境界標の彼と終わらない怪異を

りく太

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2章:御霊様

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「見てごらん」

冬馬くんがそう言って、スマホのライトを傾ける。古い銅鏡の裏面。鈍く黒ずんだ金属の地肌に、獣の爪痕のような傷が食い込んでいた。

「これって……爪の跡?」

私の声は、少しだけ上ずっていた。

「大きさからしても熊あたりが妥当じゃないかな?」

冬馬くんはそれだけ言うと、社の奥へとずかずか土足で踏み入った。しばらく躊躇していた私も、その背に引きずられるようにしてついて行く。室内は土の匂いが強く、わずかに獣臭さも混じっていた。

木箱がいくつか積まれていた。冬馬くんは迷いなく一つの蓋を開ける。埃がふわりと舞い上がり、その中にあるものが月明かりとライトに照らされた。

白く乾いた骨。大きな頭蓋。毛皮の破片が布の間に紛れ込んでいる。

「……熊……」

「こんな山奥だ、熊くらい出てもおかしくないだろうね」

冬馬くんは言いながら、さほど関心もなさそうに蓋を閉じた。その態度に、何かが張り詰める。社の中にいること自体が間違いのような気がして、私は無意識に腕を抱いた。

「ねぇ、帰ろう。心霊も怖いけど……熊とか……そっちの方も無理……」

私の声に、冬馬くんはようやくこちらを振り返った。

「そうだね。蚊も多いし、戻ろうか」

 軽く言って、彼は社を出る。その背中を追いかけながら、私は滝の音を背を向けた。

 

寺に戻ると、冬馬くんは迷わず蔵へと向かった。夜の静けさの中、寺の回廊はやけに長く感じた。湿った石畳の匂いが鼻に残る。

「勝手に蔵を漁るとか、本当にどうかしてる……」

私が呆れ混じりにそう言うと、冬馬くんは肩越しに振り返り、笑った。

「どうかしてるのはこの村さ。祟りだのなんだの、そんな事より僕の好奇心の方が大切だというのにねぇ」

そこから先は言葉にならなかった。
蔵の扉を開けた瞬間、ほこりっぽい空気がふわりと鼻先をくすぐる。

棚の隅に積まれた木箱。それを一つずつ何かを確認するかのように開けていく。
しばらくすると冬馬くんが、何かを手に取った。紙の束……いや、日記だった。

紙はすっかり黄ばんでおり湿気を含んでわずかに波打っていたが、墨はまだ残っていた。細く丁寧な筆致。
冬馬くんはそれを静かに読み進めていった。

「ねぇ、なにが書いてるの……?」

「昔々に亡くなった村人たちの名前と原因が書かれているね……」

「過去帳ってこと?」

そう聞き返すが、冬馬くんは小さく首を振った。

「……昔、この村にね、冬眠できなかった熊が出たんだって」

彼は指で文字をなぞりながら、ぽつぽつと言葉をつないでいく。

「冬のさなかだった。飢えた熊が山を下りてきて、村を襲った。人が何人も死んだらしいよ。家が壊され、家畜が食い荒らされて……村人たちは震えて、逃げまどった」

私の喉がごくりと鳴った。

「でも、坊主がいた。村にひとりだけ。彼が持ってた銅鏡の光に熊が怯んでね、そこでようやく反撃に出られた。村人が総出でその熊を殺した。奇跡のような話だよ」

冬馬くんは文字から目を離し、私の目を見た。

「で、その熊をどうしたと思う?」

私は躊躇いながら答えた。

「……捨てた、んじゃないの?」

「食べたんだよ」

その声は、静かで、どこか遠かった。

「冬の山村だ。食料なんて無いに等しい。人が襲われた相手を、感謝しながら、亡くなった同胞たちに侘びながら食べたんだ。守る命も、守られなかった命も……全部ひとまとめにして、“御霊様”って名前を与え供養したんだとさ」

私は言葉を失った。

「ほら見ろよ……僕のことを罰当たりだとか言いやがって。あいつら、どれだけ虚像に怯えて踊らされてるか分かってないんだよ」

彼は日記をぱたんと閉じた。

「御霊様は祟りでも、救いでもない。ただ、抗えない不条理を押し込んだ過去だ」

「……でも、村人たちは“封じ神”って言ってたよ……」

「年月の中で意味はねじれるよ……あるいは、誰かが意図して変えたのかもしれない。悲しい出来事より、英雄伝にしたほうがなにかと都合がいいからね」

冬馬くんはそう言うと日記を雑に箱に投げ捨てた。

「やっぱり御霊様は、本当は神でもなんでもないよ」

「でも……なら、再度封じるために名前を寄越せって言われた訳は?熊の臭いは?……あれも全部、嘘なの?」

私の問いに、冬馬くんはかすかに笑った。

「嘘だからこそさ。人々の信仰の残滓だよ。中身の伴わない神という箱にそうであってほしいという村人たちの願う気持ちが、形を持っただけ……想いが積もれば、怪異になる」

人を小馬鹿にするように言葉尻を強く言い切った。

私は思い出していた。あの夜、扉の向こうから響いてきた「高橋さんの声」。それが壊れかけた録音みたいだったこと。

「あれ、声が壊れてた……音割れしてた……あれって……」

「どんなに積もっても、想いなんてもんは、生きてる人間にはなれないんだよ。できることは、せいぜい人間の行動を模倣するしかない。でも、力が足りないから、模倣すら保てない」

「……だから、名前を捧げたがる?」

「多分君の考え、正解だと思うよ」

冬馬くんは少し目を細め、小さく笑った。

「村の人たちも多分どこかで気がついているのかもね。アレは神でもなんでもなくて、人の想いである穢れに似たものだから人の名という穢れで力を増すと……でも、そんな事をするモノは、もう神でも祟りでもない。ただの寄せ集めの塊さ」

「……どうすれば、終わるの?」

冬馬くんは、ようやく真正面から私の目を見た。

「簡単さ。“倒した”って言えばいい」

「えっ……?」

「信じることで生まれた存在なら、信じなくなれば消える。もう終わったと村人が信じられるなら、それで御霊様は存在できない」

その時、冬馬くんの目に浮かんでいたのは、決して皮肉でも嘲笑でもなかった。

私は静かに頷いた。
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