリス文学を研究されているんですよね。わたしも同じです。主に、イシグロカズオを勉強しています」
「ああ、イシグロカズオねぇ。僕、日本人の作家には興味ないんだ。やっぱり文学はイギリスに限るね!」
「では、ケイン・ホッダーやジャック・ニコルソンとか読まれますか?」
「もちろん! あの情緒的な文体がたまらないよね」
五反田さんは難しいお顔で、わたしたちの会話を聞いています。烏丸さんも、お顔を嫌そうにしかめさせ、黙ってお兄さんのお言葉を傾聴しています。わたしといえば、変に緊張してしまい、なんだか気疲れしてしまいました。
「ねえ、君、僕と会ってみなよ! 君みたいな頭のいい子なら、僕と釣り合いそうだし。ねえ、名前聞かせてよ」
「はい。西木野真姫といいます」
「西木野真姫だって!?」
急に鳳さんの声が大きくなり、わたしたちは揃って、ひゃっと驚いてしまいました。幸い、五反田さんと烏丸さん、そしてポアロの存在に、鳳さんには気づかれなかったようなので、一安心です。
「はい。何か変なことでもありましたか?」
「い、いやいや。知り合いと同姓同名だったから、ちょっとびっくりしちゃったんだ。真姫ちゃんだね? うふふ、真姫ちゃん。可愛い名前だね」
「ありがとうございます」
「じゃあ、明日のお昼、食堂で待ち合わせしようね。ふふ、早く真姫ちゃんに会いたいなあ」
「はい。明日楽しみにしていますね」
――ようやく、お電話が切れました。
ああ、大きなボロも出ずにやり遂げることができて良かったです。これが、昔取った杵柄というのでしょうか。やっぱり、どんな経験も無駄になることはないのですね。
ほっとするわたしとは対照的に、五反田さんのお顔は晴れません。むっつり難しいお顔をして、頭が痛そうに、眉毛の真ん中をもみもみしています。
ああ! と怒り出したのは烏丸さんでした。
「キモイ! 我が兄ながらキモイ! 何ですか、僕と釣り合いそうって! 何様なんだよって話ですよね! うう、サブイボ立ってきた」
「まあ、個性的な殿方ですが、お兄さまをそんなに悪くおっしゃらないでください」
「鈴蘭さんは平気だったんですか? 私だったら、三秒で五回殺してる」
「だから殺生なんて物騒なこと、おっしゃらないで。それに五反田さんも、どうかなさったんですか?」
「いや。なんか、物事が調子良く進みすぎて、怖えなあって」
五反田さん、わたしと鳳さんのお話に、なにかを察知したそうです。ふーっと長く息をして、ぐうっと伸びをしました。
「鳳の思惑はだいたい分かった。ともあれ明日だ。けちょんけちょんにしてやる」
もう、五反田さんまで物騒なことを。
翌日。わたしと五反田さん、烏丸さんは、噂のB大学にやってきました。
烏丸さんは、お兄さまのことが大変気になるご様子で、なんと、学校をお休みして、ついてきてくださったのです。その憤懣たるや、そこらの鬼が裸足で逃げ出すほどです。
それにしても。
初めて五反田さんの通う学校を目の当たりにしましたが、その立派な造りにはびっくりしました。大きな門に、おしゃれな建物。入り口には、三人の警備員がいかめしいお顔で立っています。
「何か最近警備が厳しくなったんだが、まあ、気にするな。おまえたちは一応関係者だ。堂々としてれば誰も気づかないさ」
なるほど。ここは難関大学ですし、わたしくらいの学生さんも珍しくないのでしょう。それに烏丸さんも、高校生にしては大人っぽいお顔をしています。五反田さんの言う通り、堂々としていれば、咎められることもない、と思います。
五反田さんに導かれるがまま、わたしたちは食堂にきました。
やはりお昼時ということで、食堂はかなり混雑していました。鳳さんのブログにもあった通り、昼食を摂っている人もいれば、お勉強をしている人もちらほら見かけます。
「ひな子。鳳はどこだ?」
「うーん……」
烏丸さんは背をいっぱいに伸ばして、ぐるっと食堂を見渡しました。しばらくそうしていると、あ、と烏丸さんはおめめを丸くしました。
「マジで? マジで兄さんがいる!」
「おい馬鹿! 突撃は止めろ!」
走り出した烏丸さんの後を、私たちは必死になって追いかけました。それにしても、机の配置のなんと絶妙なこと。レイアウトとしてはとても整っていますが、なんだか迷路のようです。走っているうちに、お恥ずかしながら、どっちに向かっているのか分からなくなってきました。
「この馬鹿兄貴ー!」
ああ、間に合いませんでした。
烏丸さんは容赦なんて捨て置いたようで、かつ丼をもぐもぐ食べる鳳さんの胸倉をつかんで、本当に締め上げてしまいました。
「く、苦しい! なんでひな子がここにいるんだ! ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ!」
「兄さんだって部外者のくせに!」
「止めろひな子! 殺したらおまえがムショ行きだぞ!」
五反田さんの叱責が効いたのでしょうか、烏丸さんはむっとしながらも、なんとか鳳さんを解放しました。
さて、鳳さんといえば、
鳳さんは、ボリュームのある髪に、厚みのあるメガネをかけています。兄妹というだけあり、顔たちは烏丸さんに似ています。ですが、その、言いにくいことですが、かなりの肥満体です。
五反田さんはお行儀悪く机に腰かけると、鳳さんを睥睨しました。
「よお先輩。うちの西木野真姫ちゃんが世話になったぜ」
「な、なんだ君は! ここは小学生がくる場所じゃないんだぞ!」
「誰が小学生だ!」
ああ。五反田さんが若く見られることは、五反田さんが一番気にしていることですのに。案の定、五反田さんはぷりぷり怒り出しました。
「俺はな、先輩の欺瞞や思惑をぶち壊しに来たぜ。先輩、ぶっちゃけ、この大学の学生じゃあねえよな?」
「な、なな、何を失礼なことを言うんだ。ぼぼ、僕はれっきとした大学院生だぞ。おまえみたいな馬鹿そうな子供とは、頭のつくりが違うんだ!」
「それにしては、先輩、イギリス文学には明るくないみたいだったけど? 第一、クイーンはアメリカ文学だ」
「うるさい! 僕はアメリカ文学にも興味があるんだ!」
「それだけじゃねえ」五反田さんが真剣なお顔になりました。「昨日な、うちの西木野真姫ちゃんに協力してもらって、いくつか罠を張らせてもらったんだ。いやあ、気持ち良かったぜ。先輩、全部の罠にきれいに嵌ってくれたんだから」
鳳さんのお顔が真っ赤になりました。拳をぷるぷるとさせていたので、もしかしてこのまま五反田さんを殴ってしまうのでは、とハラハラしてしまいます。
「わ、罠だって? いったいこの僕が、何の罠に嵌ったと言うんだ?」
「一つ目。イシグロカズオはイギリス人作家だ」
これはわたしたちも、びっくりしてしまいました。だって、日本人のようなお名前ですもの。昨日わたしもお喋りをしながら、変だなあ、とは思っていたのですが、まさかこれが罠だったなんて。
しかし鳳さんも負けていません。額に浮かぶ汗をぬぐって、不敵そうに笑いました。
「そ、そんなドがつくほどマイナーな作家、僕は知らないね」
「おいおい、ノーベル賞作家になんてこと言いやがる。これ、常識だぜ?」
「と、とにかく僕は知らない!」
鳳さんが大きく頭を振りました。ああ、声が泣きそうになっています。
それでも五反田さんは容赦なく鳳さんを追い詰めます。
「二つ目。ケイン・ホッダーとジャック・ニコルソン。これは誰か分かるか?」
「当然だ! 彼らの著作はぜんぶ読んだからな?」
「へえ。彼らは小説家だったんだな。俺はてっきり俳優だとばかり」
なんてこと。鳳さんの身体が震えだしました。今度はお顔を真っ青にしています。
「ジャック・ニコルソンの代表作、知ってるか? あの有名な『シャイニング』、まさか見てないとは言わねえよな?」
「そ、そんな」
「ケイン・ホッダーも知らねえとは言わせねえ。あの『13日の金曜日』のジェイソン役だぜ? いやあ、彼が小説を出してたなんて、初耳だなあ」
「な。ふ、ふふ。そのくらい僕だって知ってたさ。でも、真姫ちゃんの知識レベルに合わせたまでだ」
「それだよ」
ぴん、と五反田さんが指を立て、なんと、鳳さんのメガネに指紋をつけてしまいました。ぎゃっと鳳さんが後ずさりをしました。
「ここまでは序の口。イントロダクションだ。おまえが、少なくとも文学に明るくない、そしてこの学校の学生じゃないってことのな」
「な、なな。何を言ってるんだ?」
「キモはここだ。おまえ、こいつの名前聞いて、変だなあって思わなかったか?」
こいつ、と言って五反田さんが指を差したのはわたしでした。もちろん、西木野真姫というのは偽名で、わたしの本名とはぜんぜん違います。
「おまえもびっくりしたよなあ。だって、アニメのキャラと同じ名前だったもんな。知ってるよな、ラブライブくらい」
「な、なな。僕はアニメなんか見ないから、知らないな。へえ、知り合いと同じ名前の女の子が出てくる作品があるんだなあ」
「女の子? 俺は女だなんて一言も言ってねえぜ」
「へ?」
鳳さんがぽかんとします。でも、今回ばかりはわたしも、五反田さんの意図が分かりません。烏丸さんも、よく分かってないように小首を傾げていました。
「第一、マキって名前の男だって、いてもおかしくないと思うぜ」
「で、でで、でも、普通女の子の名前だろ!」
「それは俺に失礼だなあ。俺の下の名前、真樹って言うんだぜ」
ああ、そうでしたね。普段からずっと「五反田さん」って呼ばせていただいているので、すっかり五反田さんのお名前を失念していました。五反田真樹、というのが、五反田さんのフルネームです。
すっかり追い詰められた鳳さんは、今にも泣きそうに震えていました。確かに嘘をついたことは悪いことですが、何もここまで責めなくても良いでしょうに。今日の五反田さんは過激です。
と思ったところで、五反田さんは、今度は無邪気な笑顔になりました。
「――という事実を、黙認してやってもいいぜ」
「へ?」
「おまえが嘘をついてまでこの大学に入り浸っていること、俺は黙ってやってもいい。もちろん条件はあるが」
「じょ、条件って何だ? いや、参考程度に聞いてやるよ」
「俺に、おまえの知り合いっていう、西木野真姫さんを紹介してくれよ」
さて、どういうことでしょうか。ますます五反田さんの考えていることが分かりません。しかし五反田さんは自信たっぷりのご様子。ここは五反田さんにお任せするしかないようです。
一方の鳳さんは、なぜか絶望しているように、お顔を白くさせていました。おてても、可哀想なほどに震えています。
「なんだよ。何をためらう必要がある? 俺だって、先輩みたいなエリートがはべらす女の子がどんなヤツなのか、気になるんだよ」
「い、いや。彼女は今、遠くにいるんだ」
「じゃあラインのアカウント教えてくれよ」
「それは無理だ。彼女、知らない人とは顔を合わせたくないって」
「でも、顔を拝ませてくれるだけでいいんだよ。写真ねえの?」
「しゃ、写真も嫌いだから」
しどろもどろ、鳳さんは答えていきます。
ふ、と五反田さんが息を短く吐きました。
「無理すんなよ。そんな知り合い、いねえんだろ」
「な、なんでそんなことが言えるんだ!」
「言えるぜ。なんせ、この世に西木野なんて苗字は存在しねえからだ」
そう言い放った五反田さんの顔の、なんと気持ち良さそうなこと!
そのお顔は、まるで勝利を確信したスポーツ選手のようでした。対する鳳さんは、死神に今にも殺されそうなお顔をしています。
「なんならスマホで検索してみろよ。今じゃあ、苗字検索なんて便利なデータベースもあるんだぜ。ま、俺の予想じゃあ、まず引っかからねえと思うけど」
「――ほんとだ」
いち早く検索した烏丸さんがびっくりしています。わたしも、その検索結果を見せていただきました。確かに、画面には「該当なし」と表示されています。
「じゃあなんでおまえは、この世に存在しない苗字に反応したのか。知ってたんだよな。このアニメの存在を。そして登場人物の名前も」
「し、知らない! そんなの知らない!」
「まあ、そこはさして問題じゃない。もしかして検索に出てこないだけで、どこかでひっそりと西木野さんが存在している可能性だってあるしな。問題は、ここだ」
ぐに、と、もう一度五反田さんは鳳さんのメガネに指をつけました。
「アニメを知っていようが知りまいが、こいつが名乗ったとき、おまえはこう言うべきだったんだ。――『アニメキャラみたいな可愛い名前だね』」
「ああ……」
鳳さんが頭を抱えて、机に突っ伏してしまいました。
満身創痍な鳳さんを、五反田さんはしつこく攻撃します。
「じゃあおまえは何で、そんなしょーもねえ嘘をついたのか。答えは簡単。女に、アニメを見ている人間だと思われたくなかったからじゃねえの?」
「違う!」鳳さんが復活しました。「お、おまえも! アニメは害悪だと言いたいのか! そんなのただのバイアスだ! 偏見だ!」
「俺は別に、アニメが悪いとは一言も言ってねえだろ。そんなの個人の勝手だからな。そんなことより、俺が今問題にしているのは、おまえが嘘をついたってことだけだ。
おまえは自分の価値を高めるのに必死なのは、今までの話の流れで分かっただろ。おまえの敗因はそこだ。自分はイギリス文学を嗜んで、難関大学の大学院に所属しているくらい頭が切れるような、まさに女の夢みたいな男を演じたかったんだよな?
そんなイメージを植え付けるのに、アニオタであるという事実は、不都合だとおまえは考えたわけだ。
しかし、なんでそこまで虚勢を張るのか。
そんなの、火を見るよりも明らかだよなあ?
おまえは、ただ女にちやほやされたかっただけなんだろ」
とうとう、鳳さんは泣き出しました。食いしばった歯の間からは、違う、違う、と呻き声がもれています。
五反田さんは、そんな鳳さんを、冷たく見下ろしました。
「もっと身も蓋もない言い方してやろうか。おまえはここで女子大生を品定めして、仲良くなったあかつきには、あわよくばエッチしたいんだろ」
「さ、サイテー!」
怒り出したのは烏丸さんです。再び鳳さんを締め上げ、ぶんぶんと前後に激しく揺さぶります。
「そんなこと、たかがそんなことで、こんなみょうちきりんな嘘をついたって言うの!? 恥ずかしいとは思わないわけ!?」
「たかがそんなことだと!?」鳳さんも負けじと言い返します。「おまえには分からないだろうなあ! 僕は、ずっと女に虐げられてきたんだ! その屈辱、おまえには分からないだろうな! だから、今度は僕が、女を好きなようにする番なんだ! いいか!? 女はしょせん、男の肉便器でしかないんだよっ!」
――しん、と。
気づけば食堂は静まり返っていて、誰もが言葉をなくし、烏丸さんと鳳さんを注目しています。それだけではありません。この空間にいる全員が、鳳さんを非難するような目を向けているのです。
かく言うわたしも、なんだか白けてしまいました。
ようやく、鳳さんの浅はかさが分かったような気がします。普段あまり人の悪口を言わないよう気を付けていましたが、今回ばかりは目に余りました。なんですか、肉便器って。なんと失礼な殿方なのでしょう。
そんな中、五反田さんだけが、笑みを浮かべていました。
「ようやく本性を現したな。その性欲の強さ、逆に感服するぜ」
「おまえにも! おまえみたいな、チャラチャラして、女をとっかえひっかえするようなクソ野郎に言われたくない! おまえだって、この人を慰め者にしてるんだろ!」
「そんなことしねえよ。怖えもん」
なんてこと。五反田さんも負けず劣らず失礼です。
と。
鳳さんが雄たけびを上げながら、五反田さんにつかみかかりました。思い切り拳を振り上げています。まさか五反田さんを殴るおつもりでしょうか。そんな物騒なこと、させるわけにはいきません。
「えい!」
これもまた、昔取った杵柄です。
横から鳳さんを捕まえて、頭と腕を、動かせないようにしっかり固定しました。多少痛いでしょうが、こればかりは我慢していただくしかいけません。もう悪いことができないよう、しっかりばっちり、締め上げます。
「――言い忘れたが、鳳先輩」
五反田さんは、心底鳳さんを嘲笑しました。
「その女、元プロレスラーだぜ」
もう! それは昔の話ですよ、五反田さん。
さて、後日談です。
こってり鳳さんを懲らしめて上機嫌な五反田さんのもとに、一人のお客さまがお見えになりました。
その殿方は、ふっさりしたグレーの髪を持つ、スーツの似合う紳士でした。予約も何もなしにお見えになったので、わたしたちはびっくりしてしまいました。どうしましょう。お茶の準備もできていません。
その殿方は、事務所に入るなり、頭を下げました。
「この度は、うちの馬鹿息子がご迷惑をかけました」
「ああ、ひな子と鳳の父さんか」
言われてみれば、そのお顔は烏丸さんたちにそっくりです。特にきりりとした目元は、烏丸さんにそっくりです。身も蓋もない言い方をすれば、烏丸さんはお父さまに似ているのでしょうけど。
烏丸さんのお父さまにお茶をお出しし、わたしも五反田さんたちの会話に加わらせていただきました。
「――信じられないかもしれませんが、鳳は、昔はいい子だったんです。本当に頭も良く、高校も進学校に通っていたんです」
烏丸さんのお父さまが、ぽつぽつと話し始めました。
「私たちも鳳にはとても期待していました。いえ、私たちにとって、鳳がエリートコースに乗ってくれることは、一つの希望でもありました。
鳳が変わったのは、大学受験のときです。この近隣でも屈指の難関大学であるB大の受験を失敗し、そのとき鳳は、三日三晩寝込みました。そして、人が変わったように、嘘をつきだしたのです。
始めは些細な嘘でした。予備校を無断欠席したり、模試の手ごたえを誇張する程度でした。その後、一人暮らしをしたいと申し出てきたので、私たちも鳳の好きにさせました。一人の方が勉強に熱が入るだろうと、判断したためです。
その後、B大に受かったという知らせが届きました。しかし、そのわりに入学金や授業料の請求がないことで、変だなあと疑問に思いました。そうしたら案の定、B大には受かっていなかったようですね。
もっと私たちが厳しく監視していれば、こうしてあなた方に迷惑をかけることもなかったでしょうに。本当に、申し訳ないです」
と、烏丸さんのお父さまはもう一度頭を下げました。
意外だったのが、五反田さんが、頭を上げさせようとしないことです。ため息をひとつ吐くと、呆れたように肩を下げました。
「俺から言わせてもらうと、あなたのその態度が、鳳先輩を狂わせたのではないですか?」
烏丸さんのお父さまが怪訝そうに顔を上げました。
五反田さんはあくまで静かに、烏丸さんのお父さまに言い聞かせるように、言いました。
「あなたの話を聞くに、あなた、鳳先輩にずいぶん厳しく接していたのではないですか? 勉強に専念させるために人付き合いを制限させたり、寸暇を惜しんで勉強させたり、したんじゃないですか?」
「それは……」
「そりゃあ、あなたたちはいいですよ。息子が成績を上げるたび、親である自分の格も上がりますもんね。しかし鳳先輩にとってはどうでしょうか。がり勉っていうのは、同級生にとっては面白くない存在なものです。彼のスクールライフが孤独なものになっているかもしれないと、考えることはできなかったんですか?」
五反田さんはあくまで淡々と、烏丸さんのお父さまを責めました。烏丸さんのお父さまはただひたすら黙って、五反田さんの叱責を受け入れています。
「これはあくまで所感ですが、人間、過去に禁止されているものこそ、大人になってからめちゃくちゃハマるものです。例えば漫画を禁止されている子供が、大きくなったら漫画家になった、なんて話はザラにあります。
鳳先輩の場合、その反動が人間関係であっただけの話です。
あなたがたが鳳先輩の人間関係を締め上げたから、鳳先輩は今になって、人とのつながりを激しく求めるようになったのでは? 特に女性関係ですね。今までロクに女と付き合わせようとしなかった分、鳳先輩は今、異常なほどに女を求めている、と考えられなくもないですか?
そんな鳳先輩を変えたいのなら、今までのあなたがたの態度を改める必要があると、俺は考えますね」
一息でそう言うと、五反田さんは紅茶に口をつけました。
「……厳しいですね、あなたは」
「別に、当たり前のことを言っているだけです。ただ、俺、嫌いなんですよ。なんでもかんでも禁止する親って」
そう唾棄する五反田さんの横顔は、どこか寂しそうにも見えました。
もしかしたら、五反田さんも鳳先輩も同じだったのかもしれません。五反田さんの博識さは、青春を犠牲に成り立っているのかもしれません。ただお二人が違うことは、その反動を正しく律することができるか、の一点につきる、だったり。
なんて、ただの想像ですが。
でもわたしにも複雑な過去があるように、五反田さんにも抱えている闇があるのでしょう。そしてそれは、鳳さんも烏丸さんも、烏丸さんのお父さまも、誰もが同じこと。
「……本当、嫌気がさすぜ」
そのつぶやきは、わたしの耳に、辛うじて入ってきました。
ふわ。
カーテンが、風もなく揺れました。
ガスコンロに乗っかったフライパンを見つめ、わたしは、詰めていた息をようやく吐きました。
ふふ。ようやく積年の研究が、実を結んだのです。
フライパンをもっこり覆うのは、きつね色に焼き上がったカステラ。わざわざ鉄製のフライパンを探した甲斐もありました。黒猫のポアロも、にゃん、とひと鳴きし、一緒に喜んでくれました。
竹串を刺して、念のためですが、焼き加減も確認します。さくっとスムーズに刺さり、なめらかに抜けました。先っぽにも何もついていません。ふふ、完璧な焼き加減ではないですか。
「やりました! ポアロ、やりましたよ!」
「うるせえな鈴蘭! こちとら電話中なんだぞ!」
わたしとしたことが。五反田さんに怒られてしまいました。
わたしのアパートから北西に進み、小さな喫茶店の角を曲がったところに、小さなプレハブの建物があります。
そこは、目抜き通りから外れていることを抜きにしても、非常に人気のないお店です。窓ガラスには白いペンキで殴り書きした「五反田探偵事務所」の文字。そしてその下には、さらに乱れた文字で、「土・日・祝のみ営業」とあります。
そうこのお店、探偵事務所なのです。
わたしはあくまでお手伝いで、探偵さんでいらっしゃるのは、こちらの小さな男の子。背はわたしより小さくて、ほっぺたも子どものようにふっくらしています。実年齢より若く見られがちなこの男の子、それでも本業は学生とおっしゃるのですから、お客さまはみなさんびっくりなさいます。
さて、お客さまのお約束のお時間まで、あと十分になりました。
お茶とお茶請けの準備も万端で、あとは、このお部屋のお片付けを残すのみ。――なのですが、とても十分では片付かないくらい、お言葉は悪いですが、かなりごちゃついております。五反田さんのもとで働き始めてしばらくのうちは、わたしがどうにかしなければ、と躍起になっていたものですが、最近は、めっきり諦めました。とてもわたしの手には負えません。
「鈴蘭」
はい、なんでしょうか。
「今回の客は厄介だぞ。おまえの力が必要だ」
「わたしでよろしければ、いくらでもお手伝いさせていただきます」
「ああー、嫌だ。向こうが約束をすっぽかしてくれたら楽なんだけどなあ」
「もう五反田さん。そうおっしゃらずに」
ぴんぽーん、とインターフォンが鳴りました。
お客さまを出迎えるのもわたしのお仕事です。お客さまをびっくりさせないように、ゆっくり扉を開けました。
そこに立っていらっしゃったのは、すらっとした、高校生くらいの女の子です。
よく日に焼けたショートヘアに、小麦色の肌。どうやらスポーツを嗜まれているようです。女の子はわたしの顔を見るなり、
「うえーん!」
泣き出してしまいました。
「まあ! どうされたのですか? とにかく、お部屋に入りましょうか」
「お姉さん、私、えぐ、ずっと不安だったんです! ぐす。でも、お姉さんが探偵さんで、ひくっ、良かった」
「悪いが探偵は俺だ」
後ろからひょっこり、五反田さんがお顔を覗かせます。女の子はぱちくりと五反田さんのお顔をご覧になると、今度は、五反田さんに抱き着きました。
「あーん! 助けてください!」
「や、止めろ! 離せ! くそ、おまえ力強すぎだろ! おい鈴蘭! 助けろ! どこに行くんだ鈴蘭! 俺を置いて行くな!」
そんなことおっしゃいましても、わたしはお茶を淹れることがお仕事ですので。せっかくカステラも食べごろなので、美味しいうちに、いただいてほしいですものね。
お客様のお名前は「烏丸ひな子」さん。近くの私立高校に通う三年生で、バスケットボール部の元キャプテンだそうです。
始めは泣き止まなかった烏丸さんですが、例のカステラをお出しすると、ぴたりと涙を止めました。
「あの、これ。もしかして、あの有名な絵本の?」
「はい。あの絵本の」
だれもが幼いころ憧れた、あの絵本のカステラです。烏丸さんもおめめをキラキラさせて、フォークでぱくり、と食べてくださいました。
ポアロは烏丸さんのお膝の上にぴょんと飛び乗ると、リラックスした様子で丸くなり、眠り始めました。烏丸さんも、そんなポアロにすっかりメロメロです。
「この猫、可愛いですね。名前は何て言うんですか?」
「ポアロって言います」
「へえ。コナンの?」
「クリスティだ」
五反田さんは心外そうに言いました。
五反田さんもカステラをつまみつつ、お顔をお仕事モードに切り替えました。
「で、依頼は――おまえの兄さんのことか?」
「はい。そうなんです」
烏丸さんも神妙にうなずきました。確かに事前にお電話でお伺いしたことによれば、烏丸さんには大学院に通うお兄さんがいらっしゃるそうです。
「兄は、烏丸鳳といって、大学院で、どこだっけ? イタリア? アメリカ? とにかく、海外文学を専攻してます。相談っていうのは、その兄の、研究のことで」
「研究ぅ? つっても、文学の、だよな? そんなリスキーな研究、しねーよな?」
経営学部の五反田さんがわたしに確認を取ってきますが、おあいにく、わたしも心理学部出身なので、そのあたりはよく分かりません。
烏丸さんは、もう一度泣き出しそうになりながら、こうおっしゃいました。
「兄は、法律を犯す気なんです!」
「――なるほど」
一連のお話をじっくり聞いた五反田さんは、考え込むように、眉間をぐりぐりと揉みました。
「つまるところ、おまえの兄さん、えっと、鳳、だっけ? そいつは他の作者の作品を丸パクリしようとしている、と。どういうこっちゃ?」
「すいません、私、説明が上手くなくて」
「お兄さんは既存の作品を土台にお話を発表されようとしている、ということではないですか?」
「あー、そういうことか」
わたしの拙い説明でも納得してくださったようで、五反田さんは、指をパチンと鳴らしました。
「で、おまえの言うところの法律違反っつーのは、著作権法か。しかし、一体何の作品をパクるつもりなんだ?」
「確か……」
と言いつつ、烏丸さんが取り出したのはスマートフォンでした。数回何かを操作し、わたしたちに見せてくれました。
「これ、兄のブログなんですけど」
「このご時世にSNSではなくブログをしていることがロックな兄さんだな。どれどれ」
その記事には、このように書かれていました。
タイトル:豚丼だぶる♡
本文:今日のお昼は豚丼です(ウインクの絵文字)
相変わらず食堂は満席……後輩たち、ここは勉強をするところじゃないんだぞ!
隣にはクソ男子……もううんざり(泣いている絵文字)
僕ね、悲しくなってくるよね。だって、あいつらまともに勉強してないのに、女の子ちゃんたちに迷惑かけてるんだもん!
でも大丈夫! 僕が守ってあげるからね(投げキッスの絵文字)
なんて言いながら僕も勉強☆
なんと! 今僕は、ミステリ界の女王であるクイーンの遺作を復活させようとしてるんだ!
うふふ、教授たちの驚く顔が見たいなあ(笑顔の絵文字)
「えぐい!」
五反田さんが、とっても速い動きでわたしの陰に隠れてしまいました。あまりに大きなお声だったので、ポアロもおめめをまん丸にして、五反田さんから避難しました。わたしにはよく分かりませんが、五反田さんの、何と言いますか、嫌悪感を刺激してしまったようです。
「言ってることがわけ分かんねえ……異次元の人間だな」
「五反田さん、烏丸さんのお兄さまですよ」
「いいんです。身内でもキモイと思いますから」烏丸さんも冷たいものです。「それより、問題はここです! ていうか、作家さんの遺作を勝手にパクるのって、やっぱりまずいですよね?」
「遺作を掘り起こすくらいなら問題ねえかもしれねえけど、やっぱりそれ以前の問題だから!」
バンバン! と五反田さんが強く机を叩きます。ああ! 紅茶がこぼれてしまいそうです! ポアロもすっかり怯えています。
「クイーンの遺作っつーことは、たぶん『間違いの悲劇』のことなんだろうけど、これ、こんな軽いノリで完成するモンじゃねえんだよ。今日本の大御所ミステリ作家が完成させようとしてるけど、それでも難航してるんだぞ。いや、それ以前の問題なんだけど!」
「それ以前の問題って何ですか? 兄がキモイことですか?」
「今さら言うことでもねえけど、クイーンは女じゃねえし! ダネイもリーも男だし! こいつ、クリスティとごっちゃになってるんじゃね?」
ああ、言われてみればそうですね。私も何作か目を通しましたが、確かに作中のエラリイ・クイーンは男性ですもの。文学に明るくないわたしでも分かることを、果たして大学院の研究者さんが、知らないなんてこと、あるんでしょうか。
五反田さんのお言葉に、烏丸さんは顔色をさっと変えました。そしてソファから立ち上がると、五反田さんに詰め寄ります。
「じゃあ、兄さんは嘘をついてるってことなんですか? 何のために?」
「それは鳳に直接聞くしかねえよな。こいつどこの大学だ? 俺が直接話をつけに行ってくるよ」
「確か、B大学だったと思います。この市内の、国立大学です」
国立のB大学ですって。今度は五反田さんのお顔が固まりました。
それもそのはず。B大学と言えば、五反田さんが今まさに通っている大学ですもの。
ぼうぜんとした五反田さんは、ええ、とお声をもらしました。
「B大に、文学部なんてねえぞ」
ああ、なんということでしょうか。
何か事情があるとは思いますが、鳳さんが嘘をついていることがはっきりしました。
「依頼を変えてもいいですか?」
そう烏丸さんは、悲しそうなお顔で言いました。
「兄さんが、なんで嘘をついているのか、それを知りたいです。場合によっては絞め殺してやります!」
「殺すな殺すな。探ってやるから、殺人だけは起こすな」
五反田さんは、ルーズリーフに何かを書きながら言いました。そして完成したものを、わたしに手渡しました。なんでしょうか、このメモは。
「鈴蘭。おまえ、昔劇団に所属してたって言ってたよな」
「はい。でも、大昔ですよ? お力になれるかどうか」
「アドリブで、このメモの内容を鳳に伝えるんだ。おいひな子。鳳の電話番号を教えてくれ」
「分かりました。でも探偵さん、何するつもりなんですか?」
烏丸さんのもっともな質問に、五反田さんは、ニヒルな笑みを浮かべました。
「釣りをするぞ」
教えてもらった鳳さんのお電話番号に、五反田さんは本当にお電話をかけてしまいました。
ハンズフリーで鳳さんを待つこと数秒、
「はい、烏丸」
と、ようやく鳳さんが出ました。
ここからはわたしの演技力が試されます。もちろん失敗はできません。改めてメモの内容を見ながら、わたしは慎重にお話しました。
「初めまして。わたし、ひな子さんのお友達です。鳳さんと同じ大学に通っているので、鳳さんのことが気になって、お電話差し上げました」
「ぼ、ぼぼ、僕のことが気になるのかい? うふふ、こ、この、B大の大学院生のこの僕が、気になるのかい?」
「はい。イギリス文学を研究されているんですよね。わたしも同じです。主に、イシグロカズオを勉強しています」
「ああ、イシグロカズオねぇ。僕、日本人の作家には興味ないんだ。やっぱり文学はイギリスに限るね!」
「では、ケイン・ホッダーやジャック・ニコルソンとか読まれますか?」
「もちろん! あの情緒的な文体がたまらないよね」
五反田さんは難しいお顔で、わたしたちの会話を聞いています。烏丸さんも、お顔を嫌そうにしかめさせ、黙ってお兄さんのお言葉を傾聴しています。わたしといえば、変に緊張してしまい、なんだか気疲れしてしまいました。
「ねえ、君、僕と会ってみなよ! 君みたいな頭のいい子なら、僕と釣り合いそうだし。ねえ、名前聞かせてよ」
「はい。西木野真姫といいます」
「西木野真姫だって!?」
急に鳳さんの声が大きくなり、わたしたちは揃って、ひゃっと驚いてしまいました。幸い、五反田さんと烏丸さん、そしてポアロの存在に、鳳さんには気づかれなかったようなので、一安心です。
「はい。何か変なことでもありましたか?」
「い、いやいや。知り合いと同姓同名だったから、ちょっとびっくりしちゃったんだ。真姫ちゃんだね? うふふ、真姫ちゃん。可愛い名前だね」
「ありがとうございます」
「じゃあ、明日のお昼、食堂で待ち合わせしようね。ふふ、早く真姫ちゃんに会いたいなあ」
「はい。明日楽しみにしていますね」
――ようやく、お電話が切れました。
ああ、大きなボロも出ずにやり遂げることができて良かったです。これが、昔取った杵柄というのでしょうか。やっぱり、どんな経験も無駄になることはないのですね。
ほっとするわたしとは対照的に、五反田さんのお顔は晴れません。むっつり難しいお顔をして、頭が痛そうに、眉毛の真ん中をもみもみしています。
ああ! と怒り出したのは烏丸さんでした。
「キモイ! 我が兄ながらキモイ! 何ですか、僕と釣り合いそうって! 何様なんだよって話ですよね! うう、サブイボ立ってきた」
「まあ、個性的な殿方ですが、お兄さまをそんなに悪くおっしゃらないでください」
「鈴蘭さんは平気だったんですか? 私だったら、三秒で五回殺してる」
「だから殺生なんて物騒なこと、おっしゃらないで。それに五反田さんも、どうかなさったんですか?」
「いや。なんか、物事が調子良く進みすぎて、怖えなあって」
五反田さん、わたしと鳳さんのお話に、なにかを察知したそうです。ふーっと長く息をして、ぐうっと伸びをしました。
「鳳の思惑はだいたい分かった。ともあれ明日だ。けちょんけちょんにしてやる」
もう、五反田さんまで物騒なことを。
翌日。わたしと五反田さん、烏丸さんは、噂のB大学にやってきました。
烏丸さんは、お兄さまのことが大変気になるご様子で、なんと、学校をお休みして、ついてきてくださったのです。その憤懣たるや、そこらの鬼が裸足で逃げ出すほどです。
それにしても。
初めて五反田さんの通う学校を目の当たりにしましたが、その立派な造りにはびっくりしました。大きな門に、おしゃれな建物。入り口には、三人の警備員がいかめしいお顔で立っています。
「何か最近警備が厳しくなったんだが、まあ、気にするな。おまえたちは一応関係者だ。堂々としてれば誰も気づかないさ」
なるほど。ここは難関大学ですし、わたしくらいの学生さんも珍しくないのでしょう。それに烏丸さんも、高校生にしては大人っぽいお顔をしています。五反田さんの言う通り、堂々としていれば、咎められることもない、と思います。
五反田さんに導かれるがまま、わたしたちは食堂にきました。
やはりお昼時ということで、食堂はかなり混雑していました。鳳さんのブログにもあった通り、昼食を摂っている人もいれば、お勉強をしている人もちらほら見かけます。
「ひな子。鳳はどこだ?」
「うーん……」
烏丸さんは背をいっぱいに伸ばして、ぐるっと食堂を見渡しました。しばらくそうしていると、あ、と烏丸さんはおめめを丸くしました。
「マジで? マジで兄さんがいる!」
「おい馬鹿! 突撃は止めろ!」
走り出した烏丸さんの後を、私たちは必死になって追いかけました。それにしても、机の配置のなんと絶妙なこと。レイアウトとしてはとても整っていますが、なんだか迷路のようです。走っているうちに、お恥ずかしながら、どっちに向かっているのか分からなくなってきました。
「この馬鹿兄貴ー!」
ああ、間に合いませんでした。
烏丸さんは容赦なんて捨て置いたようで、かつ丼をもぐもぐ食べる鳳さんの胸倉をつかんで、本当に締め上げてしまいました。
「く、苦しい! なんでひな子がここにいるんだ! ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ!」
「兄さんだって部外者のくせに!」
「止めろひな子! 殺したらおまえがムショ行きだぞ!」
五反田さんの叱責が効いたのでしょうか、烏丸さんはむっとしながらも、なんとか鳳さんを解放しました。
さて、鳳さんといえば、
鳳さんは、ボリュームのある髪に、厚みのあるメガネをかけています。兄妹というだけあり、顔たちは烏丸さんに似ています。ですが、その、言いにくいことですが、かなりの肥満体です。
五反田さんはお行儀悪く机に腰かけると、鳳さんを睥睨しました。
「よお先輩。うちの西木野真姫ちゃんが世話になったぜ」
「な、なんだ君は! ここは小学生がくる場所じゃないんだぞ!」
「誰が小学生だ!」
ああ。五反田さんが若く見られることは、五反田さんが一番気にしていることですのに。案の定、五反田さんはぷりぷり怒り出しました。
「俺はな、先輩の欺瞞や思惑をぶち壊しに来たぜ。先輩、ぶっちゃけ、この大学の学生じゃあねえよな?」
「な、なな、何を失礼なことを言うんだ。ぼぼ、僕はれっきとした大学院生だぞ。おまえみたいな馬鹿そうな子供とは、頭のつくりが違うんだ!」
「それにしては、先輩、イギリス文学には明るくないみたいだったけど? 第一、クイーンはアメリカ文学だ」
「うるさい! 僕はアメリカ文学にも興味があるんだ!」
「それだけじゃねえ」五反田さんが真剣なお顔になりました。「昨日な、うちの西木野真姫ちゃんに協力してもらって、いくつか罠を張らせてもらったんだ。いやあ、気持ち良かったぜ。先輩、全部の罠にきれいに嵌ってくれたんだから」
鳳さんのお顔が真っ赤になりました。拳をぷるぷるとさせていたので、もしかしてこのまま五反田さんを殴ってしまうのでは、とハラハラしてしまいます。
「わ、罠だって? いったいこの僕が、何の罠に嵌ったと言うんだ?」
「一つ目。イシグロカズオはイギリス人作家だ」
これはわたしたちも、びっくりしてしまいました。だって、日本人のようなお名前ですもの。昨日わたしもお喋りをしながら、変だなあ、とは思っていたのですが、まさかこれが罠だったなんて。
しかし鳳さんも負けていません。額に浮かぶ汗をぬぐって、不敵そうに笑いました。
「そ、そんなドがつくほどマイナーな作家、僕は知らないね」
「おいおい、ノーベル賞作家になんてこと言いやがる。これ、常識だぜ?」
「と、とにかく僕は知らない!」
鳳さんが大きく頭を振りました。ああ、声が泣きそうになっています。
それでも五反田さんは容赦なく鳳さんを追い詰めます。
「二つ目。ケイン・ホッダーとジャック・ニコルソン。これは誰か分かるか?」
「当然だ! 彼らの著作はぜんぶ読んだからな?」
「へえ。彼らは小説家だったんだな。俺はてっきり俳優だとばかり」
なんてこと。鳳さんの身体が震えだしました。今度はお顔を真っ青にしています。
「ジャック・ニコルソンの代表作、知ってるか? あの有名な『シャイニング』、まさか見てないとは言わねえよな?」
「そ、そんな」
「ケイン・ホッダーも知らねえとは言わせねえ。あの『13日の金曜日』のジェイソン役だぜ? いやあ、彼が小説を出してたなんて、初耳だなあ」
「な。ふ、ふふ。そのくらい僕だって知ってたさ。でも、真姫ちゃんの知識レベルに合わせたまでだ」
「それだよ」
ぴん、と五反田さんが指を立て、なんと、鳳さんのメガネに指紋をつけてしまいました。ぎゃっと鳳さんが後ずさりをしました。
「ここまでは序の口。イントロダクションだ。おまえが、少なくとも文学に明るくない、そしてこの学校の学生じゃないってことのな」
「な、なな。何を言ってるんだ?」
「キモはここだ。おまえ、こいつの名前聞いて、変だなあって思わなかったか?」
こいつ、と言って五反田さんが指を差したのはわたしでした。もちろん、西木野真姫というのは偽名で、わたしの本名とはぜんぜん違います。
「おまえもびっくりしたよなあ。だって、アニメのキャラと同じ名前だったもんな。知ってるよな、ラブライブくらい」
「な、なな。僕はアニメなんか見ないから、知らないな。へえ、知り合いと同じ名前の女の子が出てくる作品があるんだなあ」
「女の子? 俺は女だなんて一言も言ってねえぜ」
「へ?」
鳳さんがぽかんとします。でも、今回ばかりはわたしも、五反田さんの意図が分かりません。烏丸さんも、よく分かってないように小首を傾げていました。
「第一、マキって名前の男だって、いてもおかしくないと思うぜ」
「で、でで、でも、普通女の子の名前だろ!」
「それは俺に失礼だなあ。俺の下の名前、真樹って言うんだぜ」
ああ、そうでしたね。普段からずっと「五反田さん」って呼ばせていただいているので、すっかり五反田さんのお名前を失念していました。五反田真樹、というのが、五反田さんのフルネームです。
すっかり追い詰められた鳳さんは、今にも泣きそうに震えていました。確かに嘘をついたことは悪いことですが、何もここまで責めなくても良いでしょうに。今日の五反田さんは過激です。
と思ったところで、五反田さんは、今度は無邪気な笑顔になりました。
「――という事実を、黙認してやってもいいぜ」
「へ?」
「おまえが嘘をついてまでこの大学に入り浸っていること、俺は黙ってやってもいい。もちろん条件はあるが」
「じょ、条件って何だ? いや、参考程度に聞いてやるよ」
「俺に、おまえの知り合いっていう、西木野真姫さんを紹介してくれよ」
さて、どういうことでしょうか。ますます五反田さんの考えていることが分かりません。しかし五反田さんは自信たっぷりのご様子。ここは五反田さんにお任せするしかないようです。
一方の鳳さんは、なぜか絶望しているように、お顔を白くさせていました。おてても、可哀想なほどに震えています。
「なんだよ。何をためらう必要がある? 俺だって、先輩みたいなエリートがはべらす女の子がどんなヤツなのか、気になるんだよ」
「い、いや。彼女は今、遠くにいるんだ」
「じゃあラインのアカウント教えてくれよ」
「それは無理だ。彼女、知らない人とは顔を合わせたくないって」
「でも、顔を拝ませてくれるだけでいいんだよ。写真ねえの?」
「しゃ、写真も嫌いだから」
しどろもどろ、鳳さんは答えていきます。
ふ、と五反田さんが息を短く吐きました。
「無理すんなよ。そんな知り合い、いねえんだろ」
「な、なんでそんなことが言えるんだ!」
「言えるぜ。なんせ、この世に西木野なんて苗字は存在しねえからだ」
そう言い放った五反田さんの顔の、なんと気持ち良さそうなこと!
そのお顔は、まるで勝利を確信したスポーツ選手のようでした。対する鳳さんは、死神に今にも殺されそうなお顔をしています。
「なんならスマホで検索してみろよ。今じゃあ、苗字検索なんて便利なデータベースもあるんだぜ。ま、俺の予想じゃあ、まず引っかからねえと思うけど」
「――ほんとだ」
いち早く検索した烏丸さんがびっくりしています。わたしも、その検索結果を見せていただきました。確かに、画面には「該当なし」と表示されています。
「じゃあなんでおまえは、この世に存在しない苗字に反応したのか。知ってたんだよな。このアニメの存在を。そして登場人物の名前も」
「し、知らない! そんなの知らない!」
「まあ、そこはさして問題じゃない。もしかして検索に出てこないだけで、どこかでひっそりと西木野さんが存在している可能性だってあるしな。問題は、ここだ」
ぐに、と、もう一度五反田さんは鳳さんのメガネに指をつけました。
「アニメを知っていようが知りまいが、こいつが名乗ったとき、おまえはこう言うべきだったんだ。――『アニメキャラみたいな可愛い名前だね』」
「ああ……」
鳳さんが頭を抱えて、机に突っ伏してしまいました。
満身創痍な鳳さんを、五反田さんはしつこく攻撃します。
「じゃあおまえは何で、そんなしょーもねえ嘘をついたのか。答えは簡単。女に、アニメを見ている人間だと思われたくなかったからじゃねえの?」
「違う!」鳳さんが復活しました。「お、おまえも! アニメは害悪だと言いたいのか! そんなのただのバイアスだ! 偏見だ!」
「俺は別に、アニメが悪いとは一言も言ってねえだろ。そんなの個人の勝手だからな。そんなことより、俺が今問題にしているのは、おまえが嘘をついたってことだけだ。
おまえは自分の価値を高めるのに必死なのは、今までの話の流れで分かっただろ。おまえの敗因はそこだ。自分はイギリス文学を嗜んで、難関大学の大学院に所属しているくらい頭が切れるような、まさに女の夢みたいな男を演じたかったんだよな?
そんなイメージを植え付けるのに、アニオタであるという事実は、不都合だとおまえは考えたわけだ。
しかし、なんでそこまで虚勢を張るのか。
そんなの、火を見るよりも明らかだよなあ?
おまえは、ただ女にちやほやされたかっただけなんだろ」
とうとう、鳳さんは泣き出しました。食いしばった歯の間からは、違う、違う、と呻き声がもれています。
五反田さんは、そんな鳳さんを、冷たく見下ろしました。
「もっと身も蓋もない言い方してやろうか。おまえはここで女子大生を品定めして、仲良くなったあかつきには、あわよくばエッチしたいんだろ」
「さ、サイテー!」
怒り出したのは烏丸さんです。再び鳳さんを締め上げ、ぶんぶんと前後に激しく揺さぶります。
「そんなこと、たかがそんなことで、こんなみょうちきりんな嘘をついたって言うの!? 恥ずかしいとは思わないわけ!?」
「たかがそんなことだと!?」鳳さんも負けじと言い返します。「おまえには分からないだろうなあ! 僕は、ずっと女に虐げられてきたんだ! その屈辱、おまえには分からないだろうな! だから、今度は僕が、女を好きなようにする番なんだ! いいか!? 女はしょせん、男の肉便器でしかないんだよっ!」
――しん、と。
気づけば食堂は静まり返っていて、誰もが言葉をなくし、烏丸さんと鳳さんを注目しています。それだけではありません。この空間にいる全員が、鳳さんを非難するような目を向けているのです。
かく言うわたしも、なんだか白けてしまいました。
ようやく、鳳さんの浅はかさが分かったような気がします。普段あまり人の悪口を言わないよう気を付けていましたが、今回ばかりは目に余りました。なんですか、肉便器って。なんと失礼な殿方なのでしょう。
そんな中、五反田さんだけが、笑みを浮かべていました。
「ようやく本性を現したな。その性欲の強さ、逆に感服するぜ」
「おまえにも! おまえみたいな、チャラチャラして、女をとっかえひっかえするようなクソ野郎に言われたくない! おまえだって、この人を慰め者にしてるんだろ!」
「そんなことしねえよ。怖えもん」
なんてこと。五反田さんも負けず劣らず失礼です。
と。
鳳さんが雄たけびを上げながら、五反田さんにつかみかかりました。思い切り拳を振り上げています。まさか五反田さんを殴るおつもりでしょうか。そんな物騒なこと、させるわけにはいきません。
「えい!」
これもまた、昔取った杵柄です。
横から鳳さんを捕まえて、頭と腕を、動かせないようにしっかり固定しました。多少痛いでしょうが、こればかりは我慢していただくしかいけません。もう悪いことができないよう、しっかりばっちり、締め上げます。
「――言い忘れたが、鳳先輩」
五反田さんは、心底鳳さんを嘲笑しました。
「その女、元プロレスラーだぜ」
もう! それは昔の話ですよ、五反田さん。
さて、後日談です。
こってり鳳さんを懲らしめて上機嫌な五反田さんのもとに、一人のお客さまがお見えになりました。
その殿方は、ふっさりしたグレーの髪を持つ、スーツの似合う紳士でした。予約も何もなしにお見えになったので、わたしたちはびっくりしてしまいました。どうしましょう。お茶の準備もできていません。
その殿方は、事務所に入るなり、頭を下げました。
「この度は、うちの馬鹿息子がご迷惑をかけました」
「ああ、ひな子と鳳の父さんか」
言われてみれば、そのお顔は烏丸さんたちにそっくりです。特にきりりとした目元は、烏丸さんにそっくりです。身も蓋もない言い方をすれば、烏丸さんはお父さまに似ているのでしょうけど。
烏丸さんのお父さまにお茶をお出しし、わたしも五反田さんたちの会話に加わらせていただきました。
「――信じられないかもしれませんが、鳳は、昔はいい子だったんです。本当に頭も良く、高校も進学校に通っていたんです」
烏丸さんのお父さまが、ぽつぽつと話し始めました。
「私たちも鳳にはとても期待していました。いえ、私たちにとって、鳳がエリートコースに乗ってくれることは、一つの希望でもありました。
鳳が変わったのは、大学受験のときです。この近隣でも屈指の難関大学であるB大の受験を失敗し、そのとき鳳は、三日三晩寝込みました。そして、人が変わったように、嘘をつきだしたのです。
始めは些細な嘘でした。予備校を無断欠席したり、模試の手ごたえを誇張する程度でした。その後、一人暮らしをしたいと申し出てきたので、私たちも鳳の好きにさせました。一人の方が勉強に熱が入るだろうと、判断したためです。
その後、B大に受かったという知らせが届きました。しかし、そのわりに入学金や授業料の請求がないことで、変だなあと疑問に思いました。そうしたら案の定、B大には受かっていなかったようですね。
もっと私たちが厳しく監視していれば、こうしてあなた方に迷惑をかけることもなかったでしょうに。本当に、申し訳ないです」
と、烏丸さんのお父さまはもう一度頭を下げました。
意外だったのが、五反田さんが、頭を上げさせようとしないことです。ため息をひとつ吐くと、呆れたように肩を下げました。
「俺から言わせてもらうと、あなたのその態度が、鳳先輩を狂わせたのではないですか?」
烏丸さんのお父さまが怪訝そうに顔を上げました。
五反田さんはあくまで静かに、烏丸さんのお父さまに言い聞かせるように、言いました。
「あなたの話を聞くに、あなた、鳳先輩にずいぶん厳しく接していたのではないですか? 勉強に専念させるために人付き合いを制限させたり、寸暇を惜しんで勉強させたり、したんじゃないですか?」
「それは……」
「そりゃあ、あなたたちはいいですよ。息子が成績を上げるたび、親である自分の格も上がりますもんね。しかし鳳先輩にとってはどうでしょうか。がり勉っていうのは、同級生にとっては面白くない存在なものです。彼のスクールライフが孤独なものになっているかもしれないと、考えることはできなかったんですか?」
五反田さんはあくまで淡々と、烏丸さんのお父さまを責めました。烏丸さんのお父さまはただひたすら黙って、五反田さんの叱責を受け入れています。
「これはあくまで所感ですが、人間、過去に禁止されているものこそ、大人になってからめちゃくちゃハマるものです。例えば漫画を禁止されている子供が、大きくなったら漫画家になった、なんて話はザラにあります。
鳳先輩の場合、その反動が人間関係であっただけの話です。
あなたがたが鳳先輩の人間関係を締め上げたから、鳳先輩は今になって、人とのつながりを激しく求めるようになったのでは? 特に女性関係ですね。今までロクに女と付き合わせようとしなかった分、鳳先輩は今、異常なほどに女を求めている、と考えられなくもないですか?
そんな鳳先輩を変えたいのなら、今までのあなたがたの態度を改める必要があると、俺は考えますね」
一息でそう言うと、五反田さんは紅茶に口をつけました。
「……厳しいですね、あなたは」
「別に、当たり前のことを言っているだけです。ただ、俺、嫌いなんですよ。なんでもかんでも禁止する親って」
そう唾棄する五反田さんの横顔は、どこか寂しそうにも見えました。
もしかしたら、五反田さんも鳳先輩も同じだったのかもしれません。五反田さんの博識さは、青春を犠牲に成り立っているのかもしれません。ただお二人が違うことは、その反動を正しく律することができるか、の一点につきる、だったり。
なんて、ただの想像ですが。
でもわたしにも複雑な過去があるように、五反田さんにも抱えている闇があるのでしょう。そしてそれは、鳳さんも烏丸さんも、烏丸さんのお父さまも、誰もが同じこと。
「……本当、嫌気がさすぜ」
そのつぶやきは、わたしの耳に、辛うじて入ってきました。
ふわ。
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0
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