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■第三話 代原作家の密やかな恋文

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「え、マジで? 全然気づかなかったわ……」
 小野寺さんより先に櫻田が原稿から顔を上げた。その顔は、ひどく疲れきっている。
 ちひろが苦笑混じりにここなんですけどと差し出した原稿の〝凧〟の部分を見た櫻田は「うわー。これ、マジなやつだ……」と絶望的な声を出しながら両目を覆う。
 だが、それも無理はない。つい数時間前に熱中症で倒れたのだ。心身ともに疲れがピークに達しているのだから、こういう簡単な間違いこそ見落としやすい。
「小野寺さん、ちひろちゃんのほうで食べる〝蛸〟に直してもらって大丈夫ですよね? ちひろちゃんもありがとね、読者さんからクレームが入るとこだったよ……」
「いえ」
 ほっとした顔で笑う櫻田にゆるりと首を振りつつ、しかしちひろは、小野寺さんの様子が気になって仕方がなかった。ちらりと彼の横顔を窺うと、土黒く日に焼けた顔はにわかに青ざめ、表情も硬くなっている。――あ、これは〝蛸〟を〝凧〟にすることによって誰かに何かを伝えたがっているに違いない、とちひろは直感した。
 早峰カズキのときと似ている。小野寺さんは誰に何を伝えたいのだろう。この作品を駄作と評したきり二年も執筆を中断しているその背景には、何があるのだろうか。
「……小野寺さん?」
 櫻田も彼の様子に気づき、怪訝な声で呼びかける。
 気づかなければよかったのだろうかと、ふいにちひろは自分が出した指摘に気が重くなった。でも、これは早峰カズキのときと違って、もう近日中に世に出てしまうものだ。半夏生の蛸を凧と明らかに間違えたままでは、どうしてもいけないのである。
 矛盾する気持ちを抱えたまま、小野寺さんの様子を窺うこと、数秒。
「……すみません。すっかり見落としてしまっていました。食べる蛸に直してください」
 ふと顔を上げた小野寺さんは、なんとか表情を取り戻しつつ、といった様子で薄く笑った。ちひろは「はい」と言って画面上の〝凧〟を正しい〝蛸〟に直す。しかし、心は晴れないままだ。それはどうやら櫻田も同じようで、少しして「これの校閲もお願い」と櫻田から次の一枚を受け取った際の彼の目は、物言いたげなものだった。
 その後は特に何もなく校閲まですべての作業を終え、午後十時ギリギリにデータの入稿が完了した。かなり急いだので、正直なところ、ちゃんと校閲できているか自信はないけれど、自分にできる最大限のパフォーマンスだけは、やり遂げたはずだ。あとは刷り上がったものに誤字脱字や誤植等、間違いが見つからないことを祈るだけである。長い長い一日だったが、不思議な充足感に包まれながら、ちひろは酷使した目を揉む。
「ああー、終わった~。二人とも、俺のわがままに付き合ってくれてありがとうございました。これで作業はすべて終わりです。本っっっ当にありがとうございました!」
 データの送信が完了した画面をそのままに、櫻田がちひろと小野寺さんに深々と頭を下げる。気づけば第一書籍編集部にはちひろたち以外に人はいなくなっていた。無人のデスクの上の蛍光灯も消されていて、フロアはほんのりと薄暗い。
「いえ。あとは何もないことを祈るしかできません。自信を持って大丈夫だと言えないのが、なんとも申し訳ないんですけど……。でも、小野寺さんに来ていただいて、本当に助かりました。あのままだったら、どうなっていたか……」
「いや、俺のほうこそ、みっともないところを見せてしまってすみませんでした。きちんと謝れていなかったので、お詫びさせてください。それに、編集や校閲の様子を間近で見れてよかったです。たかがアマチュア作家の短編にこんなにも熱を入れて作業してくれるなんて、正直に言うと思ってもいなかったんです。ありがとうございました」
 ちひろと小野寺さんは、向き合ってお互いに頭を下げ合う。
 確かに、作家本人に編集や校閲の様子を見られること自体、本当に稀だ。とりわけ校閲は表に出ない部署なので、黙々と作業していると、ふと、大事なものを見失ってしまいそうになる。とにかく活字が大好きで、一日中誤字や脱字を愛でられれば生きていけると思っているちひろとて、たまにはそんなことを思う日もある。
 それは、日下部女医が言ったように、校閲に携わる者の矜持だったり、プライドだったりするかもしれない。あるいは、もっとほかの根源的なものだったりするかもしれない。
 そういうものを改めて思い起こさせてくれた今回の作業は、なかなかに刺激的な時間だった。それに、相変わらず櫻田には振り回されっぱなしだったけれど、そうでもしないと見えなかったものを見せてくれるのは、どうやらいつだって櫻田のようなのだ。
「櫻田さんもお疲れ様でした。帰ったらゆっくり休んでください」
「ちひろちゃん……」
 目を潤ませる櫻田に、ちひろは照れ気味に笑う。その涙目につられて、ちひろの目もついうっかり潤んできてしまう。もしかしてこれが俗に言う〝吊り橋効果〟なのだろうか。充足感に満ちた疲れきった櫻田の顔が、なんだか少し格好いいような……いや違うな。
 こやつには虚言癖があるのだ。三度も騙されたくはない。ちひろはきゅっと涙腺を閉めるとともに気も引き締め直す。とりあえず、日下部女医からの言伝を伝えよう。
「……なんかいいよな、あんたたち。見てると少し、昔を思い出すっていうか」
 すると、ちひろが口を開くより先に小野寺さんがそう言った。「へ?」と、ちひろと櫻田は同時に声を上げる。どこがいいのだろうか。だって櫻田は虚言癖持ちなのに。
「いや、こんなことまで言わなくていいのはわかってるんだけど。俺のばあちゃん、じいちゃんに内緒で何十年も通じ合ってる男がいたらしくて」
「えっ!?」
 ちひろと櫻田の声が再び重なる。なんということだろうか。ひどく驚いているところを見ると、小野寺さんの高校の後輩である櫻田も知らなかったようだ。こんな話を聞いてもいいのだろうかと、ちひろの胸は妙な罪悪感にざわつく。それは櫻田も同じだ。
 だって、家族の中に他所と通じ合っている人がいるなんて、一体誰が想像できよう。今の言い方だと、小野寺さんの祖母はそのことを何十年も家族に隠していたということになる。それが露見したときの様子なんて、想像するに堪えがたい。
「――っていっても、ばあちゃんにとってはただの幼馴染で、それ以上でも以下でもないんだ。……その幼馴染、戦争で亡くなってしまって。ばあちゃんは、その人に向けて、じいちゃんと結婚したこととか、俺の親父が生まれたこととか、日常のちょっとしたことを手紙に書いて取っておいただけだったんだよ。完全にじいちゃんの早とちりさ」
 すると、二人の不穏な空気を感じ取った小野寺さんが慌てて訂正を入れた。ちひろと櫻田は、目を見合わせるとほっと安堵のため息をこぼす。それならそうと、どうしてきちんと言ってくれないのだろうか。意味深な言い方は、ときに寿命を縮める。
「で、どうしてそれが、俺とちひろちゃんに通ずるんですか?」
 一つ咳払いをした櫻田が話の水を向ける。
 小野寺さんは、ふ、と寂しげに微笑すると、
「俺が前に付き合ってた女性ひとは、本当に他所で浮気してたから。柾と斎藤さんの仲がいいところを見て、自分たちの仲がよかった頃のことをふと思い出したんだ」
 と言う。
「……もしかしてその人、半夏生に食べる蛸を、正月なんかにする凧揚げだとずっと勘違いしてた文芸部の先輩なんじゃ――。だから二年前にこの原稿を渡したときに『すっげー駄作』で、それ以降ずっと執筆を中断して……。さっきまでの作業でも〝蛸〟が〝凧〟のままでしたし、今のおばあさんの話も少し誇張が過ぎていました。『東雲草の恋文』は、彼女に向けたものだったんですね? ……やっとわかりました、書けない理由が」
 そう言ったのは櫻田だった。櫻田の頭の中で、バラバラだったパズルのピースが一つずつ音を立ててはまっていく音がちひろの耳にも聞こえてくるようだった。
 いつもなんだかんだと櫻田に頼られっぱなしのちひろも、小野寺さんが誰かに何かを伝えたがっていることには気づけても、さすがに高校時代のことはわからない。だって彼らからは、美崎糸子のように、探せばプロフィールや、それに付随するインタビュー記事などが出てくるわけではないのだ。ちひろはじっと櫻田の声に耳を傾ける。
「あの頃から先輩たちは付き合っていましたよね。それはずっと続いていて、二年前に彼女の浮気がわかって、別れることになった。その前後に、先輩のおばあさんの手紙でひと騒動あったんじゃないですか? 『東雲草の恋文』を書いたのは、おそらくその二つの出来事があってからですね。連絡をもらって原稿を取りに行ったときの先輩、やけに疲れていたっていうか、憔悴しきっていましたし。もし先に『東雲草の恋文』を書いていたんだとすれば、先輩のことなので、絶対に跡形もなく破り捨てていたに違いありません」
「……」
 櫻田の推理に、小野寺さんは口を閉ざしたままだ。しかしその無言を肯定の意味に捉えた櫻田は、ひとまずちひろたちに椅子を勧めると、自分も椅子に座って続ける。
「急にその原稿を文芸誌に載せたいと連絡があって、焦ったんじゃないですか? メールは送れるのに返信がなかったのは、このまま本誌に載ってもいいんじゃないかと思う気持ちと、先輩のプライベートも知っている俺が〝タコ〟の漢字表記に何か気づくかもしれないと思ってのことだったんじゃないでしょうか。直接会いに行っても、すごくそっけない態度でしたし、俺が倒れたって聞いて駆けつけはしたものの、本当は自分が『東雲草の恋文』をどうしたいのか、わからないままだった。……クボタの代原だって聞いてキレたのは、先輩としてのプライドが傷ついたからじゃありません。だって先輩の拳、血が出たわりには、けっこう手加減してくれてましたもんね。工事現場で働いている人の腕力で本気で殴られたら、歯の一本や二本、普通に持っていかれてましたよ」
 はは、と笑った櫻田はさらに続ける。
「作家と編集者が前から知り合い同士っていうのも、なかなか考えものですよね。作品から知られたくないことまで知られてしまうんですから。先輩が『駄作』って言った意味、それ以降書いていない理由――俺にも少しわかるような気がします。先輩にとって彼女の存在そのものが小説を書く原動力だったんですよ。だから、彼女に裏切られて書く意味を見失ってしまった。だって彼女、高校時代から先輩の書く話が一番好きだって言ってましたもんね。柔らかで繊細で、読む人の心を自然と解きほぐすような先輩の文体は、あの頃からほかの部員のものとはレベルが違っていました。裏切られたけど、たくさん傷ついたけど、それでも好きだったんですよね、先輩は。その未練が詰まった『東雲草の恋文』は、だから〝駄作〟なんですよ。〝凧〟は彼女だけに向けた秘密の暗号です。ちひろちゃんが正しい〝蛸〟に直してくれたので、暗号は消えてしまいましたけど……」
 そう言った櫻田は、どうですか? と小野寺さんの顔を窺った。自信たっぷりに話していたようにちひろには聞こえていたが、実際の櫻田の胸中は、きっと不安だらけだろう。
 早峰カズキのときも、美崎糸子のときも、真実にたどり着いたのち、それを口にするとき、ちひろの胸はいつも切ないような痛みとともに軋んでいた。作家の内面に踏み込んでいくことは、こちらも何かしらの痛みを伴うのだと、初めて知ったからだ。
 それがいいことなのか悪いことなのかは、ちひろ自身にもわからない。でも確かに、今のちひろの胸は痛みに軋んでいる。普段はあんなだが、櫻田だってそうなのだ。
 でも、こんなふうに作品から作家の思わぬ胸の内を知ってしまうのは、こうして誤字や脱字から隠された思いを暴くのは、出版前の原稿に携わる者のある意味使命なのではないかと、ちひろには思えてならないときもある。作家そのものを深く知ること、編集や校閲に携わる人間を知ってもらうことは、ときに双方にプラスに働くこともあるのだから。
「……そうだな。だいたい櫻田の言った通りだよ」
 やがて顔を上げた小野寺さんは、降参だと言うようにくしゃっと苦笑した。少し目に幕が張っているように見えるのは、きっと気のせいではないだろう。
「このまま飲みに行きたいところだけど、今日は無理だろ? 体調がよくなったら連絡してくれ。そのときは無視しないでちゃんと返信するから、飲みに行こう」
 それを受けた櫻田が「はい」と返事をする。
「じゃあ、つばきが無事発刊になって、読者さんたちからの感想が集まってからにしましょう。今後の打ち合わせも兼ねて、先輩の失恋話、聞かせてください」
「ははっ。お前、けっこう抜かりない奴だな。妙にあざといっていうか」
 そう言って小野寺さんは、まなじりを拭っておかしそうに笑った。
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