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もう恋なんてしないなんて

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あの人はきっと、類くんがここでバイトしているのを知っててわざと旦那さんを連れてやって来た。

類くんの表情から察するに、きっと類くんも意図してなかったこと。

だとしたら何のために?


そんな事を考えながらトイレを掃除していると、お手洗いに入ってきた麗華さんとばったり遭遇してしまう。


「あら、この前のお祭りの時はどうも」

「ど、どうも」


すれ違いざまに香水なのか、女性らしいフローラルな甘い香りが漂ってきて不覚にもいい匂いだと思ってしまう。

くそぅ!と思いながら出ていこうとすると。


「ねえ、あなた。類と付き合ってるわけじゃないんでしょ?」


ドアに手をかけてそのまま止まる。

なんか、喧嘩を売られた気がした。

返事に困ってそっと振り返る。


「彼女じゃないなら、あまり彼を追い詰めるのはやめてあげて?ストーカーみたいで迷惑してるっていつも言ってるから」


だったらあんたは類くんの何なんだ。

だけど何も返せない自分が一番悔しくて、私は唇を震わせてトイレを飛び出す。

そのままバイト終わりまでずっともやもやしていて、麗華さんの嫌みたらしい表情が脳裏に浮かんで何とも言えない気持ちになっていた。

そしてバイトを終えて更衣室から出てくると、ちょうど類くんも上がってきたところで休憩室で出くわす。

私の顔を見てもふいっとそらして更衣室に行こうとするから、バンッと前に立ち塞がった。


「…あの人、類くんのこと好きじゃないと思うよ」


そう言っても類くんは表情ひとつ変えず、私を退かして更衣室に入ろうとする。

それでも私が更衣室のドアの前に立って睨んで見上げると、類くんはじっと私を見下ろして不意に屈んできた。

そして私の顎をくいっと持ち上げて。


「…似てるんだよ、あの人と俺は。好きじゃなくてもこれくらいできる」


彼の柔らかい唇がそっと触れて、少し離してそうつぶやいた。

言い返そうと声を出す前にまた遮られて、舌を絡め取られて私は彼の胸を押す。

だけど彼は私の力なんてものともしないで腰に手を回して、脚の間に太ももを割り入れた。


「…んぅ……ッ」


こんなキス、したくない……っ。

そう思ったら涙が溢れてきて、ぎゅっと彼の服を掴む。

類くんはそんな私の表情に気づいて、身体をゆっくりと離した。


「……好きじゃなくてもできるなんて、そんなこと言わないで…っ」


全部、今まで私に見せてくれた表情も、かけてくれた言葉も、嘘だったの?冗談だったの?

悲しくて、苦しくて、全部諦めてしまえたら楽になるのに。

それでもどうしても、類くんの笑った顔が見たかった。

私は泣き顔を拭いて彼を見上げて、そっと彼の頬に手を伸ばして伝える。


「……類くんはそういう人じゃないって、私知ってる」


拭いても拭いても溢れる涙が、鬱陶しいくらい熱かった。
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