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元・悪役令嬢だった人の話
私は目を覚ました。その瞬間、どこにいるのか全く分からなかった。薄暗い部屋の中、かすかな光が窓から差し込む。
粗末なベッドの上で体を起こすと、何とも言えない不安が胸を締めつけた。窓の外からは見慣れない街の喧騒が遠くから響いていたが、それさえもまるで他の世界の音のように感じられた。
ベッドから降り、鏡を見て、私は息を呑んだ。そこに映ったのは全く見知らぬ顔。銀色に輝く髪、鋭く冷徹な瞳、そしてふさふさとした尻尾、それらはかつて私の誇りであり、誇らしげに持っていたものだ。
しかし今、それらはどこにも見当たらず、目の前に現れたのはただの平凡な人間の姿。
これが転生だと気づくのにそんなに時間はかからなかった。
私はシルヴィア。かつて誇り高き狼獣人の公爵令嬢として、あの世界では破滅的な最期を迎えた。
あの忌々しい人間の女、アリシアに全てを奪われ、お父様に見捨てられ、最終的には命をも失った。
そして今、どういうわけか別の世界の平凡な人間として生まれ変わったらしい。笑いものだ。あの苦しみと絶望の果てになぜこんなつまらない世界に放り込まれたのか、全く理解できなかった。
私の新たな両親、この世界の“父”と“母”は驚くほど平凡だった。
父は飲食店で働き、母は家で家事に勤しんでいる。二人とも穏やかで優しいが、その優しさはかつてのアルジャンお父様に感じた厳格で熱い意志とは程遠く、どこか薄っぺらく、私の心を満たすものではなかった。
比べるべくもない。あのお父様はその目に炎のような強い意志を宿していた。力強く、威圧的であったが、それだけに私は常に尊敬し、畏怖していた。
しかし、今目の前にいるのはただただ無感動に日々を送るだけの普通の人間。大きな目的を持たず、ただ流れるように生きているだけの彼らには私を引き上げる力は感じられなかった。
それでも、私は冷静に状況を分析することができた。今は身体は弱々しく、特別な力も持っていない人間の体。シルヴィアとしての記憶と知識が唯一の武器となるだろう。
この平凡な世界で、私はどんな方法で生き抜くのか、それを見極める必要があった。父と母を見下す気持ちはどうしても抑えきれなかったが、彼らが私に害を及ぼすわけではないことは理解していた。
むしろ、今はこの平凡な環境を利用して、自分自身の道を切り開くべきだろうと思った。
小学校の教室の窓から外を見ながら、唇の端をわずかに吊り上げる。
あの世界では私は誰にも愛されず、認められず、憎しみの中で終わりを迎えた。しかし、ここでは違う。
この生温い自由な環境では私は私自身を証明し、ただ私の価値を示すために生きることができる。
この新しい世界ではアリシアに勝つことも、父に認められることも、ウルファの妃になることも、もう、どうでもいい。
私は私として、思うがままに生きれる。それこそが、この新たな命の目的であり、私が望むことなのだ。
「フフフ……」
指先で軽く小学校の机を叩きながら、私は次の手を静かに考え始めた。
◆
時は静かに流れ、私は確実に大人へと成長していった。
この知らない世界での生活は最初こそ苛立ちと不満に満ちていたが、次第に私の心を掻き立てる舞台へと変わっていった。
かつてのシルヴィアとしての誇りや野心が、私を再び動かしたのだ。
私はこの新たな命でどう生きるべきかを深く考え、決意した。冷徹な分析力と過去の記憶を武器に私は必ず這い上がると。
最初の一歩は家の手伝いから始まった。日常の仕事をこなす中で、この世界のルールと常識を学び、やがて別の店でアルバイトを始めることとなった。
新しい単純な作業をこなしながらも、私はその中で人々の金銭の流れや、社会の裏側に潜む力を鋭敏に感じ取った。
次第にその地道な努力こそが私に最初のチャンスを与えてくれるものであり、どんな小さな仕事も無駄にしないべきだと悟った。
それからは私の足取りは確実に変わり始めた。
経験を重ね、やがて大手の企業に就職した。そこでは取引先を巧みに説得し、洞察力を駆使して市場の隙間を見抜く力が求められた。
私はその全てにおいて輝きを放ち、わずか数年で他の社員たちと一線を画す存在となった。
その後、私はついに独立を果たし、自分の会社を立ち上げた。
資金はほとんどなく、従業員は私を含めて数人。しかし、私は妥協しなかった。
夜を徹して戦略を練り、時には無謀とも思えるアイデアを実行に移すことで、競合他社を次々と出し抜いていった。
数年後、その努力の結晶は驚くべき成果を見せ、私の会社は急成長を遂げた。
業界で名が知られ、時には「冷酷な女」と陰で囁かれることもあった。それでも、そのような評価さえ私には勲章となった。人々の恐れや嫉妬の中にこそ、私の力が宿っていたのだと、誇りを感じながらその称賛を受け入れた。
それから私はついに女社長として頂点に立った。
私の会社は沢山の従業員を抱え、大企業へと成長を遂げていた。
豪華なオフィスの最上階から、私はガラス窓越しに広がる街を見下ろした。その景色はまるで私がこの世界を支配しているかのような錯覚を与えてくれる。
あの過去の世界では得ることのできなかった栄光が、今ここにある。
お父様の言いなりにならず、私自身の力で築き上げたこの城が、私の誇りそのものであった。
しかし、成功の裏には数え切れないほどの徹夜と犠牲があった。幾度もの裏切りも経験したし、敵も数多く現れた。
それでも、私は一つ一つの困難を乗り越え、どんな壁も越えてきた。
かつての悪役令嬢シルヴィアが、この世界で新たな伝説となったのだ。
そして、私はその伝説を築くことに誇りを感じながら、冷たく微笑んだ。
これで終わりではない。この頂点が終わりではない。さらなる高みへ、私は歩みを進める。
そのために私の野心はさらに深く、強く燃え続けていた。それこそが、私が生きる理由であり、道標なのだ。
「社長、お父様がいらっしゃいました。どうしますか?」
秘書の静かな声が、私の集中を一瞬だけ乱した。私は軽く眉を上げ、わずかに息を吐いてから答える。
「通して」
ドアが静かに開き、そこに現れたのは懐かしいあの姿だった。少し白髪が増え、歳月を感じさせるけれども、それでもどこか昔のままだ。
私が選んだコートを脱ぐと、今日も私が選んだスーツを着ている。そして手に持った紙袋。
昔と何一つ変わらないその姿を見て、私は一瞬だけ目を細めた。お父さんはあの平凡で飾り気のない佇まいで、今も昔も、何も変わらず私の前に立っている。
「ありがとうな、また父さんと母さんに温泉旅行をプレゼントしてくれて」
照れくさそうにそう言いながらお父さんは紙袋を私のデスクに置いた。いつも通り、何の気取りもなく、その手から自然に放たれた言葉が、むしろ私の心に深く響く。
「旅行のお土産だ。菓子だけど、まあ、食べてくれよ」
蓋を開けると、中からは素朴な焼き菓子が並んでいた。見た目は派手でも高級でもなく、どこにでもありそうなシンプルなものだ。
そんな素朴な品々にこそ、お父さんの優しさが込められていることが、私には分かる。私は一瞬だけ目を細め、すぐにそれを手に取って口に運んだ。
甘さ控えめで、どこか懐かしい味が広がる。子供の頃、家族で囲んだテーブルを思い出させる、優しい味だった。
「……ありがとう」
短く呟くと、お父さんは満足そうに頷いた。その顔を見て、私の胸に何とも言えない温かさが広がる。
今、私は女社長として社会の頂点に立ち、企業の未来を握る立場にいる。
それなのにお父さんは相変わらず、あの小さな商店で静かに働き続けている。「動いてないとボケるからな」と、笑いながら私の援助を頑なに断るその姿勢が、私はどこか滑稽であり、愛おしくも感じた。
成功を手にし、数えきれないほどの人々の期待を背負いながらも、私はどこかでその「普通」の生活に無意識のうちに憧れを抱いているのかもしれない。
昔を思い出す。お父さんは私がやりたいと言ったことをいつも応援してくれた。
最初に会社に入りたいと言ったときも、独立すると宣言したときも「お前が決めたなら頑張れ」と言って背中を押してくれた。
資金も援助してくれて、私が失敗して帰ってきたら、黙って温かいご飯を出してくれるような、そんな支え方をしてくれた。
もちろん、悪いことをすれば怒られた。
子供の頃、人を傷つけるようなことをすればお父さんは滅多に見せない厳しい顔で……その時の目には憎しみや威圧などではなく、私を正そうとする優しさがあった。あの眼差しは間違いなく、今の私にとって最も価値のあるものだと感じる。
「お父さん、まだ働くつもり?」
「ああ、働けるうちは働くさ」
その言葉に私は小さく息をついた。どんなに私は高みに登ってもお父さんは変わらずにそこにいる。
その平凡な姿が今の私にとってどれほど大切で、貴重なものになっているのか。私は言葉にはできないほどの感謝と愛情を胸に抱きながら、お父さんを見つめた。
「今度、暇を作れたら私も旅行に行くわ」
そう言うと、お父さんは少し驚いた顔をしてから、嬉しそうに頷いた。
「おう、母さんと三人で行こうな」
お父さんが帰り、ドアが静かに閉まる音を聞きながら、私はデスクに残された菓子をもう一つ手に取った。
シルヴィアだった頃の私はただひたすらにウルファの妃になることを夢見ていた。
あの美しい王子に選ばれ、彼の隣に立つことこそが私に与えられた運命であり、誇りだと信じて疑わなかった。
尻尾を美しく整え、しなやかな仕草を習得し、お父様の期待に応えようと、ひたむきに自分を磨き続けた。
それでも、どこかでずっと胸の奥に引っかかっていたものがあった。心の深層でうごめく、不安と不満が、私を縛り続けていた。
殿方に媚び、妻として生きる。それが私の運命だと、何度も自分に言い聞かせた。ウルファの妃になることが栄誉であり、尊き役目であることはわかっていた。
それでも、私の本心はもっと野心的で、もっと大きな夢を抱いていた。もし私がその立場を手に入れるなら、ウルファも、お父様も、すべてを押し退けて、私がその国を支配したいと思った。
獣人の王国を掌握し、頂点に君臨する。それこそが私にふさわしい未来だと信じて疑わなかった。だが、私はその欲望をひたすら抑え込み、ただ従順な娘、完璧な婚約者として振る舞っていた。
そして、あのアリシアの登場。あの、か弱く、無力に見えた人間の女がすべてを台無しにした。
あの人間の女のせいで、すべてが破綻し、すべてを失い、最終的に死に至った。あの屈辱的な結末、あの悔しさは今でも忘れることができない。
あの時の私は憎しみに飲み込まれ、破滅で終わった。
だが、今は違う。あの頃の私はもういない。この新しい世界で生まれ変わった私はもう「女としての幸せ」を追い求める必要はない。
殿方の隣に立ち、愛されるために自分を犠牲にする必要など、どこにもない。今の私は人としての幸せを掴んでいる。
自分の力で会社を築き上げ、頂点に立ち、誰かに生き方を強制されることなく、自由に生きている。ウルファにも、父様にも縛られることなく、私は自分の意志で道を切り開いているのだ。
今、私はシルヴィアだった頃の未練や悔いを振り払い、ただ前を見据えて歩んでいる。女社長として、誰よりも高く、誰よりも強く。私の幸せは私の手の中で紡いだもの。
自分で選んで、成し遂げたその成果が、私の誇りであり、生きる意味なのだと、心の底から確信している。
粗末なベッドの上で体を起こすと、何とも言えない不安が胸を締めつけた。窓の外からは見慣れない街の喧騒が遠くから響いていたが、それさえもまるで他の世界の音のように感じられた。
ベッドから降り、鏡を見て、私は息を呑んだ。そこに映ったのは全く見知らぬ顔。銀色に輝く髪、鋭く冷徹な瞳、そしてふさふさとした尻尾、それらはかつて私の誇りであり、誇らしげに持っていたものだ。
しかし今、それらはどこにも見当たらず、目の前に現れたのはただの平凡な人間の姿。
これが転生だと気づくのにそんなに時間はかからなかった。
私はシルヴィア。かつて誇り高き狼獣人の公爵令嬢として、あの世界では破滅的な最期を迎えた。
あの忌々しい人間の女、アリシアに全てを奪われ、お父様に見捨てられ、最終的には命をも失った。
そして今、どういうわけか別の世界の平凡な人間として生まれ変わったらしい。笑いものだ。あの苦しみと絶望の果てになぜこんなつまらない世界に放り込まれたのか、全く理解できなかった。
私の新たな両親、この世界の“父”と“母”は驚くほど平凡だった。
父は飲食店で働き、母は家で家事に勤しんでいる。二人とも穏やかで優しいが、その優しさはかつてのアルジャンお父様に感じた厳格で熱い意志とは程遠く、どこか薄っぺらく、私の心を満たすものではなかった。
比べるべくもない。あのお父様はその目に炎のような強い意志を宿していた。力強く、威圧的であったが、それだけに私は常に尊敬し、畏怖していた。
しかし、今目の前にいるのはただただ無感動に日々を送るだけの普通の人間。大きな目的を持たず、ただ流れるように生きているだけの彼らには私を引き上げる力は感じられなかった。
それでも、私は冷静に状況を分析することができた。今は身体は弱々しく、特別な力も持っていない人間の体。シルヴィアとしての記憶と知識が唯一の武器となるだろう。
この平凡な世界で、私はどんな方法で生き抜くのか、それを見極める必要があった。父と母を見下す気持ちはどうしても抑えきれなかったが、彼らが私に害を及ぼすわけではないことは理解していた。
むしろ、今はこの平凡な環境を利用して、自分自身の道を切り開くべきだろうと思った。
小学校の教室の窓から外を見ながら、唇の端をわずかに吊り上げる。
あの世界では私は誰にも愛されず、認められず、憎しみの中で終わりを迎えた。しかし、ここでは違う。
この生温い自由な環境では私は私自身を証明し、ただ私の価値を示すために生きることができる。
この新しい世界ではアリシアに勝つことも、父に認められることも、ウルファの妃になることも、もう、どうでもいい。
私は私として、思うがままに生きれる。それこそが、この新たな命の目的であり、私が望むことなのだ。
「フフフ……」
指先で軽く小学校の机を叩きながら、私は次の手を静かに考え始めた。
◆
時は静かに流れ、私は確実に大人へと成長していった。
この知らない世界での生活は最初こそ苛立ちと不満に満ちていたが、次第に私の心を掻き立てる舞台へと変わっていった。
かつてのシルヴィアとしての誇りや野心が、私を再び動かしたのだ。
私はこの新たな命でどう生きるべきかを深く考え、決意した。冷徹な分析力と過去の記憶を武器に私は必ず這い上がると。
最初の一歩は家の手伝いから始まった。日常の仕事をこなす中で、この世界のルールと常識を学び、やがて別の店でアルバイトを始めることとなった。
新しい単純な作業をこなしながらも、私はその中で人々の金銭の流れや、社会の裏側に潜む力を鋭敏に感じ取った。
次第にその地道な努力こそが私に最初のチャンスを与えてくれるものであり、どんな小さな仕事も無駄にしないべきだと悟った。
それからは私の足取りは確実に変わり始めた。
経験を重ね、やがて大手の企業に就職した。そこでは取引先を巧みに説得し、洞察力を駆使して市場の隙間を見抜く力が求められた。
私はその全てにおいて輝きを放ち、わずか数年で他の社員たちと一線を画す存在となった。
その後、私はついに独立を果たし、自分の会社を立ち上げた。
資金はほとんどなく、従業員は私を含めて数人。しかし、私は妥協しなかった。
夜を徹して戦略を練り、時には無謀とも思えるアイデアを実行に移すことで、競合他社を次々と出し抜いていった。
数年後、その努力の結晶は驚くべき成果を見せ、私の会社は急成長を遂げた。
業界で名が知られ、時には「冷酷な女」と陰で囁かれることもあった。それでも、そのような評価さえ私には勲章となった。人々の恐れや嫉妬の中にこそ、私の力が宿っていたのだと、誇りを感じながらその称賛を受け入れた。
それから私はついに女社長として頂点に立った。
私の会社は沢山の従業員を抱え、大企業へと成長を遂げていた。
豪華なオフィスの最上階から、私はガラス窓越しに広がる街を見下ろした。その景色はまるで私がこの世界を支配しているかのような錯覚を与えてくれる。
あの過去の世界では得ることのできなかった栄光が、今ここにある。
お父様の言いなりにならず、私自身の力で築き上げたこの城が、私の誇りそのものであった。
しかし、成功の裏には数え切れないほどの徹夜と犠牲があった。幾度もの裏切りも経験したし、敵も数多く現れた。
それでも、私は一つ一つの困難を乗り越え、どんな壁も越えてきた。
かつての悪役令嬢シルヴィアが、この世界で新たな伝説となったのだ。
そして、私はその伝説を築くことに誇りを感じながら、冷たく微笑んだ。
これで終わりではない。この頂点が終わりではない。さらなる高みへ、私は歩みを進める。
そのために私の野心はさらに深く、強く燃え続けていた。それこそが、私が生きる理由であり、道標なのだ。
「社長、お父様がいらっしゃいました。どうしますか?」
秘書の静かな声が、私の集中を一瞬だけ乱した。私は軽く眉を上げ、わずかに息を吐いてから答える。
「通して」
ドアが静かに開き、そこに現れたのは懐かしいあの姿だった。少し白髪が増え、歳月を感じさせるけれども、それでもどこか昔のままだ。
私が選んだコートを脱ぐと、今日も私が選んだスーツを着ている。そして手に持った紙袋。
昔と何一つ変わらないその姿を見て、私は一瞬だけ目を細めた。お父さんはあの平凡で飾り気のない佇まいで、今も昔も、何も変わらず私の前に立っている。
「ありがとうな、また父さんと母さんに温泉旅行をプレゼントしてくれて」
照れくさそうにそう言いながらお父さんは紙袋を私のデスクに置いた。いつも通り、何の気取りもなく、その手から自然に放たれた言葉が、むしろ私の心に深く響く。
「旅行のお土産だ。菓子だけど、まあ、食べてくれよ」
蓋を開けると、中からは素朴な焼き菓子が並んでいた。見た目は派手でも高級でもなく、どこにでもありそうなシンプルなものだ。
そんな素朴な品々にこそ、お父さんの優しさが込められていることが、私には分かる。私は一瞬だけ目を細め、すぐにそれを手に取って口に運んだ。
甘さ控えめで、どこか懐かしい味が広がる。子供の頃、家族で囲んだテーブルを思い出させる、優しい味だった。
「……ありがとう」
短く呟くと、お父さんは満足そうに頷いた。その顔を見て、私の胸に何とも言えない温かさが広がる。
今、私は女社長として社会の頂点に立ち、企業の未来を握る立場にいる。
それなのにお父さんは相変わらず、あの小さな商店で静かに働き続けている。「動いてないとボケるからな」と、笑いながら私の援助を頑なに断るその姿勢が、私はどこか滑稽であり、愛おしくも感じた。
成功を手にし、数えきれないほどの人々の期待を背負いながらも、私はどこかでその「普通」の生活に無意識のうちに憧れを抱いているのかもしれない。
昔を思い出す。お父さんは私がやりたいと言ったことをいつも応援してくれた。
最初に会社に入りたいと言ったときも、独立すると宣言したときも「お前が決めたなら頑張れ」と言って背中を押してくれた。
資金も援助してくれて、私が失敗して帰ってきたら、黙って温かいご飯を出してくれるような、そんな支え方をしてくれた。
もちろん、悪いことをすれば怒られた。
子供の頃、人を傷つけるようなことをすればお父さんは滅多に見せない厳しい顔で……その時の目には憎しみや威圧などではなく、私を正そうとする優しさがあった。あの眼差しは間違いなく、今の私にとって最も価値のあるものだと感じる。
「お父さん、まだ働くつもり?」
「ああ、働けるうちは働くさ」
その言葉に私は小さく息をついた。どんなに私は高みに登ってもお父さんは変わらずにそこにいる。
その平凡な姿が今の私にとってどれほど大切で、貴重なものになっているのか。私は言葉にはできないほどの感謝と愛情を胸に抱きながら、お父さんを見つめた。
「今度、暇を作れたら私も旅行に行くわ」
そう言うと、お父さんは少し驚いた顔をしてから、嬉しそうに頷いた。
「おう、母さんと三人で行こうな」
お父さんが帰り、ドアが静かに閉まる音を聞きながら、私はデスクに残された菓子をもう一つ手に取った。
シルヴィアだった頃の私はただひたすらにウルファの妃になることを夢見ていた。
あの美しい王子に選ばれ、彼の隣に立つことこそが私に与えられた運命であり、誇りだと信じて疑わなかった。
尻尾を美しく整え、しなやかな仕草を習得し、お父様の期待に応えようと、ひたむきに自分を磨き続けた。
それでも、どこかでずっと胸の奥に引っかかっていたものがあった。心の深層でうごめく、不安と不満が、私を縛り続けていた。
殿方に媚び、妻として生きる。それが私の運命だと、何度も自分に言い聞かせた。ウルファの妃になることが栄誉であり、尊き役目であることはわかっていた。
それでも、私の本心はもっと野心的で、もっと大きな夢を抱いていた。もし私がその立場を手に入れるなら、ウルファも、お父様も、すべてを押し退けて、私がその国を支配したいと思った。
獣人の王国を掌握し、頂点に君臨する。それこそが私にふさわしい未来だと信じて疑わなかった。だが、私はその欲望をひたすら抑え込み、ただ従順な娘、完璧な婚約者として振る舞っていた。
そして、あのアリシアの登場。あの、か弱く、無力に見えた人間の女がすべてを台無しにした。
あの人間の女のせいで、すべてが破綻し、すべてを失い、最終的に死に至った。あの屈辱的な結末、あの悔しさは今でも忘れることができない。
あの時の私は憎しみに飲み込まれ、破滅で終わった。
だが、今は違う。あの頃の私はもういない。この新しい世界で生まれ変わった私はもう「女としての幸せ」を追い求める必要はない。
殿方の隣に立ち、愛されるために自分を犠牲にする必要など、どこにもない。今の私は人としての幸せを掴んでいる。
自分の力で会社を築き上げ、頂点に立ち、誰かに生き方を強制されることなく、自由に生きている。ウルファにも、父様にも縛られることなく、私は自分の意志で道を切り開いているのだ。
今、私はシルヴィアだった頃の未練や悔いを振り払い、ただ前を見据えて歩んでいる。女社長として、誰よりも高く、誰よりも強く。私の幸せは私の手の中で紡いだもの。
自分で選んで、成し遂げたその成果が、私の誇りであり、生きる意味なのだと、心の底から確信している。
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