【完結】竜王の息子のお世話係なのですが、気付いたら正妻候補になっていました

七鳳

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第28話

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 実技試練が終わってから、一夜が明けた。
 昨日は朝から長時間、正妻候補たちが次々と魔力制御や武術、知識などを披露した結果、当初の予定を上回る時間がかかってしまった。しかも、王太子――セイル殿下がまだ本調子ではない中で無理を押して座り続けたため、周囲にも少なからぬ不安が広がったらしい。

 けれど、幸いにして殿下は今朝になってだいぶ身体が楽になったようだ。昨夜は少し長めに休養を取れたのがよかったのかもしれない。
 私はいつものように殿下の部屋へ向かい、扉を開ける前に深呼吸をする。昨日までの試練の疲労や、正妻候補たちの激しいアピールで心が乱され、私も落ち着かなかったが――もうそうも言っていられない。今日も予定は盛りだくさんなのだから。

◇◇◇

「殿下、おはようございます。ご気分はいかがでしょうか?」

 控えめにノックし、部屋の中に顔を出す。すると、殿下はベッドからゆっくりと身体を起こして、こちらに穏やかな笑みを向けた。やや青白さは残るが、昨日ほど疲れ切った様子ではない。

「おはよう、ルナ。……うん、まだ少しだるいけど、昨日よりはずっと楽だよ。君が用意してくれたハーブティーのおかげかな」
「それは何よりです。今日は午前中に小規模な面談があり、午後からまた候補者たちとの交流が予定されています。……無理だけはしないでくださいね」

 殿下は苦笑交じりに頷く。机の上には、正妻候補たちから続々と届いた手紙が積まれており、まだ開封していないものも多い。
 それらは「昨日の試練で殿下の体調を心配しています」という文面が多いらしいが、中には「今回の結果を踏まえて早く次の試練に臨みたい」という積極的なメッセージも含まれているようだ。

「……正妻候補のみんなも、本当に真剣なんだよね。俺が倒れないか心配してくれる子もいれば、自分のアピールに必死な子もいる。……俺は、まだ誰も選べそうにないのに」
「殿下……。焦らずに、ご自身の気持ちを大切にしてください。姉上様方も無理な決断は迫らないはずです」

 私がそう言うと、殿下は小さく息を吐きだした。瞳に微かな影が差しているのは、やはり「誰を選んでも波風が立つ」ことを理解しているからだろう。
 ――かといって「誰も選ばない」という道も選びづらい。国の期待や政治的な安定を考えれば、王太子に正妻がいないままでは不安定だと見なされるのは明白だからだ。

(私にはどうしようもない。殿下が苦しむのをただ見守るしか……)

 胸が苦しくなるが、ぐっと耐える。

◇◇◇

 朝食を簡単に済ませた殿下は、少しだけ休むつもりでソファに腰を下ろし、私がスケジュールを読み上げるのを聞いていた。そこへ、予定よりも早く訪問者が現れる。侍従が扉をノックし、「殿下、正妻候補の一人が面談を求めています」と告げるのだ。
 殿下と私が顔を見合わせ、「もう来たのか……」と苦笑するまもなく、その人物が入室する許可を求める声が廊下からはっきり聞こえてきた。

「セイル殿下、昨夜はお休みになれましたか? お時間をいただきたく、参りました」

 凛とした声。名乗りこそないが、私はすぐに思い当たる。昨日の実技試練でも注目を集めていた、サリア令嬢の声だ。

(やはり……。“最初のダンス”で殿下と踊った彼女は、確かに優勢だという噂もあるし、本人も積極的に動いてくるはず)

 殿下は一瞬、戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに「通して」と返事をする。侍従が扉を開けると、そこには金髪を軽く結い上げ、上品なドレスを纏ったサリア令嬢の姿があった。
 彼女は微笑みを浮かべながら部屋に入り、殿下に向けて優雅に一礼する。

「昨日の試練ではお疲れのご様子でしたが、もう体調は大丈夫でしょうか? このような朝早くから、お邪魔ではないですか……?」
「いえ、気遣いありがとう。……少し楽になったよ。サリアさんの演技も見事だったね。あんなに綺麗な“竜の幻影”を生み出せるなんて、驚いたよ」

 殿下がそう言うと、サリア令嬢は照れるように目を伏せる。――視線の端で、私が立ちあがって離れようとするのを見て、彼女がこちらをチラリと見た。

「……あら、ルナさんもご一緒なのですね。いつも殿下のお世話をなさっているとか……」
「はい、私は殿下の乳母ですので。……もし差し支えなければ、少し離れた場所で控えております。ご用件が済んだら仰ってくださいね、殿下」

 そう言って、私は軽く頭を下げると、部屋の端へ移動する。殿下の体調を考えれば本当は隣で見守りたいが、サリア令嬢との個人的な面談を邪魔するわけにはいかない。
 彼女も、私への敵意を露わにすることはなく、「ふふ、そうですね」と微笑んで殿下の前に座る。まるで絵になる二人の姿に、胸がきゅっと疼く。

◇◇◇

 サリア令嬢は昨日の実技試練でも高評価だった上に、舞踏会の“最初のダンス”を殿下と踊った人物。つまり、正妻レースの大本命と噂されている。
 実際、私も彼女の表情や言葉の端々に、殿下への好意が漂っているのを感じる。遠目で見ていても、その優しげな微笑みは、殿下に真摯な想いを向けているように映る。
 私が隅で控える中、二人は昨日の試練の感想や、殿下の体調の話を穏やかに交わしていた。

「セイル殿下がご無理をなさらないように……私もできることがあれば申し出たいと思っています。殿下が早く回復なさるよう……」
「ありがとう。サリアさんも体調は大丈夫? 昨日の魔力制御は結構力を使っていたようだけど……」
「ええ、少し疲れましたけど、今は回復して元気ですわ。……殿下のほうこそ、もっとお休みくださいね」

 そう言って笑い合う二人の姿は、まるで微笑ましいカップルのように見える。
 ――その光景を見ていると、切なさが溢れて止まらなくなる。自分の立場が“乳母”だと痛感するたびに、胸の奥で何かが軋む。

(でも、サリア令嬢は殿下を本当に想っているみたい。……もしこの方が正妻になれば、殿下の負担も減るかも……?)

 そう思うと、応援してあげたい気持ちと、苦しくなる想いがせめぎ合う。どうして、こんな複雑な感情を抱いてしまうのか、自分でも嫌になる。
 しばらくして、サリア令嬢はややトーンを落として切り出した。

「……殿下、実は私、ひとつお訊ねしたいことがありまして。今度の試練、まだ続きますわよね? もし私が最後まで勝ち残ったとして……殿下は、本当に“婚姻”を結びたいと思っていらっしゃるんでしょうか?」
「え……」

 殿下が困惑した表情を浮かべる。正妻候補の立場からすれば、ある意味当然の疑問かもしれない。――王太子が本当に誰かを選ぶ気があるのか。それを確かめたいのだろう。
 彼は少しだけ視線を私に送ったが、私はどうすることもできず、そっと目を伏せる。結局、殿下は微かな笑みを浮かべ、答えた。

「もちろん、試練を行う以上は、結果を出さなきゃいけないと思ってる。……もし“これだ”と思える相手が見つかれば、ちゃんと婚姻を結ぶつもりだよ」
「そう……それを聞けて安心しました。私は、殿下にきちんと愛される正妻になりたくて頑張っています。……無理やり家の都合だけで決まるような結婚では、殿下も私も苦しいだけですから」

 サリア令嬢の言葉には、明らかに“愛されたい”という真摯な気持ちが含まれているのが分かる。その瞳は真剣で、少なくとも私が見てきた中では“強欲”だけではないと感じられる。

(こんなに純粋に殿下を思ってくれている人がいるなら……私なんかいなくても、殿下は救われるかもしれない)

 ふと、そんな考えが胸を駆け巡る。もちろん決定権は殿下にあるが、もし彼女の優しさと才能が殿下を支えられるなら、それは私が願う形の一つかもしれない。
 ――けれど、その想いが言葉になる前に、サリア令嬢は小さく微笑んで椅子を立ち上がった。

「今日は、殿下のお顔を拝見できただけで十分です。また明日以降も試練は続きますし、私は私で精一杯努めますわ。……殿下もどうか、お身体をお大事に」
「ありがとう。わざわざ来てくれて嬉しかったよ。……俺も無理しないよう気をつける」

 最後に丁寧なお辞儀を交わし、サリア令嬢は部屋を出て行く。その背中を見つめながら、殿下は軽く息を吐いた。部屋からいなくなった瞬間、緊張が解けたようで、苦笑まじりに私に話しかける。

「……やっぱり、あの子は一番有力な候補なんだろうね。昨日も踊ったし、実技も見事だったし……」
「そうですね。きっと周囲も、サリア令嬢を“最有力”と見ているかと。……でも、まだ他の候補者もいらっしゃいますし、殿下がどう思うかが大事です」

 殿下は浅く首を振る。

「正妻を決めるって、本当にこんなに難しいんだって、改めて思うよ。……もし、俺が自分の意志で誰かを選んだとき、君はどう思う?」
「……え……」

 突拍子もない質問に、言葉が詰まる。殿下が誰を選ぼうとも、私は“乳母”として受け入れるしかない。でも、その先にある苦しみを考えると、まともな答えが浮かばない。
 ――けれど、殿下は深刻そうに私を見つめ続ける。仕方なく、息を整えて答えるしかない。

「私は……殿下が選ぶ方を応援する、つもりです。正妻として殿下を支えてくださる方なら、きっと私は安心して……」
「……そう、か。応援、してくれるんだ……」

 殿下の瞳が揺れるのを感じる。自分で言っておきながら、胸が抉られるように痛い。本当は心から祝福なんてできないのに、建前でしか言えない。
 ――殿下は再び俯き、弱々しく微笑んだ。

「……そっか。……ありがとう、ルナ。ごめんね、変なことを聞いて」
「いえ、そんな……。私こそ、うまく答えられなくてすみません」

 互いに気まずい空気が漂い、何も言えなくなる。背中には冷や汗が滲むほどの切なさが広がり、この部屋の空気が薄く感じられる。
 ――結局、その話題に一区切りつけたまま、殿下は書類の山を見つめて「仕事をしなきゃ」とぼそり呟く。私も「では、私も整理を手伝いますね」とだけ言い残し、黙々と作業を始めることにした。

◇◇◇

 午後になり、姉上たちから「候補者たちの評価をまとめた一時報告」が届く。どうやら昨日の試練で特に目立った活躍をした者が数名ピックアップされており、その中にはやはりサリア令嬢の名前も含まれている。
 殿下はそれを見て複雑そうに首を傾げ、姉上たちがメモした“評価ポイント”に目を通す。昨日の疲労でろくに集中できていなかった可能性もあるので、この補足資料は助かるだろう。

「ふむ……姉上たちは公平に評価してくれているんだね。サリア以外にも、魔術に長けた子がいるな。……あれ、あの子はたしか正妻レースは不利って話だったのに意外と高評価だ……」
「ええ、属性によっては魔力制御の難易度が違いますし、軍事的才能を期待できる場合は高評価されるかもしれませんね。……でも、こういう結果を見ても、殿下がどの部分を重視するか次第でしょうね」

 殿下はメモを投げ出すようにして机に置く。

「正直、どこを重視すればいいかも、まだよくわからないんだよ。……『愛』があればいいのか、『政治力』が大事なのか、『魔力の強さ』を求めるのか……。いろんな人がいろんなことを言うから混乱する」
「……殿下が一番大事だと思うものを選ぶのがいいのではないでしょうか。周りはそれを認めるしかありません。それが王の特権でもありますし……」

 そう言いながら、私も胸が締めつけられる。殿下が望むのは「真に愛し合える相手」なのか、それとも「国を動かすに相応しいパートナー」か。どれを選んでも、正妻候補たちが多い中で納得させるのは難しい。
 ――だが、殿下は私の言葉を聞いて、小さく笑みを浮かべる。

「……そうだね。俺が、本当に欲しいものを見極めないと。……ありがとう、ルナ。君と話すと少し気が楽になるよ」
「とんでもありません。私は何もできず、歯がゆい思いですけど……」

 それが“乳母”としての限界であることを痛感する。私の中には“恋心”が渦巻くが、それを口にする資格などない。
 ――すると、殿下が少し身体を前に乗り出し、小さな声で言葉を続ける。

「ルナ……それでも、俺は君が一番大事だと……思ってしまうんだ。わかってるんだ、正妻にはなれないって、でも……ごめん、こういう話になると苦しいよね」
「殿下……」

 甘く切ない空気が漂い、私の胸は痛みとともに嬉しさを覚える。こんな危うい関係を続けていて大丈夫なのかと不安にもなるが、殿下の言葉がどうしても嬉しくて、拒めない。

「……私は、殿下がどなたを選んでも受け止める覚悟です。その結果、私の役目が終わってしまっても……。」
「俺はそれを望んでないんだ。……いつまでこんなわがままを言えるのかわからないけど……」

 押し黙る殿下。私も返す言葉が見つからず、胸が苦しい。部屋の外では侍従や候補者が忙しく動いているのに、この部屋だけは切なさが充満しているかのようだ。
 ――やがて、殿下は短く息を吐き、書類を手に取って表情を引き締めた。

「……ごめん、ルナ。今は試練に集中するよ。これ以上、みんなを待たせるわけにもいかない。俺がどう決断するかは、もう少し考えさせて。君を手放したくない気持ちと、正妻を選ぶ義務との狭間で、まだ揺れてるんだ」
「はい……どうか、殿下が悔いのないように。私はそれを願っています」

 殿下は微かな笑みを返して机に向かい、仕事を再開する。その背中を見つめる私の心は、甘いもどかしさと痛みに満たされ、視界が霞むような気がした。

◇◇◇

 夕方になると、次の試練の準備を進める貴族たちが城内を走り回り、正妻候補たちはそれぞれ別の場所で体を休めたり、明日の試練について作戦を練ったりしている。どうやら今度は“礼儀作法と知識”を問う審査らしく、候補者同士の勉強会も行われているらしい。
 殿下は参加しなくてよい試練の事前打ち合わせが多いので、私はその合間に一度部屋を離れて控え室へ戻り、明日のスケジュールを確認していた。

(本当にいつになったら殿下は“答え”を出すのかな。まだ試練は続くけど、いつか最終的に“正妻”を決めなきゃならない日が来る。私は、その時を笑顔で迎えられるのか……)

 不安が頭をもたげた瞬間、廊下から侍女の声が聞こえた。誰かが私を呼んでいるらしい。
 扉を開けると、そこにはサリア令嬢の姿があった。

「……サリア様。ご用件でしょうか?」
「ええ、少しお話ししたくて。ルナさん、少しだけ時間をいただいていいかしら」

 彼女は落ち着いた表情で申し出てくる。私は咄嗟に驚いたが、「大丈夫です」と返事をし、控え室に迎え入れる。

◇◇◇

 サリア令嬢がわざわざ私のもとへ来るとは、想像していなかった。適度にお茶を用意して、落ち着いたところで、彼女は切り出す。

「昨日の舞踏会と実技試練……殿下は本当に無理をしているわね。ルナさんが支えているおかげで何とか持ちこたえているように見えます」
「……はい。殿下もかなりお疲れのようです。私も心配していますが、姉上様や周囲の方々もなるべく休めるよう配慮してくださっているので……」

 穏やかなやり取りだが、やや緊張感が漂う。サリア令嬢は続ける。

「実は、私はこの試練で必ず結果を出したいと思っているの。殿下を心から愛したいし、殿下が私を求めてくれるのなら、全力で応えられる自信がある。……けれど、殿下が時々あなたのことをとても大切にしているように見えるのよ。私にはそれが……少しだけ気になってしまうの」
「……それは……」

 やはり来たか、と内心で唇を噛む。殿下が私を重要視していることは、正妻候補たちの中でも大きな話題になっているはず。サリア令嬢は正妻レースの筆頭だからこそ、私との関係に疑問を持つのは当然だろう。
 ――ここで何を言えばいいのか、頭を巡らせるが、結局のところ“私は乳母です”というありきたりな答えしかない。

「……殿下は私を乳母として信頼してくださっているだけです。私はあくまでも補佐役で、正妻にはなれません。どうか誤解なさらずに……」
「わかっているわ。でも、殿下もあなたも、何か特別な気配を感じるの。……私の勘違いならいいんだけど。……もし、あなたが殿下を深く想っていて、殿下もそれに答えようとしているのなら、私も覚悟を決めなきゃいけないもの」

 サリア令嬢はまっすぐな瞳でこちらを見る。その表情には嫉妬というより、どこか悲壮な決意が宿っているように見えた。
 私も視線を逸らせず、苦しい思いを抱えながら口を開く。

「……私は殿下の乳母です。殿下をお支えするのが使命。それ以上でも以下でもありません。……サリア様が正妻にふさわしいのなら、どうか殿下を支えてあげてください」
「そう……なら、もし私が正妻になったとしても、殿下の側にいるのよね、あなたは。……そこに殿下の愛が混じっていなければいいけれど……ふふ、ちょっと意地悪ね、私。ごめんなさい」

 彼女は苦笑する。それはまるで自分でもどうしようもない不安を抱えながら、私に確認しているようだった。
 ――私が何を答えても、きっと彼女は安心できないのだろう。殿下と私の間には、確かに甘い秘密がある。でも、それを正妻候補の彼女に打ち明けるわけにはいかない。

「本当に申し訳ないですが……殿下が求める限り、私は“補佐役”として離れられません。そこに……愛などというものは、ないはずです」

 自分で言って胸が軋む。サリア令嬢は微かに目を伏せ、再び笑みを浮かべる。まるで、お互いにバレバレのような会話。それでも形だけの否定を続ける私に、彼女は深く追及はしない。
 ――そして、彼女は椅子から立ち上がり、軽く頭を下げる。

「ありがとう、ルナさん。……あなたがどんな気持ちで殿下を支えているのか、私にはわからないけれど、もし私が正妻になるなら、あなたの存在も受け入れたいと思ってる。……殿下があなたを必要としているなら、私もその力を借りたいから」
「……サリア様……」

 意外とも言うべき言葉だった。彼女は私を排除するどころか、殿下に必要な存在なら共存しても構わないと示唆している。
 その度量の大きさを感じると同時に、さらに胸が苦しくなる。私の存在がそれほど認められるなら、今の秘密めいた関係はどうなるのだろう……複雑な感情で頭が混乱しそうだ。

「では、失礼するわね。殿下のお側でこれからも尽くしてあげて。……ただし、私が正妻になったら、その時は私もたくさん殿下に甘えたいから、覚悟しておいてね?」
「は、はい……」

 そう言い残して、サリア令嬢は静かに部屋を出ていく。見送る私の胸は、言いようのない複雑さに包まれていた。――彼女がもし正妻になったなら、私は“乳母”としてどう振る舞えばいいのか。
 もしかしたら、本当に「共存」できるのかもしれない。それを望む殿下の気持ちも理解はできるが、国中がそれを受け入れるとは限らないし、私自身が耐えられるかどうかも不明だ。

「……はぁ、どうしてこんなにややこしいんだろう」

 呟いても答えは出ないまま。
 こうして“試練”は着々と進み、正妻候補たちの想いや競争心が高まる一方、殿下と私の恋心(あるいは依存)はますます深みにはまりつつある。それがいつ破裂するか――まだ誰にもわからない。
 ――次なる試練の日程は明後日。そこでは礼儀作法や知識を問う審査が行われる。各候補が殿下とどう接していくのか、周囲の注目もさらに強くなるだろう。

(サリア令嬢だけでなく、他の候補たちも……。殿下は一体、誰を選ぶんだろう?)

 選んでほしくないと願う自分と、誰かを選べば殿下が安定するだろうと願う自分。二つの感情がせめぎ合い、胸が痛む。――そんな思いを抱えながら、私は机に散らばる書類をそっと整理し始める。
 殿下がどんな決断をするにせよ、今はただ支えるしかないのだから。
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