出雲屋の客

笹目いく子

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市衛門

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 奉公に上がった泉屋で、佐和は内儀のごとく大切にされた。
 乳を与える以外は何をしていようと構わない。家族の行事には佐和も必ず同行するのだからと、上等の晴れ着も誂えてもらった。乳の出がいいように食事だろうが菓子だろうがたっぷりと用意してもらえる。市衛門も不自由はないかと何くれとなく気にかけてくれた。母親はお産で死にやすく、生まれた途端に乳がもらえず死にかける赤子は多い。したがって乳母奉公には常に高い需要があった。乳の確保は一刻を争うから、雇い主はなりふり構わず大枚をはたいて乳母を雇い入れるのである。その待遇の良さゆえに、我が子を殺めてまで奉公の口を掴もうとする女もいるとは聞き及んでいた。しかし、これ程までに大事にされるとは思わなかった。

「あのう、奉公人の身でこんなにしていただくわけには参りません」

 あまりの厚遇に空恐ろしささえ覚え、身の置き場のない心地で訴える度、

「こんなものはどうということはない。佐和さんはこの子の命の恩人なんですから」

 市衛門はそう言って取り合わず、目を細めて満月のようにまるまるとした香菜を見下ろすのだった。
 太介の言った通り、乳が出なければ何の取り柄もない女なのだ。一年勤め上げれば元の長屋暮らしに戻ると思えば、大切にされることに慣れてしまうのが怖かった。
 けれど、香菜の成長を見守る暮らしは、みねを失った苦痛を少しずつ癒してくれた。
 腰が座ってきた。喃語なんごをしゃべり出した。佐和に懐いて後を追うようになった。そのすべてが、見ることのなかったみねの成長に重なった。
 妻を失った喪失を埋めるように市衛門は娘を溺愛した。顔を引っかかれては「力が強くなった」と笑い、とと様、と言わせようと「とと様だ。とと、とと」としきりに囁き、香菜が正体不明の声を立てると「今、言いませんでしたか」と目を輝かせて尋ねてきた。
「言った……と思います」と佐和が笑いをこらえて応じると、生真面目そうな顔をくしゃりとさせて微笑んだ。
 ふと気がつくと、佐和が香菜をあやしている様子を、市衛門がやさしい眼差しで眺めていることがあった。穏やかな光を浮かべる双眸を見ると、胸の内に灯りが灯るように感じる。そして、その度にちくりと針で胸を刺されるような罪悪感を覚え、佐和は密かにうろたえるのだった。

***

 神無月の半ば、紅葉が舞う庭に入ってきた太介を見て、庭を向いた部屋にいた佐和はさっと頬を強張らせた。奉公に来てからというもの、太介の暮らしは煮崩れるようにますます荒んでいた。たまには日雇いの仕事に出向いていたのに、今では佐和の稼ぎを当てにして仕事を探すこともやめた。妻が恋しいと言っては店の裏庭から忍び込んできて、佐和に与えられた金品をむしり取って行く、それが太介の日課になっていた。庭に亭主の姿を見つける度、澄んだ池に汚物を投げ込まれるような嫌悪を覚えて堪らない。しかし太介に凄まれれば身が竦み、今日こそ追い返そうと思いながら、結局はどうしても拒むことが出来なかった。

「相変わらずいい身なりだな、ええ?器量だけはいいんだからよ、せいぜいうまくやって貢いでもらっておけよ。しかし金のありそうな店だ。しこたま溜め込んでんだろうなぁ」

 舐めるように家の中を見回す視線が、ふと怖気をもよおした。こういう顔をしている時の太介は、必ずよからぬことを企んでいると知っていた。

「……このガキを拐かして強請ゆすりゃあ、幾らでも金を出すんじゃねえか」

 佐和は悲鳴を飲み込み、眠っている香菜を懐に抱え込んだ。

「何考えてるの。よしてよ。あんた、死罪になりたいの」
「お縄になるようなへまはしねぇ。お前だって贅沢してぇだろう。金だけ受け取って返してやりゃいいのさ。仲間のかみさんに貰い乳をすりゃあ……」

 値踏みするように、太介は佐和の腕の中の赤ん坊を見ながら呟いた。

「やめて。やめてよ。どうかしてる」

 全身が細かくふるえ、冷や汗が胸元に流れている。掠れた声で懇願する妻の声など耳に入らぬように、太介は両手を伸ばしてくる。
 ひっ、と喉が音を立てた途端、太介の手が宙で止まった。

「……いや、ここじゃあまずいか」

 独りごちる亭主の姿が、得体の知れない、ぬめった目をした怪物のように思われる。思い立ったら葛藤も躊躇いもなく実行する、そういう男だ。人の心にあるはずの良心だとか自制心とかいう堰が、太介の中にはない。ただ下り道に身を任せ、心の赴くままにすべり落ちて行き、途中で妻だろうが誰だろうが轢き殺そうと頓着しないのだ。

「まぁ、今日はいいや。ところで小遣いをもらってんだろう。そら」

 目の前に悪びれもせずに差し出された手を見下ろし、佐和は頬を強張らせて沈黙した。すべすべとした白い手。大工仕事をしていたとは思えない綺麗な手だった。ふるえながら弱々しい反抗を見せる佐和を見て、太介は唇の端で笑い、ずかずかと部屋に上がった。鏡台の抽出しに手を突っ込み「おっ、金になりそうじゃねぇか」と嬉しげに銀のこうがいを取り出したのを見て、佐和は顔色を変えた。

「やめて。それはお返しするつもりなのよ。返して……」

 思わず片手で袂を掴もうとする佐和を押し退け、太介は無造作に笄を指の間に挟みながら縁側から飛び降りた。振り返りもせず鼻歌を歌いながら庭を遠ざかって行く。泣きたい気持ちで追いすがろうとした佐和は、不意に庭に立って気遣わしげにこちらを見ている市衛門に気づいた。
 さっと血の気が引いた後、かあっと耳朶が熱くなった。会話を聞かれる距離ではなかったが、こうがいを奪われたのを見られただろうか。羞恥と惨めさが押し寄せて、このまま消えてしまいたくなる。何も言わずに市衛門が去る気配を聞きながらも、顔を上げることが出来なかった。そうしてただ蹲ったまま、佐和は木枯らしに散る落葉の乾いた音をいつまでも聞いていた。

***
 
 奉公に上がって半年近くが経ち、新年を迎えた。店主一家は元旦に恵方詣に出掛けるのを恒例にしているのだそうだ。元旦の膳と屠蘇を店主と奉公人一同で取った後、市衛門と香菜、古参の女中のきよと佐和とで、今年の恵方にある神田明神へと向かうことになった。
 太介の姿はしばらく見ていない。拐かしなどという馬鹿げたことは諦めたのだろうか。そうだと思いたかった。市衛門や番頭に夫のことを相談するべきかとちらと考えたが、奉公を解かれるかもしれないと思うとつい二の足を踏んだ。泉屋で奉公する間くらい、あの亭主の存在を忘れていたい。太介もそこまで愚かではないはずだ。自分を卑怯だと蔑みながらも、そればかりが心を占めていた。
 部屋で晴れ着を身につけ仕度をしていると、市衛門が訪ねてきた。

「新年の祝儀を用意してあったので、どうぞ」

 そう言って桐の小箱を差し出した。佐和は戸惑いながら恐る恐る箱を受け取り、蓋を開けてみて息を飲んだ。珊瑚玉をあしらった銀の簪がつやつやと輝いている。銀で桃の花の意匠が削り出されてあり、花びらに珊瑚玉が幾つもあしらわれた見事なものだ。小ぶりな玉だが鮮やかな血赤色をしていて、蕩けるような艶があった。

「奉公人には新年に着物と祝儀を用意するのに、断ったでしょう。代わりです」
「……い、いただけません。私なぞに、こんな」

 佐和は青ざめて箱を押し戻した。もう晴れ着は仕立ててもらっていたし、他の金品は太介に取り上げられた。この上こんなに高価なものを受け取っていいわけがない。

「先日いただいた笄も手放してしまいました。ご厚意を無駄にしてしまいました。その上このようなものをいただくわけには参りません。本当に、申し訳ございません。弁償いたしますので、どうかお許し下さい」

 しどろもどろで喘ぐように言うと、ああ、と市衛門がかすかに目を翳らせた。

「あれは差し上げたのだし、弁償など必要ありません。その着物に簪なしではおさまりが悪いでしょう。どうぞ、遠慮なく」

 市衛門は穏やかにそう言うと、返事も聞かずに去って行った。ぼうっと小箱を手にしたまま、佐和は浅く喘いで立ち尽くしていた。
 去年市衛門が誂えてくれた晴れ着は、小納戸色の江戸褄模様に、裾には鮮やかな青のぼかしの上に桃花と流水が描かれた華やかなもので、桃花の意匠の珊瑚の簪を合わせると、落ち着きがありながらもあでやかだった。市衛門の見立ての確かさに感嘆しながら、過分な厚意を受け入れてしまう自分のずるさを思わずにはいられなかった。
 髪に珊瑚の簪を挿して現れた佐和を見た市衛門の目が、はにかむように、さっと明るく微笑むのを感じると、泣きたくなるように胸がふるえた。
 夏になったらここを出て行く。太介との暮らしに戻るのだ。だから、今だけ。今だけ幸福に感じてもいいだろうか。
 市衛門の広い背中を追って歩きながら、そう思っていた。
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