七月の夏風に乗る

白野よつは(白詰よつは)

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■9.こんなにも諦めの悪い性格をしていたなんて知りませんでしたよ ◆西窪なずな

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 きっとなずながへそを曲げて部活に顔を出していない間も、先生は地道に譲ってもらえる楽器はないか探してくれていたに違いないのだ。吹部のために。佑次をはじめとした、吹奏楽応援実現のために日々奔走していたみんなのために。そして、なずなは必ず部に戻ってくると信じて、来る日も来る日も受話器を握っていたに決まっている。
 そんなの、泣けないほうがおかしい。
「もう。西窪さんって、けっこう泣き虫さんね」
 三浦先生が「ふふ」と笑い、大西やほかの有志メンバーも笑う。中島はスンと鼻をすすり、愛は目にいっぱい涙を溜めながら、なずなの背中を何度も何度も優しく撫でてくれる。
 これでようやく楽器が揃う。外で思いっきり音を飛ばすことができる。
 あとはもう、運任せ、神頼みしかないように思う。一か八かの大博打を打って半日では、インパクトはあっただろうが生徒の気持ちはそう簡単に動かせないことは、今までの経験からわかっている。だからビラ配りも署名活動もまだまだ続けるつもりではあるけれど、いまだラスボス教頭の姿が見えないことが、妙に胸騒ぎを覚えさせるのも嘘ではない。
 情熱だけではどうにもならないのが教頭なのだ。こちらの準備は着々と進んではいるものの、どこでどんな爆弾が落とされるか……。こうして協力してくれる大人が現れてくれたことは非常に心強いが、なずなはそれが、逆にとても気がかりだった。

 *

 しかしその後、事態は急展開を見せることとなる。
 その日の放課後、なぜかまた職員室に呼び出されたなずなたち有志のメンバーは、自ら出迎えた校長に「待ってましたよ、さあこっちです」とわけもわからないまま連れられ、今度は職員室と扉続きの校長室に足を踏み入れることになった。驚いたことに校長室の中には教頭と綿貫先生の姿もあり、有志メンバー一同は二重にも三重にも目を瞠ることになる。
「今朝の話は聞きましたよ。みなさん、そんなにやりたいんですね」
 応接テーブルを挟んで風格ある黒い革張りのソファーに向かい合うなり、校長が言う。
 校長側には教頭と綿貫先生が腰を下ろし、生徒側はそれぞれの代表者である応援団長の佑次、生徒会長のひらり、野球部部長の佐々木、そしてなずなが座っている。
 ソファーはゆうに五人は座れるほどの余裕があり、特に綿貫先生やひらり、なずなといった体格の小さい人は、ソファーのあまりのフカフカ具合に体が一気に沈み込みそうになってしまう。床もワイン色の絨毯が敷かれ、シミのひとつもない。壁には歴代の校長の写真がずらりと飾られていて、両の壁際に沿って備え付けられた棚にはトロフィーや楯が整然と並ぶ。まさに北高の歴史の深さの象徴である。それだけで身が縮む思いだ。
 そんな中でまさか校長と向かい合うことになるなんて、昼休みまでのなずなは少しも思っていなかった。佑次たちもそう思っているだろう。こちらには自分たちの後ろに有志メンバーがぞろりと控えているので、ぱっと見では多勢に無勢の状況ではある。
 けれど、校長室という場所柄もあって、今は恐れ多い気持ちしか湧かない。なずなは手のひらや背中にじっとりとした冷や汗が吹き出すのをどうにも止められず、ただただ俯いてしまった。
 しかし、そんな中でもまったく物怖じしない人がひとりだけいた。
「はい、やりたいです」
 佑次だ。彼の声には緊張感こそ滲み出ているものの、口調ははっきりしていて意志の強さが感じられる。出る杭は打たれるとばかりに教頭に散々目の敵にされてきたが、周りがどんなに心折れそうになっても絶対に諦めなかったのが佑次なのだ。それだけに声には毅然としたものがあり、この人に付いていけば大丈夫だと思わせてくれる頼もしさも一塩だった。
 ふ、と肩にかかる重みが取り払われたような気がする。校長室の重厚な空気にてられて身も心もすっかり委縮しきってしまっていたなずなは、そこでようやく、まともに息ができた心地がした。やはり佑次はすごい。そろりと顔を上げても、もう怖くはなかった。
「だそうですよ、教頭先生」
 佑次の返答を聞いてにこやかに相づちを打った校長は、そう言って隣に座る教頭に話の水を向けた。しかし教頭は眉間に深くしわを刻むばかりで、その口はなかなか開かない。
 校長までなにを、と静かに怒りを燃やしているというよりは、葛藤という言葉が思い浮かぶ。教頭にも思うところがないはずがないのだ。ここまで抵抗されたこと、朝の校庭をジャックしたこと、連日のビラ配りや署名活動に対して、ジャッジを下そうとしているのかもしれない。誰もが固唾を飲んで見守る中、校長室にしばし沈黙が流れた。
 やがて意を決したように息を吐くと、教頭が顔を上げた。
「朝の校庭で、伝統は伝統として大事に継承すると言っていたそうですけど、具体的にはどういうふうに継承していくつもりなんですか? 校庭のど真ん中で、こんなにもぞろぞろと人を集めて啖呵を切ったんですから、考えてはいるんでしょう?」
 ソファーに座るなずなたち、それから後ろに控えるメンバーを流し見る。
「それなら私に考えがあります。伝統と新しいものと半々、というのはどうでしょうか」
 その質問に真っ先に答えたのは、会長のひらりだった。
 腰から沈み込んでしまいそうなほどのソファーの上で身を乗り出し、
「野球応援に限って言うと、バンカラと演奏付きと、交互にできると思うんです。ほかの競技の応援をするときも、時間を決めたり選手側の意向を聞いたりしながら調節すれば可能です。バンカラでこそ北高という方たちや、バンカラ応援を楽しみにしてくださっている方には、伝統を軽んじていると思われてしまうかもしれません。教頭先生もその点を強く主張してらっしゃいます。でも、吹奏楽部のみんなが練習の合間を縫って集めた署名も無下にはできないと思いませんか? 団長のビラ配りも、その行動そのものに吹奏楽応援をやる意味を見い出せると思うんです。楽器ももうじき揃います。どうかお願いします」
 膝の上に乗せた手に額をくっつけるようにして、頭を下げた。
「では、そのバンカラ応援に親しみを持っている人たちの理解を得るには?」
「デモンストレーションで周知するんです」
 そう答えたのは、自分でも驚いたが、なずな自身だった。ぱっと教頭の顔がなずなのほうを向く。校長も綿貫先生も、こちら側に座る三人の視線も一気になずなに注がれ、否応なしに体中が熱くなる。が、なずなの口はそれらをもろともせずに動きだす。
「署名活動で北高の近所のお宅に伺ったとき、ご年配のある方から言われたんです。一回でいいから生で見てみたい、って。その方は近所なので野球に限らず北高贔屓で応援してくださる方なんですけど、年配になって球場に足を運ぶのが難しくなったことをとても残念に思っているそうなんです。そういう方たちを学校にお招きして、実際に演奏をお見せしてみるのはどうでしょうか。もちろん、吹奏楽応援に反対の方もです。そういう方たちにこそ、私たちの本気を肌で感じていただける機会を設けさせてはもらえないでしょうか」
 そのときなずなの頭に浮かんでいたのは、野球応援に吹奏楽を取り入れることに積極的に賛成してくれたおばあさんだった。門の表札から大瀬おおせさんというらしい、そのおばあさんは、佑次が校門近くでビラ配りをしていたことも知っていて、あんなに頑張っているんだからどうかその努力が報われてほしいと密かに願ってくれていたらしい。
 大瀬さん宅に伺うまでのなずなは、訪ねる家、訪ねる家で気まずい顔で「ちょっと、そういうのは……」と断られることが続いていたので、大瀬のおばあさんが快く署名してくれたときは涙が出るほど嬉しかった。そんなおばあさんからの、たっての願いだ。
 ビラ配りや署名活動だけでは具体的に自分たちがどうしたいのか、どれだけ本気なのかが伝わりにくいのも、署名活動をしていれば現実としてわかってくる。自分たちと周りとの温度差にジレンマを感じるのだ。ならばいっそ、機会を作ればいいのではないだろうか。そうすれば、一度は断った人たちも演奏を聞いて気持ちが変わってくれるかもしれない。
 もちろん、全員が心変わりしてくれるなんて思っていない。そんな都合のいい話、どこを探しても落ちてはいないだろう。でも、やってみなければ、結果はわからない。
 それに、できるかどうかではなく、やるかやらないかなのだと教えてくれたのは佑次だ。ほとんど教頭への対抗意識だけで口を開いた部分も多く、実際には演奏会をどう周知するか、頭の中は白紙の状態だった。それでも、今の吹部なら、このメンバーなら、それも可能だという確信だけは自分でもびっくりするくらいにあるのだから、なんだかおかしい。
「なら、デモンストレーションをやると周知するには?」
「野球部が声で稼ぎます。声は応援団の十八番ですけど、野球部だって毎日声を絞り出して練習してますし、ランニングで学校の外も走ります。そのときに、かけ声の代わりに呼びかければ、実際に演奏に足を運ぶことはできなくても、印象には残ると思うんです」
 それには佐々木が間髪入れずに答えてくれた。
 佐々木の話を頭の中で反芻しながら、なるほど、と思う。確かに野球部は応援団に負けず劣らず、常に大声を出している。練習の初めには毎回、外周にも行くし、デモンストレーションをやることを校外の人に触れ回る役としては、これ以上の適任はないように思う。
「ほう」
 三人が矢継ぎ早に質問に答えを返したためか、教頭がわずかばかり感心したような声を漏らす。しかしその目はいまだに品定めをしているかのように細められている。自分の前で大見得を切っておきながら、いざそのときになったら、やっぱり無理でした、できませんでしたとなるんじゃないかという疑念がありありと浮かんでいるのだ。
 なずなはその目に内心焦りを覚えはじめていた。教頭と直接対峙するのはこれが初めてだが、ひらりもずいぶんやり込められたと聞くし、佑次に至っては、もうずっとベランダで見ていたから、どれだけ手強い相手なのか想像するに容易い。
 要するに教頭は、机上の空論、その場しのぎの詭弁なのではないかと疑っているのだ。
 だって自分たちは、高校三年生とはいっても学校に手厚く守られているにすぎない、ただの子供だ。世の中のことも全然わからないし、これからの自分の人生を思うと、長すぎて、先が見えなさすぎて、なんだか途方もなくなってくる。それでも今は、敵対こそしているけれどそんな教頭にも守られているのだ。庇護下で喚き立ててもビクともしないことこそ、もしかしたら〝庇護〟ということの本質なのかもしれないとさえ思う。
 にしても、なぜ教頭だけがこんなにも否定的なのか。今朝は姿も見えなかったし、綿貫先生がいることも、さっきからずっと気になっている。そこが見えれば、お互いに妥協点を探り合うこともできるかもしれないのに。……悔しくて、歯痒い。
「……もしかして、教頭先生は北高ここの卒業生ですか?」
 すると、佑次がそこに切り込んでいった。突拍子もない話に驚いて佑次のほうを見ると、彼はほぼほぼ確信しているのか、眉一本さえ動かさず、堂々と教頭を見据えていた。
「団長を受け継ぐとき、歴代の団長と団員の名前が書かれたぶ厚い名簿も同時に受け継ぎました。今までずっと気づかなかったんですけど、四十年前の団員名簿に教頭先生の名前がありますよね――高橋たかはし清二せいじって。そのときにふと思いました。もしかして教頭先生も、バンカラ応援に吹奏楽を取り入れようとしたんじゃないかって。ただのこじつけかもしれないですけど、教頭先生は、それがどんなに難しいことかを身を持って体験していたから、口先だけの綺麗ごとばかりを並べて全然本気じゃなかった俺たちを止めようとしたんじゃありませんか? 俺たちのことを思っているからこそ、厳しい目を向けて指導を――」
「浅石君、それは違います」
 佑次の言葉を遮り、教頭が疲れたように声を絞った。佑次に向けられていた全員の目が、今度は教頭に向く。全員の視線を一身に受けながら、教頭が観念したように口を開く。
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