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たつ坊(一)
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卯月のある日、店仕舞いをした後台所で夕餉の仕度をしていた佐和は、水甕に水を足そうと外に出てふと足を止めた。
台所の勝手口の外には猫の額ほどの裏庭があり、そこを出ると長屋の並ぶ裏通りと井戸端がある。夕日が濃い影を落とすその路地の隅で、見慣れぬ少年が一人しゃがみ込んで猫と戯れていた。
七つかそこらであろうか。上を向いた愛嬌のある鼻に、ふっくらとした頬をした子供だ。子供らがどぶ板を鳴らして遊ぶ景色は見慣れているが、今の時分であれば皆家で夕餉を食べているはずだった。
「……あんた、どこの子? 一人でどうしたの。もう暗くなるのに、家に帰らなくていいの?」
手桶を片手に持って顔を覗き込むと、子供は丸っこい目を瞬かせ、弱ったように俯いた。
「何だい、どうかしたかい」
染が庭先から顔を覗かせた。その途端子供が立ち上がり、染をじいっと見上げて頬を赤らめた。
「たつ坊じゃないか」と一瞬目を見張った染は、
「また戻ってきちまったのかい。しようがないねぇ。そら、入りな」
とかすかに苦笑いを浮かべたのだった。
七つになるたつ坊は、二年前の暮れに通旅籠町で迷子になっていたそうだ。二親の名は辛うじて諳んじていたものの在所も言えず、迷子札も持っておらず、結局町方の要請で染が一時預かった。その後、橘町で扇子店『千寿』を営む店主の宗三郎と内儀のきくに貰われたのだった。
しかし半年ほど経った頃、賭博に入れ込んだ番頭が店の財産を持ち逃げして一気に店が傾いた。間を置かずして借金の回収にやくざ者が現れ、店や家の中の金目の物から家具までを根こそぎ奪い取って行くに至り、夫婦はたつ坊を巻き込むまいと町方へ返すことに決めたらしい。子を返すのであれば養育費の三両も返却しなくてはならない。夫婦は必死で三両をかき集め、どうにかたつ坊を家から出したのだった。
たつ坊は夫婦に懐いていて、町方へ返された時は半狂乱で泣いて暴れた。染が再び預かってしばらくして、紺屋町の染物屋『たでや』の亀之助とたき夫婦のところへ貰われて行ったが、千寿の親を忘れられず三月と経たずに家を出て、染の所へ戻ってしまった。連れ戻してもしばらくすると飛び出してしまう。仕方なく養子縁組を解消し、両国で八百屋を営む吉五郎・みよ夫婦に預けてみたが、やはり飛び出してきてしまったそうだ。
夕餉の後、茶の間で佐和の淹れた茶を飲みながら、染がほっと息を吐いた。
「困ったねぇ」
夕餉を食べたたつ坊は、よほど疲れていたらしく、米粒を頬にくっつけたままうつらうつらと船を漕ぎはじめた。佐和が二階の寝間で寝かしつけてやると、いとも簡単にこてんと寝入ってしまった。わがままも言わず、大人しい子だ。自分の立場を弁えているかのような、七つらしからぬ影の薄さを感じさせるところがあった。それでも千寿の夫婦を忘れられず、預け先から飛び出してくる必死な気持ちが痛ましかった。
「……最初の家に戻るわけには、いきませんか」
「自分たちの口を糊するのにも汲々としているようじゃ、お奉行所のお許しが下るまいよ。二人は十軒町の長屋に移って扇子師をしているそうだが、借財が出来ちまったらしい。借金持ちの所に子供をやるなんざ、ますます無理な話だよ」
借財はどれくらい、と尋ねてみると、
「十両と少し」
という答えが返ったので佐和は嘆息した。当初は数十両の借財があったというから、血の滲むような努力でここまで減らしたのだろう。それでも十両の借金は、長屋暮らしの職人がおいそれと返すことの出来る額ではない。
夫婦は身を切る思いでたつ坊を返したらしく、たつ坊が貰われた先にきくがこっそり様子を見にくることもあったという。気付いたたつ坊が、連れて帰ってくれと泣いて後を追ったことも一度や二度ではない。
「それじゃあたつ坊はいつまでたってもあんた方を忘れられんだろう。かえって酷っていうもんだ。あんた方だって辛かろう。お互いのためにならないよ」
町役人が見かねてそう諭したら、きくは声もなく項垂れたそうだった。
翌朝、知らせを受けた町名主の馬込が渋い顔をして店を訪った。
「いっそ、よほど遠いところに貰い人を探して、戻れんようにするのがいいかねぇ。川崎のあたりの村からも、子供を欲しがっている百姓が申し入れに来ていただろう。それならさすがにたつ坊も未練を断てるんじゃないかね」
「そんな……それはあまりにむごすぎます」
佐和は思わず声を上げた。
「しかし、これじゃあいつまでたっても同じことの繰り返し。迷子や捨て子は他にもいるんだから、たつ坊ばかりに手を掛けてはおれん。親が選べんのは何もたつ坊だけじゃなかろう。皆折り合いをつけて生きて行くもんだ」
──それは、そうだ。理屈は分かる。でもたつ坊には慕っている夫婦がいて、彼らもたつ坊に深い情をかけているではないか。佐和はそう反駁しようとして、しかし何も言えずに俯いた。
染は煙管の吸い口を噛み、苦い顔で黙っていた。
重苦しい気持ちのまま夕餉の仕度をし、勝手口からたつ坊を呼ぼうと顔を出した佐和は、猫と戯れいてる少年を見て声を飲み込んだ。しゃがみ込んだたつ坊は、湯屋へ出かける親子や、長屋へと帰って行く子供らをそっと目で追っている。寂しげな、頼りない小さな姿を見ていると、遣る瀬無いものが胸に込み上げた。
戻りたいという切ない気持ちが、我がことのように感じられる。
いっそ忘れられるなら、どんなにかいいだろう。
ぽつねんと膝を抱えた少年を見詰めながら、佐和はしばしの間声を掛けることを躊躇った。
台所の勝手口の外には猫の額ほどの裏庭があり、そこを出ると長屋の並ぶ裏通りと井戸端がある。夕日が濃い影を落とすその路地の隅で、見慣れぬ少年が一人しゃがみ込んで猫と戯れていた。
七つかそこらであろうか。上を向いた愛嬌のある鼻に、ふっくらとした頬をした子供だ。子供らがどぶ板を鳴らして遊ぶ景色は見慣れているが、今の時分であれば皆家で夕餉を食べているはずだった。
「……あんた、どこの子? 一人でどうしたの。もう暗くなるのに、家に帰らなくていいの?」
手桶を片手に持って顔を覗き込むと、子供は丸っこい目を瞬かせ、弱ったように俯いた。
「何だい、どうかしたかい」
染が庭先から顔を覗かせた。その途端子供が立ち上がり、染をじいっと見上げて頬を赤らめた。
「たつ坊じゃないか」と一瞬目を見張った染は、
「また戻ってきちまったのかい。しようがないねぇ。そら、入りな」
とかすかに苦笑いを浮かべたのだった。
七つになるたつ坊は、二年前の暮れに通旅籠町で迷子になっていたそうだ。二親の名は辛うじて諳んじていたものの在所も言えず、迷子札も持っておらず、結局町方の要請で染が一時預かった。その後、橘町で扇子店『千寿』を営む店主の宗三郎と内儀のきくに貰われたのだった。
しかし半年ほど経った頃、賭博に入れ込んだ番頭が店の財産を持ち逃げして一気に店が傾いた。間を置かずして借金の回収にやくざ者が現れ、店や家の中の金目の物から家具までを根こそぎ奪い取って行くに至り、夫婦はたつ坊を巻き込むまいと町方へ返すことに決めたらしい。子を返すのであれば養育費の三両も返却しなくてはならない。夫婦は必死で三両をかき集め、どうにかたつ坊を家から出したのだった。
たつ坊は夫婦に懐いていて、町方へ返された時は半狂乱で泣いて暴れた。染が再び預かってしばらくして、紺屋町の染物屋『たでや』の亀之助とたき夫婦のところへ貰われて行ったが、千寿の親を忘れられず三月と経たずに家を出て、染の所へ戻ってしまった。連れ戻してもしばらくすると飛び出してしまう。仕方なく養子縁組を解消し、両国で八百屋を営む吉五郎・みよ夫婦に預けてみたが、やはり飛び出してきてしまったそうだ。
夕餉の後、茶の間で佐和の淹れた茶を飲みながら、染がほっと息を吐いた。
「困ったねぇ」
夕餉を食べたたつ坊は、よほど疲れていたらしく、米粒を頬にくっつけたままうつらうつらと船を漕ぎはじめた。佐和が二階の寝間で寝かしつけてやると、いとも簡単にこてんと寝入ってしまった。わがままも言わず、大人しい子だ。自分の立場を弁えているかのような、七つらしからぬ影の薄さを感じさせるところがあった。それでも千寿の夫婦を忘れられず、預け先から飛び出してくる必死な気持ちが痛ましかった。
「……最初の家に戻るわけには、いきませんか」
「自分たちの口を糊するのにも汲々としているようじゃ、お奉行所のお許しが下るまいよ。二人は十軒町の長屋に移って扇子師をしているそうだが、借財が出来ちまったらしい。借金持ちの所に子供をやるなんざ、ますます無理な話だよ」
借財はどれくらい、と尋ねてみると、
「十両と少し」
という答えが返ったので佐和は嘆息した。当初は数十両の借財があったというから、血の滲むような努力でここまで減らしたのだろう。それでも十両の借金は、長屋暮らしの職人がおいそれと返すことの出来る額ではない。
夫婦は身を切る思いでたつ坊を返したらしく、たつ坊が貰われた先にきくがこっそり様子を見にくることもあったという。気付いたたつ坊が、連れて帰ってくれと泣いて後を追ったことも一度や二度ではない。
「それじゃあたつ坊はいつまでたってもあんた方を忘れられんだろう。かえって酷っていうもんだ。あんた方だって辛かろう。お互いのためにならないよ」
町役人が見かねてそう諭したら、きくは声もなく項垂れたそうだった。
翌朝、知らせを受けた町名主の馬込が渋い顔をして店を訪った。
「いっそ、よほど遠いところに貰い人を探して、戻れんようにするのがいいかねぇ。川崎のあたりの村からも、子供を欲しがっている百姓が申し入れに来ていただろう。それならさすがにたつ坊も未練を断てるんじゃないかね」
「そんな……それはあまりにむごすぎます」
佐和は思わず声を上げた。
「しかし、これじゃあいつまでたっても同じことの繰り返し。迷子や捨て子は他にもいるんだから、たつ坊ばかりに手を掛けてはおれん。親が選べんのは何もたつ坊だけじゃなかろう。皆折り合いをつけて生きて行くもんだ」
──それは、そうだ。理屈は分かる。でもたつ坊には慕っている夫婦がいて、彼らもたつ坊に深い情をかけているではないか。佐和はそう反駁しようとして、しかし何も言えずに俯いた。
染は煙管の吸い口を噛み、苦い顔で黙っていた。
重苦しい気持ちのまま夕餉の仕度をし、勝手口からたつ坊を呼ぼうと顔を出した佐和は、猫と戯れいてる少年を見て声を飲み込んだ。しゃがみ込んだたつ坊は、湯屋へ出かける親子や、長屋へと帰って行く子供らをそっと目で追っている。寂しげな、頼りない小さな姿を見ていると、遣る瀬無いものが胸に込み上げた。
戻りたいという切ない気持ちが、我がことのように感じられる。
いっそ忘れられるなら、どんなにかいいだろう。
ぽつねんと膝を抱えた少年を見詰めながら、佐和はしばしの間声を掛けることを躊躇った。
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