ドント・フォーゲット・トゥ・キャッチミー

ロム猫

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鍵とネオンサイン

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 みどりの部屋で夕食を済ませひと息ついていると、突然携帯電話が鳴った。トラオさんからの呼び出しだった。「ブラインド・レモンで飲んでるからおまえも来い、いいな」そのひと言だけで電話が切れる、相変わらず強引な誘い方だった。断ろうと思えば断ることもできるのだろうけど、うちのバンドの元ドラマーが先月のライブをどう観たか、その辺りの話を聞けるのではないかと思うと会いに行きたかった。
 電話のやり取りを不安そうに見ていたみどりに、先輩からの誘いでこれから出かけなければならない旨を伝えると彼女は瞬時に膨れっ面になった。

「はいはい、結構でございますですよ。行ってらっしゃいませ。ふたりで借りたDVDでございますけど、ひとりで寂しく観ておりますから!」

 今夜見る予定だったドイツ映画『バンディッツ』のDVDケースを抱きしめて、そっぽを向く。彼女のおすすめ映画で僕も楽しみにしていた。

「ごめんね。また、見ようよ。あと、今日は遅くなりそうだから自分の家に帰るね」

 明日も仕事のある彼女を夜中に起こしてしまいたくなかった。

「遅くなってもいいのよ。はい、これこの部屋のスペアキー、渡しておくね。来れる時はいつでも来ていいけど、来れない時は連絡してね。寂しくなっちゃうから」

 彼女は鞄から取り出したスペアキーを僕に手渡した。小さなピンクの鈴がつけられている。あらかじめ用意してあったのかも知れない。少し驚いたが、丁寧にお礼をいった。彼女は鍵を渡すタイミングがよく分からなかったそうだ。渡すのが遅くなってしまったことを反対に謝られた。

「それじゃあ行ってくるね」

「行ってらっしゃーい! あんま飲み過ぎてぶっ倒れて、他の女に拾われたりするんじゃねーぞー!」

 彼女はそういいながらも笑顔を見せ、手を振って玄関まで送り出してくれた。

 部屋を出ると夜の空気をどこか新鮮に感じた。十月も半ばを過ぎて気温が下がってきたせいかもしれない。
 夜の九時を過ぎたばかりの街は賑わいを見せていた。サラリーマン風の二人組。片方はスーツの上着を手に持って肩にかけている。向こうからは女性三人組がこちらの方に歩いてくる。一人で歩く年配の男性。若い男女の後ろ姿。それからやはり三人組のサラリーマン。さまざまな人々がきっとそれぞれの想いを胸に歩いている。笑ったり、何かを伝えようと一生懸命に話しかけたり、伝えてはならないことを笑顔の底に隠していたり。
 人々の歩く流れに乗りスペアキーを手にしてぶら下げてみた。付けられている小さなピンクの鈴をぼんやりと見ながら、みどりとのひと月ちょっとの半同棲生活を思い返してみる。一日泊まって三日帰り、二日泊まって二日帰り、三日泊まって一日帰りと、確かに部屋にいる時間が長くなっている。ふたりでいる時はいいのだけれど、彼女に用事が出来た時には少し不便さを感じることはあった。彼女が出かけるのであれば部屋を出ないといけないし、部屋を出ないのであれば、彼女の帰りを待つ他ない。そんな状況を、知らないところで気に掛けてくれていたのかもしれない。
 それでも僕がみどりの部屋に通い詰めたのは彼女がそれを望んだから、という理由だけではなかった。正直なところふたりでいる時間が楽しかった。近所のレンタルショップで今夜見る映画を選んだり、食事を作ったり作ってもらったり、たまには彼女と出会ったときに行ったあの居酒屋に飲みに行ったり。
 みどりが選んだ映画はどれも面白かったし、用意してくれた料理は美味しかった。反対に僕が作った料理を褒めてくれたし、あの居酒屋でお互いに飲む、ほどほどの量の酒は楽しい時間をくれた。
 みどりと過ごした穏やかで楽しい時間。そんな中、彼女がスペアキーを渡してくれたということは、彼女も僕と同じように感じてくれていたということだろう。そして僕を信頼し必要としてくれている。そうやって考えると素直に嬉しかった。けれども「嬉しい」という気持ちが募れば募る程「それでおまえはいいのか?」という声が頭の中で大きくなる。おまえにそんな資格なんかないじゃないか、と。そして募った想いは鍵を貰ったという事実に呼応して、こころの奥深くに溜まったままの澱を掻き回した。意識が濁るような感覚。少し落ち着こうと思い、立ち止まってスペアキーをポケットにしまった。

——恋人に振られた女の寂しさにつけ込んでもう彼氏気取りなの? いいご身分ね——

 また、頭の中で声が再生される。あかねの声だ。勿論、分かっている。これは幻聴などではなく、自らが頭の中で作り出しているものだと。一度、深呼吸をする。

——「寂しさを埋めてあげられるなら彼女が望むだけ一緒にいよう」とか何とか綺麗なこと言っちゃってさ、いい人ぶっておいて自分が楽しくなっちゃてるの。なんだかなぁって感じね。この偽善者が——

 良くない傾向だ。答えてはいけない。何も考えないようにしよう。何も……

——あなたはいい人振りたいだけなの。分かってる? あなたは人に親切にできることが無いか卑しく嗅ぎ回ってるだけなの。腹を空かせた野良犬みたいに。親切にすることで自分の存在を確認したいだけなのよね、きっと。親切にして感謝されることをあなたが存在してもいい免罪符にしてるの。でもね、あなたは人に善意を向けておいて抱えきれなくなったら途中で捨ててしまうじゃない。申し訳なさそうに謝まりながら、何度も何度も謝まりながら、結局は捨ててしまうの。ずるいよね。知ってた? 「ごめん」っていうのは拒絶なの。もうしわけない、許してください、その言葉だけで全てを終わりにしようとする。言われた方はどうすればいいの? 許せない人はどうすれば? 親切を自己肯定の道具にしておいて抱えきれなくなったらもう要らないやって。謝りさえすれば、いい人のままでいられるとでも?——

 何も考えるな、もう、何も考えるな。声に出して呟く。

——私が一番よく知ってるんだから。分かってるでしょ? あなたの悪意が——

 「大丈夫ですか?」という声にハッとして顔を上げると、目の前に若い警官が立っていた。少し離れたところで中年の警官がことの成り行きを見守っている。

「大丈夫ですか? どこか具合でも?」

 警官は顔を覗き込むようにしてこちらを見ている。

「大丈夫です。ちょっと考えごとをしていただけで……」

「それならいいですけど。ここ、往来がけっこうありますからね。考えごとならもう少し端に寄ってくれないと。長いこと歩道の真ん中で立ち止まられると危ないですからね」

 若い警官はため息混じりにいった。確かに繁華街の往来の中で立ち止まったままでいれば、邪魔だのぶつかっただののトラブルが起きても不思議ではない。そしてそれは彼らにとって余計な仕事が増える事以外のなにものでもないのだ。すみませんでした、と軽く頭を下げて、足早にその場を去った。
 暫く歩いたところで今度は邪魔にならないよう歩道の脇に立ち止まる。ガードレールにもたれ掛かり携帯電話を取り出す。みどりに、やはり今日は自分の家に帰る、という旨を伝え通話を切った。その判断が正しいのかどうかは分からない。けれども自分の意に反していることは確かだ。だから、これでいい。
 近くでクラクションが一度だけ鳴り、我にかえった。辺りを見渡してみるとネオンサイに色付けられた人々が、楽しそうにしているのが目に入った。僕はポケットからもう一度スペアキーを取り出してネオンの光に当ててみる。スペアキーに付けられた小さなピンクの鈴は、赤に染まり黄に染まり青に染まり、一瞬だけ闇に染まって、また赤に染まり直し、風に揺られてチリチリという小さな音を鳴らしていた。
 
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