あなたに愛や恋は求めません

灰銀猫

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第四部

新しい関係の始まり

 いつの間にかヴォルフ様の足の間できつく抱きしめられていた。大きな身体に包まれて大好きな匂いが一層強く香る。何が起きているの……? いえ、その前に……

「あの、ロッテが……」
「下がらせた」

 そ、そうですか……いつの間に……

「言ったはずだ。お前を失ったら俺は人間でいられないと。お前を失うなど考えたくもない。二度と口にするな」

 常にない恐ろしい程の強い口調だけど、今は恐れよりも喜びをもたらした。信じられない……色んな感情が押し寄せてきて、息が詰まりそう……

「あ、あれは例えですわ。それほどの想いだとお伝えしたかっただけです。そう簡単に死ぬつもりはありませんわ」

 自分の身も守れないのと思われるかしら? だけど、それだけの覚悟でここにいるわ。そして私は欲張りなのよ。ヴォルフ様の隣だけでなく、孫たちに囲まれた穏やかな余生も欲しいの。

「ヴォルフ様、私も愛が何なのかわかりません。だけど……私の中にあるこの感情に名前を付けるなら……愛が一番近いと感じます」

 そう告げたけれど返事はなかった。ただじっと私を見つめている。でも、拒絶は感じないわ。

「ヴォルフ様はどうですか? 私への想いを愛と名付けることに、違和感や抵抗がありますか?」

 視線をそらしたくなる衝動が押し寄せてきた。なんて大それたことを尋ねているのかしら。強い視線に逃げ出したくなる恐怖に駆られる。もし違うと、違和感があると言われたら……きっと途方もない絶望に襲われて死にたくなるかもしれないけれど、聞かずにはいられない。ああ、どうか……祈るような思いで答えを待った。

「……ないな。俺も、それがいい」

 言葉を待つ時間は酷く長く感じたけれど、実際には瞬き数回分だったかもしれない。沈黙の後に伝えられた言葉に息が止まる。私に向ける感情は愛だと、それがいいと、そう仰ってくださった……? 何度も何度も願い、夢見た瞬間を迎えたのに実感が持てない。夢じゃ、ないのよね?

「お前を生かすためなら俺の命など捨てても構わん。もし命を差し出さねばならないのなら、その相手はお前がいい」

 強く深く、それでいて不穏さの籠もった言葉に甘さを感じたのは気のせい? これは私の願望が見せた幻? だけど抱擁による痛みがこれは現実だと伝えてくる。

「だめです。死なないでください」
「わかっている。お前と同じ、それほどの想いだと言いたかった。お前に比べたら筆頭侯爵の地位などどうでもいいとすら思う」

 ご自身よりも私を……本当に? だけどそれはヴォルフ様のこれまでを否定することにならない? いつだってヴォルフ様は筆頭侯爵としての役目を第一にされてきたのだから。

「簡単に死ぬ気はない。まだひ孫が生まれていない」

 あの約束を、咄嗟に口にした戯言のような約束を守ろうとしてくださると……どんな言葉よりも真摯で深い想いがそこにあると信じていいの? だめだわ、色んな感情が溢れて爆発しそう……

「嬉し……です……」

 感情が溢れて言葉が出てこなかった。心が命じるまま愛しい夫に抱き付いた。もしかして緊張していらっしゃる? 伝わってくる鼓動がいつもより早く感じるのは気のせい? 包み込むように抱きしめられて心が一層震えた。ヴォルフ様が私を……家族として信頼を得ている自負はあったけれど、愛は求めないと誓ったから望まなかった。望めなかった。なのに……こんな……

「愛している」

 小さいけれど確かに告げられた言葉に身も心も震えた。色んな感情が押し寄せてきて頭も心もぐちゃぐちゃだわ。何も言えなくて、ただその大きな身体に抱き付いた。ヴォルフ様も何も仰らない。静かに抱き合った。言葉はなくても囲うように抱きしめられ、身体に回った腕の強さに想いの深さを感じる。同じように大きな背に腕を回して抱きしめる。こんな日が来るなんて……心の奥底から熱い想いが湧き上がって全身を巡り、指先や爪先にまで泣きたいほどの愛おしさが満ちていく。幸せ過ぎて死んでしまいそう……

 僅かに身体が離れて口付けられた。最初は啄むようなそれが段々深さを増していく。

「……まだ、明るいです」
「嫌なら断っていい。務めではない」
「っ!」

 そんなこと言われたら……断れないわ。いえ、これまでだって子作りのためってわけじゃなかったけれど……

「嫌じゃ、ないです……」

 義務ではなく、私自身を望んでくださるのに否なんかないわ。そうなったらいいのにと渇望していたのだから……深い口付けのあと抱き上げられた。肘や足で器用に扉を開け、あっという間に寝室に辿り着き、そっと柔らかい寝台へと下ろされる。そのまま近くにあった燭台に近付いてろうそくに火を灯すと、室内がほんのりとその全容を露にした。嫌だわ、なんだか緊張してくる……

「旦那様?」

 控えていたティオが扉から顔を出した。

「暫く籠る。いつもの時間に軽食を頼む。茶はルバーハを」
「かしこまりました」

 有能な我が家の家令は静かに姿を消した。暫くって……でも、こうなったら止められないわ。

「辛くなったら言え。無理はさせたくない」

 そう言われて無事だったことなんてあったかしら? 今はそれでもいいと思っているけれど、さすがに今は……

「手加減してください。いつザーラが産気付くかわかりませんから」
「善処する」

 思わず目を疑ったわ。ヴォルフ様、今、お笑いになった……? いえ、これまでも冷笑を浮かべることはあったし、微かな笑みを見せることもあったけれど……まずいわ、嬉しすぎて本当に心臓が止まりそう……

「ヴォルフ様……」
「やめろ」
「え?」

 やめろって何を? 心臓が止まりそうだと気付かれた? だけどこんなの、自分では止められないわ。

「ヴォルフと呼べ。夫婦は対等だ」

 思いもしなかった言葉に思考がまた止まってしまった。どういうこと? 対等だと言ってくださるのは嬉しいけれど……

「そう仰られましても……」
「敬語も要らん」
「ええっ?」

 そ、そんなこと、いまさら言われても……すっかり定着しているのよ。今から変えろと言われても困るわ。

「フレディに出来たなら問題ないだろう?」

 ここで彼の名を出すの? 彼は同じ年だから抵抗はなかったけれど……

「か、彼は、弟のように思っていましたから……」
「俺は夫だ。フレディに出来たことが何故俺に出来ない?」
「だ、だって、立場が違い過ぎますわ……」

 この国の筆頭侯爵で、国王陛下の兄君で、十四も年上なのよ。フレディじゃ比べるべくもないのに。急にどうなさったの? 今までそんなこと一度も仰らなかったのに……!

「あいつに気を許しているのか?」
「まさか! そんなことはありませんわ」

 なんとなく剣呑な空気を感じて咄嗟に否定した。一体どうなさったの? まさか……まさか……

「……もしかして、妬いて、いらっしゃる?」
「妬く? 俺が?」
「え、ええ……」

 しまったわ、失言だったかしら。

「…………そうかも、しれんな」

 少し考えた後、肯定された。うそ……ヴォルフ様が嫉妬するなんて……

「フレディに思うところはありませんわ」

 向けられる視線の強さに念を押すようにそう告げた。そうしないと危険な気がしたから……だけど、黙ってこちらを見ている。これは……もしかして名を呼ぶまで許してくださらない、ってこと? いつも私の好きにさせてくださるけれど、こうとお決めになった時は絶対に譲ってくださらないから。

「……ヴォ、ヴォルフ……」

 敬称を付けたくなる衝動を堪えて夫の名を言葉にすると、しっかり頷かれた。これが正解なのね。だけど、これまでに染み付いた習慣は簡単には変えられないわ……

「ゆっくりでいい。慣れろ」
「わ、わかりました」

 仕方がないと諦めて返事をしたらじっと見つめられた。どうかした? やはり気を悪くされたかしら? そんなことを考えている間も何も仰らない。ということは、なにか間違えているのよね。そして自分で考えて気付けということで……

「……わ、わかったわ、ヴォルフ」

 頭ではわかっていても、砕けた言い方は心理的な抵抗が大きいわ……凄く……いくら妻でも気安く呼べる相手じゃないもの。だけど、ヴォルフ様が、ヴォルフが望むのならそれに従うわ。もっと近付きたいとずっと願っていたのだから。

「愛している、イルーゼ」

 ここでそれを仰るの? 反則だわ……そう思っている間にそっとベッドに押し倒され、啄むような口づけが落ちてきた。いつもと変わらないはずなのに、何倍も甘くて特別な気がする。何度も名を呼ばれ、愛していると囁かれる交わりはいつも以上に強く深い熱を含んでいた。いつにない濃密な行為に溶け合ってしまいそう。私たちの間にあった見えない壁が取り払われ、立場や年齢差や過去もすべてなくなって、むき出しの素の部分で繋がり合った。

「俺に愛を求めないと言っていた件だが」
「……はい?」
「無効だ。これからは思うまま求めろ。俺のすべてで応える」

 散々貪られ消耗しきった中での宣言に、このまま昇天するかと思った。あの日の約束がこんな結末を迎えるなんて、想像もしなかった……

 この日を境に、私たちの関係はゆっくり変わっていった。それは私たちの新しい日々の始まりでもあった。





                                【完】





♢ ♦︎ ♢ ♦︎ ♢ ♦︎ ♢ ♦︎ ♢ ♦︎ ♢ ♦︎ ♢ ♦︎ ♢
これで完結です。
最後までお付き合いくださってありがとうございました!

2024年2月に連載を開始してから2年余り。
総文字数150万文字と私の作品の中で最長となりました。
ここまで続けられたのもすべて応援してくださった皆様のお陰です。
書きたいことは書き切ったと思うので、ここで区切りを付けたいと思います。
時々思い出して二人に会いに来てくださると嬉しいです。
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