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■第二話
3-1
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「――で、しばらくは掛け持ちしてたんだけど、さすがに昼夜のダブルワークはキツくてさあ。でも、まだまだ借金も残ってたし、そこからは本腰を入れてこの道一本に絞ることにしたの。どうせやるなら、誰にでもできる仕事より、少なくても私を指名してくれる人がいるほうが、やりがいがあっていいじゃない? おかげで予定より早く完済できて、今は自分にかけられるお金の余裕もできたの。こうして奢ってあげられるくらいに」
「すみません、ご馳走になってばかりで……」
「や、そういう意味じゃないよー。君は仕事をしてるだけでしょ? 私は誰かと一緒にご飯が食べたくて君に来てもらってるんだから、謝るのはむしろこっちだよ」
「そう……なんですかね」
「そう!」
早朝五時の《派遣メシ友》から一週間。
ちょうど休みだから、またどうか、と喜多を介して誘われた陽史は、今日は落ち着いた雰囲気が逆にちょっとソワソワする居酒屋にいた。さすがに飲み飽きているのだろう、彩乃はソフトドリンクを片手に、キャバクラで働くようになった経緯を語った。
彩乃はもともと、派遣社員をしていたそうだ。デスクワーク中心の事務職で、とある企業の経理課で領収書の整理やその他細々とした事務仕事をやっていたらしい。だんだん任される仕事も増えてきて、派遣社員ながらやりがいも感じていたという。
けれど、その頃付き合いはじめた恋人が、どうにもうだつの上がらない男だった。
知り合ったのは、毎月の締め日に慣例となっていた飲み会の帰り。
各社員の給料の計算や経費で落とせるもの、そうではないものの選別や請求書などが一気に重なる締め日は経理課にとってなかなかな地獄を見る日だそうで、そのこともあって正社員、派遣社員、契約社員の垣根なく結託力の強い職場だったのだそうだ。
二次会までの間にすっかり気持ちよく酔っていた彩乃は、三次会へ向かう職場の仲間を見送り、夜の道をふわふわとした足取りで帰った。電車に揺られると、仕事での緊張や疲れ、解放感も重なって、うっかり少しだけ眠ってしまったらしい。
通勤バッグを抱いて舟を漕ぐ。
『置き引きに遭っちゃいますよ』
そんなとき声をかけてきたのが、仮の名を〝セイヤ〟という男だったという。
セイヤは、ぼーっと見上げる彩乃に綺麗な微笑みを向けて、もう一度『置き引きに遭っちゃいますよ』と言う。『女性一人で乗ってるんだし、危ないですよ』とも。
その声は、見た目大学生風のわりに低く、けれど優しく落ち着いていて、なんとも耳に心地よかったという。その見た目や声、仕事の解放感や酔いも手伝って『だったら隣で見張っててくれます?』と大胆なことを口走ったのは、後にも先にもこの一回だ。
セイヤは彩乃が酔っ払っていることに最初から気づいていたのだろう。もしかしたら、だからこそ声をかけたのかもしれない。ともかく、少しだけ困ったような笑顔を見せたものの『……仕方ないですね』と隣に腰を下ろしたセイヤは、彩乃が降りる駅に着いても隣を離れることはなく、お礼にと誘われるまま部屋に上がり込み、そのまま――。
でも彩乃は、たまにはこういうことがあってもいいじゃないと後悔はしなかった。実際に行動に移すか移さないかだけで、誰にだってそういう夜はある。
ところが、それからセイヤは何かと理由を付けて彩乃の部屋に居座るようになった。
最初はもちろん『帰ったほうがいいよ』と何度も言い聞かせた。あまりにも帰る気配がないものだから『これ以上居座られたら警察に言うよ』と言ったこともある。
けれど、彩乃が仕事に行っている間に部屋の掃除をしたり、不格好ながらも料理を作って待っていたり、たまに花や揃いのマグカップなんかを買ってきたりするセイヤに次第に強く出られなくなっていった。ご機嫌取りと言えばそれまでだが、純粋に嬉しかったし、指にたくさん絆創膏が巻かれていたときには、どうにも胸がキュンとしてしまった。
最終的に、なんだかんだと押し切られたのは彩乃のほうだった。小さなサプライズを用意してくれることや、帰っても一人じゃないこと、何より抱き合うたびに耳元で甘く低く自分の名前を呼んでくれるその声に、彩乃はすっかり絆されてしまっていた。
――セイヤがどこの誰でももういいや。
そうして半年ほどだろうか。セイヤの素性もよくわからないまま、同棲のような、しょうもないヒモ男を飼うような、そんな感じで一緒に暮らしたのだった。
そんなセイヤが【しばらく真面目に大学に出てくる】と書き置きを残して出ていったのは、ちょうど今時分の季節だったという。そこでようやく、彩乃は〝あ、本当に大学生だったんだ〟と知ったわけだが、それさえもセイヤの嘘だったことはまだ知らない。
待てど暮らせどセイヤは帰ってこず、そのうち彩乃も夢から覚めた。しかし、そのあとが人生最大のどん底時代の幕開けとなる。知らない間に借金の保証人にされていたのだ。
夜の仕事も始めた彩乃は、次第に日中の仕事に支障をきたすようになった。信頼して任されていた仕事でミスを連発し、彩乃を取り囲む環境は悪いほうへ悪いほうへと劇的に降下していったのだ。登録していた派遣元からも一気に信用を失い、派遣期間をあと四ヵ月ほど残して強制終了、新たな派遣先も紹介してもらえず、早い話が登録を抹消された。
そうして冒頭に戻る。
恋人が作った借金を肩代わりして返すために、この仕事を始めて八年。三年で返し終わったので、そこだけはまあよかったと思うものの、すっかりこちらのほうの居心地がよくなってしまい、今に至る――それが今でもこの仕事を続けている経緯だった。
「でもさあ、思うんだよね、私。私はこのままでいいのかなって……」
頬杖をつき、すっかり薄まったウーロン茶のグラスを反対の手でクルクル回しながら、彩乃は遠い目をした。さらりとした口調が、そのぶん重さを感じさせる。
「あ、セイヤのことはもういいの。バカなことをしたなって十分自覚してるし、今では人生の勉強料だったって割り切れてるから。それに、なんだかんだ言って楽しいんだよね、今の仕事が。だから、この道に入ったことに後悔もない。けど、自分の歳のことを考えると、このままでいいのかな、いつまで指名してもらえるだろうって漠然と不安になるの。三十四歳なんて君にはずっとずっと先のように思えるだろうけど、いざなってみると、案外何も変わってない自分に唐突に気づいちゃったりしてね。……寂しくなるのよ」
そういうときは、誰かと無性にご飯が食べたくなるの。
そう言って彩乃は、自分自身に困ったように笑う。
「須賀さん……」
「ごめん、こんな話をされても困るだけだよね。せっかくのご飯もまずくなっちゃうし。って、そんなことより苗字はやめてくれる? 呼ばれ慣れてないのよ」
「じゃあ、彩乃さん」
「ふふ。うん?」
「……いえ。呼んでみただけです」
「だと思ったー」
ちなみに源氏名は〝綾〟に漢字を変えただけで本名だよーと、テーブルに指でその字を書きながら笑う彩乃に、陽史は言葉がない。一週間前の『ゾッとした』という言葉もそうだが、恋人だと思っていた彼や、以前の職場の仲間、派遣元の会社からも手のひらを返されてしまった彩乃の八年間に、どんな言葉も薄っぺらなような気がしてならなかった。
彼女の自業自得だと言えばそれまでだ。身も蓋もない。でも、職場の誰も彩乃のことを気にかけたりはしなかったのだろうか、派遣元の会社の担当者は調子を落としたわけを聞かなかったのだろうかと思うと、陽史はどうにもやるせない気持ちになる。
待遇の垣根なく仲の良かった職場。信頼して任されていた仕事。そのことからも、彩乃の働きぶりはいたく真面目だったのだろう。それなのにと思うと悔しい。
「さ、食べて食べて」
「……あ、はい」
勧められるままにテーブルに並んだ目の前の料理を黙々と口に入れる。けれど当然、味なんてあってないようなものだ。舌や胸に苦味が広がるだけで、美味いとは言えない。
「何か言葉をかけようと思ってる?」
そう言われて、陽史は取り皿に落としていた顔を上げる。
「――」
「その気持ちだけで十分だよ。秋成君にも、ご飯を一緒に食べてもらうこと以外は何もしてもらってないし、してほしいとも思わなかった。君は、バカな女もいるもんだなって右から左に聞き流せばいいの。ちょっとした教訓? にしてもらえればいいから」
しかし、口を開きかけた瞬間、先手を打たれてしまう。
「……そんなふうには思いませんよ」
「ふふ。やっぱり君はいい子だね」
苦し紛れにした陽史の反論は、けれどその一言で一蹴されただけだった。
「すみません、ご馳走になってばかりで……」
「や、そういう意味じゃないよー。君は仕事をしてるだけでしょ? 私は誰かと一緒にご飯が食べたくて君に来てもらってるんだから、謝るのはむしろこっちだよ」
「そう……なんですかね」
「そう!」
早朝五時の《派遣メシ友》から一週間。
ちょうど休みだから、またどうか、と喜多を介して誘われた陽史は、今日は落ち着いた雰囲気が逆にちょっとソワソワする居酒屋にいた。さすがに飲み飽きているのだろう、彩乃はソフトドリンクを片手に、キャバクラで働くようになった経緯を語った。
彩乃はもともと、派遣社員をしていたそうだ。デスクワーク中心の事務職で、とある企業の経理課で領収書の整理やその他細々とした事務仕事をやっていたらしい。だんだん任される仕事も増えてきて、派遣社員ながらやりがいも感じていたという。
けれど、その頃付き合いはじめた恋人が、どうにもうだつの上がらない男だった。
知り合ったのは、毎月の締め日に慣例となっていた飲み会の帰り。
各社員の給料の計算や経費で落とせるもの、そうではないものの選別や請求書などが一気に重なる締め日は経理課にとってなかなかな地獄を見る日だそうで、そのこともあって正社員、派遣社員、契約社員の垣根なく結託力の強い職場だったのだそうだ。
二次会までの間にすっかり気持ちよく酔っていた彩乃は、三次会へ向かう職場の仲間を見送り、夜の道をふわふわとした足取りで帰った。電車に揺られると、仕事での緊張や疲れ、解放感も重なって、うっかり少しだけ眠ってしまったらしい。
通勤バッグを抱いて舟を漕ぐ。
『置き引きに遭っちゃいますよ』
そんなとき声をかけてきたのが、仮の名を〝セイヤ〟という男だったという。
セイヤは、ぼーっと見上げる彩乃に綺麗な微笑みを向けて、もう一度『置き引きに遭っちゃいますよ』と言う。『女性一人で乗ってるんだし、危ないですよ』とも。
その声は、見た目大学生風のわりに低く、けれど優しく落ち着いていて、なんとも耳に心地よかったという。その見た目や声、仕事の解放感や酔いも手伝って『だったら隣で見張っててくれます?』と大胆なことを口走ったのは、後にも先にもこの一回だ。
セイヤは彩乃が酔っ払っていることに最初から気づいていたのだろう。もしかしたら、だからこそ声をかけたのかもしれない。ともかく、少しだけ困ったような笑顔を見せたものの『……仕方ないですね』と隣に腰を下ろしたセイヤは、彩乃が降りる駅に着いても隣を離れることはなく、お礼にと誘われるまま部屋に上がり込み、そのまま――。
でも彩乃は、たまにはこういうことがあってもいいじゃないと後悔はしなかった。実際に行動に移すか移さないかだけで、誰にだってそういう夜はある。
ところが、それからセイヤは何かと理由を付けて彩乃の部屋に居座るようになった。
最初はもちろん『帰ったほうがいいよ』と何度も言い聞かせた。あまりにも帰る気配がないものだから『これ以上居座られたら警察に言うよ』と言ったこともある。
けれど、彩乃が仕事に行っている間に部屋の掃除をしたり、不格好ながらも料理を作って待っていたり、たまに花や揃いのマグカップなんかを買ってきたりするセイヤに次第に強く出られなくなっていった。ご機嫌取りと言えばそれまでだが、純粋に嬉しかったし、指にたくさん絆創膏が巻かれていたときには、どうにも胸がキュンとしてしまった。
最終的に、なんだかんだと押し切られたのは彩乃のほうだった。小さなサプライズを用意してくれることや、帰っても一人じゃないこと、何より抱き合うたびに耳元で甘く低く自分の名前を呼んでくれるその声に、彩乃はすっかり絆されてしまっていた。
――セイヤがどこの誰でももういいや。
そうして半年ほどだろうか。セイヤの素性もよくわからないまま、同棲のような、しょうもないヒモ男を飼うような、そんな感じで一緒に暮らしたのだった。
そんなセイヤが【しばらく真面目に大学に出てくる】と書き置きを残して出ていったのは、ちょうど今時分の季節だったという。そこでようやく、彩乃は〝あ、本当に大学生だったんだ〟と知ったわけだが、それさえもセイヤの嘘だったことはまだ知らない。
待てど暮らせどセイヤは帰ってこず、そのうち彩乃も夢から覚めた。しかし、そのあとが人生最大のどん底時代の幕開けとなる。知らない間に借金の保証人にされていたのだ。
夜の仕事も始めた彩乃は、次第に日中の仕事に支障をきたすようになった。信頼して任されていた仕事でミスを連発し、彩乃を取り囲む環境は悪いほうへ悪いほうへと劇的に降下していったのだ。登録していた派遣元からも一気に信用を失い、派遣期間をあと四ヵ月ほど残して強制終了、新たな派遣先も紹介してもらえず、早い話が登録を抹消された。
そうして冒頭に戻る。
恋人が作った借金を肩代わりして返すために、この仕事を始めて八年。三年で返し終わったので、そこだけはまあよかったと思うものの、すっかりこちらのほうの居心地がよくなってしまい、今に至る――それが今でもこの仕事を続けている経緯だった。
「でもさあ、思うんだよね、私。私はこのままでいいのかなって……」
頬杖をつき、すっかり薄まったウーロン茶のグラスを反対の手でクルクル回しながら、彩乃は遠い目をした。さらりとした口調が、そのぶん重さを感じさせる。
「あ、セイヤのことはもういいの。バカなことをしたなって十分自覚してるし、今では人生の勉強料だったって割り切れてるから。それに、なんだかんだ言って楽しいんだよね、今の仕事が。だから、この道に入ったことに後悔もない。けど、自分の歳のことを考えると、このままでいいのかな、いつまで指名してもらえるだろうって漠然と不安になるの。三十四歳なんて君にはずっとずっと先のように思えるだろうけど、いざなってみると、案外何も変わってない自分に唐突に気づいちゃったりしてね。……寂しくなるのよ」
そういうときは、誰かと無性にご飯が食べたくなるの。
そう言って彩乃は、自分自身に困ったように笑う。
「須賀さん……」
「ごめん、こんな話をされても困るだけだよね。せっかくのご飯もまずくなっちゃうし。って、そんなことより苗字はやめてくれる? 呼ばれ慣れてないのよ」
「じゃあ、彩乃さん」
「ふふ。うん?」
「……いえ。呼んでみただけです」
「だと思ったー」
ちなみに源氏名は〝綾〟に漢字を変えただけで本名だよーと、テーブルに指でその字を書きながら笑う彩乃に、陽史は言葉がない。一週間前の『ゾッとした』という言葉もそうだが、恋人だと思っていた彼や、以前の職場の仲間、派遣元の会社からも手のひらを返されてしまった彩乃の八年間に、どんな言葉も薄っぺらなような気がしてならなかった。
彼女の自業自得だと言えばそれまでだ。身も蓋もない。でも、職場の誰も彩乃のことを気にかけたりはしなかったのだろうか、派遣元の会社の担当者は調子を落としたわけを聞かなかったのだろうかと思うと、陽史はどうにもやるせない気持ちになる。
待遇の垣根なく仲の良かった職場。信頼して任されていた仕事。そのことからも、彩乃の働きぶりはいたく真面目だったのだろう。それなのにと思うと悔しい。
「さ、食べて食べて」
「……あ、はい」
勧められるままにテーブルに並んだ目の前の料理を黙々と口に入れる。けれど当然、味なんてあってないようなものだ。舌や胸に苦味が広がるだけで、美味いとは言えない。
「何か言葉をかけようと思ってる?」
そう言われて、陽史は取り皿に落としていた顔を上げる。
「――」
「その気持ちだけで十分だよ。秋成君にも、ご飯を一緒に食べてもらうこと以外は何もしてもらってないし、してほしいとも思わなかった。君は、バカな女もいるもんだなって右から左に聞き流せばいいの。ちょっとした教訓? にしてもらえればいいから」
しかし、口を開きかけた瞬間、先手を打たれてしまう。
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