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第三部
新しい家族
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朝晩の冷え込みが緩み、日差しは力を取り戻して世界を温く照らしていた。春の訪れを確信感じられるようになった初春、私は生まれて初めての経験を一つ増やした。
「元気なお子です。侯爵様の跡を継がれる男児でいらっしゃいます!」
産婆の興奮に満ちた声が廊下から漏れ聞こえる。たった今大仕事を終え、長く続いた痛みが終わった喜びを噛みしめる。まだ後産はあるけれど、今は無事に子が生まれたことにほっとしたわ。男児だったのね。最初は女の子がいいなぁなんて勝手に思っていたけれど、無事に生まれてくれたのならそれで十分だわ。
近くでは出産のために雇った侍女がギルの子を湯につけて身を清めていた。赤子は湯に驚いたのかまだ泣いているわね。力強くて大きな声。男の子ならギルみたいになるかしら? あまり野性味は増してほしくないけれど、でも生命力が強い方が生き延びられるかしら?
「奥様、ご覧ください。とってもお美しいお子ですわ。きっと旦那様に似て美丈夫にお育ちになるでしょう」
湯あみを終えた子をタオルで巻いて侍女が私に見えるように子を抱いていた。髪はギルと同じ黒ね。瞳は……目を閉じているからわからないけれど、私たちどちらかの色だといいわ。そっと侍女が子を私の胸に乗せる。初乳は赤子が健康に育つためには欠かせないわ。侍女が子の唇に乳を近づけると、子はゆっくりした動きで咥えた。凄いわね、教えていないのにちゃんと知っているなんて。侍女の補助がなくなって子の重みを感じる。思ったよりも大きくて重いわ。こんなに大きなものがお腹にいて、産道を通って出てきたなんて……たった今経験したけれど信じられないわ。
「旦那様をお呼びしてもよろしいですか?」
別の侍女が控え目に尋ねてきた。聞けばさっきからずっと廊下の前を行ったり来たりしているらしい。ギルらしいわね。心配性なんだから。もう処置は終わったと言うので呼んでくるようにお願いすると、直ぐに姿を現したわ。戸の前にいたのね。陛下の御用には何度急かしても腰を上げないのに。
「ローズ……」
「ギル、男の子よ。ほら、髪の色はあなたの色だわ」
「あ、ああ……」
赤子が珍しいのか、ギルはじっと乳を吸う子を見つめている。どこか戸惑っているように見えるわ。男性は子が産まれないと父親になった実感が持てないらしいけれど、ギルもそうなのかしら。
「よく、頑張ったな」
「ええ。思ったよりも長くかかっちゃったわ」
産気付いたのは一昨日の夜中。今はお昼前だからあれから丸一日と半経っていた。一人目は時間がかかると言われていたけれど、本当に長かったわ。子もよく耐えてくれたわ。そっちの方が心配だったから今は安堵しかない。ギルが私の手を握った。
「心配した」
情けない表情で私を見下ろしてくる。男性の中には出産に動揺する人もいると聞くけれど、ギルはそうみたいね。過保護だから随分気を揉ませてしまったわね。顔が疲れている。あれから一睡もしていないのかもしれない。
「うん、心配かけてごめんね。でも、ありがとう。ギルが待っていてくれるから頑張れたわ」
「そうか」
「そうよ。ここでギルを一人残したら世界を滅ぼしかねないもの。不安で死んでなんかいられないわ」
「ははっ、そうだな」
力なく笑ったけれど、彼が自暴自棄になったら本当に国を滅ぼしかねないわ。現に今エーデルに対して、他国も巻き込んでダーミッシュを返すように迫っている。
「もう大丈夫よ。ちょっと時間はかかったけれど、お産自体は問題なかったから」
「ああ。安心した……」
子が目の前にいるのにギルったら私ばかり見ているわね。少しは子も気にかけてほしいのに。そうしている間に子が動かなくなった。お腹がいっぱいになったのか、疲れてしまったかしら?
「あらあら、寝ちゃいましたわね」
そう言ってギルと反対側から産婆が子を抱き上げた。少し口を開けて眠っている姿が可愛いわ。
「お父様、抱っこされますか?」
「へ?」
産婆の問いかけにギルが戸惑いの表情を浮かべた。なんだか情けない顔ね。彼に憧れている人が見たらどう思うかしら。
「い、いいのか?」
「もちろんでございますよ」
そう言いながら産婆が赤子を抱いてギルの方にやってきた。今度は子をじっと見つめているわ。
「さぁ」
「あ、ああ」
戸惑いながらも差し出された赤子を受け取った。手つきが覚束なくて産婆に色々指示されているわ。そんな姿は入隊したばかりの新兵みたいね。なんだかおかしい。
「お、思ったより、重いんだな……」
「ふふ、そうでしょう?」
お腹の上に乗せているのとは違うでしょうけれど、しっかり重さがあった。小さくても一人の人間なんだと感じさせる重さよね。
「すげぇな。こんなちっこくても、ちゃんと指も爪もあるんだ……」
「ギルも、産まれた時はこんなに小さかったんでしょうね」
髪の色が同じだし、きっとこんな感じだったんでしょうね。今度辺境伯様にお会いしたら聞いてみたいわ。
「名前、決めてくれた?」
「男ならアドネかヴォルフがいいかと思ったんだが……」
鷲か狼? 野性味がある名前ね。いえ、ギルらしいと言えばそうなんだけど……
「ふふ、いいんじゃない? どっちも強そうで」
「そ、そうか?」
「色々考えてくれたんでしょう?」
知っているわよ、王宮の書庫から名前の本を借りて読んでいたの。智将と言われるギルが考えた末に決めたのならちゃんと意味があるはず。
「じゃ……アドネでどうだ?」
「素敵ね。空を飛んでいきそうなくらい元気な子に育ってほしいわ」
ギルの子なら本当に飛んでいきそうよね。そんなことを思うと自ずと笑みが浮かんだ。ずっと強張っていたギルの顔にやっと笑みが戻った。
「元気なお子です。侯爵様の跡を継がれる男児でいらっしゃいます!」
産婆の興奮に満ちた声が廊下から漏れ聞こえる。たった今大仕事を終え、長く続いた痛みが終わった喜びを噛みしめる。まだ後産はあるけれど、今は無事に子が生まれたことにほっとしたわ。男児だったのね。最初は女の子がいいなぁなんて勝手に思っていたけれど、無事に生まれてくれたのならそれで十分だわ。
近くでは出産のために雇った侍女がギルの子を湯につけて身を清めていた。赤子は湯に驚いたのかまだ泣いているわね。力強くて大きな声。男の子ならギルみたいになるかしら? あまり野性味は増してほしくないけれど、でも生命力が強い方が生き延びられるかしら?
「奥様、ご覧ください。とってもお美しいお子ですわ。きっと旦那様に似て美丈夫にお育ちになるでしょう」
湯あみを終えた子をタオルで巻いて侍女が私に見えるように子を抱いていた。髪はギルと同じ黒ね。瞳は……目を閉じているからわからないけれど、私たちどちらかの色だといいわ。そっと侍女が子を私の胸に乗せる。初乳は赤子が健康に育つためには欠かせないわ。侍女が子の唇に乳を近づけると、子はゆっくりした動きで咥えた。凄いわね、教えていないのにちゃんと知っているなんて。侍女の補助がなくなって子の重みを感じる。思ったよりも大きくて重いわ。こんなに大きなものがお腹にいて、産道を通って出てきたなんて……たった今経験したけれど信じられないわ。
「旦那様をお呼びしてもよろしいですか?」
別の侍女が控え目に尋ねてきた。聞けばさっきからずっと廊下の前を行ったり来たりしているらしい。ギルらしいわね。心配性なんだから。もう処置は終わったと言うので呼んでくるようにお願いすると、直ぐに姿を現したわ。戸の前にいたのね。陛下の御用には何度急かしても腰を上げないのに。
「ローズ……」
「ギル、男の子よ。ほら、髪の色はあなたの色だわ」
「あ、ああ……」
赤子が珍しいのか、ギルはじっと乳を吸う子を見つめている。どこか戸惑っているように見えるわ。男性は子が産まれないと父親になった実感が持てないらしいけれど、ギルもそうなのかしら。
「よく、頑張ったな」
「ええ。思ったよりも長くかかっちゃったわ」
産気付いたのは一昨日の夜中。今はお昼前だからあれから丸一日と半経っていた。一人目は時間がかかると言われていたけれど、本当に長かったわ。子もよく耐えてくれたわ。そっちの方が心配だったから今は安堵しかない。ギルが私の手を握った。
「心配した」
情けない表情で私を見下ろしてくる。男性の中には出産に動揺する人もいると聞くけれど、ギルはそうみたいね。過保護だから随分気を揉ませてしまったわね。顔が疲れている。あれから一睡もしていないのかもしれない。
「うん、心配かけてごめんね。でも、ありがとう。ギルが待っていてくれるから頑張れたわ」
「そうか」
「そうよ。ここでギルを一人残したら世界を滅ぼしかねないもの。不安で死んでなんかいられないわ」
「ははっ、そうだな」
力なく笑ったけれど、彼が自暴自棄になったら本当に国を滅ぼしかねないわ。現に今エーデルに対して、他国も巻き込んでダーミッシュを返すように迫っている。
「もう大丈夫よ。ちょっと時間はかかったけれど、お産自体は問題なかったから」
「ああ。安心した……」
子が目の前にいるのにギルったら私ばかり見ているわね。少しは子も気にかけてほしいのに。そうしている間に子が動かなくなった。お腹がいっぱいになったのか、疲れてしまったかしら?
「あらあら、寝ちゃいましたわね」
そう言ってギルと反対側から産婆が子を抱き上げた。少し口を開けて眠っている姿が可愛いわ。
「お父様、抱っこされますか?」
「へ?」
産婆の問いかけにギルが戸惑いの表情を浮かべた。なんだか情けない顔ね。彼に憧れている人が見たらどう思うかしら。
「い、いいのか?」
「もちろんでございますよ」
そう言いながら産婆が赤子を抱いてギルの方にやってきた。今度は子をじっと見つめているわ。
「さぁ」
「あ、ああ」
戸惑いながらも差し出された赤子を受け取った。手つきが覚束なくて産婆に色々指示されているわ。そんな姿は入隊したばかりの新兵みたいね。なんだかおかしい。
「お、思ったより、重いんだな……」
「ふふ、そうでしょう?」
お腹の上に乗せているのとは違うでしょうけれど、しっかり重さがあった。小さくても一人の人間なんだと感じさせる重さよね。
「すげぇな。こんなちっこくても、ちゃんと指も爪もあるんだ……」
「ギルも、産まれた時はこんなに小さかったんでしょうね」
髪の色が同じだし、きっとこんな感じだったんでしょうね。今度辺境伯様にお会いしたら聞いてみたいわ。
「名前、決めてくれた?」
「男ならアドネかヴォルフがいいかと思ったんだが……」
鷲か狼? 野性味がある名前ね。いえ、ギルらしいと言えばそうなんだけど……
「ふふ、いいんじゃない? どっちも強そうで」
「そ、そうか?」
「色々考えてくれたんでしょう?」
知っているわよ、王宮の書庫から名前の本を借りて読んでいたの。智将と言われるギルが考えた末に決めたのならちゃんと意味があるはず。
「じゃ……アドネでどうだ?」
「素敵ね。空を飛んでいきそうなくらい元気な子に育ってほしいわ」
ギルの子なら本当に飛んでいきそうよね。そんなことを思うと自ずと笑みが浮かんだ。ずっと強張っていたギルの顔にやっと笑みが戻った。
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