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再婚編
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当然だった。ヴィクトル様が戦場へ出てから、シオン様の重荷は比べものにならないほど増したのだ。
今まではあの冷酷で容赦ないヴィクトル様が前に立って貴族たちの暴走を抑え、睨み、牽制していたそうだ。
しかし、その盾がいなくなった瞬間、封じられていたあらゆる欲望が一気に噴き出した。
各地の貴族は自領の拡大や特権の主張に走り、政治の場は混乱を極めていったそうだ。
さらには長年仕えてきた側近のマクセル様でさえ、場の空気を読まぬ軽率な発言を繰り返し、燃えかけた火種にさらに油を注いでしまう始末だった。
その一言一言に煽りたてられた貴族たちは感情を昂らせ、連日、同じ国の未来を語るはずの者たちが互いを牽制し、争いと駆け引きだけが積み重なっていったとシオン様が嘆いていたのを覚えている。
「これから……ヴィクトル様の屋敷へ向かいます」
「そうか。やっと、だな」
ほんのわずかに柔らかくなった声。それでも、その奥にある重たい疲労感は消えない。
「あの男は不器用だ。苦労も多いだろうが頼む」
「ありがとうございます」
「困ったら何でも言ってくれ。ここに戻ってきてもいいんだぞ?」
「……はい」
深く一礼し、私は静かに背を向けた。シオン様の視線が最後まで私を見送っているのを肌で感じる。扉の向こうに出るその瞬間まで、背筋を緩めなかった。
◆
ヴィクトル様が待つ場所へ向かって廊下を急いでいたその時、前方から誰かの足音が聞こえた。
瞬間、空気が張り詰める。その人の姿がはっきりと見えた瞬間、私はその場で立ち止まり、自然と背筋が伸びる。
優美なドレスに絢爛な髪飾りを揺らしながら現れたのは現皇后のセラフィーナ様。
セラフィーナ様。シオン様が迎えた新しい妃は確かに美しく、皇后として外向きには見栄えが良かった。
だがその実態は贅沢を好み、無駄遣いも激しく、弁えない浪費家だそうだ。
そして、セラフィーナ様とリディア様の仲は悪くて、顔を合わせるたびに小さな衝突が絶えず、礼儀の皮を被った言葉の応酬は常に周囲を凍りつかせていた。
セラフィーナ様は特にリディア様に対してはどこか刺々しい。まるでその存在そのものが気に食わないとでも言うようにわざと挑発するような態度を見せることもあった。
「まあ……どこかで見た顔だと思ったら、リディア姫の侍女ではありませんか」
それは挨拶でも礼儀でもなく、まるで偶然出くわした何か面倒な存在を確認するような物言いだった。
私に対してもセラフィーナ様は嫌味を口にすることがあった。おそらく、私がリディア様のそばに仕えているから、そう推測している。
でも、それだけでは説明できないような気配もどこかに感じていた。
まるで私の知らぬところに、もっと別の理由が潜んでいるかのような……
「セラフィーナ様、本日はお目にかかれて光栄です。本日をもって王城を離れることになりましたのでご挨拶を……」
私がそう言うとセラフィーナ様は扇をゆるやかに開き、口元を隠すようにして笑う。
「まあ、それはそれは。ずいぶんと潔いことですわね。けれど、よろしいの? ヴィクトル様とうまくやっていけるとでもお思いで?」
まるで心の内を覗き込むようにセラフィーナ様の瞳が細められた。その声音には甘さも慈しみもなく、嘲りが滲んでいる。
「一度は駄目になってしまったでしょう。結局は……ねぇ?」
セラフィーナ様は隣に控えていたメイドの方へとちらりと目を向ける。突然振られたメイドは一瞬ぎょっとしたように目を瞬かせ、すぐに作り笑いを浮かべて小さく頭を下げた。
「そ、そうでございますね。ええ、その……なかなか難しいものかと」
「ほら、ご覧なさい。皆そう思っているのよ? お二人のことは王城中の噂だもの。関係は壊れてしまえばそう簡単には元通りにならないわ。それにあの方には公爵家にふさわしい伴侶がいるべきだと、皆思っているの」
そんなことを言われても私だって、ヴィクトル様がどうして私を妻に選んだのか、本当の理由がわからないままだ。一目惚れだったとか曖昧な返答しか聞いたことがない。それでも私は視線を逸らさず、丁寧に姿勢を正すしかなかった。
「ヴィクトル様と私は互いに過去の過ちを悔い、やり直すと決めました。どうか、そのことをお笑いにならないでください」
「お笑いになさらないで、ですって?」
セラフィーナ様の扇を握るその指がわずかに震えていた。怒りを押し殺すように真紅の唇がきゅっと歪む。
「わたくしはただ心配して差し上げただけですのよ!」
彼女の白く細い手が私の頬めがけて振り上げられた瞬間、反射的に目を閉じる。セラフィーナ様は少しでも不快を感じれば格下の人間によく手を上げるのだ。
私も何度かその被害を受けており、今回もきっと同じ運命を辿るのだろうと、覚悟をして、痛みに備え、歯を食いしばる。
しかし。いつまで経っても、衝撃は来なかった。代わりに耳の奥で小さく「ぱしっ」という乾いた音が弾ける。
今まではあの冷酷で容赦ないヴィクトル様が前に立って貴族たちの暴走を抑え、睨み、牽制していたそうだ。
しかし、その盾がいなくなった瞬間、封じられていたあらゆる欲望が一気に噴き出した。
各地の貴族は自領の拡大や特権の主張に走り、政治の場は混乱を極めていったそうだ。
さらには長年仕えてきた側近のマクセル様でさえ、場の空気を読まぬ軽率な発言を繰り返し、燃えかけた火種にさらに油を注いでしまう始末だった。
その一言一言に煽りたてられた貴族たちは感情を昂らせ、連日、同じ国の未来を語るはずの者たちが互いを牽制し、争いと駆け引きだけが積み重なっていったとシオン様が嘆いていたのを覚えている。
「これから……ヴィクトル様の屋敷へ向かいます」
「そうか。やっと、だな」
ほんのわずかに柔らかくなった声。それでも、その奥にある重たい疲労感は消えない。
「あの男は不器用だ。苦労も多いだろうが頼む」
「ありがとうございます」
「困ったら何でも言ってくれ。ここに戻ってきてもいいんだぞ?」
「……はい」
深く一礼し、私は静かに背を向けた。シオン様の視線が最後まで私を見送っているのを肌で感じる。扉の向こうに出るその瞬間まで、背筋を緩めなかった。
◆
ヴィクトル様が待つ場所へ向かって廊下を急いでいたその時、前方から誰かの足音が聞こえた。
瞬間、空気が張り詰める。その人の姿がはっきりと見えた瞬間、私はその場で立ち止まり、自然と背筋が伸びる。
優美なドレスに絢爛な髪飾りを揺らしながら現れたのは現皇后のセラフィーナ様。
セラフィーナ様。シオン様が迎えた新しい妃は確かに美しく、皇后として外向きには見栄えが良かった。
だがその実態は贅沢を好み、無駄遣いも激しく、弁えない浪費家だそうだ。
そして、セラフィーナ様とリディア様の仲は悪くて、顔を合わせるたびに小さな衝突が絶えず、礼儀の皮を被った言葉の応酬は常に周囲を凍りつかせていた。
セラフィーナ様は特にリディア様に対してはどこか刺々しい。まるでその存在そのものが気に食わないとでも言うようにわざと挑発するような態度を見せることもあった。
「まあ……どこかで見た顔だと思ったら、リディア姫の侍女ではありませんか」
それは挨拶でも礼儀でもなく、まるで偶然出くわした何か面倒な存在を確認するような物言いだった。
私に対してもセラフィーナ様は嫌味を口にすることがあった。おそらく、私がリディア様のそばに仕えているから、そう推測している。
でも、それだけでは説明できないような気配もどこかに感じていた。
まるで私の知らぬところに、もっと別の理由が潜んでいるかのような……
「セラフィーナ様、本日はお目にかかれて光栄です。本日をもって王城を離れることになりましたのでご挨拶を……」
私がそう言うとセラフィーナ様は扇をゆるやかに開き、口元を隠すようにして笑う。
「まあ、それはそれは。ずいぶんと潔いことですわね。けれど、よろしいの? ヴィクトル様とうまくやっていけるとでもお思いで?」
まるで心の内を覗き込むようにセラフィーナ様の瞳が細められた。その声音には甘さも慈しみもなく、嘲りが滲んでいる。
「一度は駄目になってしまったでしょう。結局は……ねぇ?」
セラフィーナ様は隣に控えていたメイドの方へとちらりと目を向ける。突然振られたメイドは一瞬ぎょっとしたように目を瞬かせ、すぐに作り笑いを浮かべて小さく頭を下げた。
「そ、そうでございますね。ええ、その……なかなか難しいものかと」
「ほら、ご覧なさい。皆そう思っているのよ? お二人のことは王城中の噂だもの。関係は壊れてしまえばそう簡単には元通りにならないわ。それにあの方には公爵家にふさわしい伴侶がいるべきだと、皆思っているの」
そんなことを言われても私だって、ヴィクトル様がどうして私を妻に選んだのか、本当の理由がわからないままだ。一目惚れだったとか曖昧な返答しか聞いたことがない。それでも私は視線を逸らさず、丁寧に姿勢を正すしかなかった。
「ヴィクトル様と私は互いに過去の過ちを悔い、やり直すと決めました。どうか、そのことをお笑いにならないでください」
「お笑いになさらないで、ですって?」
セラフィーナ様の扇を握るその指がわずかに震えていた。怒りを押し殺すように真紅の唇がきゅっと歪む。
「わたくしはただ心配して差し上げただけですのよ!」
彼女の白く細い手が私の頬めがけて振り上げられた瞬間、反射的に目を閉じる。セラフィーナ様は少しでも不快を感じれば格下の人間によく手を上げるのだ。
私も何度かその被害を受けており、今回もきっと同じ運命を辿るのだろうと、覚悟をして、痛みに備え、歯を食いしばる。
しかし。いつまで経っても、衝撃は来なかった。代わりに耳の奥で小さく「ぱしっ」という乾いた音が弾ける。
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