37 / 168
三日目の朝
しおりを挟む
それから後のことは夢の中にいるような曖昧な世界に感じられた。レオさんは左肩に刀傷を受けていたけれど出血の割に傷は深くなく、傷の処置はギルベルト殿がしてくれた。戦場に長く身を置いていたためか、私なんかの何倍も手際よく綺麗に包帯を巻いていて、私がやったのは作り置きの化膿と痛みを止める薬を渡すことだけだった。
破落戸たちは偽護衛と野営していた一行を合わせて二十あまりで、ギルベルト殿とテレルさん、ロドリゴさんの弟子の若い男性が縄で縛って木に括りつけていた。テレルさんの話ではここには毎朝近くの町の自警団が巡回に来るそうで、彼らに引き渡すことになった。
夜明けまでにはまだ時間があるし、トランの街に着くのは夕方近くになるから少しでも眠るように言われた。レオさんは熱が出るかもしれないからと荷馬車に横になっている。その側に腰を下ろし、荷馬車の柵に背を預けた。息は穏やかだから今のところは大丈夫そうでホッとした。
破落戸らはギルベルト殿とテレルさんが見張ってくれると言う。彼らこそずっと馬上で、荷馬車に揺られている私たちのようにうとうとすることも出来ない。見張りだけなら私がと名乗り出たけれど、ギルベルト殿もテレルさんも鍛えているから問題ない、それに護衛がいないこの状況では警戒を怠れないからと言われてしまえば、そちら方面では何の才能もなかった私は何も言えなかった。
荷馬車の中は幌のお陰で真っ暗だった。まだ気が昂っているのか全く眠れそうにない。それは他の人も同じらしく、それでも明日のためにと身体を休めていた。いっそ薬で眠ってしまった方がいいかと思ったけれど、それだと緊急時に目が覚めない可能性もあるから使えなかった。
することがないと余計なことばかり考えてしまうのは人の性かしら。忘れていた戦場でのあれこれが思い出され、途方もない自己嫌悪が襲ってきた。役立たずだと、薬師のくせに血が苦手だなんて話にならないと、何度も何度も上官や先輩方から叱咤され、その度に必死になって耐えてきたわ。最後の頃には平気になったと思っていたのに……
心の底に澱のように溜まっていた弱い自分が顔を出し、未熟者だと嘲笑う……助けてと、死にたくないと懇願しながら死んで行った同胞が繰り返し現れて役立たずだと責め立てる……その度に膝を抱えて謝りながら夜を明かした日々。もう終わったことだと、過去のことだと思っていたのに……
結局、まんじりともしない間に夜が明けてしまったけれど、明るくなった世界にホッとした。あのまま暗がりの中にいたら心まで引き摺られてしまいそうだったから。無性にルチアに会いたくなった。あの春のお日様のような笑顔を見たらこの淀んだ心の中も少しは晴れてくれそうだから……今日は目的の街に着く。ルチアに近付いていると思うと少し気が楽になった。
ここにいるのは危険だからと、空が白む前に野営地を発った。破落戸が獣に襲われないかが気になったけれど、悪さをした彼らが悪いとギルベルト殿もテレルさんも一蹴した。確かにその通りだし、連れて行くわけにもいかない。運がよければ死なずに済むだろう、こっちは殺されるか奴隷に落とされたかもしれなかったんだと言われれば納得だった。出発すると気付いた彼らは何やら叫んでいたけれど、あれだけの元気があれば大丈夫そうね。
彼らにとって幸いなことに半刻もしないうちに巡回する自警団と鉢合わせたので、テレルさんが事情を話して回収を頼んでいた。自警団員同士顔見知りらしく話が早くて助かったわ。それから更に半刻ほど進んだところで朝食にしようとテレルさんが歩みを止めた。この近くには泉があり、旅人が休む場所なのだと言う。彼の言う通り、少し進んだ先に開けた場所があり、馬車を止めた跡があって近くには泉から流れて来たらしい小川があった。
「はぁ、飯が美味い」
「左様ですなぁ」
干し肉とその辺りで採った山菜や薬草を煮込んだスープにギルベルト殿が破顔し、ロドリゴさんが同調していた。目覚めてから一刻も過ぎると、何も感じなかったお腹も空腹を主張するのね。滋養にいい薬草が生えててよかったと思う。熱いほどのスープが内臓に染みわたって空腹と言葉に出来ない何かを満たしてくれた。
薬草を見つけた時、直ぐ近くにリーエの姿もあったのでテレルさんにレダさんが欲しがっていた薬草だと告げた。
「これが、婆ちゃんの……」
「根っこごと持って帰ってください。これで手の痛みと腫れは楽になると思います」
そう告げると彼は目尻を下げてお礼を言った。誰かさんと違って邪気のない笑みが新鮮に思えた。教えた通りに彼は近くに生えているリーエを掘り出して根元を縛り、馬の背にぶら下げていた。これだけあったらレダさんも暫くは楽になるわね。痺れ薬にはお世話になったからこれで少なからぬ恩を返せたと思う。
「ベルさんは優秀な薬師なんですね」
そう言ってテレルさんが和やかな笑みを見せてくれた。柔和な顔立ちのせいか癒される笑顔だと思う。背も高いし人当たりも柔らかいからきっともてるわね。
「いえ、私なんかまだまだです。いつか、レダさんのように街の人に頼りにされる薬師になりたいと思っていますが……」
本当にそんな風になれるのか、自信がなかった。血を見ただけでうろたえるなんて情けない……子どもの頃から苦手だったけれど、戦場に行けば、慣れれば克服出来ると思っていた。だけど、一層悪化してしまっている。そのことが情けない……
「大丈夫です。ベルさんなら立派な薬師になれますよ」
お世辞とわかっていてもテレルさんの気遣いが嬉しかった。空っぽになってしまった心に少しだけ温かい何かが加わった気がした。
「ありがとうございます。頑張りますね」
そう答えた言葉に嘘はなかったけれど、あったはずの自信はどこかに行ってしまって見つかりそうになかった。
破落戸たちは偽護衛と野営していた一行を合わせて二十あまりで、ギルベルト殿とテレルさん、ロドリゴさんの弟子の若い男性が縄で縛って木に括りつけていた。テレルさんの話ではここには毎朝近くの町の自警団が巡回に来るそうで、彼らに引き渡すことになった。
夜明けまでにはまだ時間があるし、トランの街に着くのは夕方近くになるから少しでも眠るように言われた。レオさんは熱が出るかもしれないからと荷馬車に横になっている。その側に腰を下ろし、荷馬車の柵に背を預けた。息は穏やかだから今のところは大丈夫そうでホッとした。
破落戸らはギルベルト殿とテレルさんが見張ってくれると言う。彼らこそずっと馬上で、荷馬車に揺られている私たちのようにうとうとすることも出来ない。見張りだけなら私がと名乗り出たけれど、ギルベルト殿もテレルさんも鍛えているから問題ない、それに護衛がいないこの状況では警戒を怠れないからと言われてしまえば、そちら方面では何の才能もなかった私は何も言えなかった。
荷馬車の中は幌のお陰で真っ暗だった。まだ気が昂っているのか全く眠れそうにない。それは他の人も同じらしく、それでも明日のためにと身体を休めていた。いっそ薬で眠ってしまった方がいいかと思ったけれど、それだと緊急時に目が覚めない可能性もあるから使えなかった。
することがないと余計なことばかり考えてしまうのは人の性かしら。忘れていた戦場でのあれこれが思い出され、途方もない自己嫌悪が襲ってきた。役立たずだと、薬師のくせに血が苦手だなんて話にならないと、何度も何度も上官や先輩方から叱咤され、その度に必死になって耐えてきたわ。最後の頃には平気になったと思っていたのに……
心の底に澱のように溜まっていた弱い自分が顔を出し、未熟者だと嘲笑う……助けてと、死にたくないと懇願しながら死んで行った同胞が繰り返し現れて役立たずだと責め立てる……その度に膝を抱えて謝りながら夜を明かした日々。もう終わったことだと、過去のことだと思っていたのに……
結局、まんじりともしない間に夜が明けてしまったけれど、明るくなった世界にホッとした。あのまま暗がりの中にいたら心まで引き摺られてしまいそうだったから。無性にルチアに会いたくなった。あの春のお日様のような笑顔を見たらこの淀んだ心の中も少しは晴れてくれそうだから……今日は目的の街に着く。ルチアに近付いていると思うと少し気が楽になった。
ここにいるのは危険だからと、空が白む前に野営地を発った。破落戸が獣に襲われないかが気になったけれど、悪さをした彼らが悪いとギルベルト殿もテレルさんも一蹴した。確かにその通りだし、連れて行くわけにもいかない。運がよければ死なずに済むだろう、こっちは殺されるか奴隷に落とされたかもしれなかったんだと言われれば納得だった。出発すると気付いた彼らは何やら叫んでいたけれど、あれだけの元気があれば大丈夫そうね。
彼らにとって幸いなことに半刻もしないうちに巡回する自警団と鉢合わせたので、テレルさんが事情を話して回収を頼んでいた。自警団員同士顔見知りらしく話が早くて助かったわ。それから更に半刻ほど進んだところで朝食にしようとテレルさんが歩みを止めた。この近くには泉があり、旅人が休む場所なのだと言う。彼の言う通り、少し進んだ先に開けた場所があり、馬車を止めた跡があって近くには泉から流れて来たらしい小川があった。
「はぁ、飯が美味い」
「左様ですなぁ」
干し肉とその辺りで採った山菜や薬草を煮込んだスープにギルベルト殿が破顔し、ロドリゴさんが同調していた。目覚めてから一刻も過ぎると、何も感じなかったお腹も空腹を主張するのね。滋養にいい薬草が生えててよかったと思う。熱いほどのスープが内臓に染みわたって空腹と言葉に出来ない何かを満たしてくれた。
薬草を見つけた時、直ぐ近くにリーエの姿もあったのでテレルさんにレダさんが欲しがっていた薬草だと告げた。
「これが、婆ちゃんの……」
「根っこごと持って帰ってください。これで手の痛みと腫れは楽になると思います」
そう告げると彼は目尻を下げてお礼を言った。誰かさんと違って邪気のない笑みが新鮮に思えた。教えた通りに彼は近くに生えているリーエを掘り出して根元を縛り、馬の背にぶら下げていた。これだけあったらレダさんも暫くは楽になるわね。痺れ薬にはお世話になったからこれで少なからぬ恩を返せたと思う。
「ベルさんは優秀な薬師なんですね」
そう言ってテレルさんが和やかな笑みを見せてくれた。柔和な顔立ちのせいか癒される笑顔だと思う。背も高いし人当たりも柔らかいからきっともてるわね。
「いえ、私なんかまだまだです。いつか、レダさんのように街の人に頼りにされる薬師になりたいと思っていますが……」
本当にそんな風になれるのか、自信がなかった。血を見ただけでうろたえるなんて情けない……子どもの頃から苦手だったけれど、戦場に行けば、慣れれば克服出来ると思っていた。だけど、一層悪化してしまっている。そのことが情けない……
「大丈夫です。ベルさんなら立派な薬師になれますよ」
お世辞とわかっていてもテレルさんの気遣いが嬉しかった。空っぽになってしまった心に少しだけ温かい何かが加わった気がした。
「ありがとうございます。頑張りますね」
そう答えた言葉に嘘はなかったけれど、あったはずの自信はどこかに行ってしまって見つかりそうになかった。
935
あなたにおすすめの小説
【短編】花婿殿に姻族でサプライズしようと隠れていたら「愛することはない」って聞いたんだが。可愛い妹はあげません!
月野槐樹
ファンタジー
妹の結婚式前にサプライズをしようと姻族みんなで隠れていたら、
花婿殿が、「君を愛することはない!」と宣言してしまった。
姻族全員大騒ぎとなった
冷遇王妃はときめかない
あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。
だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。
押し付けられた仕事、してもいいものでしょうか
章槻雅希
ファンタジー
以前書いた『押し付けられた仕事はいたしません』の別バージョンみたいな感じ。
仕事を押し付けようとする王太子に、婚約者の令嬢が周りの力を借りて抵抗する話。
会話は殆どない、地の文ばかり。
『小説家になろう』(以下、敬称略)・『アルファポリス』・『Pixiv』・自サイトに重複投稿。
【完結】慈愛の聖女様は、告げました。
BBやっこ
ファンタジー
1.契約を自分勝手に曲げた王子の誓いは、どうなるのでしょう?
2.非道を働いた者たちへ告げる聖女の言葉は?
3.私は誓い、祈りましょう。
ずっと修行を教えを受けたままに、慈愛を持って。
しかし。、誰のためのものなのでしょう?戸惑いも悲しみも成長の糧に。
後に、慈愛の聖女と言われる少女の羽化の時。
貴方のために
豆狸
ファンタジー
悔やんでいても仕方がありません。新米商人に失敗はつきものです。
後はどれだけ損をせずに、不良債権を切り捨てられるかなのです。
※子どもに関するセンシティブな内容があります。
【完結】悪女を押し付けられていた第一王女は、愛する公爵に処刑されて幸せを得る
甘海そら
恋愛
第一王女、メアリ・ブラントは悪女だった。
家族から、あらゆる悪事の責任を押し付けられればそうなった。
国王の政務の怠慢。
母と妹の浪費。
兄の女癖の悪さによる乱行。
王家の汚点の全てを押し付けられてきた。
そんな彼女はついに望むのだった。
「どうか死なせて」
応える者は確かにあった。
「メアリ・ブラント。貴様の罪、もはや死をもって以外あがなうことは出来んぞ」
幼年からの想い人であるキシオン・シュラネス。
公爵にして法務卿である彼に死を請われればメアリは笑みを浮かべる。
そして、3日後。
彼女は処刑された。
(完結)嘘つき聖女と呼ばれて
青空一夏
ファンタジー
私、アータムは夢のなかで女神様から祝福を受けたが妹のアスペンも受けたと言う。
両親はアスペンを聖女様だと決めつけて、私を無視した。
妹は私を引き立て役に使うと言い出し両親も賛成して……
ゆるふわ設定ご都合主義です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる