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困惑の初夜➀
しおりを挟む夜が更けていく中、エリシアは皇帝の寝室で、その時を待っていた。
彼女が身にまとうのは、白地に金糸の刺繍が施されたシルクの夜着。
母国の伝統的な文様があしらわれたその衣は、侍女たちが少しでもエリシアの心が安らぐようにと用意してくれたものだった。
裾をそっと握りしめる。
懐かしい故国のぬくもりが指先から伝わってくるようで、わずかに力が湧いてくる。
(それにしても、殺風景な部屋だわ……)
エリシアは改めて見回した。
広さこそあるものの、豪奢な装飾や調度品はほとんど見当たらない。
皇帝の寝室とは思えないほど、質素な空間だった。
クロヴィスは華美を嫌い、派手な振る舞いを好まない男だという。
自ら戦場に立つ軍人皇帝らしい気質だった。
彼は勇猛果敢な武人であると同時に、機知に富んだ策略家でもあった。
数々の戦績の多くは、彼自身の緻密な計画によって勝ち取られたものだという。
そんな有能な軍人らしく、どこか掴みどころのない冷淡さもまとっていた。
無能と判断した者は容赦なく切り捨てる――そう噂されるほどの男だった。
エリシアは、あの怜悧な漆黒の瞳を思い出し、ぞわりと背筋が震えるのを感じた。
(妃とはいえ、しょせんは政略結婚。敵国の王女に向ける視線が、あたたかいはずないわよね)
心細さと不安が膨らみ、自然と心臓が早鐘を打った。
夜着一枚のせいか、妙に肌寒さを覚える。
エリシアは冷えた指先を、用意された紅茶のカップで温めた。
まだ熱いその中に、木の実のジャムをひとさじ落とす。
それは、自邸から持参したものだった。
侍女たちと森で摘んだ実を煮詰めて作ったジャムで、ささやかな酸味が緊張感を和らげてくれた。
侍女長のマーシャは、エリシアがまだ幼い頃から仕えてくれていた女性だった。
血の繋がりはないけれど、厳しくも優しく、母のような存在だった。
外に遊びに行けず、王宮に缶詰にされて王女教育を受けていた日々。
異能力が覚醒し、父に嫌悪され運命を呪って泣き暮らしていた日々。
そっと背中を撫でてくれたのは、いつもマーシャだった。
「エリシア様は、誰よりもお優しい、素晴らしい女性ですよ。
大丈夫、マーシャがついております」
その言葉が、どれだけ支えになったか。
幼い頃、王宮の近くの林へこっそり遊びに出ては、見つかってお尻を叩かれた記憶。
涙ぐみながら叱るその姿すら、今となっては懐かしく、愛しかった。
エリシアが幽閉された時、最初に名乗りを上げて屋敷へ来てくれたのも、彼女だった。
マーシャ自身、つい数か月前に兵役で息子を失ったばかりだったというのに。
しばらくして、そのことへの感謝を伝えたとき――
マーシャが微笑んで返してくれた言葉を、エリシアは今でも忘れない。
「救われたのは、私の方ですよ。
エリシア様がいてくださったから、私は……息子を失った悲しみに沈まずにいられたんです」
その瞬間、エリシアは泣いていた。
それは、長い間忘れていた、喜びと幸せに満ちた涙だった。
――そんな記憶をたどっているうちに、カップの紅茶は残りわずかになっていた。
指先も、身体も、じゅうぶんに温まっている。
「このジャムで紅茶を飲むのも……これが最後ね」
ぽつりと呟いて、最後のひと口を口に運ぶ。
涙の代わりに、紅茶を静かに飲み干した。
やがて、扉が開いた。
クロヴィスが現れた。
足音が聞こえなかった。まるで夜闇から抜け出てきたようだった。
エリシアは立ち上がり、頭を下げる。
「かしこまらなくていい」
抑揚のない声に言われて、ゆっくりと顔を上げる。
漆黒の瞳に射抜かれた。
その眼差しは冷たく、らんらんと輝きながら彼女を見下ろしている。
(恐ろしい……魔王とは、よく言ったものだわ)
体が震えそうになるのを堪えて、視線を逸らさずにいるのがやっとだった。
無表情のその顔からは、何を考えているのか読み取れない。
クロヴィスはベッドに腰掛けると、上半身をもたれさせて長い脚を投げ出した。
ゆったりとした白シャツの胸元からは、男らしい胸板がのぞいている。
野生動物を思わせるその色気ある姿に、エリシアは目のやり場に戸惑った。
「長い一日だったな。いくぶんかは、休めたか」
「はい。温かく迎えられ、細やかに配慮してもらいました」
「身の回りの世話には有能な者をつけている。何なりと申し付けるがいい」
「ありがとうございます」
形ばかりの会話が途切れて、重くのしかかるように沈黙が部屋を満たした。
息が詰まりそうなほどの気配に、エリシアは自然と呼吸を浅くする。
クロヴィスが無言でベッドをトントンとたたいた。隣へ来いと促している。
エリシアは一瞬、息を止めた。
(……怖がってはだめ……)
ここまで来たらあとは進むだけだ。
「失礼いたします……」
エリシアはベッドに乗り上がると、彼の目の前に座って膝を崩した。
服越しからでも伝わる男の体温と屈強な体の存在感に、思わず心臓が早鐘を打つ。
クロヴィスは感情の読めない顔をして、エリシアを見つめた。
(こんなに冷たい瞳なのに、視線は灼けた鉄のようだわ……)
これ以上目を合わせることができず視線を逸らすと、低い声が静寂を割いた。
「震えているな」
はっとしてエリシアは自分の指を握り、笑みを向けた。
「い、いえ、すこし冷えるだけです」
口をついて出た言い訳は、自分でも不自然だとわかった。
クロヴィスは何も言わず、エリシアの指を握った。
軍人らしく骨ばっているその手は、とても熱くて大きかった。すこし力を加えればエリシアの細指など握りつぶしてしまいそうだ。
「俺が怖いか?」
「いえ、そんな……!」
思わず声が大きくなって焦る。
(これでは認めているようなものじゃないの……)
もごもごとしているエリシアをみて、クロヴィスは初めて口端を上げた。
「無理もない。大陸を戦火に包み、きみの国の民をはじめ、多くの人間を屠ってきたからな。どんなものだ? 憎い相手の閨に来た感想は?」
揶揄するような口調にエリシアは小さく奥歯を噛んだ。しかし、微笑を浮かべて答える。
「たいへん幸せなことだと思っております。大陸の覇者となったあなた様の妻になれるとは、この身に余る光栄です」
クロヴィスは小さく鼻笑った。
「とうに覚悟はできているということか」
「私はあなたの妻となった身。どうぞお好きになさってください」
冷ややかな漆黒の瞳を真っ直ぐに見つめ、エリシアは毅然と言った。
すると、衣擦れの音とともに、突然腰を引き寄せられた。まるで木の葉にでもなったかのような力強さだった。
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