一の恋

紺色橙

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8 初恋

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 親がいるのに泣いてなんかいられない。上を向き、溜まってきた涙を零れないうちにティッシュで吸い取った。
 顔を戻した時には、もう既読がついていた。そして画面に出たのは電話のマーク。今まで使ったことのない通話がAさんからきている。画面に表示されてから間があって、呼び出し音が鳴った。思ったよりも大きく響くそれを慌てて取った。
 消せばよかったんじゃないか。少しの後悔をして、耳に当てることもできなかった。

『もしもし、イチくん?』
 顔から離れたところにあるスマホから声がする。息を吸ってから返事をした。
『久しぶりだね。今大丈夫?』
「大丈夫です」
 部屋の電気をつけないままベッドに座る。おいしょっと上って、膝を抱えた。自分の顔を膝に埋めるようにしてAさんの声を聴く。前と変わらない優しい声は機械を通すと少しだけ違う気もする。
『ずっと連絡がつかなかったから急で申し訳ないんだけど、今日は会えないかな』
 会いたがってくれている。その言葉に胸が締め付けられ、聴覚だけが急速に発達したように集中した。会いたいと思うのに返せない。振られた自分がどんな顔をして会えばいいのか。Aさんはきっと今まで約束していたからと繰り返しの誘いをしてくれているだけなのに。
『無理かな』
「あ、の」
『イチくんの予定もあるだろうし、無理にとは言わないよ。そもそも夜だしね。若い子を連れまわすのだって――』
「そんなの全然」
『――会えない?』

 自分より倍年上の人に初めての恋をした。

「会ったらまた、手を繋いでほしいって言うよ」
『勿論いいよ』
「だ、抱きしめて欲しいとも……」
 恥ずかしくて声が小さくなった。顔が熱い。熱を持った耳でAさんの声を聴いている。
『イチくんが嫌じゃないのなら、いくらでも』
「Aさん」
『はい』
「Aさんが、好き」
 告白を布団で隠した。頭だけ被り背中は出ているけれど、音は吸収されていった。
『イチくん、会いに行ってもいい? 5分だけでも顔を見て話がしたい』
 告白を曖昧にされたような返事に動揺する。聞こえなかったのか、それとも聞こえた上で断ろうと思っているのか。
「あの、会わない。ごめんなさい」
 お断りならこの場で良い。今すぐに終わりで良い。
『待って。私がイチくんを好きでも会ってくれない?』
 言葉が認識されなかった。布団がずるりと頭から落ちる。「え?」と声が漏れた。
『両想いでもお別れしないとダメかな』
「両想い……」
 俺はAさんが好き。一方的な片思い。両想いは、お互いに好き。
『とりあえず5分だけ会ってほしい。すぐに行くから』
 ぷつりと切れた通話。時刻は20時10分。なんだかよくわからず頬を掻く。言われた言葉が上手く処理できない。でも、会いに来てくれるという。さらりと撫でたベッドのシーツ。ここは俺の家。今日は土曜日だから、Aさんが会いに来てくれる。

 しばらく放心したように布団に座っていた。着替えなければと慌てて暗闇の中クローゼットを覗き、何も見えないじゃないかと電気をつけた。すぐに着替えて玄関に向かおうとして、まだ着くはずもないと自分を落ち着けた。
「もう少ししたら出かけてくる」
 親に伝えたその声は、我ながら気持ち悪いほど浮かれていた。



 通話が切れてから40分。まだ来ないだろうと思いつつもマンションを降りた。玄関先でスマホを握りしめて待つ。10分待たずとも曲がり角から現れた銀色の車に心臓が跳ねた。そのままドキドキと鼓動が高鳴る。窓を開けて顔を見せてくれたAさんに泣けるほど嬉しかった。大して周りも見ずに車に乗り込む。でもなんて言えばいいのか沢山思いがあり過ぎて俯いた。頭の中で言葉のパズルが組み立てられず、どうしようと焦りが出る。
「待たせてごめんね」
 ゆっくりゆっくり走る車は、コンビニ裏のコインパーキングで止まった。看板が照らされるだけで薄暗い駐車場に車が停まる。

 俺が俯く横でシートベルトを外したAさんに、イチくん、と呼ばれる。顔を上げれば、右手をそっと繋がれた。
「会えてよかった」
 ほっとしたようにAさんが言う。心臓のドキドキが治まらず、頭がぼんやりする。酸素が足りないようだ。車内灯は明るく、Aさんの顔もはっきり見せた。
「あの、俺」
「うん」
 あの、と繰り返し要らない言葉を吐きだす。俺のよりしっかりした手が触れている。冷たくはなく、凄く熱いわけでもない。
「俺、あの、男だけどAさんが好きみたいで、だから、だから……」
 Aさんは俺を急かしはしなかった。どもるのを無言で待ってくれている。
「手繋いでほしいとか、抱きしめて欲しいとか思っちゃって」
「してもいい?」
 繋がれた手に少しだけ力がこもる。伸びてきた腕に抱かれ、暖かさに息を吐いた。ここは眠くなる。安心する。座席の端まで近寄って、左手をAさんの肩にやった。もっとぴったりとくっつきたい。ここに座ったままでは足りない。
「もっと」
 ぎゅっと力が込められる。横に並ぶ無理な体勢ではこれ以上どうにもならず、靴を足に引っかけ脱いで座席に上り膝をついた。この前Aさんがしてくれたように、もっと近くに行きたい。
「イチくん待って」
 言われ背中から熱が離れていった。Aさんの手の行く先を見ると、座席の横で何かを操作した。がくんと運転席のシートが倒れる。ぺたりと後部座席に付くくらい倒れたシート。運転席と助手席の隙間に倒れそうになって慌てて離れる。
「こっちきて」
 両手を開き俺を呼ぶAさんのもとに渡った。

 運転席は当然一人分で出来ていて、狭いシートの上Aさんを押し倒すように抱き付いた。
「重い?」
「平気」
 彼の体を跨ぎ上に座る俺は否定されているけれどきっと重い。でも離れたくなかった。
「Aさん、好き」
「私もイチくんが好き」
 呟くようなそれに返事がもらえる。嬉しくて頭を擦りつけた。暖かいAさんの体温とぴったりくっつく。あのガーゼケットと同じ優しい洗剤の香りがシャツから漂う。
「好き」
 次の返事は言葉ではなく、苦しいくらいに抱きしめられた。背中がつぶれ、ぐいと体を伸ばして胸から足まで沿うように体を重ねる。足がハンドルに当たった。
「重いよね」
「少し」
 素直にAさんは認めて笑った。俺は華奢な女の子ではない。運動していないから筋肉もなくその分の重さはないけれど、それでも平均身長までは伸びた。全体重をかけるような重なりはどうしたって重い。

 強く抱きしめてくれるAさんに、自分の体を支えるのを諦めて圧し掛かる。人の体の上はそんなに安定性があるわけではないけれど、安心する。手を繋いでいるだけよりもぴったりと満たされる。暖かくて、きっとこのままいたら眠ってしまうだろう。
「眠いの?」
 髪を撫でられ頷く。
「このまま連れて帰りたい」
 髪の中で囁くように言われた言葉に、熱が上がる。ぎゅうっと腕でAさんの体を挟み込んだ。
「連れてって」

 遠くまで。できるならどこか遠く、Aさんと二人だけのところへ行きたかった。
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