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再婚編
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そして、ヴィクトル様の唇がそっと私の唇に触れた。短く、静かで、温かなキス。
あの時の結婚式とは違う。どう違うのか、上手く言葉にはできない。
形式も祝福もないけれど、今こうして触れた気持ちはあの頃よりずっと真っ直ぐで、ずっと確かだと思えた。
「…………」
唇が離れた後も、ヴィクトル様はしばらく何も言わなかった。彼の瞳が真っすぐに私を見つめている。なんだか恥ずかしい……
「……これで、誓ったことになるのか?」
「はい。私達なりの、誓いです」
ヴィクトル様の声にはわずかな戸惑いが混じっている。これで本当に良かったのかと心配をしてくれた。
式も祝辞もなく、証人もいない。ただ静かに交わした口づけだけ。それがヴィクトル様には少し頼りなく思えたのかもしれない。
◆
帰る支度を整えて屋敷の玄関へと向かう途中、私はヴィクトル様と並んで静かに歩いていたが、私はそっとヴィクトル様の服の裾を掴んでいた。ヴィクトル様の足がふいに止まり、私を見下ろす。
「すみません。ヴィクトル様、マリィのことですが……」
その名を口にした瞬間、ヴィクトル様の眉がわずかに動く。
「あの娘をここに連れて来たいのか?」
「いいえ、違います。マリィは……行きたくないって言っていました」
先回りするように静かにそう問いかけてくれたけど、私はすぐに首を横に振る。
「マリィは私の養子ではなく、預かっている子供です。だから、あの子にはまだ選べる未来があります」
服の裾をぎゅうっと握ると、ヴィクトル様は黙って耳を傾けてくれている。
「正直、私だって……次こそはここで上手くやっていけるか、自信がありません。そんな不安定な状態でマリィを巻き込むことはできません」
声がわずかに震える。それでもヴィクトル様は何も言わず、ただ傍らに立っている。
「だから、しばらくはあのまま遠くから見守ります……でも……」
私は言葉を探しながら、そっとヴィクトル様の顔を見る。
ヴィクトル様はただ、黙って待っていてくれた。怒らずに焦らすことなく、受け止めるように。
「もし、私が公爵夫人としてちゃんと役目を果たして……それで、マリィもここに行きたいって言ってくれたなら……その時はあの子をここに連れてきてもいいでしょうか?」
これは私の中の決意だ。まだ頼りないけど、いつか胸を張って迎えに行ける日が来ると信じている。
「その時、決めよう」
ヴィクトル様は少しだけ目を伏せ、落ち着いた声で答えた。それは拒絶ではなく、確かな余地を残す答えだった。
胸がふっと軽くなる。否定されなかった。それだけのことがこんなにも嬉しいなんて。
昔のヴィクトル様なら、きっと「余計なことは考えるな」とか「無理だ」と言っただろう。でも、今は違う。
「はい」
私が頷くと、ヴィクトル様もまた、静かにうなずき返してくれた。たったそれだけのやり取りなのにそれだけで十分だった。
◆
それから時間が流れてヴィクトル様ともう一度やり直し、一緒に暮らす日がついに訪れた。
何度も話し合いを重ねて、必要な手続きも終わらせて、ようやくここまで辿り着いた。
不安が尽きたわけではない。むしろこれからの方がきっと、大変なことが多いのだと思う。
それでも私はヴィクトル様の隣にいると決めた。その選択に後悔は一つもない。
でも、その一歩を踏み出すためにどうしても済ませなければならないことがあった。
「今日でここを出ることになりました」
そう告げるとリディア様はただ優しく微笑んでくれたけど、その瞳の奥にはわずかな寂しさが滲んでいる。けれど、口にはしなかった。
「ユミルが決めたことなら、私は応援するから」
優しい声が胸に染みる。その一言に、私は胸が詰まり、堪えきれずに深く頭を下げた。
「本当にお世話になりました。リディア様には……本当に、感謝してもしきれません」
そして、リディア様の隣に立つマリィの前に歩み寄り、私はそっと膝を折って目線を合わせた。
マリィは小さな肩をすくめるようにして、少しだけ不安げに私を見上げる。大きな瞳が潤んでいて、何かを言いかけては躊躇うように、唇が小さく震えた。
「ユミル様……お元気で」
マリィはそう言いながら、ぎゅっと自分のスカートの裾を握りしめていた。涙をこらえているのが、痛いほど伝わってくる。
私はそっと彼女の頭を撫で、できるだけ穏やかな声で答えた。
「マリィもリディア様と一緒に元気でね。たくさん笑って、ちゃんとご飯を食べて、お勉強も頑張って」
「はい。たまに会いに来てくれますか?」
マリィが不安そうに尋ねると、私はその問いに強くうなずき、彼女の目をしっかりと見つめた。
「もちろん。落ち着いたらすぐに会いに行くから」
そう言うと、マリィは少しだけ安心したようにほっと息をついた。
それから私はリディア様にもう一度深く頭を下げる。
「マリィのこと……どうか、お願いします」
「ええ、任せて」
リディア様はにっこりと自信に満ちた表情でそう言い、私の心をさらに軽くしてくれた。
彼女なら、きっとマリィをしっかりと守ってくれるだろう。安心して、私はその言葉を信じることができた。
◆
重厚な扉の前で深く息を吸い、扉番に名を告げると、すぐに中へと通された。
あの方は私が城を去ることを前もって知らされていたはずだ。それでもこうして自らご挨拶に伺うのは区切りであり、感謝の証でもある。
執務室の扉が音を立てて閉まり、重苦しい静寂が室内に戻った。
正面の大きな窓からは午後の光が差し込んでいたが、その中に立つ方の影はどこか硬質で、張り詰めた空気を纏っていた。
「ユミルか」
彼は窓から目を離さず、静かにそう呟いた。穏やかではあるが、どこか張り詰めた声。
いつもと変わらぬ整った顔立ち。けれどその瞳の奥には深く沈んだ疲労の色がにじんでいる。
あの時の結婚式とは違う。どう違うのか、上手く言葉にはできない。
形式も祝福もないけれど、今こうして触れた気持ちはあの頃よりずっと真っ直ぐで、ずっと確かだと思えた。
「…………」
唇が離れた後も、ヴィクトル様はしばらく何も言わなかった。彼の瞳が真っすぐに私を見つめている。なんだか恥ずかしい……
「……これで、誓ったことになるのか?」
「はい。私達なりの、誓いです」
ヴィクトル様の声にはわずかな戸惑いが混じっている。これで本当に良かったのかと心配をしてくれた。
式も祝辞もなく、証人もいない。ただ静かに交わした口づけだけ。それがヴィクトル様には少し頼りなく思えたのかもしれない。
◆
帰る支度を整えて屋敷の玄関へと向かう途中、私はヴィクトル様と並んで静かに歩いていたが、私はそっとヴィクトル様の服の裾を掴んでいた。ヴィクトル様の足がふいに止まり、私を見下ろす。
「すみません。ヴィクトル様、マリィのことですが……」
その名を口にした瞬間、ヴィクトル様の眉がわずかに動く。
「あの娘をここに連れて来たいのか?」
「いいえ、違います。マリィは……行きたくないって言っていました」
先回りするように静かにそう問いかけてくれたけど、私はすぐに首を横に振る。
「マリィは私の養子ではなく、預かっている子供です。だから、あの子にはまだ選べる未来があります」
服の裾をぎゅうっと握ると、ヴィクトル様は黙って耳を傾けてくれている。
「正直、私だって……次こそはここで上手くやっていけるか、自信がありません。そんな不安定な状態でマリィを巻き込むことはできません」
声がわずかに震える。それでもヴィクトル様は何も言わず、ただ傍らに立っている。
「だから、しばらくはあのまま遠くから見守ります……でも……」
私は言葉を探しながら、そっとヴィクトル様の顔を見る。
ヴィクトル様はただ、黙って待っていてくれた。怒らずに焦らすことなく、受け止めるように。
「もし、私が公爵夫人としてちゃんと役目を果たして……それで、マリィもここに行きたいって言ってくれたなら……その時はあの子をここに連れてきてもいいでしょうか?」
これは私の中の決意だ。まだ頼りないけど、いつか胸を張って迎えに行ける日が来ると信じている。
「その時、決めよう」
ヴィクトル様は少しだけ目を伏せ、落ち着いた声で答えた。それは拒絶ではなく、確かな余地を残す答えだった。
胸がふっと軽くなる。否定されなかった。それだけのことがこんなにも嬉しいなんて。
昔のヴィクトル様なら、きっと「余計なことは考えるな」とか「無理だ」と言っただろう。でも、今は違う。
「はい」
私が頷くと、ヴィクトル様もまた、静かにうなずき返してくれた。たったそれだけのやり取りなのにそれだけで十分だった。
◆
それから時間が流れてヴィクトル様ともう一度やり直し、一緒に暮らす日がついに訪れた。
何度も話し合いを重ねて、必要な手続きも終わらせて、ようやくここまで辿り着いた。
不安が尽きたわけではない。むしろこれからの方がきっと、大変なことが多いのだと思う。
それでも私はヴィクトル様の隣にいると決めた。その選択に後悔は一つもない。
でも、その一歩を踏み出すためにどうしても済ませなければならないことがあった。
「今日でここを出ることになりました」
そう告げるとリディア様はただ優しく微笑んでくれたけど、その瞳の奥にはわずかな寂しさが滲んでいる。けれど、口にはしなかった。
「ユミルが決めたことなら、私は応援するから」
優しい声が胸に染みる。その一言に、私は胸が詰まり、堪えきれずに深く頭を下げた。
「本当にお世話になりました。リディア様には……本当に、感謝してもしきれません」
そして、リディア様の隣に立つマリィの前に歩み寄り、私はそっと膝を折って目線を合わせた。
マリィは小さな肩をすくめるようにして、少しだけ不安げに私を見上げる。大きな瞳が潤んでいて、何かを言いかけては躊躇うように、唇が小さく震えた。
「ユミル様……お元気で」
マリィはそう言いながら、ぎゅっと自分のスカートの裾を握りしめていた。涙をこらえているのが、痛いほど伝わってくる。
私はそっと彼女の頭を撫で、できるだけ穏やかな声で答えた。
「マリィもリディア様と一緒に元気でね。たくさん笑って、ちゃんとご飯を食べて、お勉強も頑張って」
「はい。たまに会いに来てくれますか?」
マリィが不安そうに尋ねると、私はその問いに強くうなずき、彼女の目をしっかりと見つめた。
「もちろん。落ち着いたらすぐに会いに行くから」
そう言うと、マリィは少しだけ安心したようにほっと息をついた。
それから私はリディア様にもう一度深く頭を下げる。
「マリィのこと……どうか、お願いします」
「ええ、任せて」
リディア様はにっこりと自信に満ちた表情でそう言い、私の心をさらに軽くしてくれた。
彼女なら、きっとマリィをしっかりと守ってくれるだろう。安心して、私はその言葉を信じることができた。
◆
重厚な扉の前で深く息を吸い、扉番に名を告げると、すぐに中へと通された。
あの方は私が城を去ることを前もって知らされていたはずだ。それでもこうして自らご挨拶に伺うのは区切りであり、感謝の証でもある。
執務室の扉が音を立てて閉まり、重苦しい静寂が室内に戻った。
正面の大きな窓からは午後の光が差し込んでいたが、その中に立つ方の影はどこか硬質で、張り詰めた空気を纏っていた。
「ユミルか」
彼は窓から目を離さず、静かにそう呟いた。穏やかではあるが、どこか張り詰めた声。
いつもと変わらぬ整った顔立ち。けれどその瞳の奥には深く沈んだ疲労の色がにじんでいる。
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