出雲屋の客

笹目いく子

文字の大きさ
上 下
8 / 12

たつ坊(三)

しおりを挟む
 遅れて息を切らして現れた染は、たつ坊の顔を見て安堵に表情を緩めた。

「亀之助さん、よしてくださいよ。この通り何事も起きちゃいないようだし」
「いや、たつ坊を黙って連れ出すなんざとんでもねぇ。お世話になっているってぇのに、本当にお詫びのしようがございません」

 地面に額を擦り付ける亀之助の手が、鮮やかな藍色に染まっている。たきの細い両手と同じ藍色が、なぜか佐和の胸を刺した。

「だって、あたし……」

 涙目で言いかけるのを「よさねぇか」と亀之助が鋭く遮る。
 怯んだたきは、暫時口を噤むとのろのろと顔を上げ、

「……申し訳、ございませんでした」とか細く言った。

 先ほどまでの熱に浮かされたような目は力を失い、ただ迷子のような悲しみばかりが瞳を濡らしているようだった。

「……おたきさん」

 染がゆっくりとたきの前に膝をついた。ぎくりとして顔を上げたたきは、しかし頑なな表情で押し黙ったまま口を開こうとはしなかった。誰にも分かりはしない。誰にも分かるものかという孤独と諦めが、鎧のように顔を覆っているようだ。
 染は風呂敷の上に広げられた色とりどりの玩具を見下ろすと、目を和ませた。

「おや、ずいぶん色々持ってきたんですねぇ。あたしの子もよくこいつで遊んでたもんですよ」

 懐かしそうにでんでん太鼓を手に取る染に、佐和と夫婦が、え、と同時に息を飲んだ。
 染に子供……?染に家族がいるなど初耳だった。佐和は身内話を避けていたから、いきおい染の身内のことも尋ねたことがなかったのだが、離れて暮らしているのだろうか?それにしては、子どころか亭主が訪ねてきたことも、染が会いに行く様子もあった例がなかった。昨今は結婚してもお歯黒にする女こそ少なくなったが、眉を落とす人が大半だ。しかし染はどちらもしていない。だからてっきり独り身なのだとばかり思っていたのに。
 目を白黒させていると、でん、でん、と太鼓を鳴らしていた染がおもむろに口を開いた。

「おたきさん、ちょいと、聞いてもらってもいいですか。ーーあたしの身の上話なんぞ、人様にお話しするようなもんじゃなかろうとは思うんですけれどね。あたしの息子は三つの時にどこぞへ拐われちまいまして、以来六年の間行方知れずなんですよ」    

 一呼吸を置いて、たきと亀之助の身が強張った。ざわ、と温い風が境内の緑を騒がせて通り過ぎるのを、佐和は凝然と聞いた。

かどわかし……」

 みるみる青ざめ、たきが唇をふるわせながら喘ぐ。

「諦め切れずに一心不乱に探し続けていたんですけれどね。その内に亭主に愛想をつかされちまいました。いつまでそうして生きて行くつもりだと、ある時泣かれましたよ。そうやってあの子の幻を追いかけてどうするんだと。もう一人子供をつくって、幸せに生きてはならんのかと。そう言われて」

 染がかすかに微笑んだ。

「……亭主が情けないやら腹が立つやらで、結局子供がいなくなって三年目に離縁しちまいました。でもあたしは諦めの悪い女でしてね。見つかるまで探し続けるつもりでやってきたんですよ。……そうしている間に、迷っちまってる子や子を欲しがってる夫婦がどうにも気になってきちまって、こういう商売をするようになりましてね。お二人の子のことも諦めちゃいませんから、どうかあと少し待っていてくれませんか」

 だから、と佐和は息を詰めた。だから染は子を失った自分を気にかけてくれたのか。だから出雲屋は、迷い子と捨て子の家を探し、乳母を世話する、こういう店になったのか……。
 凪いだ海のように穏やかな染の顔を、たきが食い入るように凝視する。
 六年もの間に嫌というほど人に語り、語っては泣き、探し回っては悲嘆にくれる、そんな年月を繰り返した後の静謐が、染の佇まいに漂っているようだ。
 頑なな悲しみに張り詰めていたたきの目が、緩んでいた。駄々っ子のような表情は影を潜め、労るような思慮深い光が宿って見えた。 
 やがてたつ坊を寂しげに、けれども愛おしげ見詰めたきは、「すまなかったねぇ、たつ坊。本当にすまなかった」と胸に沁みるような声音で囁いた。

***

「あんた、よくたでやを思い出したね。おたきさんのことは名前くらいしか教えなかったのに」

 店に戻って遅い中食を取った後、染が感心したように言った。

「……あの紺屋さんは、実家のお得意先なんです。藍染生地で袋物を作ったりしていまして。私が実家住まいだった頃には亀之助さんは若旦那さんでいらして、お顔は存じ上げなかったのですが」

 躊躇いながら答えると、へぇ、と染が目を細くした。

「そういえば、あんたの家は小間物問屋だったね。……あんたの話が妙な風にご両親のお耳に入っていなきゃいいんだけど」

 思わず手で口を覆った。まるで思料していなかった。自分の噂が広がって、吉川の次女の夫が拐かしの罪で御用になったと、得意先や贔屓先に知れたらどうなるのか。
 姉は三年前に婿を取ったと風の噂で聞いた。迷惑がかかっていたらどうしよう。どう償ったらいいのだと手ががたがたふるえだした。

「……落ち着きなよ。そんな大事にはなりゃしない。ただ、話が耳に入ればご両親はさぞ心配なさるだろう。安心させて差し上げた方がいいんじゃないのかい」

 佐和は顔を歪めて染を見詰めた。いったい、どんな顔で店の敷居を跨げるだろう。塩を撒かれて追い返されても文句は言えない身なのだ。

「とても、合わせる顔がありません」

 喉にこみ上げるものを懸命に飲み下しながら囁くと、染はしばし黙り込んだ。

「……息子が行方知れずだって言っただろう」

 静かな声に佐和は耳をそばだてた。

「子供が三つの時に、皆で神田の神幸祭しんこうさいに出掛けたんだよ。気をつけていたつもりだったんだけど、油断していたんだろうよ。曳き物だの仮装だのを眺めていたら、人ごみで急に引っ張られて、子供の手が離れちまった。拐った男を亭主と必死に追いかけたけれど、間に合わなくてね」

 町方も懸命の捜索を行ったが、とうとう見つからずじまいだった、と染は続けた。

「離縁してしばらくは亭主を恨んだけどねぇ。あの人が所帯を持って、赤子を抱いて歩いている所を見かけてさ。幸せそうに笑っていたよ。よかったと思った。幸せそうでよかったって」

 低い、耳に心地いい声が部屋に沁みるように消えた。

「……その頃、この店で奉公をしていてね。店主の旦那さんはもう年で家族もなかったもんで、あたしが跡を継ぐことになったんだよ。馬込様には昔からお世話になっていて、お江戸のどこかで息子の年くらいの迷い子や、素性の知れない子供が見つかる度に、高札の写しだの町名主の廻状だのをあたしにも読ませて下さるんだよ。時には、街道筋からも気になる報せがあると伝えて下さってね」

 つい先刻、佐和が使いから戻ったことにも気づかずに、食い入るように書状に目を落としていた姿を思い出した。あれがそうだったのだろう。息災でいるのならば、九つになるだろう染の子。その姿を一心に思い描きながら、廻状に記された子供らの特徴とを重ね合わせていたのだろう。
 少しの沈黙の後、すっと息を吸うやわらかな音が耳に届いた。

「……顔を見せておやりよ。会いたい人に会えるってのは、当たり前のことじゃない。あんたも知っているだろう。ご両親はきっと、あんたのことを案じていなさるよ」
 
しおりを挟む

処理中です...