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■4.大きな問題が起こらない限り、それはしないよ ◆箱石ひらり
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「次にサックスだけど――」
なずなの説明は続く。
彼女の説明によると、このサックスは、ベルが大きく歪み、ボディにも凹みがあって、ついでに音階を調節するためのオクターブキーという部分も曲がってしまい、どうにも吹けない状態のまま、長いこと音楽準備室の肥やしになっているということだった。リペアを頼めばまた吹けるようになるだろうが、もうだいぶ前のものだし新調したほうがいいのではないか、というのが、顧問の先生と相談した結果だという。
「たかだか高校生の私たちにできる手入れやメンテなんかじゃ、楽器のほうだって悪くなるよ。……っていうのは、まあ言い過ぎだけど。でも、木管楽器で大きな音が出せるのは、やっぱサックスだから。室内演奏用と野外演奏用に分けられるなら、分けてほしいかなーっていうのが本音だね。タンポっていって、穴を塞ぐための部分も劣化しちゃうし」
「なるほど」
「こりゃ確かに、みすぼらしくてどこにも出せないわ」
「あはは。だよねー」
景吾がサラサラとリストにペンを走らせる音が静かに響く。
吹奏楽部は楽器さえあれば大会にも出られるし特に問題ないと軽視していた部分があったように思うが、じっくり話を聞いてみれば、吹部も吹部でギリギリのところで毎年いい成績を残していたことがわかる。本格的に動き出しておきながら、まだ半信半疑の部分が大半を占めているけれど、今年から――これからは毎年、野球応援に吹奏楽部も参加するとなれば、やはり早い段階から内外と楽器を分け、且つ揃えておく必要がありそうだ。
「じゃあ、次はパーカス系ね」
「うん」
「よろしく頼む」
それからも、リペアより買い換えたほうがいいという楽器は続いた。
スネアドラム、バスドラム、ティンパニ、コンサートバスドラム――いわゆる大太鼓など、それぞれどこかしらガタがきていて、何度も運び出したり設置したりするのは、あまりしたくないのが本音ということだった。確かに移動があまりにも頻繁だと楽器に悪影響が出そうなイメージがある。炎天下の中ではなくても、持ち運びの振動で微妙にチューニングが狂ったり、どれだけ気をつけていても落下の危険性だって常に付きまとう。
野球応援の頃は吹部にとっても大会の時期だ。ギリギリのところで回している楽器に負担をかけたくない気持ちは、素人のひらりにもよくわかった。
これが吹部が出した『楽器を一式揃えてくれるなら』という条件の大元なのだろう。本音を言えば、音楽室を訪ねるまでは、吹部には今ある楽器でなんとかしてほしいと思っていたのだが、事情を知れば知っただけ、なかなかそうは言えなくなってくるのが現状だった。
形式的な感じでいいとは言ったものの、なずなは素人のひらりや景吾にもわかりやすいように、ひとつずつ「ここがこうだから新しいものが欲しい」と丁寧に説明してくれた。
気づけば三十分は準備室にこもっていて、まったく長居をするつもりはなかったけれど、とても意味のある三十分だったのではないかと思う。
これだけ丁寧に説明してもらえば、ねちっこい教頭も文句は言わないだろう。そんな手応えも掴めた。最初はちっとも気が進まなかったけれど、これで生徒会の精査とできそうだ。
「練習中にごめんね。話を聞かせてくれてありがとう」
「ううん。そっちこそ生徒会頑張ってね」
「うん、ありがとう」
そうして、確かな手応えとともになずなと別れたひらりと景吾は、再び生徒会室に戻ることにした。少しだけ、総会のときの一年生のことを話したいと思ったけれど、ただでさえ時間を取らせてしまったので、これ以上はさすがに図々しく長居できる心境ではなかった。
第一、ひらりは内申点のために生徒会に入った部分がある。会長という肩書きこそあれ、全校生徒全員の顔と名前を把握しているわけでもなければ、入学してまだまだ日の浅い新一年生のことなど、まったくわからないのが実際のところだった。
それでなくても、こっちには仕事が山積みだ。まだ先ではあるが、受験も控えている。もしかしたらいじめに発展するかもしれない危険因子のことなど実に面倒くさいことこの上ないのに、限られた時間では手が回るはずもない。だいたい、どの顔を下げて出しゃばっていけばいいのだろうか。気分は悪いが、そちらはそちらで頑張ってもらうしかない。
「じゃあ、三十分で終わらせよう」
「そうだな。遅くなると先生も帰るかもしれないし」
ひらりも景吾も、それぞれ部活はあるが、今日はもう諦めてリストを清書し、出来上がり次第、綿貫先生のところへ持っていこう、ということで話がまとまる。金曜日の今日のうちに綿貫先生から教頭へ精査済みのリストが渡れば、月曜日には返事があるかもしれない。
ふたりでメモを見ながら黙々と作業していく。
練習の後半になったのだろう、しばらくすると音楽室からは、さっきまではバラバラに鳴っていた楽器の音が合奏になって聞こえはじめ、トランペットの音色も音階を刻みながらテンポを上げて生徒会室の中まで響いてきた。今まで特に意識して聞いたことはなかったけれど、綺麗な音だなとひらりは思った。もちろんほかの楽器もそれぞれに綺麗な音をしていて、なんの曲かはわからないが、聞いていて耳に心地いい。
曲が変わり、今度はゆったりとしたリズムで奏でられる演奏に自然と唇の両端が持ち上がった。面倒くさいことに変わりはないし、さっきの今で現金かもしれないけれど、この音で野球応援ができたら気持ちいいかもしれないな。リストを清書しながら、ひらりはそんな思いにとらわれはじめていた。体もなんだかリズムを刻んでしまう。
「箱石、応援団に振り回されるも一興だぞ?」
すると、向かいの席に座っていた景吾が意味ありげな視線を投げてきた。とっさに「なに言ってんの」と意識的に口角を下げて景吾をひと睨みしたが、ひらりの心は吹奏楽部の演奏にとらわれているので、どうにも説得力に欠けてしまう。
「無難に任期を終えられれば万々歳だけど、最後の年くらい、なんか派手なことをして終わるのもいいんじゃないかな~って。なんかそんな顔してるように見えるけど?」
そこを見逃さず突いてくる景吾は、もしかしたら教頭と似通ったタイプかもしれない。いつものように右手中指の腹でノンフレームの眼鏡を押し上げる景吾は、前にも少し感じたけれど、なんだかこちらの真意を試しているような口振りで警戒心が疼く。
「んなわけないじゃん」
「そう? ま、箱石は面倒くさがり屋だからな。全体のことも見なきゃいけないし、俺にできることならフォローすっから、上手く肩の力を抜きながら頑張ればいいんじゃね?」
「……八重樫、私より会長らしいときがあるからね。せいぜい頼りにしてるよ」
「はは。そうかよ。そりゃ、どーも」
「……」
嫌味のつもりだったのに軽く流された。微妙に面白くない。
それにしても、頼りになるのは本当だが、景吾といると、ときどきすごく疲れる。内申点狙いだとつい口を滑らせてしまった負い目や気まずさを潜在的に感じていて、ひらりが勝手に精神的に疲弊しているだけかもしれない。でも、逐一行動を試されているような気がしてならないのだ。……たかだか同級生相手に疑心暗鬼すぎるだろうか。
しかし今の会話は、ひらりにとって耳の痛いものだったのには違いないのも事実だ。
面倒なことは俺がやるから、お前は本当はどうしたい?
暗にそう聞かれているような気がして、こいつヤなやつ、と思ってしまうのだ。どうしても本能で避けたがってしまう。本当に私と同級生なんだろうか。なかなか疑わしい。
「そんなことより、早くしないと本当に帰っちゃうかもしれないよ、綿貫先生。そっちはもう清書終わってんの? ちょっと見せてみなさいよ」
悔し紛れに景吾の前に手をひらひら差し出すと、ふっと笑った彼は、
「え? 箱石待ちだけど」
眼鏡を押し上げながら、反対の手で飄々とリストを渡してきた。
「……っとに油断も隙もあったもんじゃないね、八重樫は。さすがE組ですこと」
「まあね。まだなら手伝ってやろうか?」
「いい。もう終わるとこだし」
「そ」
ほんと、ヤなやつだ。
いつか砂糖と塩を間違えたゲロ甘のおにぎりとか食べて思いっきりブサイクな顔になればいい。ひらりは内心でそんな呪いをかけながら清書の続きに取りかかった。
なずなの説明は続く。
彼女の説明によると、このサックスは、ベルが大きく歪み、ボディにも凹みがあって、ついでに音階を調節するためのオクターブキーという部分も曲がってしまい、どうにも吹けない状態のまま、長いこと音楽準備室の肥やしになっているということだった。リペアを頼めばまた吹けるようになるだろうが、もうだいぶ前のものだし新調したほうがいいのではないか、というのが、顧問の先生と相談した結果だという。
「たかだか高校生の私たちにできる手入れやメンテなんかじゃ、楽器のほうだって悪くなるよ。……っていうのは、まあ言い過ぎだけど。でも、木管楽器で大きな音が出せるのは、やっぱサックスだから。室内演奏用と野外演奏用に分けられるなら、分けてほしいかなーっていうのが本音だね。タンポっていって、穴を塞ぐための部分も劣化しちゃうし」
「なるほど」
「こりゃ確かに、みすぼらしくてどこにも出せないわ」
「あはは。だよねー」
景吾がサラサラとリストにペンを走らせる音が静かに響く。
吹奏楽部は楽器さえあれば大会にも出られるし特に問題ないと軽視していた部分があったように思うが、じっくり話を聞いてみれば、吹部も吹部でギリギリのところで毎年いい成績を残していたことがわかる。本格的に動き出しておきながら、まだ半信半疑の部分が大半を占めているけれど、今年から――これからは毎年、野球応援に吹奏楽部も参加するとなれば、やはり早い段階から内外と楽器を分け、且つ揃えておく必要がありそうだ。
「じゃあ、次はパーカス系ね」
「うん」
「よろしく頼む」
それからも、リペアより買い換えたほうがいいという楽器は続いた。
スネアドラム、バスドラム、ティンパニ、コンサートバスドラム――いわゆる大太鼓など、それぞれどこかしらガタがきていて、何度も運び出したり設置したりするのは、あまりしたくないのが本音ということだった。確かに移動があまりにも頻繁だと楽器に悪影響が出そうなイメージがある。炎天下の中ではなくても、持ち運びの振動で微妙にチューニングが狂ったり、どれだけ気をつけていても落下の危険性だって常に付きまとう。
野球応援の頃は吹部にとっても大会の時期だ。ギリギリのところで回している楽器に負担をかけたくない気持ちは、素人のひらりにもよくわかった。
これが吹部が出した『楽器を一式揃えてくれるなら』という条件の大元なのだろう。本音を言えば、音楽室を訪ねるまでは、吹部には今ある楽器でなんとかしてほしいと思っていたのだが、事情を知れば知っただけ、なかなかそうは言えなくなってくるのが現状だった。
形式的な感じでいいとは言ったものの、なずなは素人のひらりや景吾にもわかりやすいように、ひとつずつ「ここがこうだから新しいものが欲しい」と丁寧に説明してくれた。
気づけば三十分は準備室にこもっていて、まったく長居をするつもりはなかったけれど、とても意味のある三十分だったのではないかと思う。
これだけ丁寧に説明してもらえば、ねちっこい教頭も文句は言わないだろう。そんな手応えも掴めた。最初はちっとも気が進まなかったけれど、これで生徒会の精査とできそうだ。
「練習中にごめんね。話を聞かせてくれてありがとう」
「ううん。そっちこそ生徒会頑張ってね」
「うん、ありがとう」
そうして、確かな手応えとともになずなと別れたひらりと景吾は、再び生徒会室に戻ることにした。少しだけ、総会のときの一年生のことを話したいと思ったけれど、ただでさえ時間を取らせてしまったので、これ以上はさすがに図々しく長居できる心境ではなかった。
第一、ひらりは内申点のために生徒会に入った部分がある。会長という肩書きこそあれ、全校生徒全員の顔と名前を把握しているわけでもなければ、入学してまだまだ日の浅い新一年生のことなど、まったくわからないのが実際のところだった。
それでなくても、こっちには仕事が山積みだ。まだ先ではあるが、受験も控えている。もしかしたらいじめに発展するかもしれない危険因子のことなど実に面倒くさいことこの上ないのに、限られた時間では手が回るはずもない。だいたい、どの顔を下げて出しゃばっていけばいいのだろうか。気分は悪いが、そちらはそちらで頑張ってもらうしかない。
「じゃあ、三十分で終わらせよう」
「そうだな。遅くなると先生も帰るかもしれないし」
ひらりも景吾も、それぞれ部活はあるが、今日はもう諦めてリストを清書し、出来上がり次第、綿貫先生のところへ持っていこう、ということで話がまとまる。金曜日の今日のうちに綿貫先生から教頭へ精査済みのリストが渡れば、月曜日には返事があるかもしれない。
ふたりでメモを見ながら黙々と作業していく。
練習の後半になったのだろう、しばらくすると音楽室からは、さっきまではバラバラに鳴っていた楽器の音が合奏になって聞こえはじめ、トランペットの音色も音階を刻みながらテンポを上げて生徒会室の中まで響いてきた。今まで特に意識して聞いたことはなかったけれど、綺麗な音だなとひらりは思った。もちろんほかの楽器もそれぞれに綺麗な音をしていて、なんの曲かはわからないが、聞いていて耳に心地いい。
曲が変わり、今度はゆったりとしたリズムで奏でられる演奏に自然と唇の両端が持ち上がった。面倒くさいことに変わりはないし、さっきの今で現金かもしれないけれど、この音で野球応援ができたら気持ちいいかもしれないな。リストを清書しながら、ひらりはそんな思いにとらわれはじめていた。体もなんだかリズムを刻んでしまう。
「箱石、応援団に振り回されるも一興だぞ?」
すると、向かいの席に座っていた景吾が意味ありげな視線を投げてきた。とっさに「なに言ってんの」と意識的に口角を下げて景吾をひと睨みしたが、ひらりの心は吹奏楽部の演奏にとらわれているので、どうにも説得力に欠けてしまう。
「無難に任期を終えられれば万々歳だけど、最後の年くらい、なんか派手なことをして終わるのもいいんじゃないかな~って。なんかそんな顔してるように見えるけど?」
そこを見逃さず突いてくる景吾は、もしかしたら教頭と似通ったタイプかもしれない。いつものように右手中指の腹でノンフレームの眼鏡を押し上げる景吾は、前にも少し感じたけれど、なんだかこちらの真意を試しているような口振りで警戒心が疼く。
「んなわけないじゃん」
「そう? ま、箱石は面倒くさがり屋だからな。全体のことも見なきゃいけないし、俺にできることならフォローすっから、上手く肩の力を抜きながら頑張ればいいんじゃね?」
「……八重樫、私より会長らしいときがあるからね。せいぜい頼りにしてるよ」
「はは。そうかよ。そりゃ、どーも」
「……」
嫌味のつもりだったのに軽く流された。微妙に面白くない。
それにしても、頼りになるのは本当だが、景吾といると、ときどきすごく疲れる。内申点狙いだとつい口を滑らせてしまった負い目や気まずさを潜在的に感じていて、ひらりが勝手に精神的に疲弊しているだけかもしれない。でも、逐一行動を試されているような気がしてならないのだ。……たかだか同級生相手に疑心暗鬼すぎるだろうか。
しかし今の会話は、ひらりにとって耳の痛いものだったのには違いないのも事実だ。
面倒なことは俺がやるから、お前は本当はどうしたい?
暗にそう聞かれているような気がして、こいつヤなやつ、と思ってしまうのだ。どうしても本能で避けたがってしまう。本当に私と同級生なんだろうか。なかなか疑わしい。
「そんなことより、早くしないと本当に帰っちゃうかもしれないよ、綿貫先生。そっちはもう清書終わってんの? ちょっと見せてみなさいよ」
悔し紛れに景吾の前に手をひらひら差し出すと、ふっと笑った彼は、
「え? 箱石待ちだけど」
眼鏡を押し上げながら、反対の手で飄々とリストを渡してきた。
「……っとに油断も隙もあったもんじゃないね、八重樫は。さすがE組ですこと」
「まあね。まだなら手伝ってやろうか?」
「いい。もう終わるとこだし」
「そ」
ほんと、ヤなやつだ。
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