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第7話 開かれた隠し金庫
第7話 開かれた隠し金庫
レオニールが去ったあとの小応接間には、しばらく静かな余韻が残っていた。
誰かに慰められたわけではない。
助けを約束されたわけでもない。
けれど、ただ見ている者がいるという事実は、思っていたより心を冷静にした。
だからこそ、次にやるべきことも、いっそうはっきり見えた。
継母ベアトリクスがこの家の中で好き勝手に振る舞えたのは、言葉だけではない。
金があった。
金の流れを握っていた。
少なくとも、そう見せかけていた。
ならば次に開くべきは、そこだ。
「お嬢様」
夕方前、アルヴィンが執務室へ戻ってきた。
「帳場の古参より報告が」
「ええ」
「西棟側が独自に管理していた保管庫があるようです」
「保管庫?」
「はい。表向きは“季節装飾品の予備置き場”として扱われておりますが、実際には帳簿と金箱の出入りがあったとのこと」
「場所は」
「旧衣装庫の奥です」
「……あそこ」
アウレリアはゆっくりと目を細めた。
北側回廊の先にある古い衣装庫。
母が生きていた頃は、季節外れの布地や家具用の覆いをしまっていた場所だ。
けれど継母が屋敷の中を取り仕切るようになってから、いつの間にか「奥様の管理」とされ、出入りする者も限られるようになっていた。
「鍵は?」
「西棟の家政係が預かっていたようですが、本日、持ち場から外しております」
「なら」
「開けられます」
「……そう」
胸の奥で、静かに何かが引き締まる。
ここまで来ると、もう予感ではない。
何かがある。
しかもベアトリクスが、人に見られたくないものが。
「今すぐ行きましょう」
アルヴィンがすぐに頷く。
「立会いは」
「必要ね」
「では、家令補佐と帳場の古参、それから記録係を呼びます」
「ハインリヒ先生も」
「金庫でございますが?」
「ええ。中身が帳簿だけとは限らないわ」
「承知いたしました」
支度は早かった。
アウレリア、アルヴィン、マーサ、家令補佐、帳場の老人、記録係、そしてハインリヒ。
そこに男手が二人つく。
ぞろぞろと動くのではなく、必要な人数だけが静かに集まる。
いかにも家探しのような騒ぎにしないのは、まだこの段階では余計な刺激を避けたいからだ。
旧衣装庫は、予想以上に冷えていた。
北側で日当たりが悪いせいもある。
だがそれだけではない。
長く人の温もりが入っていない場所特有の、湿り気のない冷たさがあった。
扉を開くと、薄暗い室内には確かに古い布地や覆いが積まれている。
見た目だけなら、ただの物置だ。
「……普通に見えますな」
家令補佐が呟く。
「ええ」
アウレリアは室内を見回した。
「でも“普通に見せたい場所”ほど、普通ではないことが多いわ」
帳場の老人が、おずおずと奥を指差した。
「あちらでございます」
「奥?」
「はい。以前、運び入れの時に……布の棚の向こうへ、鍵を使って入っていくのを」
「隠し扉かしら」
「おそらくは」
男手が棚を慎重に動かす。
すると、その後ろの壁に不自然な継ぎ目が現れた。
布に隠れるように、細い扉が設けられている。
「本当にあったわね」
マーサが低く呟く。
アルヴィンが継ぎ目を確かめる。
「内鍵式ではなく、側面錠にございます」
「鍵は?」
「探します」
けれど鍵は意外なほどあっさり見つかった。
すぐ近くの布箱の底、予備の房飾りに紛れ込ませるようにして、小さな鉄鍵が一つ隠されていたのだ。
「雑になっているわ」
アウレリアが言うと、アルヴィンが短く頷く。
「急いでおられたのでしょう」
「ええ。婚約破棄で浮かれすぎたのか、逆に余裕がなくなったのか」
「どちらもかと」
鍵が差し込まれ、ゆっくり回される。
重い音がした。
扉の向こうは、小さな保管室だった。
棚。
木箱。
革袋。
帳簿束。
そして壁際に据えられた、中型の鉄金庫。
全員が一瞬、言葉を失った。
季節装飾品の予備置き場。
その奥にあるには、あまりに整いすぎた空間だった。
「……これは」
家令補佐が息を呑む。
「完全に私的保管庫ですな」
「ええ」
「しかも、かなりの量にございます」
アウレリアは一歩、中へ入った。
埃はある。
だが薄い。
つまり最近まで頻繁に使われていたということだ。
最初に手をつけたのは、棚に並ぶ帳簿だった。
表紙には何も書かれていない。
あるいは、曖昧な記号だけ。
けれど中を開けばすぐわかる。
「……西棟支出記録」
「見せて」
アウレリアが受け取る。
そこに記されていたのは、屋敷の正式帳簿には載せにくい支出だった。
宝飾品の購入。
仕立て代。
私的な贈り物。
特別手当と称した現金の動き。
口止めと思しき名目不明の支払い。
さらには、王都の商人への短期立替金まである。
しかもその額が、思っていた以上に大きい。
「ひどい……」
エマが思わず声を漏らした。
「これ、全部」
「ええ」
アウレリアは頁をめくる。
「正式帳簿の外側で動かしていた金ね」
帳場の老人が青ざめる。
「こんな額、わしは存じ上げませんでした……」
「でしょうね」
アルヴィンが別の束を手に取った。
「こちらは、使用人関係の一覧です」
「何が書いてあるの?」
「……退去済み侍女、下働き、雑役の名と、その後の評価書」
「評価書?」
「はい。“素行不良”“酒癖”“持病”“縁談のため退去”など」
「嘘ね」
「そのようです」
マーサが顔をしかめる。
「皆、追い出された時の言い訳ばかりだわ」
「ええ。そして、継母側が公式に残したい筋書きでもある」
アウレリアの声は冷たかった。
「追い出したのではない。本人たちが勝手にいなくなった。そう見せかけるための記録よ」
ハインリヒが、棚の下段から小箱を持ち上げた。
「こちらも」
「何?」
「薬瓶です」
室内の空気が変わる。
小箱の中には、いくつかの小瓶が丁寧に並べられていた。
透明なもの。
濃い茶色のもの。
粉末が残るもの。
ハインリヒは慎重に一本を取り出し、匂いを確かめる。
「……やはり」
「何かわかる?」
「すぐ断定はできませんが、以前の茶から検出した刺激性混合物と近い成分が含まれている可能性があります」
「ここにも、か」
アウレリアは目を伏せた。
ベアトリクスは、屋敷の中で偶然自分を弱らせていたわけではない。
記録し、管理し、続けるつもりでいたのだ。
そのための場所が、ここだった。
「お嬢様」
アルヴィンが、今度は鉄金庫の前で呼ぶ。
「こちらは」
「開けられそう?」
「鍵が必要でしょうな」
「探して」
「はい」
鍵はまたしても、遠くにはなかった。
帳簿束の裏に隠されるように、小さな革袋があり、その中に金庫鍵と印章が入っていた。
「印章まで……」
「ええ」
アウレリアは革袋の中身を見た。
公爵家の正式印ではない。
だが、十分に厄介なものだ。
家政代行用の印。
支払確認印。
そして、父の署名を模した練習紙片。
その一瞬、室内の空気が凍った。
紙片には、同じ名前が何度も何度も書かれている。
癖を真似るように。
角度を合わせるように。
震えを寄せるように。
「……最悪ね」
アウレリアの声は静かだった。
けれどその静けさが、逆に恐ろしかった。
ベアトリクスが署名偽造を行っていた証拠。
しかも“できてしまった結果”ではない。
練習してまで真似ていた証拠だ。
「開けます」
アルヴィンが言う。
金庫の鍵が回る。
重い音。
扉が開く。
中には、想像以上のものが詰まっていた。
現金。
高価な宝石。
売却予定だったと思われる家財の一覧。
貴金属の預かり証。
そしてもう一つ、薄い綴じ冊子。
表書きには、こうある。
『殿下関連 支出整理』
全員が言葉を失った。
「……王太子関係」
「ええ」
アウレリアは冊子を受け取り、ゆっくりと開く。
そこには、王太子クラウスまわりに流していた金と便宜の記録が、驚くほど露骨にまとめられていた。
季節ごとの衣装便宜。
侍女増員に伴う立替。
贈答品の肩代わり。
茶会・夜会の不足分補填。
王太子宮付き商家への信用保証。
そして、婚約継続を前提として“当然のように流した”と書かれた複数の支出。
「……まあ」
マーサが、呆れたように呟く。
「これでは」
「ええ」
アウレリアは頁を閉じた。
「クラウス様が、どれだけ自分の足で立っていなかったか、全部わかるわ」
家令補佐が息を吐く。
「殿下ご本人がご存じならまだしも、おそらくご存じではなかったでしょうな」
「でしょうね」
「だとすれば、なおさら危うい」
「ええ。知らないまま食っていたのなら、より悪いわ」
帳場の老人が震える声で言う。
「お嬢様……これほどの金が、西棟だけで勝手に……」
「そう」
「わしらは正式帳簿しか見ておりませなんだ」
「だからこそ別にしていたのでしょう」
アウレリアは辺りを見回した。
小さな保管室。
そこに積まれた嘘と金と偽りの信用。
ベアトリクスはこの場所で、自分の王国を作ったつもりだったのだろう。
家の金を削り、使用人を切り、娘たちを飾り、王太子宮へ流し、自分の立場を固めるために。
だが、今となってはただの証拠の山だ。
「記録を」
アウレリアが言う。
「全部、一点ずつ」
「はい」
「帳簿も、金箱も、印章も、署名練習紙も」
「かしこまりました」
「金庫の中身は封印し直して別保管。西棟には一切知らせないで」
「承知」
「薬瓶はハインリヒ先生へ」
「お預かりします」
皆が動き始める。
その流れはもう止まらない。
アウレリアは、例の『殿下関連 支出整理』と書かれた冊子をもう一度手に取った。
婚約があったから流していた金。
王太子だから当然だと、周囲が思い込むよう仕向けられていた支援。
その実態が、ここに全部ある。
クラウスは、これを知らないまま自分を切ったのだ。
なら、その愚かさもまた、もうすぐ形になる。
「お嬢様」
アルヴィンが静かに呼ぶ。
「はい」
「ここまで揃えば、西棟は終わりです」
「ええ」
「継母様は、もう“家を回していた後妻”ではいられません」
「そうね」
アウレリアは冊子を閉じた。
「ただの簒奪者になるわ」
そして、ほんの少しだけ目を細める。
「しかも、お金の流れまで汚い簒奪者」
保管室の奥には、まだいくつか未確認の箱が残っていた。
だがもう十分だった。
継母による横領。
署名偽造。
不正支出。
娘たちへの私的流用。
王太子宮への便宜供与。
婚約破棄の翌朝、止まった金と支援。
その意味を裏側から証明する材料が、ここにはそろっている。
アウレリアは一歩、外へ出た。
旧衣装庫のひんやりした空気から廊下へ戻ると、陽の匂いが少しだけした。
長く閉じられていたものを開けたあとの空気は、いつも少し特別だ。
「これで、ようやく言えるわね」
誰にともなく呟く。
「わたくしが支えていたのは、婚約だけではなかったと」
その声は静かだった。
けれど確かな重さがあった。
ベアトリクスは、祝杯をあげていた。
ミレイユも、クロエも、自分たちが勝ったと思っている。
だがその足元では、もう金まで止まり、帳簿まで開かれ、隠していた金庫まで暴かれた。
ここから先、西棟が勝者の顔をしていられる時間は、もう長くない。
それを思うと、アウレリアの胸の奥には、冷たく澄んだ満足が静かに広がっていった。
レオニールが去ったあとの小応接間には、しばらく静かな余韻が残っていた。
誰かに慰められたわけではない。
助けを約束されたわけでもない。
けれど、ただ見ている者がいるという事実は、思っていたより心を冷静にした。
だからこそ、次にやるべきことも、いっそうはっきり見えた。
継母ベアトリクスがこの家の中で好き勝手に振る舞えたのは、言葉だけではない。
金があった。
金の流れを握っていた。
少なくとも、そう見せかけていた。
ならば次に開くべきは、そこだ。
「お嬢様」
夕方前、アルヴィンが執務室へ戻ってきた。
「帳場の古参より報告が」
「ええ」
「西棟側が独自に管理していた保管庫があるようです」
「保管庫?」
「はい。表向きは“季節装飾品の予備置き場”として扱われておりますが、実際には帳簿と金箱の出入りがあったとのこと」
「場所は」
「旧衣装庫の奥です」
「……あそこ」
アウレリアはゆっくりと目を細めた。
北側回廊の先にある古い衣装庫。
母が生きていた頃は、季節外れの布地や家具用の覆いをしまっていた場所だ。
けれど継母が屋敷の中を取り仕切るようになってから、いつの間にか「奥様の管理」とされ、出入りする者も限られるようになっていた。
「鍵は?」
「西棟の家政係が預かっていたようですが、本日、持ち場から外しております」
「なら」
「開けられます」
「……そう」
胸の奥で、静かに何かが引き締まる。
ここまで来ると、もう予感ではない。
何かがある。
しかもベアトリクスが、人に見られたくないものが。
「今すぐ行きましょう」
アルヴィンがすぐに頷く。
「立会いは」
「必要ね」
「では、家令補佐と帳場の古参、それから記録係を呼びます」
「ハインリヒ先生も」
「金庫でございますが?」
「ええ。中身が帳簿だけとは限らないわ」
「承知いたしました」
支度は早かった。
アウレリア、アルヴィン、マーサ、家令補佐、帳場の老人、記録係、そしてハインリヒ。
そこに男手が二人つく。
ぞろぞろと動くのではなく、必要な人数だけが静かに集まる。
いかにも家探しのような騒ぎにしないのは、まだこの段階では余計な刺激を避けたいからだ。
旧衣装庫は、予想以上に冷えていた。
北側で日当たりが悪いせいもある。
だがそれだけではない。
長く人の温もりが入っていない場所特有の、湿り気のない冷たさがあった。
扉を開くと、薄暗い室内には確かに古い布地や覆いが積まれている。
見た目だけなら、ただの物置だ。
「……普通に見えますな」
家令補佐が呟く。
「ええ」
アウレリアは室内を見回した。
「でも“普通に見せたい場所”ほど、普通ではないことが多いわ」
帳場の老人が、おずおずと奥を指差した。
「あちらでございます」
「奥?」
「はい。以前、運び入れの時に……布の棚の向こうへ、鍵を使って入っていくのを」
「隠し扉かしら」
「おそらくは」
男手が棚を慎重に動かす。
すると、その後ろの壁に不自然な継ぎ目が現れた。
布に隠れるように、細い扉が設けられている。
「本当にあったわね」
マーサが低く呟く。
アルヴィンが継ぎ目を確かめる。
「内鍵式ではなく、側面錠にございます」
「鍵は?」
「探します」
けれど鍵は意外なほどあっさり見つかった。
すぐ近くの布箱の底、予備の房飾りに紛れ込ませるようにして、小さな鉄鍵が一つ隠されていたのだ。
「雑になっているわ」
アウレリアが言うと、アルヴィンが短く頷く。
「急いでおられたのでしょう」
「ええ。婚約破棄で浮かれすぎたのか、逆に余裕がなくなったのか」
「どちらもかと」
鍵が差し込まれ、ゆっくり回される。
重い音がした。
扉の向こうは、小さな保管室だった。
棚。
木箱。
革袋。
帳簿束。
そして壁際に据えられた、中型の鉄金庫。
全員が一瞬、言葉を失った。
季節装飾品の予備置き場。
その奥にあるには、あまりに整いすぎた空間だった。
「……これは」
家令補佐が息を呑む。
「完全に私的保管庫ですな」
「ええ」
「しかも、かなりの量にございます」
アウレリアは一歩、中へ入った。
埃はある。
だが薄い。
つまり最近まで頻繁に使われていたということだ。
最初に手をつけたのは、棚に並ぶ帳簿だった。
表紙には何も書かれていない。
あるいは、曖昧な記号だけ。
けれど中を開けばすぐわかる。
「……西棟支出記録」
「見せて」
アウレリアが受け取る。
そこに記されていたのは、屋敷の正式帳簿には載せにくい支出だった。
宝飾品の購入。
仕立て代。
私的な贈り物。
特別手当と称した現金の動き。
口止めと思しき名目不明の支払い。
さらには、王都の商人への短期立替金まである。
しかもその額が、思っていた以上に大きい。
「ひどい……」
エマが思わず声を漏らした。
「これ、全部」
「ええ」
アウレリアは頁をめくる。
「正式帳簿の外側で動かしていた金ね」
帳場の老人が青ざめる。
「こんな額、わしは存じ上げませんでした……」
「でしょうね」
アルヴィンが別の束を手に取った。
「こちらは、使用人関係の一覧です」
「何が書いてあるの?」
「……退去済み侍女、下働き、雑役の名と、その後の評価書」
「評価書?」
「はい。“素行不良”“酒癖”“持病”“縁談のため退去”など」
「嘘ね」
「そのようです」
マーサが顔をしかめる。
「皆、追い出された時の言い訳ばかりだわ」
「ええ。そして、継母側が公式に残したい筋書きでもある」
アウレリアの声は冷たかった。
「追い出したのではない。本人たちが勝手にいなくなった。そう見せかけるための記録よ」
ハインリヒが、棚の下段から小箱を持ち上げた。
「こちらも」
「何?」
「薬瓶です」
室内の空気が変わる。
小箱の中には、いくつかの小瓶が丁寧に並べられていた。
透明なもの。
濃い茶色のもの。
粉末が残るもの。
ハインリヒは慎重に一本を取り出し、匂いを確かめる。
「……やはり」
「何かわかる?」
「すぐ断定はできませんが、以前の茶から検出した刺激性混合物と近い成分が含まれている可能性があります」
「ここにも、か」
アウレリアは目を伏せた。
ベアトリクスは、屋敷の中で偶然自分を弱らせていたわけではない。
記録し、管理し、続けるつもりでいたのだ。
そのための場所が、ここだった。
「お嬢様」
アルヴィンが、今度は鉄金庫の前で呼ぶ。
「こちらは」
「開けられそう?」
「鍵が必要でしょうな」
「探して」
「はい」
鍵はまたしても、遠くにはなかった。
帳簿束の裏に隠されるように、小さな革袋があり、その中に金庫鍵と印章が入っていた。
「印章まで……」
「ええ」
アウレリアは革袋の中身を見た。
公爵家の正式印ではない。
だが、十分に厄介なものだ。
家政代行用の印。
支払確認印。
そして、父の署名を模した練習紙片。
その一瞬、室内の空気が凍った。
紙片には、同じ名前が何度も何度も書かれている。
癖を真似るように。
角度を合わせるように。
震えを寄せるように。
「……最悪ね」
アウレリアの声は静かだった。
けれどその静けさが、逆に恐ろしかった。
ベアトリクスが署名偽造を行っていた証拠。
しかも“できてしまった結果”ではない。
練習してまで真似ていた証拠だ。
「開けます」
アルヴィンが言う。
金庫の鍵が回る。
重い音。
扉が開く。
中には、想像以上のものが詰まっていた。
現金。
高価な宝石。
売却予定だったと思われる家財の一覧。
貴金属の預かり証。
そしてもう一つ、薄い綴じ冊子。
表書きには、こうある。
『殿下関連 支出整理』
全員が言葉を失った。
「……王太子関係」
「ええ」
アウレリアは冊子を受け取り、ゆっくりと開く。
そこには、王太子クラウスまわりに流していた金と便宜の記録が、驚くほど露骨にまとめられていた。
季節ごとの衣装便宜。
侍女増員に伴う立替。
贈答品の肩代わり。
茶会・夜会の不足分補填。
王太子宮付き商家への信用保証。
そして、婚約継続を前提として“当然のように流した”と書かれた複数の支出。
「……まあ」
マーサが、呆れたように呟く。
「これでは」
「ええ」
アウレリアは頁を閉じた。
「クラウス様が、どれだけ自分の足で立っていなかったか、全部わかるわ」
家令補佐が息を吐く。
「殿下ご本人がご存じならまだしも、おそらくご存じではなかったでしょうな」
「でしょうね」
「だとすれば、なおさら危うい」
「ええ。知らないまま食っていたのなら、より悪いわ」
帳場の老人が震える声で言う。
「お嬢様……これほどの金が、西棟だけで勝手に……」
「そう」
「わしらは正式帳簿しか見ておりませなんだ」
「だからこそ別にしていたのでしょう」
アウレリアは辺りを見回した。
小さな保管室。
そこに積まれた嘘と金と偽りの信用。
ベアトリクスはこの場所で、自分の王国を作ったつもりだったのだろう。
家の金を削り、使用人を切り、娘たちを飾り、王太子宮へ流し、自分の立場を固めるために。
だが、今となってはただの証拠の山だ。
「記録を」
アウレリアが言う。
「全部、一点ずつ」
「はい」
「帳簿も、金箱も、印章も、署名練習紙も」
「かしこまりました」
「金庫の中身は封印し直して別保管。西棟には一切知らせないで」
「承知」
「薬瓶はハインリヒ先生へ」
「お預かりします」
皆が動き始める。
その流れはもう止まらない。
アウレリアは、例の『殿下関連 支出整理』と書かれた冊子をもう一度手に取った。
婚約があったから流していた金。
王太子だから当然だと、周囲が思い込むよう仕向けられていた支援。
その実態が、ここに全部ある。
クラウスは、これを知らないまま自分を切ったのだ。
なら、その愚かさもまた、もうすぐ形になる。
「お嬢様」
アルヴィンが静かに呼ぶ。
「はい」
「ここまで揃えば、西棟は終わりです」
「ええ」
「継母様は、もう“家を回していた後妻”ではいられません」
「そうね」
アウレリアは冊子を閉じた。
「ただの簒奪者になるわ」
そして、ほんの少しだけ目を細める。
「しかも、お金の流れまで汚い簒奪者」
保管室の奥には、まだいくつか未確認の箱が残っていた。
だがもう十分だった。
継母による横領。
署名偽造。
不正支出。
娘たちへの私的流用。
王太子宮への便宜供与。
婚約破棄の翌朝、止まった金と支援。
その意味を裏側から証明する材料が、ここにはそろっている。
アウレリアは一歩、外へ出た。
旧衣装庫のひんやりした空気から廊下へ戻ると、陽の匂いが少しだけした。
長く閉じられていたものを開けたあとの空気は、いつも少し特別だ。
「これで、ようやく言えるわね」
誰にともなく呟く。
「わたくしが支えていたのは、婚約だけではなかったと」
その声は静かだった。
けれど確かな重さがあった。
ベアトリクスは、祝杯をあげていた。
ミレイユも、クロエも、自分たちが勝ったと思っている。
だがその足元では、もう金まで止まり、帳簿まで開かれ、隠していた金庫まで暴かれた。
ここから先、西棟が勝者の顔をしていられる時間は、もう長くない。
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新しい求婚を待つより名誉ある職を選んだレイチェル。
しかし順風満帆な人生を歩み出したレイチェルのもとに『幼馴染思いの優しい(笑止)』マシューが復縁を希望してきて……
【誤字修正のお知らせ】
変換ミスにより重大な誤字がありましたので以下の通り修正いたしました。
ご報告いただきました読者様に心より御礼申し上げます。ありがとうございました。
「(誤)主席」→「(正)首席」
【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす
まほりろ
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新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。
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他掌編七作品収録。
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「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」
某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。
【収録作品】
①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」
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