証なるもの

笹目いく子

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広彬(二)

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 十四の春に元服し、広彬信直ひろあきらのぶなおと名を変えた三月ほど後に正国が急逝すると、出生の謎は解けた。江戸から弔問に訪れた大鳥屋店主の四代目紀堂が、広彬にすべてを明かしたのだった。
 紫野は千川家用人高田清左衛門の娘で、二親を早くに亡くして奥女中として働いていたという。幼くして親を失ったせいか寡黙なところがあったが、健気でやさしい心根を持つ娘だったそうだ。そして、物言う花のごとき美貌の持ち主であった。
 当時若殿であった広忠ひろただが、屋敷奥で見かける紫野を愛するようになったのも無理はなかった。身分違いも甚だしい恋だったが、紫野も広忠に心惹かれ、二人は密かに互いを慕い合うようになっていた。
 広忠は当時存命であった父・広信ひろのぶと、母・享子きょうこに娘を正室に迎えたいと訴えた。高家の正室は他の高家か寄合などの大身旗本、あるいは大名家から輿入れするものだ。臣下の娘とはいえ、正室とするには越えがたい身分の壁があった。広忠は高家の嫡子として厳しく己を律し、家名に奢らず文武に励み、万事において控え目に振る舞う青年だった。それだけに、内に秘めて育んだ紫野への情は一途で深いものがあったのだろう。広信と享子は、広忠の想いの動かし難いことを覚った。そこで、紫野を享子の縁戚である旗本寄合の近藤家の養女とした上で、高家の妻にふさわしい教育を身につけさせた後、婚姻を許すことにしたのだった。

「しかし、お母上様がそこで一年を過ごす間に、予期せぬ事態が生じまして……」

 四代目紀堂は言い淀んでから、慎重に言葉を継ぐ。

「さるご身分の高いお武家様が、ご縁組に横槍を入れていらしたのです」
「……誰が」

 思わず尋ねると、四代目はぎゅっと顎に皺を寄せて少し黙った。

「お旗本の中野清茂きよしげ様でございます。将軍様のお側で、我が世の春を謳歌しておられるお方でございますよ」

 中野清茂、後の中野石翁せきおうは、五百石の旗本でありながら将軍徳川家斉の寵愛を得て、短い間に側近中の側近の地位に駆け登っていた。佞人であるというだけではなく才知があり、お美代という娘を養女として将軍の側室に送り込み、大奥への影響力を盤石とする狡猾さも兼ね備えている知恵者だという。中野の知遇を得たならば、何事も叶うと言われるほどの権勢だった。

「この中野様が、お母上様の美貌を知って大奥へ送り込もうと企んだのです。ご高家へのお輿入れを待つお方を横から攫おうなぞ、思い上がりも甚だしいことです。しかし、中野様は公方様のご寵臣である上に、こう申しては無礼ではございますが、公方様は美女に目のないお方。紫野様を大奥へ差し出せと、いつご公儀からご命令が下るかわからぬ状況でございました。そんな折……」

 四十路も後半かと思われる柔和な商人の目が、不意に広彬のそれを真っ直ぐに覗き込む。

「お母上様がご懐妊なされましたのです」

 広彬の心ノ臓がどきりと跳ねる。
 進退極まった紫野から涙ながらに打ち明けられた広忠の決断は、速かった。

「それならば、もはや迷うことはない」

 紫野をこれ以上苦しめるわけにはいかない。母子を守るには中野の手の届かぬところへ紫野を逃がすより他にない。それが千川家当主の決断だった。
 そして、紫野は死んだということにし、江戸から逃がしたい、力を貸してほしいと、四代目紀堂は内密の相談を受けたのだ。

「千川家や大沢家の縁故ではすぐに居所が知れるだろう。何か知恵がないだろうか。そなたらは祖父の代から我が家に尽くしてきてくれた。四代目のそなたも仁慈と道義を重んじ、精神に剛勇を秘めた男であることはよう知っている。だからそなたを頼りたい」

 大鳥屋の四代目紀堂は広忠が幼少の頃から屋敷に出入りし、長じては広忠の将棋の相手を務めるような親しい間柄である。話を打ち明けられた四代目は、仰天するとともに感激に身をふるわせた。まさか千川家の殿様が、商人の己を頼ってくれるとは夢にも思わなかったのだ。広忠の信頼に応えようと四代目は懸命に策を練った。そして、元小田原藩士で、時折大鳥屋に滞在しては紀堂と誼を結び、千川家とも親交のあった儒学者の野月正国に、紫野を匿ってもらうことに決めたのだった。

「それで、一芝居打つことに致しました。ある時、中野様が、公方様がお忍びでご滞在中のお屋敷へ紫野様を無理に召し出したことがございました。名目は猿楽を上演するとかで、近藤家の姫君もぜひとの建前でございましたが。私どもはその機会を捉えて、お屋敷へ向かわれるところを待ち伏せし、紫野様を攫ったのでございます」
「攫った……?」

 美しい両目を剥いた少年に、四代目は少々得意気に頷く。

「お忍びの場へ向かうわけですから、警護は最低限しか付けられてございませんでした。それも、千川様や近藤様を押し切ってのことでございますから、中野様のご配下が一名にお女中二名程度のことで。それで、足の早い腕っこきを数名使い、ならずものを装わせてまんまとお母上様を奪って逃げました。そして、いたぶった挙句水に落として殺した──ということにして、打掛などのお召し物を川の杭に引っかかるように放り込んでおいたのです」

 中野はもちろん周章狼狽しゅうしょうろうばいし、町方も駆り出して紫野と犯人達を血眼で探した。……けれども、紫野の足取りも犯人達の足取りも、杳として知れなかった。大鳥屋の仕事は、完璧だった。

「実際に身重の紫野様を抱えて走るわけには参りませんから、代役を立てましてね。似たような格好をした男と途中ですり替えて逃げました。その間に紫野様には町娘を装っていただき、船で品川まで一気に向かったのです。そこでお迎えにいらしていた野月様に紫野様を託しました。雇った男たちですか? 捕まるようなへまをする連中じゃございません。店の見聞方が使う、まぁその筋の者たちなんですが、知恵もあるし口の固さは折り紙付きです」

 小柄な体と、団子鼻の愛嬌ある顔つきをしていながら、精気のある双眸には豪胆な覇気が浮かんでいる男だった。その両目にちらと笑みを浮かべてから、店主は声を改める。

「中野様はそりゃあ悔やんでおいででしたようです。しかし、ご自分がご配下をつけて連れ出した上でのご失態、千川様や近藤様をお恨みするわけにもいかず、逆にお父上様に責を問われても仕方のないお立場となりました。公方様のご落胆も大きかったに相違ございません。そういうわけで、私たちには都合のいいことに、ことは有耶無耶のまま始末が付けられたのでございます」

 四代目紀堂の人のよさそうな顔から、目を逸らすことができなかった。胸が轟き、全身が燃えるように熱い。
 両親の人となりについて聞くだけでも気が昂るというのに、二人を襲った悲運の途方もなさを受け止めることは容易ではない。中野清茂と、あろうことか徳川将軍までもが己の出生にかかわっていたとは。広彬は身震いを堪えながら、大鳥屋店主の話を一言も聞き漏らすまいとしていた。
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