これは聖女のお仕事ではありません 〜便利扱いされた偽聖女は追放後、隣国で溺愛されました〜

けろ

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第12話 そんなに前任の方が良かったなら

第12話 そんなに前任の方が良かったなら

 セラフィーナは、その日一日、たいへんよく耐えた。

 耐えた、という表現がいちばん正確だった。

 自室へ戻ってからも、王宮の使者は次々にやって来た。
 教会からの確認。地方からの追加報告。騎士団からの治癒要請の打診。王都下町の井戸について、浄化後の経過確認。さらに、なぜか王太子レオニードの執務室から「先ほどの件の続きを」という呼び出しまで届いた。

 全部まとめて断りたい。
 少なくとも今すぐには。

 だが、セラフィーナはそこまで不義理な人間ではない。
 教会関係と地方対応だけは最低限捌き、騎士団には明朝の確認を約束し、井戸の件は神官へ任せる形で返し、レオニードの呼び出しだけを最後まで放置した。

 放置したが、最終的には逃げ切れなかった。

 夕方、まるで当然のように本人がやって来たのだ。

 ノックも浅く、返事を待つ余裕もない。
 扉が開き、王太子レオニードが不機嫌そうな顔で入ってくる。

「どういうつもりだ」

 部屋へ入るなり、それが第一声だった。

 セラフィーナは窓辺の椅子に座っていた。
 ちょうど、少し冷めたお茶を飲んでいたところである。

 静かにカップを置き、彼女はゆっくり顔を上げた。

「何のことでございましょう」

「白々しい。私の呼び出しを後回しにしたことだ」

 そこなのだ。
 そこが、この人の駄目なところなのだと、セラフィーナはこの数日でかなり明確に理解してしまった。

 地方の雨。
 井戸の浄化。
 騎士団の負傷者。
 そういうものより先に、自分の機嫌と都合が来る。

 だから、あれほどの量をタリアひとりへ押しつけていたのだろう。

「お忙しいのは分かりますが、わたくしも本日は地方から戻ったばかりです」

「だから何だ」

「だから、休息と整理の時間が必要でした」

 レオニードは鼻で笑った。

「前任の女は、地方から戻ってもすぐ片づけていたぞ」

 また、それだ。

 セラフィーナの中で、かちり、と音がした気がした。

 昼間、執務室で切れかけたものとは少し違う。
 あちらは怒りだった。
 こちらは、もう少し乾いた何か。

 限界に達した水差しが、ようやくひび割れる時の音に似ている。

 セラフィーナは立ち上がった。

 立ち上がっても、声は静かだった。

「あいつなら、やった」

 レオニードがわずかに眉を動かす。
 自分の言葉を、そのまま返されるとは思わなかったのだろう。

「あいつなら、やった……」

 セラフィーナは、今度は少しだけはっきり繰り返した。

「橋も、土砂崩れも、雨乞いも、治癒も、井戸の浄化も、書類整理も、王太子殿下の決裁補佐も」

 そこまで言って、ほんの一拍置く。

「そんなに前任の方が良かったなら、もう一度お願いして聖女になってもらってください」

 ついに言った。

 室内の空気が、ぴしりと張り詰める。

 レオニードはまさかそこまで言い返されるとは思っていなかった顔をした。
 だが、驚いている暇があるなら少しは考えてほしい。

 セラフィーナはもう止まらなかった。

「私には聖女以上のお仕事は、無理です」

 きっぱりと、はっきりと、言い切る。

「橋は架けられません。山を削って道を戻すこともできません。王都の排水路管理も、王太子殿下の執務補佐も、全部まとめて聖女の務めと言われましても困ります」

「お前は真の聖女だろう!」

「ええ。祈りと浄化と治癒については」

「ならば――」

「それ以上は違います」

 レオニードの顔色が変わる。
 苛立ちと、理解できないものを前にした苛立ちだ。

「何が違う!」

「役割が違います」

「屁理屈だ!」

「屁理屈ではありません!」

 そこでとうとう、セラフィーナの声が一段上がった。

 王太子相手に声を荒げるなど、本来ならするべきではない。
 教会でも神殿でも、そう教わってきた。

 けれど、ここまで来るともう無理だった。

「聖女とは、祈りと癒やしを捧げる者でしょう! 王国の道路補修責任者でも、土木局でも、王太子の秘書官でもありません!」

 レオニードが言葉を失う。

 そうだ。
 言葉を失うべきなのはこちらではなく、そちらなのだ。

「前任の方がなさっていたのは、あの方が規格外だっただけです」

「規格外……?」

「ええ!」

 セラフィーナは、もはや笑顔を作る気もなかった。

「わたくしには、あの方のように柏手三回で何でも片づけることはできません! そんなもの、普通ではありません!」

 そこまで言って、自分がついに口に出したことに気づく。

 柏手三回。
 土砂崩れ。
 橋。
 雨。

 やはり全部見えてきてしまった。
 タリアがやっていたことの異常さが。

 そして、それを全部ひとまとめにして、自分へ持ってこられている理不尽さが。

「私には聖女以上のお仕事は、無理です」

 もう一度、今度は少し低く言い直す。

「そんなに前任の方が良かったなら、前任の方へお願いなさってください」

 部屋の空気は凍りついていた。

 レオニードは顔を赤くし、青くし、それからまた赤くした。
 怒鳴りたいのだろう。叱りつけたいのだろう。
 けれど、何を言えばいいのかが見つからない顔だった。

 その時、セラフィーナの中で最後の一線が切れた。

 もう、駄目だ。

「私、実家に帰らせてもらいます」

 ぽつりと、ではない。
 はっきりとした声で、そう言った。

 レオニードが目を剥く。

「何だと?」

「申し上げた通りです」

「待て!」

「待ちません」

 セラフィーナはすでに扉の方へ向かっていた。

 このままここにいても、もっとひどい言葉を言うことになる。
 いや、むしろ今までよくこの程度で済ませたものだ。

「セラフィーナ!」

 背後でレオニードが声を荒げる。

「王太子の命に逆らうのか!」

「逆らうのではありません」

 セラフィーナは振り返った。

 その顔に、もう聖女らしい柔らかさはなかった。
 冷えきった諦めと、正論だけがある。

「これ以上、聖女ではない仕事まで押しつけられるのは無理だと申し上げているのです」

「お前は王太子妃になるのだぞ!」

「まだなっておりません」

「いずれなる!」

「でしたら、いずれ考えます」

 レオニードが絶句する。

 たぶん、こんなふうに返されると思っていなかったのだろう。
 自分の未来予想図の中では、聖女はもっと従順で、もっとありがたく、もっと黙って耐えるものだったに違いない。

 だが残念ながら、セラフィーナは本物の聖女候補であっても、便利な木偶ではなかった。

「とにかく」

 セラフィーナは扉に手をかける。

「今夜は失礼いたします」

「勝手は許さん!」

「勝手をなさっておられるのは、どちらでしょう」

 レオニードの顔がぴしりと固まる。

 その一瞬を残して、セラフィーナは部屋を出た。

 扉が閉まる。

 廊下に出た瞬間、足から力が抜けそうになる。
 だが、倒れるわけにはいかなかった。

 そこには、騒ぎを聞きつけたらしい女官と侍従が、気まずそうな顔で控えていたからだ。

「セラフィーナ様……」

 女官が青い顔で呼びかける。

 セラフィーナは、深く息を吸った。

「馬車を」

「はい?」

「実家へ戻る馬車をご用意ください」

「ほ、本気でいらっしゃいますか」

「本気です」

 きっぱりと言い切ると、女官はさすがに狼狽えた。
 だが、その狼狽は責めるためのものではない。
 ただ、王宮内で起きていることの異常さに巻き込まれている人間の顔だった。

「せ、せめて、神殿へ先にご相談を」

「ええ。そういたします」

 セラフィーナは頷いた。

「神殿には、わたくしからきちんと申し上げます。……これは、聖女候補としての辞意ではありません」

「では……」

「王太子殿下の便利屋になるのをお断りするだけです」

 侍従が、思わず目を閉じた。
 聞きたくなかった本音を、とうとう耳にしてしまったという顔だ。

 だが、誰かが言わなければならなかった。
 いや、もうタリアが言っていたのだ。

 「これは聖女のお仕事ではありません」

 あれは嫌味でも皮肉でもなく、ただの正論だったのだと、セラフィーナはいまようやく骨身にしみて理解している。

 回廊の窓の外には、夕暮れが近づいていた。
 赤く染まる庭園を見ながら、セラフィーナは小さく息をつく。

 疲れた。
 本当に疲れた。

 けれど、その疲れの中にも、わずかな安堵がある。
 口に出してしまったからだ。
 違うものを違うと。
 背負えないものを背負えないと。

 その時、遠くでレオニードが何かを怒鳴っている声が聞こえた。
 内容までは分からない。分かりたくもない。

「あの方、よく今まで耐えておられましたわね」

 思わず漏れたその呟きに、そばの女官が顔を上げた。

「あの方、とは」

「タリア・グラキア様のことです」

 女官は、複雑そうな表情を浮かべた。
 それも当然だろう。
 数日前まで偽聖女呼ばわりされていた公爵令嬢の名を、真の聖女候補がこんな形で口にするのだから。

 けれど、セラフィーナにはもうごまかす気がなかった。

「あの方が偽聖女だったのではなく」

 静かに言う。

「誰よりも理不尽な扱いを受けていただけなのではありませんか」

 その一言は、夕方の静かな回廊によく響いた。

 誰もすぐには答えられない。
 だが、否定する者もいなかった。

 真の聖女候補までもが王宮を去ろうとしている。
 その事実は、タリアがいなくなった穴の大きさを、もうこれ以上ないほど明確に示していた。

 レオニードだけが、まだ分かっていない。

 分かっていないからこそ、ここまで壊せるのだろう。

 セラフィーナは背筋を伸ばし、静かに歩き出した。

 まずは神殿へ。
 そして、その次は実家へ。

 王宮に残るのは、山積みの書類と、比較だけで人を使い潰そうとする王太子と、ようやく露わになり始めた現実だ。

 それらがどうなるのかは、もう知ったことではない。

 少なくとも今夜は、王太子の執務補佐も、地方からの催促も、自分の役目ではない。

 そう思っただけで、胸の奥が少しだけ軽くなった。
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