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■第一話 本当のストーカーは誰?

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「あ? どういうことだよ?」
 すると編集がめちゃくちゃ不機嫌な声を出した。そうさせないために「失礼を承知で」と前置きしたはずだったのだが、むしろ逆効果だったようだ。でも、当然と言えば当然である。前置きによってそのあとの台詞が彼の中の不快指数を一気に跳ね上げてしまったのだ。さっきまでの苛立ちが明らかに怒りに変わり、ちひろはますます縮こまる。
「……す、すみませんっ。でで、でも、誤字脱字がおかしいんです」
「おかしい?」
「作家さんが気づかず誤字脱字をするなら、それは当たり前のことです。新人さんでも、大御所さんでも、誰でも同じです。でも、早峰カズキのこの新作は、編集さんが目を通しているのに、一稿目から誤字脱字が目立っていました。それにもう一つ、おかしな点が。一稿目で何も問題がなかった個所が、二稿目ではところどころ誤字になっているんです。こんなのは通常なら考えられません。文章そのものを書き替えたなら、誤字にもなりようがあります。けど、文章自体は一つも変わっていないんです。校閲をはじめてまだ三年目ですが、こんなケースは初めてです。……少し変だと思いませんか?」
 できるだけ編集の姿を見ないようにしながら、一稿目から現在に至るまでの経緯を説明する。説明しながら現物も見せられたらよかったのだが、原稿は一稿、二稿ともちひろの腕の中でぎゅうぎゅうに抱きしめられているので見せようがない。
 それでも編集は、
「……確かに変だな」
 そう言って、ちひろの腕の中から原稿を抜き取った。抜き取られる際、思いっきりビクついてしまったのは言うまでもないが、また「ひっ……!」と声が出なかっただけ、この短時間で対人スキルがよみがえってきたのではないだろうか。
 しかし編集はそんなちひろには目もくれず、デスクに原稿を並べて確認しはじめる。そろりとその横顔を窺うと、声や態度には似合わず爽やかな好青年風で、ちひろはしばしその横顔に見入ってしまった。二つの原稿を見比べる彼が首から下げているネームプレートが揺れて、ちひろにも見えるようになる。櫻田柾さくらだまさき――それが彼の名前のようだ。
「おい、校閲。今から宝永ほうえい社に電話して『誰?』の校閲が誰なのか調べられるか」
「……は?」
「早峰カズキのデビュー作は家族内ストーカーの話だ。何かのインタビュー記事で読んだことがある。ものすごくリアルな描写ですが――? って質問に、早峰カズキは【そういう人もいますよ、実際(笑)】って答えてたのがなんか癪に障って覚えてる。けど、受賞したとき、早峰カズキの周りでも本当にそういうことがあったらしいんだ。顔出ししてる作家はときどきエスカレートしたファンに付け狙われることもあるって聞く。『誰?』の校閲のときも、今の校閲のように変なことはなかったか、聞いてみてほしい」
 けれど、次に櫻田から発せられた言葉に、ちひろはまたもや愕然とした。
 宝永社は、一歩賞を主催している出版社だ。出版社にはそれぞれカラーがあって、乱歩賞を主催していることからも、宝永社は特にミステリーに力を入れている。宝永社から刊行されるミステリー小説はどれも面白く、ちひろも何冊も持っている。
 そんな宝永社に電話って!? というか、なんで当たり前に私がするの!?
 いや、それよりも――。
「……それは、早峰カズキが意図的に誤字にしている、ということでしょうか」
 だったら戦慄だ。
「いや、そこまではわからない。でも、何度も何度もオファーして、やっとうちで書いてくれる気になったんだ。もし早峰カズキがこの『抹消(仮)』で何かを訴えているんだとしたら、放っておくわけにはいかないだろ。心配の芽はできるだけ潰しておかないと、最悪、出版停止にだってなるかもしれない。そうなったときの損害は計り知れない」
「……」
 しかし櫻田は、自分の非礼を棚上げにして会社の損益を勘定に入れだした。確かに出版停止は痛いが、問題はそこじゃないだろうとちひろは思う。第一、さっきの「……確かに変だな」で原稿に目を通していないのがバレバレだ。気づいていないのだろうか。
 目の前の男は、早峰カズキ自身を心配しているのかと思えば、会社の利益を心配する薄情編集。しかも校閲に丸投げするような怠慢野郎だ。一歩賞受賞の際の話は知らなかったが、そんなに会社の損益が大事なら自分で電話をすればいいと思う。
「おい、何やってんだよ、早くかけろよ」
 しかし櫻田は自分の失言にまったく気づいていないようで、黙っていれば爽やか好青年の顔をしかめて偉そうに指図する。パーツも揃っているし配分もいいのに、せっかくの顔面が台無しだ。こんな性格でよく早峰カズキを幻泉社に引っ張ってこられたものだ。外では猫を被っているに違いない。じゃなかったら、こんな人と仕事なんてしたくない。
「……です」
「あ?」
「いやです、私。電話なんてかけたくありません」
「は? 何言ってんだ、これは校閲の仕事だろ」
「校閲の仕事は、たったの一文字でも誤字脱字なく出版物を世に送り出すことです。よその校閲部に電話をかけることではありません。それは編集の仕事です」
「ふざけんなよ」
「ふ、ふざけてなんていません。私より先に誤字脱字に気づいてもいいはずの編集さんが二度も見逃すなんて、まともに読んでいないから、こうなっているんじゃないですか」
「っ……」
 そこでぐっと押し黙った櫻田につられて、ちひろも口を噤む。
 早峰カズキが誤字脱字によって自分たちに何かを訴えているなら、それは彼の作家生命のためにも、どうにかしてあげなければならないことだ。デビュー作と同じようなことが実際に彼の周りでも起こったのだから、こちらとて、警戒しなければならない。
 でも、「何度も何度もオファーして、やっとうちで書いてくれる気になった」だけの期待の超新星の担当編集が二稿目まで何も気づかないなんて、やっぱりあり得ないのだ。
 彼のほかにもたくさんの作家を抱えているのはわかる。執筆の打診や打ち合わせや、資料集めや接待や、編集部のことはよくわからないが、そういうものもきっとあるだろう。それでも書かせるだけ書かせてあとは校閲任せなんて、怠慢と冒涜じゃないのか。
 ただ書かせて売るのが編集の仕事なんだとしたら、日本中にいるたくさんの読書家へケツを向け、煎餅でもかじりながらそれをボリボリ掻いているようなものだ。
 うちの編集部にはそういう人はいないと思っていただけに、ひどくショックだった。
「……悪かったよ。校閲の言う通り、まともにすら読んでない」
 すると、図星を指された櫻田が苦々しい口調で白状した。
「どんな作品でも、早峰カズキのネームバリューで売れるって。書かせさえすればいいって、心のどこかで思ってたんだよ。打ち合わせのときも『好きなように書いていただいて構いませんから』とか言っちゃってさ。そのあとのフォローも全然。だけど、十九のガキに頭を下げてる自分に急にシラケてきたんだよ。……わからないわけじゃないだろ」
「……そうですね。わかるような……気もします」
 縋るような目で見つめられ、ちひろは小さく同意の言葉を並べた。社会人としてどうなんだろう、と激しい反感を覚えるものの、同じ出版社にいても櫻田とちひろとでは仕事の内容がまったく違うのだ。そう言われればそうかも、と負けてしまった。
 櫻田がいくつなのかは、ちひろにはわからない。でも、早峰カズキより年上であることだけは確かだ。そんな彼が十代の若者に何度も何度も執筆依頼をしたり、打ち合わせでヘコヘコ頭を下げたりするのは、精神的にひどく摩耗するだろう。インタビュー記事を読んで癪に障ったくらいだから、もともと櫻田は早峰カズキにそんなにいい印象を持っていなかったのかもしれない。それはきっと、作品の素晴らしさとは別物なのだろう。
 そう考えると、櫻田の気持ちも少しはわかるような気がしてきたのだ。
「でも、やっぱり仕事はしご――」
「じゃあ、さっそくで悪いけど、宝永社に電話してくれる?」
「え」
「こっちは言いたくないことを言ったんだ、見返りくらい、くれてもいいじゃん」
「……まま、待ってくださいよ、それとこれとは話が別――」
「はいはーい、聞こえませーん」
 しかし櫻田は、ちひろの言葉を遮り話を強引に元に戻した。まったく筋の通らない理屈をこね回した挙げ句、両耳に指まで突っ込んで幼稚な発言までする。
 だいたい、櫻田が勝手に白状したのだ。図星を指したのはちひろだが、白状しろとまでは言っていない。宝永社に電話をするのは、やっぱり編集の――櫻田の仕事だと思う。ちひろはあくまで校閲部の人間として引っ掛かったことの確認を取っただけだ。そのあとのことは櫻田が勝手にやってくれたらいい。ちひろにはもう関係のないことである。
「ほら、さっさと電話しろよ」
「い、いやだって言ってるじゃないですか」
「なんでそんなにいやなんだよ?」
「そんなの、編集さんには関係ないじゃないですか」
 手近にあった受話器をひょいと取り上げ、通話口をぐいぐい押し付けてくる櫻田と、それを何がなんでもでも阻止しようとするちひろの攻防は続く。
 電話だけは本当にいやだ。就職活動中はなんとかなったが、この二年、まとに電話を取っていない。そんなちひろに宝永社はハードルが高すぎる。こういう場合は、作家やデザイナー、イラストレーターや印刷会社などとよく電話でやり取りをしている櫻田が、その社交性でもってパパっと聞いてしまえばいいだけのことだ。人には向き不向きがあって当たり前じゃないか。こんなに拒否しているんだから、少しくらい察してほしい。
「二人とも、とりあえず、お茶でも飲んで休憩しませんか?」
 すると、ちひろと櫻田の肩に同時にポンと手が乗せられた。驚いて振り返ると、竹林がにこにこと頬を緩ませ、二人を交互に見る。内線電話は終わったらしいけれど、それならお茶なんて煎れていないで私を助けてくださいよとちひろは思う。
 部外の人とまともに話したのだってこれが初めてで、この数分間でどれだけ精神が疲弊したことか……。それなのに呑気にお茶なんて飲めるわけがない。こちらは馬車馬になっても仕事が終わらない状況だというのに、竹林は一体何を考えているのだろうか。
「だとよ。校閲も少し頭を冷やせ。そんなにカリカリしてると電話もできねーぞ」
「だから電話はいやだって――」
「まあまあ。ちょうど廻進堂かいしんどうの栗羊羹があるんです。校閲部のみなさんにも声をかけたんですけど、忙しいから羊羹だけもらうって人ばっかりでですね。でも私は、ちょうど誰かと話をしながらお茶が飲みたいなと思っていたんです。斎藤さんも付き合ってください」
「……ぐ」
 その瞬間、ちひろの心は簡単に揺れた。
 廻進堂の栗羊羹はちひろの大好物だ。それまで羊羹はあれば食べる程度だったが、竹林に勧められて食べた廻進堂のそれだけは、自分で買って食べたいくらい美味しかった。
 それ以来ちひろは、毎月の給料日に自分へのささやかなご褒美としてこの羊羹を買っている。一本一四〇〇円もする高価なものだが、甘すぎず、くどすぎず、しっとり滑らかな舌触りは、それだけの対価を払うべき羊羹界のプリンスだと本気で思っている。
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