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第14話 女神認定は辞退できますの
第14話 女神認定は辞退できますの
アストレア王都の朝は、王国より静かだった。
少なくとも、タリアにはそう感じられた。
王国の朝は、書類と急報と催促の足音で始まる。
だが、アストレアの神殿で迎える朝は違った。窓の外では鳥が鳴き、噴水の水音が遠くに聞こえ、廊下を行き来する神官たちの足取りも、慌ただしさより節度の方が勝っている。
それだけで、だいぶ人間らしい気持ちになれる。
タリアは柔らかな寝台の上でゆっくりと身を起こした。
昨夜はよく眠れた。
知らない土地での初めての夜だというのに、王都にいた時よりずっと深く眠れた気がするのだから、我ながらどうなのだろうと思う。
だが、眠れたものは眠れたのだ。
それは大事である。
「おはようございます、お嬢様」
支度を整えに入ってきたリネットが一礼する。
「おはよう」
「よくお休みになれましたか」
「ええ。久しぶりに、人の仕事を肩代わりしなくていいと思いながら眠れましたわ」
リネットが少しだけ微笑んだ。
「何よりでございます」
彼女もまた、王国を離れてからわずかに肩の力が抜けていた。侍女は主人の空気に影響されるものだし、主人もまた侍女の空気に影響される。長い付き合いの中でそうなったのだろう。
着替えを終え、軽い朝食を取っている最中に、部屋の外で控えめなノックがあった。
「タリア様」
扉の向こうから聞こえたのは、昨日の大神官付きの若い神官の声だった。
「大神官様がお時間をいただきたいと」
「朝から?」
「はい。ですが、ご都合が悪ければ後ほどに」
その声音には、王国の使者たちとは違う慎重さがあった。
“呼べば当然来るだろう”ではなく、“来てもらえるだろうか”の響きだ。
それだけでだいぶ違う。
「少し待っていただいて」
「かしこまりました」
扉の向こうで足音が下がる。
タリアはスープの匙を置き、リネットを見る。
「何の話かしら」
「たぶん、昨日の続きでは」
「女神認定のお話?」
「おそらく」
たいへん面倒そうだった。
だが、逃げていても片づかない話ではある。
それに、昨日の大神官は少なくとも話が通じる方だった。王国の王太子よりは、はるかに。
「では、参りましょうか」
「かしこまりました」
大神官の執務室は、神殿の奥まった場所にあった。
白い回廊をいくつか折れ、静かな中庭に面した一角。大広間ほど大げさではなく、だが質素すぎもしない。棚には分厚い書物が並び、窓辺には香木が焚かれ、机の上には整えられた書簡の束があった。
書簡の束。
それを見た瞬間、タリアはほんの少しだけ目を細めた。
整えられてはいるが、量はそこそこある。嫌な記憶を刺激する形状である。
「おはようございます、タリア様」
大神官は席を立って迎えた。
「ごきげんよう」
「朝からお呼び立てして申し訳ない」
「いえ。呼びつけるような言い方ではありませんでしたもの」
タリアがそう返すと、大神官はわずかに苦笑した。
「我らも、少しは学んでおります」
「何をです?」
「便利な相手ほど、雑に扱ってはならぬということを」
ずいぶん率直だった。
タリアはそこで、少しだけ機嫌を直す。
そういうことを正面から言える人間は、嫌いではない。
勧められた椅子に腰を下ろすと、リネットはいつものように半歩後ろへ控えた。
「それで」
タリアは単刀直入に尋ねる。
「本日は何のお話ですの?」
「主に三つ」
大神官は指を軽く折る。
「ひとつ、アストレア王家からの正式な打診」
「まあ」
「ひとつ、神殿内での貴女の位置づけ」
「それは大変面倒そうですわね」
「ええ。かなり」
大神官がまったく否定しなかったので、タリアは少しだけ笑った。
「そして最後に、貴女ご自身のご希望を、どこまで制度の中へ落とし込めるかです」
それは少しだけ興味深かった。
「希望、ですの?」
「ええ。昨日、いくつか条件を口にしておられたでしょう」
昼寝の時間。
静かな生活。
朝から晩まで拝まないこと。
橋も山も井戸も人も書類も、まとめて当然のように押しつけないこと。
確かに、いろいろ言った。
「それを“善処します”で済ませるのは簡単ですが」
大神官は机の上の書簡を軽く整えながら続ける。
「そういう曖昧な約束は、貴女にとっても我らにとってもよろしくない」
「珍しく誠実ですこと」
「珍しいとおっしゃるあたり、前の国の扱いが知れますね」
タリアは何も答えなかった。
答えなくても、大神官はそれで十分理解したようだった。
「まず、王家からの打診について」
大神官は一通の書簡を手に取った。
「アストレア王家は、貴女へ保護と滞在資格、必要に応じた居住地の提供を正式に申し出ています」
「条件は?」
「必要な時に限り、助力を願いたい、と」
「必要な時」
タリアはその言葉を繰り返した。
「その“必要”は、どなたが決めますの?」
ここは重要だった。
王国では、だいたい“向こうが面倒だと感じたら全部必要”だったのだから。
大神官は即答した。
「まずは神殿と王家。ですが、最終的に断る権利は貴女にある形にしたい」
「したい、ですのね」
「現時点ではまだ、そこを詰めております」
完全に決まっている話ではないらしい。
だが、そこを最初から論点にしているのは悪くない。
「断ったら?」
「断った以上、それは貴女の務めではないと確定します」
そこまで聞いて、タリアは少しだけ考えた。
王国との違いは明白だった。
向こうでは、できるかどうかがそのまま義務になった。
こちらでは少なくとも、“引き受けるかどうか”の段階がある。
その差は大きい。
「次」
タリアが促すと、大神官は頷いた。
「神殿内での位置づけですが」
「はい、面倒そうな方」
「ええ。非常に」
大神官は一度咳払いをした。
「伝承との一致から、“女神の化身”に近い扱いを主張する声は強い」
「辞退できますの?」
タリアは即座に言った。
大神官は少し考えてから答える。
「完全には難しいでしょう」
「……でしょうね」
予想通りではある。
「ですが、儀礼上の敬称と、実際の権利義務は切り分けられます」
「どういうこと?」
「要するに、神官たちが内心でどう崇めるかは止めきれない。だが、それを理由に貴女へ公的な義務を課さないようにすることは可能です」
それは、わりと大きい話だった。
崇められること自体は面倒だ。
だが、崇められた結果として祭礼や義務や常時対応まで付いてきたら、もっと面倒である。
「つまり」
タリアは整理するように言う。
「女神と思いたい方は勝手に思えばいいけれど、そのせいで朝から晩まで祭壇に立たされることはない、と?」
「そういうことです」
「少しだけましですわね」
大神官がそこで、ほんの少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
合格点がもらえたとでも思ったのかもしれない。
「最後に、ご希望について」
「ええ」
「王家も神殿も、貴女に無理な拘束はかけたくない」
「本当に?」
「少なくとも私は本気です」
「少なくとも、ですのね」
「王家全員の本心までは保証しかねますので」
率直でよろしい、とタリアは思う。
誰も彼もが善人です、などと言われるよりずっと信用できる。
大神官は紙を一枚広げた。
そこには、いくつか項目が並んでいる。
滞在地の選択。
出仕義務なし。
要請への応答は任意。
神殿儀礼への常時参加義務なし。
随行者の自由。
私的時間の保障。
私的時間の保障、という文字を見て、タリアはほんの少しだけ目を細めた。
「これは」
「昼寝の時間も含みます」
大神官が真顔で言った。
リネットが、背後でほんのわずかに肩を揺らした。笑っているのだろう。
「……そこまで書きますの?」
「必要なことは書面に残すべきです」
神殿の人間とは思えぬほど実務的だった。
だが、こういう実務性は嫌いではない。むしろ好きだ。
「では、ひとつ追加で」
タリアは紙を見ながら言った。
「“困っているから”と“都合が悪いから”を混同して持ち込まれることがないように」
「具体的には?」
「本当に困っている方がいる案件なら考えますわ。ですが、誰かが面倒だからとこちらへ流すのはお断りです」
大神官は静かに頷いた。
「承知しました」
「あと、書類整理はしません」
「……そこは強調なさるのですね」
「強調しますわ」
王太子の決裁書類の山が、脳裏にくっきり浮かんだ。
あれは二度と思い出したくない光景である。
大神官は項目に何かを書き足した。
「執務補佐は含まれない、と」
「ええ。ついでに、誰かの署名位置を整えるのもお断りです」
「よほどお嫌いだったのですね」
「嫌いというより、聖女の務めに数えられていたのが納得できませんでしたわ」
タリアがそう言うと、大神官はほんの少しだけ遠い目になった。
「王国というのは、時に人を便利道具として使うことに無自覚でいられるものなのですね」
「無自覚どころか、“ありがたいでしょう”くらいの顔で押しつけてきますわよ」
それは皮肉ではなく事実だった。
大神官は、しばし黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「女神認定は辞退できますの、とおっしゃいましたね」
「ええ」
「正直に申します」
大神官はタリアをまっすぐ見た。
「完全な辞退は難しい」
「でしょうね」
「ですが、“女神として働く義務”までは認めさせません」
その言い方は、少しだけ力強かった。
神殿内でも意見が割れているのだろう。
だからこそ、ここまではっきり言うのだ。
「では、わたくしは何として扱われるのかしら」
タリアが尋ねると、大神官は少し考えた。
「表向きには、“アストレアの客人”」
「それはいいですわね」
「神殿内では、“伝承に連なる特別な御方”」
「長いですわ」
「女神、よりはましでしょう」
それはたしかにそうだった。
タリアは少しだけ笑う。
「妥協案としては及第点ですわ」
大神官の顔にも、ようやく安堵の色が浮かぶ。
「では、王家へもその線で話を通します」
「お願いね」
「ただし」
「また、ただし?」
「王家のどなたかが、貴女へ直接挨拶を望まれるかもしれません」
「誰かしら」
「第一王女殿下が、すでに強い関心を」
それは、少し面倒そうだった。
だが王太子レオニードほどではないだろう、たぶん。
「断れますの?」
「……状況によります」
「正直ですこと」
「信用を失いたくないので」
それはよい傾向である。
タリアは紙をもう一度眺めた。
条件が文字になっているだけで、だいぶ安心できる。
王国では何もかもが“当然でしょう?”の一言で押し流されていたのだから。
「では」
タリアは静かに言う。
「この条件が守られる限り、しばらくはお世話になりますわ」
「感謝いたします」
「ただし」
今度はタリアがその言葉を使った。
「橋も山も井戸も人も、ぜんぶ当然のように流れてきたら、その日のうちに逃げます」
「肝に銘じます」
「本当に?」
「ええ」
「昼寝の時間が削られても?」
「そこは最重要項目です」
「よろしい」
ようやく話がまとまった気がした。
長かった。
だが、無駄ではなかった。
タリアが立ち上がると、大神官も席を立つ。
「お疲れでしょう」
「ええ。女神認定の辞退交渉など、人生でそう何度もするものではありませんもの」
「たしかに、それは前例が乏しい」
「前例にしないでほしいですわ」
大神官が、ごく小さく笑った。
執務室を出ると、回廊には静かな光が差していた。
風が抜け、白い石壁に木々の影が揺れている。
リネットが半歩寄ってきて、声を潜める。
「いかがでしたか」
「思ったよりはましでしたわ」
「女神認定は」
「辞退できませんでした」
「まあ」
「ですが、昼寝の権利は確保しました」
「それは重大ですね」
「ええ。たいへん重大です」
リネットは真顔で頷いた。
主従そろって、その点だけはふざけていない。
「では、お部屋へお戻りになりますか」
「そうしますわ。今日はもう、これ以上大きな話になりたくありませんもの」
「どうやら、聖女よりも話が大きくなりましたね」
「困りましたわ」
「聖女の方がよろしかったですか」
「少なくとも、女神よりはましだったのではなくて?」
「では、次は何になられるのでしょう」
「それ以上大きくなったら本気で逃げますわ」
それは冗談ではなく、本音だった。
だが、回廊の窓から差し込む光は穏やかで、空気は軽かった。
少なくともこの国では、まだ誰もタリアに書類の山を押しつけながら“聖女なら当然”とは言わない。
それだけで、十分にましだとタリアは思った。
アストレア王都の朝は、王国より静かだった。
少なくとも、タリアにはそう感じられた。
王国の朝は、書類と急報と催促の足音で始まる。
だが、アストレアの神殿で迎える朝は違った。窓の外では鳥が鳴き、噴水の水音が遠くに聞こえ、廊下を行き来する神官たちの足取りも、慌ただしさより節度の方が勝っている。
それだけで、だいぶ人間らしい気持ちになれる。
タリアは柔らかな寝台の上でゆっくりと身を起こした。
昨夜はよく眠れた。
知らない土地での初めての夜だというのに、王都にいた時よりずっと深く眠れた気がするのだから、我ながらどうなのだろうと思う。
だが、眠れたものは眠れたのだ。
それは大事である。
「おはようございます、お嬢様」
支度を整えに入ってきたリネットが一礼する。
「おはよう」
「よくお休みになれましたか」
「ええ。久しぶりに、人の仕事を肩代わりしなくていいと思いながら眠れましたわ」
リネットが少しだけ微笑んだ。
「何よりでございます」
彼女もまた、王国を離れてからわずかに肩の力が抜けていた。侍女は主人の空気に影響されるものだし、主人もまた侍女の空気に影響される。長い付き合いの中でそうなったのだろう。
着替えを終え、軽い朝食を取っている最中に、部屋の外で控えめなノックがあった。
「タリア様」
扉の向こうから聞こえたのは、昨日の大神官付きの若い神官の声だった。
「大神官様がお時間をいただきたいと」
「朝から?」
「はい。ですが、ご都合が悪ければ後ほどに」
その声音には、王国の使者たちとは違う慎重さがあった。
“呼べば当然来るだろう”ではなく、“来てもらえるだろうか”の響きだ。
それだけでだいぶ違う。
「少し待っていただいて」
「かしこまりました」
扉の向こうで足音が下がる。
タリアはスープの匙を置き、リネットを見る。
「何の話かしら」
「たぶん、昨日の続きでは」
「女神認定のお話?」
「おそらく」
たいへん面倒そうだった。
だが、逃げていても片づかない話ではある。
それに、昨日の大神官は少なくとも話が通じる方だった。王国の王太子よりは、はるかに。
「では、参りましょうか」
「かしこまりました」
大神官の執務室は、神殿の奥まった場所にあった。
白い回廊をいくつか折れ、静かな中庭に面した一角。大広間ほど大げさではなく、だが質素すぎもしない。棚には分厚い書物が並び、窓辺には香木が焚かれ、机の上には整えられた書簡の束があった。
書簡の束。
それを見た瞬間、タリアはほんの少しだけ目を細めた。
整えられてはいるが、量はそこそこある。嫌な記憶を刺激する形状である。
「おはようございます、タリア様」
大神官は席を立って迎えた。
「ごきげんよう」
「朝からお呼び立てして申し訳ない」
「いえ。呼びつけるような言い方ではありませんでしたもの」
タリアがそう返すと、大神官はわずかに苦笑した。
「我らも、少しは学んでおります」
「何をです?」
「便利な相手ほど、雑に扱ってはならぬということを」
ずいぶん率直だった。
タリアはそこで、少しだけ機嫌を直す。
そういうことを正面から言える人間は、嫌いではない。
勧められた椅子に腰を下ろすと、リネットはいつものように半歩後ろへ控えた。
「それで」
タリアは単刀直入に尋ねる。
「本日は何のお話ですの?」
「主に三つ」
大神官は指を軽く折る。
「ひとつ、アストレア王家からの正式な打診」
「まあ」
「ひとつ、神殿内での貴女の位置づけ」
「それは大変面倒そうですわね」
「ええ。かなり」
大神官がまったく否定しなかったので、タリアは少しだけ笑った。
「そして最後に、貴女ご自身のご希望を、どこまで制度の中へ落とし込めるかです」
それは少しだけ興味深かった。
「希望、ですの?」
「ええ。昨日、いくつか条件を口にしておられたでしょう」
昼寝の時間。
静かな生活。
朝から晩まで拝まないこと。
橋も山も井戸も人も書類も、まとめて当然のように押しつけないこと。
確かに、いろいろ言った。
「それを“善処します”で済ませるのは簡単ですが」
大神官は机の上の書簡を軽く整えながら続ける。
「そういう曖昧な約束は、貴女にとっても我らにとってもよろしくない」
「珍しく誠実ですこと」
「珍しいとおっしゃるあたり、前の国の扱いが知れますね」
タリアは何も答えなかった。
答えなくても、大神官はそれで十分理解したようだった。
「まず、王家からの打診について」
大神官は一通の書簡を手に取った。
「アストレア王家は、貴女へ保護と滞在資格、必要に応じた居住地の提供を正式に申し出ています」
「条件は?」
「必要な時に限り、助力を願いたい、と」
「必要な時」
タリアはその言葉を繰り返した。
「その“必要”は、どなたが決めますの?」
ここは重要だった。
王国では、だいたい“向こうが面倒だと感じたら全部必要”だったのだから。
大神官は即答した。
「まずは神殿と王家。ですが、最終的に断る権利は貴女にある形にしたい」
「したい、ですのね」
「現時点ではまだ、そこを詰めております」
完全に決まっている話ではないらしい。
だが、そこを最初から論点にしているのは悪くない。
「断ったら?」
「断った以上、それは貴女の務めではないと確定します」
そこまで聞いて、タリアは少しだけ考えた。
王国との違いは明白だった。
向こうでは、できるかどうかがそのまま義務になった。
こちらでは少なくとも、“引き受けるかどうか”の段階がある。
その差は大きい。
「次」
タリアが促すと、大神官は頷いた。
「神殿内での位置づけですが」
「はい、面倒そうな方」
「ええ。非常に」
大神官は一度咳払いをした。
「伝承との一致から、“女神の化身”に近い扱いを主張する声は強い」
「辞退できますの?」
タリアは即座に言った。
大神官は少し考えてから答える。
「完全には難しいでしょう」
「……でしょうね」
予想通りではある。
「ですが、儀礼上の敬称と、実際の権利義務は切り分けられます」
「どういうこと?」
「要するに、神官たちが内心でどう崇めるかは止めきれない。だが、それを理由に貴女へ公的な義務を課さないようにすることは可能です」
それは、わりと大きい話だった。
崇められること自体は面倒だ。
だが、崇められた結果として祭礼や義務や常時対応まで付いてきたら、もっと面倒である。
「つまり」
タリアは整理するように言う。
「女神と思いたい方は勝手に思えばいいけれど、そのせいで朝から晩まで祭壇に立たされることはない、と?」
「そういうことです」
「少しだけましですわね」
大神官がそこで、ほんの少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
合格点がもらえたとでも思ったのかもしれない。
「最後に、ご希望について」
「ええ」
「王家も神殿も、貴女に無理な拘束はかけたくない」
「本当に?」
「少なくとも私は本気です」
「少なくとも、ですのね」
「王家全員の本心までは保証しかねますので」
率直でよろしい、とタリアは思う。
誰も彼もが善人です、などと言われるよりずっと信用できる。
大神官は紙を一枚広げた。
そこには、いくつか項目が並んでいる。
滞在地の選択。
出仕義務なし。
要請への応答は任意。
神殿儀礼への常時参加義務なし。
随行者の自由。
私的時間の保障。
私的時間の保障、という文字を見て、タリアはほんの少しだけ目を細めた。
「これは」
「昼寝の時間も含みます」
大神官が真顔で言った。
リネットが、背後でほんのわずかに肩を揺らした。笑っているのだろう。
「……そこまで書きますの?」
「必要なことは書面に残すべきです」
神殿の人間とは思えぬほど実務的だった。
だが、こういう実務性は嫌いではない。むしろ好きだ。
「では、ひとつ追加で」
タリアは紙を見ながら言った。
「“困っているから”と“都合が悪いから”を混同して持ち込まれることがないように」
「具体的には?」
「本当に困っている方がいる案件なら考えますわ。ですが、誰かが面倒だからとこちらへ流すのはお断りです」
大神官は静かに頷いた。
「承知しました」
「あと、書類整理はしません」
「……そこは強調なさるのですね」
「強調しますわ」
王太子の決裁書類の山が、脳裏にくっきり浮かんだ。
あれは二度と思い出したくない光景である。
大神官は項目に何かを書き足した。
「執務補佐は含まれない、と」
「ええ。ついでに、誰かの署名位置を整えるのもお断りです」
「よほどお嫌いだったのですね」
「嫌いというより、聖女の務めに数えられていたのが納得できませんでしたわ」
タリアがそう言うと、大神官はほんの少しだけ遠い目になった。
「王国というのは、時に人を便利道具として使うことに無自覚でいられるものなのですね」
「無自覚どころか、“ありがたいでしょう”くらいの顔で押しつけてきますわよ」
それは皮肉ではなく事実だった。
大神官は、しばし黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「女神認定は辞退できますの、とおっしゃいましたね」
「ええ」
「正直に申します」
大神官はタリアをまっすぐ見た。
「完全な辞退は難しい」
「でしょうね」
「ですが、“女神として働く義務”までは認めさせません」
その言い方は、少しだけ力強かった。
神殿内でも意見が割れているのだろう。
だからこそ、ここまではっきり言うのだ。
「では、わたくしは何として扱われるのかしら」
タリアが尋ねると、大神官は少し考えた。
「表向きには、“アストレアの客人”」
「それはいいですわね」
「神殿内では、“伝承に連なる特別な御方”」
「長いですわ」
「女神、よりはましでしょう」
それはたしかにそうだった。
タリアは少しだけ笑う。
「妥協案としては及第点ですわ」
大神官の顔にも、ようやく安堵の色が浮かぶ。
「では、王家へもその線で話を通します」
「お願いね」
「ただし」
「また、ただし?」
「王家のどなたかが、貴女へ直接挨拶を望まれるかもしれません」
「誰かしら」
「第一王女殿下が、すでに強い関心を」
それは、少し面倒そうだった。
だが王太子レオニードほどではないだろう、たぶん。
「断れますの?」
「……状況によります」
「正直ですこと」
「信用を失いたくないので」
それはよい傾向である。
タリアは紙をもう一度眺めた。
条件が文字になっているだけで、だいぶ安心できる。
王国では何もかもが“当然でしょう?”の一言で押し流されていたのだから。
「では」
タリアは静かに言う。
「この条件が守られる限り、しばらくはお世話になりますわ」
「感謝いたします」
「ただし」
今度はタリアがその言葉を使った。
「橋も山も井戸も人も、ぜんぶ当然のように流れてきたら、その日のうちに逃げます」
「肝に銘じます」
「本当に?」
「ええ」
「昼寝の時間が削られても?」
「そこは最重要項目です」
「よろしい」
ようやく話がまとまった気がした。
長かった。
だが、無駄ではなかった。
タリアが立ち上がると、大神官も席を立つ。
「お疲れでしょう」
「ええ。女神認定の辞退交渉など、人生でそう何度もするものではありませんもの」
「たしかに、それは前例が乏しい」
「前例にしないでほしいですわ」
大神官が、ごく小さく笑った。
執務室を出ると、回廊には静かな光が差していた。
風が抜け、白い石壁に木々の影が揺れている。
リネットが半歩寄ってきて、声を潜める。
「いかがでしたか」
「思ったよりはましでしたわ」
「女神認定は」
「辞退できませんでした」
「まあ」
「ですが、昼寝の権利は確保しました」
「それは重大ですね」
「ええ。たいへん重大です」
リネットは真顔で頷いた。
主従そろって、その点だけはふざけていない。
「では、お部屋へお戻りになりますか」
「そうしますわ。今日はもう、これ以上大きな話になりたくありませんもの」
「どうやら、聖女よりも話が大きくなりましたね」
「困りましたわ」
「聖女の方がよろしかったですか」
「少なくとも、女神よりはましだったのではなくて?」
「では、次は何になられるのでしょう」
「それ以上大きくなったら本気で逃げますわ」
それは冗談ではなく、本音だった。
だが、回廊の窓から差し込む光は穏やかで、空気は軽かった。
少なくともこの国では、まだ誰もタリアに書類の山を押しつけながら“聖女なら当然”とは言わない。
それだけで、十分にましだとタリアは思った。
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主人公レイシアが、自身を貶めてきた人々にざまぁする物語──
※現在、読者様が読み易いように文面を調整・加筆しております。
※ご感想・ご意見につきましては、近況ボードをご覧いただければ幸いです。
《皆様のご愛読、誠に感謝致しますm(*_ _)m
当初、完結後の番外編等は特に考えておりませんでしたが、皆様のご愛読に感謝し、書かせて頂くことに致しました。加筆等が終わり次第、番外編として物語の更新を予定しております。更新を今暫くお待ちくださいませ。 凛 伊緒》
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誤字脱字、申し訳ありません。