隣近所の山田さん

柿ノ木コジロー

文字の大きさ
2 / 8

転機

しおりを挟む
 小雨の寒い晩だった。

 夕飯は、いつものように母の勤務先であるスーパーの、半額弁当が部屋の隅に寄せてあった。
 テーブルは母の領域だから、私はいつも部屋の隅の床で食べていた。
 母は、私に背を向けてスマートホンをいじっている。

 いつもの光景だ。しかし

「ねえ」
 母から唐突に声をかけられた。

 よくよく虫の居所が悪かったらしいその日返された算数のテストを目の前でひらひらと振って、彼女が言った。。
「何この点数」

 そこから、ずっと説教だ。

 話題を変えようと
「あの、保護者面談のお便り、見てくれた?」
 そう尋ねたのが間違いだった。
「はあ?」
 母の中でスイッチが切り替わる音が響いた。

 母は身体的な暴力をふるうことはない。
 普段はただ、私をひたすら無視するだけだ。
 しかしたまに、言葉の暴力で私をズタズタに打ちのめす。

「誰ができの悪いヤツのために仕事休んで面談なんかに行かなくちゃなの、ありえないしょ?」

 母が髪を振り乱しひとりで激昂しながら私をののしり、世間全てを罵倒している間、私は心のふたをぴたりと閉ざし、ただ黙って彼女の目の前に座っているだけだった。
 いつもならば彼女のスイッチが切れればそれで終了なのだが、その晩はかなりひどかった。
 テーブルをひっくり返し、椅子をけり倒し、ついにはヤカンを掴んでこちらに投げようとした。
 私は慌てて靴をつっかけて外に逃げ出した。

「待て!」
 これも珍しいことに追いかけてきそうだった。
 私はアパートの駐車場を突っ切ってずっと走り続けた。

 しばらくしてからそっとアパートに戻ってみる。
 三階の私の部屋はすでに灯りが消えていた。こっそり戻ってみたが、案の定、鍵がかかっていた。
 雨は上がっていたが、靴の中はびしょぬれだった。
 私は外階段の脇にたたずんで、しばらく迷っていた。


 こうなるのなら、食べかけのお弁当を持ってくればよかった。上着も欲しいし、どうしたら?

 気づいたら、あの男の部屋の前に立っていた。
 中から灯りが漏れている。そして相変わらずドアは少し開いている。
 助けを求めるには、一番適していない相手だろう、そう思いながらも他に方法はない、そう思いながらもまだ迷っていた。
 とりあえずまた戻ろう、振り向きかけた時

「おや」
 また、彼が後ろに立っていた。

 少し揺れているが、機嫌が良さそうだ。
「こんな時間に、お客様かあ? まあ、どうぞどうぞどうぞ」

 吐く息が酒臭い。それに「どうぞ」が多い。
 しかし明るい歓迎ぶりに背中を押されるように、私は部屋の中に入っていった。

 幸運なことに、彼はコンビニからの帰りだった。
 そして、酒だけでなく、食料もたんまり仕入れていた。
 終始ご機嫌な彼のよく解からない話にはい、はいと付き合いながらそれでもおなか一杯ごちそうになった。

 明け方、彼が床に大の字になって大いびきをかいている中、そっと自分の部屋に帰る。
 母の出勤時間は午前六時半だが、五時過ぎくらいに寄りかかっていたドアが急に動いた。
 私もうつらうつらしていたようだ。
 あわてて飛び起きると、そこにはもう母の姿はなかった。
 それでも鍵は開けてくれたようだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

いちばん好きな人…

麻実
恋愛
夫の裏切りを知った妻は 自分もまた・・・。

灰かぶりの姉

吉野 那生
恋愛
父の死後、母が連れてきたのは優しそうな男性と可愛い女の子だった。 「今日からあなたのお父さんと妹だよ」 そう言われたあの日から…。 * * * 『ソツのない彼氏とスキのない彼女』のスピンオフ。 国枝 那月×野口 航平の過去編です。

離婚した妻の旅先

tartan321
恋愛
タイトル通りです。

さようなら、初恋

芙月みひろ
恋愛
彼が選んだのは姉だった *表紙写真はガーリードロップ様からお借りしています

私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない

文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。 使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。 優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。 婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。 「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。 優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。 父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。 嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの? 優月は父親をも信頼できなくなる。 婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。

処理中です...