あなたに愛や恋は求めません

灰銀猫

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第三部

当主と影2◆

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 二人が下がり、一人になった執務室でこれだけは片付けてほしいと頼まれた書類に目を通す。当主でなければ決済出来ない書類が残されていた。フレディも十分すぎるほどにやっているが、王家や貴族家を相手にしたものは手を出したがらない。まだまだ当主の座を引くわけにはいかないようだ。

「よ、説教は済んだのか?」

 粗方の目処が付いた頃、ヴィムが現れた。以前は無音だった訪れも気配を隠しきれなくなっていた。

「ああ」
「酷い剣幕だったなぁ、あの二人。こんだけ絞られたの、久しぶりじゃねぇか」
「ああ」

 あれはアンゼルが生まれるずっと前、黙って避妊薬を飲ませていた時以来だろうか。あの時も随分叱られたが今回は前よりも静かだがその分深かったように感じた。

「ティオもスージーも心配性だよなぁ。あの嫁がそんな柔なわけないのに」

 けなしているように聞こえるが、ヴィムなりの賛辞だった。最初は適正なしと言っていたヴィムだが、今では気に入っているらしく、なにかとちょっかいを出しては怒らせている。跳ねっ返りの女はうるさいと言いながらも、こいつが目をかける女はそんな奴ばかりだった。執務机に腰を掛けてこちらを見下ろしてくる頬は前よりも痩せて見えた。

「嫁に、娘を王都に呼べと言われた」
「そうか」
「俺がどうにかなっても面倒見てくれるんだと。お優しいこって」

 言い方は皮肉めいているが目には笑みが見えた。二年前にヴィムを庇って死んだ男は孤児で、我が家の使用人だった妻は出産時に亡くなっている。身寄りがなく孤児院に預けるかとの話になった時、ヴィムが引き取ると言った。珍しいことをするなと思ったが、こうなるとそれもよかったのかもしれない。子がいると張り合いが出る。生に執着しない男だが子に少しでも執着してくれたらいい。

「調子はどうだ?」
「あ~まぁまぁだな」

 軽く返されたが嘘ではないが本当でもないだろう。以前に比べて確実に動きが鈍い。誤魔化すなとの意を込めて睨むと大きく息を吐いた。

「はぁ……隠しても仕方ないか」
「誤魔化すな。その害は理解しているのだろう?」
「まぁな」

 肩を竦めているが、影の長として部下にうるさいほどそう言い続けてきたのはこいつだ。間違った情報は予想外に事態を招き、任務の遂行を難しくする。影の任務は失敗すれば命取り、下手をすれば家も巻き込んで政争の種にもなりかねない。そのため部下には少しの不調や懸念も正直に報告させるのを徹底している。

「左側が鈍いな。左耳は殆ど聞こえん。目もだ。掠れている」
「進行は?」
「今のところはあまり感じねぇが、徐々に悪化するんだろうなぁ。内臓も多少やられている。もう酒は呑めん」
「そうか」

 酒、それも珍しい変わった味の酒―例えば蛇や薬草を漬け込んだ酒―を探して飲むのが唯一の楽しみだと言っていただけに残念だろう。

「飲むなよ。お前はゾルガーのものだ。一日でも長く生きてその力をよこせ」
「わかってるって。お互い難儀な人生だな。ま、悪くねぇけど」

 俺もヴィムもゾルガーのための道具で、死ぬまで役目を負うこと、死すらもゾルガーのためになることを求められる。そのことに異論はない。それがなければ俺は無為に日々を過ごして生を終えていただろう。

「ヴィム、頼みがある」

 以前から考えていた懸念。これからも家を、あれと子どもらを守るために必要だとの思いは日に日に増している。もし、と……万が一の時を思うと、不快さに苛立ちを感じるようになった。よろしくない傾向だ。

「なんだ?」
「暗示を掛けろ」

 そう命じると一種に目を大きくした。左の開きが悪い。言う通りだったか。

「暗示ねぇ……」

 口の端を上げて見下ろす表情には好奇が満ちていた。

「ははっ、何のためだ?」

 尋ねられたがどう答えていいのか言葉が見つからない。ただ……

「あ~嫁さんが出産で死ぬかもしれないと、怖くなったか」

 面白くないことを言う。ニヤニヤしているのが癪に障る。

「ザーラも産後の肥立ちが悪いし、この前どっかの伯爵家の若夫人も死んだばかりだったな。経過に問題がなく、達者な者でも出産で急に死ぬこともある。それが怖いか?」

 怖い、か……そんな感情は長い間感じたことがなかったからどんなものなのかも覚えていない。だが、当たらずも遠からずなのだろう。あれがいなくなると思うと腹の底から嫌なものが湧き上がってくる。

「……わからない」
「わからない、ねぇ……暗示で恐怖心なんか感じたことなかったもんな。ま、ようやくお前さんにも人間らしさが戻ってきたってことか。いや~この様子なら俺が死んだら泣いてくれるかもしれねぇな。うわ、俺が死んだら見えねぇじゃねぇか」

 残念だと言って悔しがっているが、そんなに簡単に死ぬ気はないだろうに。付き合いが長くゾルガーにあっては対ともいえる相手だが、死んだからといって泣くとは思えないが。第一、感情など不要だと言っていたのはお前だろうに。

「ははっ、お前さんにも大事なものが出来たか」

 大事なもの……そうかもしれない。あれと子を失う未来を思うと醜悪ななにかが腹の底に溜まっていくような感じがする。

「……そうかもしれん」

 口から出たのは可能性を示唆するものだったが、そんな生易しいものではない。

「だが、それは弱点になるのだろう? だったら早いうちに芽を摘んでおきたい」

 あれが俺の弱点だと認めざるを得ない。あり得ないはずなのに、いつの間にか情が移っていると認めざるを得ない。

「ダメだ」

 肯定するだろうと思ったのに、返って来たのは否定するものだった。何故だ? 心を乱すものを排除するのはお前の役目だろう。役目を放棄するのかと見上げた。そこには見たこともない表情をしたヴィムがいた。

「あ~まぁ、悲しんどけ?」
「悲しむ? 何故だ?」
「大事な者を失って泣いてみろ。絶望して怒りや己の不甲斐なさに身を任せるんだよ」

 おかしなことを言い出した。怒りに身を任せた先に何がある? 産褥死や病死、不慮の事故なら向ける先はない。相手がいれば徹底的に報復するだけだが、そうなって国が乱れるのでは意味がないだろう。そうなった時、歯止めが利くか自分でもわからない。

「国を乱したらどうする?」
「そうなる前に止めてやるよ」
「止められるのか?」

 今のヴィムでは俺を止められないだろう。

「とりあえず嫁さんの出産に限れば何とかなるだろう。ゲルトにも手伝わせる」

 なるほど、ゲルトを使うか。二人がかりなら何とかなるだろうな。

「大切なら思いっきり嘆き悲しんでやれ。それは嫁への手向けにもなる」

 それになんの意味がある。嘆き悲しんだとしてあれが生き返るわけでもないのに。

「悲しめるのはそれだけ大事だからだ。強く嘆くほどに想う相手に出会えたのは、それだけで奇跡なんだよ」

 これは親父が言っていたことだけどな、と付け加えながら机から降りた。

「まぁったく、失うのが怖ぇくせに危険な目に合わせるんだからなぁ」
「あれはそんなに弱くない」
「まぁ、大人しく守られてくれる女じゃねぇけどな。それだけ信用しているんだろうけど……」

 そう言うと俺を見下ろした。何か言いたそうにも見えるがなんだ?

「言いたいことがあるならはっきり言え」
「いや、そうやって迷ってるお前を見ていると……」
「なんだ?」
「面白れぇなぁと思って」

 何が言いたい? 馬鹿にしているのか?

「ははっ、心配すんな。まずいと思ったら手を打つ。それまではお前は自分の感情に振り回されていろ」

 睨みつけたら一層楽しそうに笑みを深めた。揶揄っているのか? 

「死んだら娘を頼む。それと、俺の骨はあいつの隣に埋めてくれ」

 話は終わりだと言わんばかりに背を向けた。まだ終わっていないと言おうとしたが投げられた言葉に遮られた。

「まだ想うのか?」

 その問いには答えず、長くゾルガーの裏を支配した男は右手を振りながら扉から出ていった。




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