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思惑(一)
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盂蘭盆会が近付いていた。染曰く、盆と年の瀬は嫌な時期であるらしい。
「親が掛け取りの集金を払えなくて、捨て子が増えるんだよ」と顔をしかめる。
盆暮れになると商家は客のつけ払いの回収に奔走する。日々の暮らしにも汲々とする庶民にとっては頭の痛い時節だ。借金を払うことができず、やむなく子を手放す親も珍しくはないのだそうだ。
捨て子などない方がいいに決まっている。しかし、一日千秋の思いで養子を待ちわびる夫婦にとっては、捨て子や迷い子なくしては望みが叶えられないこともある。皮肉なものだ、と染は言う。
町名主の馬込がやってきたのは、うだるように暑いある日の午後のことだった。
「川崎宿から少し離れた村の百姓で、子を欲しがってる家があるんだよ。百姓といっても有徳人で不自由もない。どうだろう、来月訪ねてきてもらって人物を確かめて、たつ坊と引き合わせてみたら」
青ざめている佐和の隣で、染は請状に目を落としてじっと考え込んでいた。
「染さん、気持ちは分かるが、ここらが手の打ちどころじゃないかね。大きくなるに従って千寿のことも忘れるだろうよ。それがたつ坊のためだよ」
「……お会いしてみてからお返事をしましょう。それでもよろしいでしょうね」
染が平坦な口調で言うと、汗ばんだ顔に扇子で風を送っていた馬込は「もちろんだとも」と頷いた。
町名主が去った後、しんと静まり返った帳場から動くことが出来なかった。これが、いいのだろうか。これしかないのだろうか。帳簿に書き物をしている染を見ては言葉を探していると、内所の唐紙を開け閉てしてたつ坊が出てきた。
「……たつ坊」
くりくりとした丸い目を瞬かせ、少年は染と佐和を交互に見ると口を開いた。
「おいら、そこに行く」
えっ、と佐和は声を上げた。
「どこへ。川崎宿?」
ぎょっとして身を乗り出すと、ん、とたつ坊が頷いた。
「行く。いいよ、そこに行く」
「だって、そんな……」
たつ坊の瞳が見たこともないような静けさを浮かべているのを見て、凍えるように胸が冷えた。
諦めたのだ、と直感した。この子は、千寿の夫婦の元へ戻ることを諦めた……。
「お世話んなりました」
ぺこりと頭を下げたかと思うと、たつ坊はとことこと内所を通り、猫の元へと戻って行った。浅く息をしながら言葉もなくそれを見送った佐和は、すがるように染を振り返った。けれども、染は茫漠とした目で頬杖をついたまま、じっと思料に沈んでいた。
夕餉の買出しに出かける、と染に言った時には腹を決めていた。仕度をするふりをして二階へ上がり、小引き出しの奥にしまってあった桐の小箱を取り出した。小窓の薄明かりの中でそうっと蓋を持ち上げ、燃えるような血赤の珊瑚玉と銀の輝きを目に焼き付ける。そして蓋を閉じて胸元に入れると、上に両手を重ねてぎゅっと目を閉じた。
階段を降り、帳場にいる染に「行って参ります」と何気なく言って下駄に足を入れる。
「お待ち」
染の低い声が肩を掴んだ。振り返ると、切れ長の目が見詰めているのでぎくりとする。
「あんた、どこへ行くつもりだい?」
「……買出しです」
無言で背筋を伸ばした染は、不意に唇を歪めた。
「嘘お言い。質屋だろう」
佐和は咄嗟に目を泳がせた。この簪は染に見せたことなどない。どうして、と心臓がはげしく鳴っている。
「……その懐に入ってるもんは何かの値打ちものだろう。あんた、時々眺めてるよね」
みるみる赤面して俯いた。こっそり取り出しては眺めているのを見られていたのだ。
「あんたの考えていることくらい分かるよ。大事なもんなんだろう? たつ坊のために質に入れたら後で後悔するんじゃないのかい」
「……するかも、しれません。でも、少しでも借財を減らせたら、何か変わるかも知れないと、思いまして」
十両にはとても足りない。だが、負担を減らしてやれたら商いが軌道に乗るかも知れない。川崎へ貰われる前に、借金をきれいに出来るかも分からないではないか。
保証はどこにもないけれど。これを質に入れたりしたら、もう市衛門には金輪際合わせる顔などないけれど。
「馬鹿だねぇ。またたつ坊みたいな子が現れたらどうするんだ。その度にあんたが借金を被る気かい?泉屋さんへもまだ返すものがあるんだろう。情に流されて身の丈に合わないことをするのは、誰のためにもならないよ」
ぽんぽんと投げて寄越す染の言葉に、悄然とする他になかった。染が正しいのは分かっている。それでも、と諦め切れずに言葉を探していると、小さな嘆息が聞こえた。
「……ちょっとこっちへおいで」
おもむろにそう言うと、染は立ち上がって内所へと入って行った。
「たつ坊、あんたも座りなさい」
戸惑いながら従うと、染は絵草紙を眺めていたたつ坊を自分の前に座らせた。
「たつ坊、よくお聞き。あんたが千寿のおとっつぁんとおっかさんの家に戻りたいのはよく分かってる。だが、おとっつぁんたちには借財があって、あんたを引き取ることが出来ない。分かるかい?」
「……ん」
とたつ坊がこっくり頷いた。
「おとっつぁんたちはあんたを取り戻そうと必死に働いているが、今のままでは間に合いそうにない。けれど、あんたが助けてやるんなら話は別だ」
染はぴしりと背筋を伸ばしたまま静かに続けた。
「商家に小僧奉公に出るとね、親にはお金が出るんだよ。それを渡してやればおっかさんたちは助かるだろう。あんたは奉公に出なきゃならないが、大きくなって偉くなれば家に出入りすることも出来る。千寿の商いが上手く行けば、奉公先にお金を返してあんたは家に戻ることも出来るかも知れない。だが奉公は辛いことも多いだろうし、上手く運ばなければ家には戻れない。それとも川崎宿へ行った方がいいか、どう思う」
佐和は度肝を抜かれて染を見詰めた。そんなことを考えていたのか。確かに小僧奉公に出れば親にお金が渡る。しかしたつ坊はまだ七つなのだ。小僧には幼すぎる……
たつ坊は膝に置いた両手に目を落として、懸命に何事かを思料していた。
「……それで、おとっつぁんとおっかさんは助かる?」
「ずいぶん助かるだろう」
「嬉しいかな」
「嬉しくはないかもね。あんたが身売りするようなもんだもの。でも、あたしは小僧をよく世話している店を知っているから頼んであげられる。いい人ばかりだからその点は心配いらないよ。……あんたが決めるんだよ。まだ七つだけれど、自分で決めなきゃならない。出来るかい?」
たつ坊は上を向いた鼻を真っ赤にして、しばらく考え込んだ。
「……やる。おいら奉公に行く」
やがて、きっぱりと言った。生気を取り戻したような明るい双眸を見下ろしながら、佐和は奥歯を噛み締めた。
「そうかい」
染は頷くと、よく分かったよ、と穏やかに言った。
その夜、たつ坊が床に就いた後、佐和は躊躇いながら染に尋ねた。
「染さん、たつ坊は小僧には幼すぎやしませんか」
「そうだね」と、麦湯を啜りながら染が当然のように相槌を打った。
「じゃあ……」
「どうにかして、無理を通さなきゃならないよ」
よほど融通の効く店を知っているのだろうか。首を傾げる佐和をちらと見て、染が意味ありげに微笑んだ。
「親が掛け取りの集金を払えなくて、捨て子が増えるんだよ」と顔をしかめる。
盆暮れになると商家は客のつけ払いの回収に奔走する。日々の暮らしにも汲々とする庶民にとっては頭の痛い時節だ。借金を払うことができず、やむなく子を手放す親も珍しくはないのだそうだ。
捨て子などない方がいいに決まっている。しかし、一日千秋の思いで養子を待ちわびる夫婦にとっては、捨て子や迷い子なくしては望みが叶えられないこともある。皮肉なものだ、と染は言う。
町名主の馬込がやってきたのは、うだるように暑いある日の午後のことだった。
「川崎宿から少し離れた村の百姓で、子を欲しがってる家があるんだよ。百姓といっても有徳人で不自由もない。どうだろう、来月訪ねてきてもらって人物を確かめて、たつ坊と引き合わせてみたら」
青ざめている佐和の隣で、染は請状に目を落としてじっと考え込んでいた。
「染さん、気持ちは分かるが、ここらが手の打ちどころじゃないかね。大きくなるに従って千寿のことも忘れるだろうよ。それがたつ坊のためだよ」
「……お会いしてみてからお返事をしましょう。それでもよろしいでしょうね」
染が平坦な口調で言うと、汗ばんだ顔に扇子で風を送っていた馬込は「もちろんだとも」と頷いた。
町名主が去った後、しんと静まり返った帳場から動くことが出来なかった。これが、いいのだろうか。これしかないのだろうか。帳簿に書き物をしている染を見ては言葉を探していると、内所の唐紙を開け閉てしてたつ坊が出てきた。
「……たつ坊」
くりくりとした丸い目を瞬かせ、少年は染と佐和を交互に見ると口を開いた。
「おいら、そこに行く」
えっ、と佐和は声を上げた。
「どこへ。川崎宿?」
ぎょっとして身を乗り出すと、ん、とたつ坊が頷いた。
「行く。いいよ、そこに行く」
「だって、そんな……」
たつ坊の瞳が見たこともないような静けさを浮かべているのを見て、凍えるように胸が冷えた。
諦めたのだ、と直感した。この子は、千寿の夫婦の元へ戻ることを諦めた……。
「お世話んなりました」
ぺこりと頭を下げたかと思うと、たつ坊はとことこと内所を通り、猫の元へと戻って行った。浅く息をしながら言葉もなくそれを見送った佐和は、すがるように染を振り返った。けれども、染は茫漠とした目で頬杖をついたまま、じっと思料に沈んでいた。
夕餉の買出しに出かける、と染に言った時には腹を決めていた。仕度をするふりをして二階へ上がり、小引き出しの奥にしまってあった桐の小箱を取り出した。小窓の薄明かりの中でそうっと蓋を持ち上げ、燃えるような血赤の珊瑚玉と銀の輝きを目に焼き付ける。そして蓋を閉じて胸元に入れると、上に両手を重ねてぎゅっと目を閉じた。
階段を降り、帳場にいる染に「行って参ります」と何気なく言って下駄に足を入れる。
「お待ち」
染の低い声が肩を掴んだ。振り返ると、切れ長の目が見詰めているのでぎくりとする。
「あんた、どこへ行くつもりだい?」
「……買出しです」
無言で背筋を伸ばした染は、不意に唇を歪めた。
「嘘お言い。質屋だろう」
佐和は咄嗟に目を泳がせた。この簪は染に見せたことなどない。どうして、と心臓がはげしく鳴っている。
「……その懐に入ってるもんは何かの値打ちものだろう。あんた、時々眺めてるよね」
みるみる赤面して俯いた。こっそり取り出しては眺めているのを見られていたのだ。
「あんたの考えていることくらい分かるよ。大事なもんなんだろう? たつ坊のために質に入れたら後で後悔するんじゃないのかい」
「……するかも、しれません。でも、少しでも借財を減らせたら、何か変わるかも知れないと、思いまして」
十両にはとても足りない。だが、負担を減らしてやれたら商いが軌道に乗るかも知れない。川崎へ貰われる前に、借金をきれいに出来るかも分からないではないか。
保証はどこにもないけれど。これを質に入れたりしたら、もう市衛門には金輪際合わせる顔などないけれど。
「馬鹿だねぇ。またたつ坊みたいな子が現れたらどうするんだ。その度にあんたが借金を被る気かい?泉屋さんへもまだ返すものがあるんだろう。情に流されて身の丈に合わないことをするのは、誰のためにもならないよ」
ぽんぽんと投げて寄越す染の言葉に、悄然とする他になかった。染が正しいのは分かっている。それでも、と諦め切れずに言葉を探していると、小さな嘆息が聞こえた。
「……ちょっとこっちへおいで」
おもむろにそう言うと、染は立ち上がって内所へと入って行った。
「たつ坊、あんたも座りなさい」
戸惑いながら従うと、染は絵草紙を眺めていたたつ坊を自分の前に座らせた。
「たつ坊、よくお聞き。あんたが千寿のおとっつぁんとおっかさんの家に戻りたいのはよく分かってる。だが、おとっつぁんたちには借財があって、あんたを引き取ることが出来ない。分かるかい?」
「……ん」
とたつ坊がこっくり頷いた。
「おとっつぁんたちはあんたを取り戻そうと必死に働いているが、今のままでは間に合いそうにない。けれど、あんたが助けてやるんなら話は別だ」
染はぴしりと背筋を伸ばしたまま静かに続けた。
「商家に小僧奉公に出るとね、親にはお金が出るんだよ。それを渡してやればおっかさんたちは助かるだろう。あんたは奉公に出なきゃならないが、大きくなって偉くなれば家に出入りすることも出来る。千寿の商いが上手く行けば、奉公先にお金を返してあんたは家に戻ることも出来るかも知れない。だが奉公は辛いことも多いだろうし、上手く運ばなければ家には戻れない。それとも川崎宿へ行った方がいいか、どう思う」
佐和は度肝を抜かれて染を見詰めた。そんなことを考えていたのか。確かに小僧奉公に出れば親にお金が渡る。しかしたつ坊はまだ七つなのだ。小僧には幼すぎる……
たつ坊は膝に置いた両手に目を落として、懸命に何事かを思料していた。
「……それで、おとっつぁんとおっかさんは助かる?」
「ずいぶん助かるだろう」
「嬉しいかな」
「嬉しくはないかもね。あんたが身売りするようなもんだもの。でも、あたしは小僧をよく世話している店を知っているから頼んであげられる。いい人ばかりだからその点は心配いらないよ。……あんたが決めるんだよ。まだ七つだけれど、自分で決めなきゃならない。出来るかい?」
たつ坊は上を向いた鼻を真っ赤にして、しばらく考え込んだ。
「……やる。おいら奉公に行く」
やがて、きっぱりと言った。生気を取り戻したような明るい双眸を見下ろしながら、佐和は奥歯を噛み締めた。
「そうかい」
染は頷くと、よく分かったよ、と穏やかに言った。
その夜、たつ坊が床に就いた後、佐和は躊躇いながら染に尋ねた。
「染さん、たつ坊は小僧には幼すぎやしませんか」
「そうだね」と、麦湯を啜りながら染が当然のように相槌を打った。
「じゃあ……」
「どうにかして、無理を通さなきゃならないよ」
よほど融通の効く店を知っているのだろうか。首を傾げる佐和をちらと見て、染が意味ありげに微笑んだ。
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