「お前が死ねばよかった」と言われた夜【新章スタート】

白滝春菊

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再婚編

43

 柔らかな光が、瞼の裏をくすぐった。ゆっくりと目を開けると、見慣れた天井が視界に入る。薄色のカーテン、静かな朝の空気……ヴィクトル様の部屋ではない。ここは私の部屋だ。

「ユミル様!」

 すぐそばでどこか張り詰めた声がした。顔を向けると、ベッドの脇でマリィが立って、身を乗り出すように私の顔を覗き込んでいた。

「気がつきましたか? よかった……」
「……私……」

 喉がひどく乾いていて、声はかすれた。頭が少し重い。身体の奥がだるくて、力が入らない。
 昨夜のことが断片的に蘇る。熱い湯、込み上げた感情、ヴィクトル様の驚いた顔、そして……

「疲れているところで、長く湯に浸かってしまったからだと聞きました。のぼせて、気を失ったそうです」

 そうか……そうだったんだ。自分でも無理をしていた自覚はある。もともと体力が限界だったところに熱いお湯と、激しい感情の昂ぶりで……

「……ヴィクトル様は……」

 問いかけたつもりはなかった。ただ、名前が自然と口をついて出ただけだった。視線が無意識に部屋の中を探しているのが自分でもわかる。

「……あの方なら、お仕事に行かれました」

 マリィはほんの一瞬だけ間を置いてから答えてくれた。その声は妙に冷たくて。胸の奥がひやりと冷える。
 なぜだろう。ただ事実を告げられただけなのにマリィの声が少し、怖い。

「……私の、せいでしょうか」

 でも、次にぽつりと落ちたその言葉はあまりにも小さかった。うつむいたまま、指先をきゅっと握りしめている。その声音は朝の静けさに溶けてしまいそうなほど小さかった。

「私があんなことを言ったから……ユミル様、怒られてしまったのでは……」
「え? ち、違うよ、マリィ。そんなことは……」

 否定しようとして、ふと彼女の視線の先に気づいた。
 私の首元。寝衣の襟がわずかにずれて、肌が覗いている。そこにうっすらと残った赤の痕。

「……痛そうです……どこかでぶつけたんですか……?」
「っ……!?」

 一瞬、頭が真っ白になると同時に背後に控えていたメイドが気まずそうに視線をそらし、口元をわずかに引きつらせた。
 苦笑、というより、見なかったことにしようとする大人の表情。

「ち、違うっ」

 私は慌てて襟元を押さえ、寝衣をきちんと引き寄せる。

「これはその……転んだときに……ほら、昨日ふらっとして……」

 自分でも苦しい言い訳だと分かる。声が無駄に上ずってしまう。
 マリィは少し首を傾げたまま、それでもそれ以上は踏み込まなかった。けれど、不安そうな表情は消えない。

「だ、大丈夫だから。もう全然」

 早口で答えながら、胸の奥がちくりと痛んだ。
 知られたくない。こんなこと、まだ幼いマリィに私とヴィクトル様が夜に何をしていたかを。

「……なら、いいです」

 マリィはしばらく黙っていたけれど、やがて小さく息を吐き、私は笑顔を作りながら、そっとシーツの中で拳を握りしめた。
 この子の前では私は守る側でいなければならない。余計な影も、複雑な事情も、今は見せたくなかった。

「……でも、何かあったら……教えてください。ユミル様」
「う……うん。ありがとう」

 真っ直ぐで、逃げ場のない言葉だった。私は一瞬だけ息を詰め、それから小さく笑ってうなずく。

「マリィもね」

 気まずくならないように私はなるべく軽い調子で続けた。

「何かあったら、私に言っていいから。遠慮しなくていい」
「…………」
「マリィ? どうしたの。何か……」

 問いかけの途中でマリィはふっと背筋を正した。

「家庭教師の先生がそろそろ来る時間なので」

 感情を切り離したような、整った声。

「失礼します、ユミル様」

 そう言って、深く一礼すると、私の返事を待たずにかかとを返す。
 扉が静かに閉まる音がやけに大きく響き、残された私はしばらくその扉を見つめたまま動けなかった。今の、何だったの?

 何かあったら言っていい、と言っただけなのにそれが何かに触れてしまったような気がして。
 胸の奥に嫌な余韻として沈んでいき、私は後ろに控えていたメイドに視線を向けた。

「あの……マリィに何かあった?」

 名前を呼ばれたメイドはぴくりと肩を揺らした。一瞬、答えを探すように視線をさまよわせてから、困ったように口元を引き結んだ。

「実は……奥様がこちらに来られてから、マリィ様が城にいた頃のことを……噂で、耳にされたようで」
「噂……?」

 私が問い返すと、メイドは申し訳なさそうに視線を伏せたまま、続けた。嫌な予感がする。

「はい。旦那様と……その……仲が悪いのではないか、とか……奥様は無理やり婚姻させられたのではないか、と……そういう話を聞いたそうで……」

 確かに前の私は……ヴィクトル様をとても怖がっていた。
 ヴィクトル様は私に当たりが強く、声も態度も冷たくて、私はいつも顔色をうかがってばかりだった。屋敷の中でも、社交の場でも、それは変わらなかった。

 当時の私たちは誰の目にも冷えきった夫婦に映っていただろう。
 必要以上に言葉を交わすことも少なく、視線が合えば逸らして。寄り添うどころか、互いの間に見えない壁を築いていた。
 だから。貴族たちの間で、そういう噂が立っても、不思議ではない。

 マリィの耳に入らないように。あの子が余計な不安を抱かないように。私はずっと気を付けてきたはずなのに。
 私と離れていた間に知ってしまった。城という場所で、避けようのない噂話の中で。

 脳裏に浮かぶのはあの頃のヴィクトル様の冷たい眼差しと、それに怯えて、何も言えずにいた私自身の姿。
 今はもう、違う。違うはずなのに過去はこんなふうに形を変えて、それがマリィの小さな胸にまで届いてしまったのだと思うと、胸の奥が確かに痛んだ。

 だから養子になりたいと申し出たのだ。居場所が欲しかったからでもない。ただ、私の傍にいるために。私を守るために。
 思い返せば、合点がいく。マリィが時折見せていた、ヴィクトル様への硬い視線。露骨ではないけれど、どこか距離を取るような態度。必要以上に礼儀正しく、決して甘えようとしなかった理由が。

「先ほども奥様のご様子をとても案じていらっしゃるようでした。ご自分のせいで、奥様が苦しんでいるのではないか、と……」

 あの子は私を守るために黙っていた。知らず知らずのうちに私はマリィにまで、余計な重荷を背負わせていたのかもしれない。

「教えてくれて、ありがとう……じゃあ、ヴィクトル様はこの噂のことを知っているの?」

 そう尋ねるとメイドはびくりと肩を震わせ、視線を伏せたまま小さく首を横に振った。

「旦那様のことは……わかりません。申し訳ありません」

 その声はどこか怯えを含んでいる。ヴィクトル様は今でも皆にとって恐怖の対象なのだ。
 前と変わらず、近づきがたく、容易に本心をうかがえない存在。私に見せる顔が変わったとしても周囲の人々にとっての彼はいまだ恐ろしい存在のままなのだろう。

「そう、ですか」

 それ以上は聞けなかった。これ以上、メイドを困らせるのは違う気がしたから。
 結局、確かめる方法は一つしかない。それはヴィクトル様本人に直接聞くこと。
 でも、彼は忙しい。いつ帰ってくるのかも、わからないほどに。
 
 扉の向こうへと視線を向けながら、私は小さく息を吐いた。不安だけが静かに胸の内に積もっていく。
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