出雲屋の客

笹目いく子

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過客

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 うう、という自分の唸り声で目が覚めた。
 体が燃えるように熱く、剣山を全身に突き立てられているかのような悪寒が肌を刺している。

……乳を絞らなかったからだ。

 ひどい熱で朦朧としていた。痛い、と呻くと涙が目尻を伝った。乳房がかちかちになって板のようだ。唇は干からび、からからの口が粘っこい。思考を保てないほどの高熱に、体が軋んで悲鳴を上げている。けれど佐和は黴臭い畳の上に仰臥したまま、ぼんやりと喘いでいた。もう、何もかもどうでもいい心地がした。
 その途端、誰かに容赦なく乳房を絞り上げられ悲鳴を上げた。

「我慢しな。膿が出てるよ。なんとかしないと」

 一瞬、苦痛を忘れて耳を疑った。
 行灯の灯りに目を凝らすと、出雲屋の染が汗だくになって乳房を押していた。

「……染、さん」
「こうなっていやしないかと思ったんだけど」

 もうちょっと早くに来るんだった、と言いながらぎゅうぎゅうと絞る。
 耳鳴りのするような痛みに意識が霞む。泣き叫ぶ気力も失せてぼうっと染を見上げていると、急に苦いものが喉を塞いだ。自分のような女などを、なぜこうも必死に、汗だくになって看病してくれるのだろうか。佐和はすすり泣きながら、相すみません、と囁いていた。

「謝らなくたっていいよ」染がかすかに笑った。

 すみません、すみません、と佐和は誰に詫びているのか分からないまま繰り返し、ただ涙を流しつづけた。

「……こんなもんかね。ああ疲れた。葛根を持ってきたからそれを飲んで、よく眠ったら大丈夫だろう」
「ありがとう、ございます」

 しばらく経つと、大分痛みが遠のいていた。子供のように無心に呟く佐和に、染が、ふ、と笑った。

「まったくねぇ、何が悲しくて汗だくになって女の胸なぞ絞っているんだろうね、あたしは」

 自分で言っていっそうおかしくなったのか、泡のように笑い声を立てる。その様子を見上げていると、佐和もつられて肩を揺らしていた。二度と笑うことなどない気がしていたのに。人というのは、存外ふてぶてしく出来ているものらしい。笑いの余韻を浮かべた声で、やがて染がついでのように言った。

「……あんた、もう乳母奉公する気がないんなら、あたしの店を手伝うかい」

 聞き間違えたかと息を詰め、ぎこちなく見上げると、染は小鍋から何かを手元の湯飲みに注いでいる。土の匂いのような独特の香りは葛根湯らしかった。

「身の振り方が決まるまででも構わないよ。実家には戻れないんだろ?」
「……私なんて、ご迷惑でしょう」

 小声で言うと、「何でさ、ちっとも」と染が瞬きした。

「そうでなけりゃ、泉屋さんに戻ったっていい。あんたを案じて旦那さんが店に見えたよ。旦那さんは、あんたのことを待っていなさるだろう」

 佐和は訝しげに首を傾げた。

「泉屋さんにはもう新しい乳母がいます。私なぞ必要ないでしょう」

 染は切れ長の目をしげしげ見開いて佐和を見下ろすと、ふふ、と含み笑いをした。それから「さ、こいつを飲んでしまいなよ」と湯飲みを差し出したのだった。

***

 凍えるような冬を過ぎて、温んだ風に乗って鮮やかな鶯のさえずりが耳に届くようになっていた。
 出雲屋の二階に部屋をもらい、奉公人として働き始めて三月が経った。
 帳面つけだの顧客や町役人とのやり取りだのは経験のないことで、必死に仕事を覚える内に飛ぶように時が過ぎた。出雲屋は普通の口入屋とは趣きを異にしていて、乳母奉公や養子縁組の仲介を抜きん出て多く扱うところだ。町内に迷い子や捨て子が見つかると、町奉行所に届け出た後町役人に保護される。そして親が引き取りに来ないことを確認し、貰い人を探すこととなる。口入屋は商売柄その窓口となることも珍しくなく、時には保護された子を一時預かることもあった。
 養い親には町方から養育費三両が与えられるため、養育費目当てに無節操に子供を引き取り、ろくに世話もせず死なせる事件も時には起こる。そのため、町方の役人はもちろん、口入屋も夫婦の身元と暮らしぶりを慎重に検討した上で、引き取り手を決定するのだ。染は引き取り手の人となりを見る目が厳しく、任された縁組はたいてい上手く行くというので町方の信頼が厚かった。

「ひと一人の人生がかかってるんだ。いくら厳しくしたって足りないよ」と染は当然のように言った。

 出雲屋に奉公に上がってすぐに、泉屋から受け取った給金を返すため染から給金の二両を前借りし、長屋にあった家財道具や、太介が給金で誂えていた縮緬の羽織や銀製の煙管を売り払った。それに床下に隠してあったわずかな蓄えを足して、どうにか四両を泉屋の番頭に届けていた。まだ小遣いや笄のお金も返さなくてはならない。感傷に浸っている場合ではない。必死に働かなくては。そう思いながら、珊瑚の簪を手放すことだけは、どうしても出来ずにいた。
 出雲屋から数軒先の町屋の庭に、生垣から枝を伸ばす矢口桃やぐちももの木がある。その木の横を通り過ぎる度、肌がひりひりとして心が騒いだ。やがて枝に珊瑚朱色の蕾が餅玉のように鈴生りになる頃、佐和の乳は止まりかけていた。毎日少しずつ乳の張りが衰えていく。日々の忙しさに気を紛らわせて過ごしていても、熱を出さぬように乳を絞ることはやめるわけにはいかない。その度に、香菜の匂いと声、市衛門の眼差しが否応なしに心を過り、泉屋との距離が遠ざかるのを思い知らされる心地がした。
 紅の薄衣を重ねたような八重の花が咲いたある夜、春嵐が過ぎた。翌朝、血痕のように通りに散って泥にまみれた花弁を見た瞬間、もう取り返しはつかないのだと理解した。
 どうあがいても乳が止まってしまうように、時は二度と戻ることはないのだ。もう、手遅れなのだと、佐和は骨に沁みるようにして悟ったのだった。
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