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広彬(三)
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「とはいえ、中野様はお殿様が紫野様を隠したのではと疑って、しつこく探っておられましてね。あなた様がお生まれになられて、お母上様がお亡くなりになった時も、お殿様はひたすら沈黙なさって耐えておられました。あなた様がご成長になられる間も、決して鎌倉へ相手の疑いの目が向かぬようにと、すべてを胸に納めてお過ごしでした。
私は昔、お母上様と、赤子だったあなた様のお髪を、お殿様に差し上げたことがございました。お殿様はそれはそれはお喜びになられて、今も大事になさっておられます。懐紙に包んで小さな袋に入れたものを、常に懐に忍ばせておいでなんですよ。手前があなた様のご成長ぶりを密かにご報告いたしますとね、健気なことだと涙ぐんでいらっしゃいました」
やがて、大沢家のすすめで旗本寄合からお永を娶り、弟が生まれて数年が経つと、中野の監視の目はようやく緩んだという。
「父上は……」
思わず、唇から言葉がこぼれ落ちた。
「母上を、大切に思っておられたのだな」
「もちろんでございます」
力強い答えが即座に返ってきたので、頬が熱くなった。
「この世の何よりも、愛おしんでおられました。あなた様のことも、紫野様を亡くされてからはより一層、一心に想いをかけておられます。私はお殿様のお心の深さを拝見いたしますとね、お役に立ちたくてたまらなくなるのです」
男が赤らんだ団子鼻をすするのを見て、広彬は顔を伏せる。胸にかきむしられるような切ない痛みが広がって、喉の奥がぎゅっと詰まった。
「──広彬様」
大鳥屋店主が背筋を伸ばして口を開く。
「野月様のご逝去は、まことに無念なことでございました。野月様は手前の父とも手前とも、長いお付き合いがございました。これほど識高く、お心根の寛厚なお方は江戸にもそうはおられません。広彬様もさぞお寂しくておられますでしょう」
広彬は膝を両手でぐっと掴んだ。六十七で亡くなった野月正国は、懐の深い無我無私の人物だった。広彬は家族というものを知らないが、穏やかに、忍耐強く広彬を包んでくれる正国に、祖父とはこういう存在であろうかと感じたものだ。
「先日、お殿様とご相談致しました。向後もあなた様を鎌倉にお匿いしておくべきかどうかと。……それで、実はあなた様を、江戸へお連れ申し上げようと思うのでございます」
広彬は息を飲んで固まった。
江戸へ、戻れる。
いきなり視界が開け、胸のうちに新鮮な風が吹き抜けるかのように感じる。
膝を掴んだ両手がふるえだす。本当に。本当に……
「……しかし、お家へお迎えすることは叶いませんのです」
え、と広彬は男の顔を凝視した。どういうことだ。戻れると、今言ったではないか。
混乱に目を泳がせていると、四代目が噛んで含めるようにゆっくりと言う。
「お殿様のご意向もございまして、あなた様を大鳥屋へお迎えしようかと思うのです。どうでございましょう? 手前と一緒に、江戸一の大商人になるってのは」
と邪気のない笑顔を浮かべた。
紫野によく似た美貌の子供を千川家へ迎えることは、件の中野清茂の要らぬ猜疑心を掻き立てるだろう。紫野を隠した上に死なせたと知れれば、いかなる報復が加えられるかわからない。正室や弟の直太郎、また家臣団に、広彬の存在を周知することにも危険が伴う。しかし、町人となって市井に紛れてしまえば容易に見つけられることもない。大鳥屋の養子となれば、御用達商人として千川家に出入りすることもできるのだ。何より、逃げも隠れもせずに生きていくことができる。
四代目紀堂は五年ほど前に内儀の佐代を亡くしてから独り身で、子もいない。いずれは養子を迎えようと考えていたところであったから、広彬ならば喜んで迎えたいという。
「お武家様をやめろなどと申すのではございません。ただ、このままお姿を隠してご成長なさるよりも、町人としてお暮らしになった方がずうっと自由に、お幸せに暮らせるだろうと、お殿様はお考えになられたんでございます」
ご心配は無用です、手前がきっちり仕込んで差し上げます。きっと立派な商人におなりになられますよ、と四代目紀堂は妙に自信満々だった。しかし、その声はどこか遠くに響くばかりで、呆然とする広彬には無意味な言葉の羅列としか聞こえなかった。
混乱しながら散々に考えた広彬は、やがて乾いた心地で納得した。
……もう、武家に俺の居場所はないのだ。そういうことなのだ。
物心ついた時からふわふわと頼りなく中空を漂っているかのようだった心が、すとんと地面に落ちた気がした。何だ。そういうことか。
地面に転がった己の残骸は、ひどくつまらない、取るに足らぬものに見える。現実というものは、とかくそういうものなのだろう。
知らぬ間に夢を見て、いつかこの薄暗い、寄る辺ない生が、日向に根を下ろす日が来るのだと、どこかで期待をしていたのだ。だが夢の正体が見えてみれば、それはひどくがっかりするような、見当違いの形をしていた。
元服の際、広彬信直という名をつけたのが父であることは、正国から聞かされていた。千川家の二代前の当主に、広彬という仁徳に優れたお方がいて、父は顔も見たことのない息子にその名を与えたいと切望したのだそうだ。それは広彬の孤独な魂を、いずこかで暮らす血族に結びつける、細い縁のようなものだった。
生来生真面目で忍耐強い広彬は、千川の血を受けた子なれば、日陰の身であろうとも誇り高くあろうと努めてきた。曾祖父の名に恥じぬ武士になろうと心に誓ってもいた。文武に励む広彬の精励ぶりに、野月家も大鳥屋店主も称賛を惜しまなかった。
元服の折には、千川家から密かに打刀と脇差が贈られた。黒呂鞘の両刀は無銘の正宗で、ハバキに千川家家紋の丸の内花杏葉が彫られた業物だった。
前髪を落とした広彬はずしりと重い両刀を手に取って、はらはらと嬉し涙に暮れたものだった。広彬の名と共に家紋入りの両刀を与えられた。これほどの喜びがあるだろうか。こみ上げる思いを抑えきれなかった。広彬は両刀を腰に差すと、いつまでも屋敷の内を歩き回っては、野月家家人からの祝福に顔を輝かせていたのだった。
今となっては、己の滑稽さに哀れみさえ覚える。
広彬が両刀を腰に帯び、千川家の子息として外の世界を歩くことなど、あり得なかったというのに。
己の努力を卑下するほど広彬は性根のねじくれた子供ではなかったし、野月の家人は広彬をよく導いてくれた。学ぶことに無駄などない。人から褒められるために己を切磋琢磨するのではなく、よき人間となるために己を磨くのだ、と正国は説いたものだった。広彬はそれを深く心に刻み込んで生きてきた。
だが……やはりどこかで、あたたかく生家に迎えられる自分の姿を思い描いていた。父に何と口上を述べようか。恨み言は申すまい。お会いしとうございました、広彬は幸せでございますと言おう。そうしたら、立派になった、辛い思いをさせた、と父が目を潤ませ、やさしく手を取ってくれるのではあるまいか。
腹違いの弟に自分が兄だと名乗ったら、さぞ驚くだろうな、などとも考えた。嫡男の座なぞ望まない。ただ、野月家の兄弟のような、仲の良い兄弟というものに憧れていた。年の離れた弟というのは可愛いものだろうか。俺に懐いてくれるだろうか。最初は怯えて親しんではくれないかもしれないが、忍耐強く語りかけよう。高家の若殿である弟が恥ずかしく思わぬように、文武に励んで立派な武士となろう。
直太郎の母上のお永様は、自分を疎ましく思われるかもしれない。直太郎の脅威になることなどない、ただ弟を助け、見守っておれたら幸せなのですと、心を尽くしてお伝えしよう。──そんなことを夢想しては、不安な心の支えにしていたのだ。
しかし、もはや己を千川広彬と名乗ることさえできぬのだ。
冬の嵐に荒れ狂う海が目に浮かぶ。九つの時、嵐の咆哮を屋敷の外に聞いているうちに、どうしてか海が見たくなった。そんな真似は、これまで一度たりともしたことはなかったのに、気づけば屋敷を抜け出して、濡れ鼠になりながら砂浜に立っていた。
己が何者であるのかも知らず、どう生きていけばいいのかも、どこへ行けばいいのかもわからず、ただ心を殺し、狭い世界で息をひそめて暮らす日々に押し潰されそうだった。春に弟が生まれた。では己は。ここで、いないものとして育てられている己は、どうすれば。
連れ去ってくれ。出来ぬのならば、壊してくれ。名前もわからぬ衝動にふるえながら、そう一心に思っていた。
……俺の人生というものは、所詮こんなものなのだろう。
重い疲れが背に覆い被さるのを感じながら、広彬は大鳥屋店主に乾いた声で告げた。
「申し出は有難いが、わざわざ俺を養子にすることなどなかろう。父上に義理立てをして、厄介者を背負い込む必要などない。もう元服したのだし、一人でどうとでも生きていく。これまで世話になったな」
このご時世、浪人や無宿人など珍しくもない。江戸から遠く流れれば、千川家や大鳥屋、野月家に迷惑がかかることもなかろう。いや、野月家次男の正馬と共に、諸国を武者修行しながら生きていくのもいいか、などとぼんやり考える。
その途端、大鳥屋の四代目は顔色を変え、ひどく憤慨した。
「お言葉でございますが、広彬様。見損なってもらっちゃあ困ります。これは手前がお殿様に託されたことなんで。あなた様はお殿様とお母上様の宝物なんでございますよ。厄介者なぞとんでもないことでございます。お殿様がどれほどあなた様を愛しくお思いか、どれほどの苦しみを胸に納めておられるか、どうかお察しくださいまし。ご自分の価値を下げるようなことをおっしゃるのは、お二方のお心を無にすることです。そんな情けないことをなすっちゃいけません」
「──黙れ。お前にわかるものか!」
そう叫んでから己の大声に驚いた。火を吹くように、両目から苦く熱い涙が溢れ出している。止めようとしても、後から後から溢れて止まらなかった。
「こんな生に何の意味があるというのだ。母は死に、父にはお目にかかったことすらない。誰一人、俺を顧みる人などおらぬ。ただの一度も武家であったこともないのに、今度は町人になれという。……こんなかりそめの生の、どこが宝なのだ!」
お前などにわかるものか、と叩きつけるように咆えながら泣いた。張り裂けそうな胸の痛みに、拭っても拭っても涙は吹き出し、手放しのはげしい嗚咽が喉から迸る。己の幼稚さに嫌気がさした。この男に当たってどうするのだ。馬鹿馬鹿しい。口に出すだけ無駄ではないか。
けれども、訴えずにはいられなかった。どれだけ、待っていたと思うのだ。どれだけ、寂しさに耐えていたと思うのだ。
愛されたいと、そればかりを欲して生きてきた。寂しくて悲しくて、壊れてしまいそうになりながら、己を律し、前だけを見て、すべてを飲み込み生きてきた。その惨めさが、商人なぞにわかるものか。
けれどそれでもいいから、誰でもいいから、自分の傷を晒して痛みを吐き出してしまいたかった。
物分かりのいい、素直で賢い子供の面などかなぐり捨てて、道理も弁えぬ幼子のように、大声をあげてただ泣いてみたかった。
「……結構な威勢じゃございませんか」
号泣しながら、人形のように端正な顔を涙と鼻水で汚す広彬を見下ろして、男が明るい声で言う。
「いいですねぇ。そういう飢えを腹に抱えている人はね、商人にはぴったりですよ。どうぞどうぞ、がつがつ欲しいものを手に入れて、大きくなって下さいまし。そうすりゃその内、こんなに面白い人生もないもんだ、ってお思いになること間違いありません。……大丈夫です。我慢しねぇで、遠慮なく欲しがって下さいまし。なぁに、当店は大店でございますからね、きっとお望みのものが手に入りますとも」
すすり泣きながら広彬は男を見返した。何のことだかさっぱりわからぬ。欲しがったところで、自分が望むものは決して手に入らないではないか。
そう思いながらも、大鳥屋店主の顔から目を逸らせない。
……もう、待っているのは嫌なのだ。来てはくれぬ人を、どこかにあるかも知れない家へ招き入れられることを、待っているのはもう嫌だ。十四年も待ったのに、これ以上虚しく待ちつづけるのは沢山だ。
それならば取りにいけと、この妙な男は言う。
(それも、いいかもしれない)
しゃくりあげながら濡れた目で見上げると、四代目紀堂は赤子が元気に泣く姿を見ているかのように、嬉しそうに相好を崩していた。
私は昔、お母上様と、赤子だったあなた様のお髪を、お殿様に差し上げたことがございました。お殿様はそれはそれはお喜びになられて、今も大事になさっておられます。懐紙に包んで小さな袋に入れたものを、常に懐に忍ばせておいでなんですよ。手前があなた様のご成長ぶりを密かにご報告いたしますとね、健気なことだと涙ぐんでいらっしゃいました」
やがて、大沢家のすすめで旗本寄合からお永を娶り、弟が生まれて数年が経つと、中野の監視の目はようやく緩んだという。
「父上は……」
思わず、唇から言葉がこぼれ落ちた。
「母上を、大切に思っておられたのだな」
「もちろんでございます」
力強い答えが即座に返ってきたので、頬が熱くなった。
「この世の何よりも、愛おしんでおられました。あなた様のことも、紫野様を亡くされてからはより一層、一心に想いをかけておられます。私はお殿様のお心の深さを拝見いたしますとね、お役に立ちたくてたまらなくなるのです」
男が赤らんだ団子鼻をすするのを見て、広彬は顔を伏せる。胸にかきむしられるような切ない痛みが広がって、喉の奥がぎゅっと詰まった。
「──広彬様」
大鳥屋店主が背筋を伸ばして口を開く。
「野月様のご逝去は、まことに無念なことでございました。野月様は手前の父とも手前とも、長いお付き合いがございました。これほど識高く、お心根の寛厚なお方は江戸にもそうはおられません。広彬様もさぞお寂しくておられますでしょう」
広彬は膝を両手でぐっと掴んだ。六十七で亡くなった野月正国は、懐の深い無我無私の人物だった。広彬は家族というものを知らないが、穏やかに、忍耐強く広彬を包んでくれる正国に、祖父とはこういう存在であろうかと感じたものだ。
「先日、お殿様とご相談致しました。向後もあなた様を鎌倉にお匿いしておくべきかどうかと。……それで、実はあなた様を、江戸へお連れ申し上げようと思うのでございます」
広彬は息を飲んで固まった。
江戸へ、戻れる。
いきなり視界が開け、胸のうちに新鮮な風が吹き抜けるかのように感じる。
膝を掴んだ両手がふるえだす。本当に。本当に……
「……しかし、お家へお迎えすることは叶いませんのです」
え、と広彬は男の顔を凝視した。どういうことだ。戻れると、今言ったではないか。
混乱に目を泳がせていると、四代目が噛んで含めるようにゆっくりと言う。
「お殿様のご意向もございまして、あなた様を大鳥屋へお迎えしようかと思うのです。どうでございましょう? 手前と一緒に、江戸一の大商人になるってのは」
と邪気のない笑顔を浮かべた。
紫野によく似た美貌の子供を千川家へ迎えることは、件の中野清茂の要らぬ猜疑心を掻き立てるだろう。紫野を隠した上に死なせたと知れれば、いかなる報復が加えられるかわからない。正室や弟の直太郎、また家臣団に、広彬の存在を周知することにも危険が伴う。しかし、町人となって市井に紛れてしまえば容易に見つけられることもない。大鳥屋の養子となれば、御用達商人として千川家に出入りすることもできるのだ。何より、逃げも隠れもせずに生きていくことができる。
四代目紀堂は五年ほど前に内儀の佐代を亡くしてから独り身で、子もいない。いずれは養子を迎えようと考えていたところであったから、広彬ならば喜んで迎えたいという。
「お武家様をやめろなどと申すのではございません。ただ、このままお姿を隠してご成長なさるよりも、町人としてお暮らしになった方がずうっと自由に、お幸せに暮らせるだろうと、お殿様はお考えになられたんでございます」
ご心配は無用です、手前がきっちり仕込んで差し上げます。きっと立派な商人におなりになられますよ、と四代目紀堂は妙に自信満々だった。しかし、その声はどこか遠くに響くばかりで、呆然とする広彬には無意味な言葉の羅列としか聞こえなかった。
混乱しながら散々に考えた広彬は、やがて乾いた心地で納得した。
……もう、武家に俺の居場所はないのだ。そういうことなのだ。
物心ついた時からふわふわと頼りなく中空を漂っているかのようだった心が、すとんと地面に落ちた気がした。何だ。そういうことか。
地面に転がった己の残骸は、ひどくつまらない、取るに足らぬものに見える。現実というものは、とかくそういうものなのだろう。
知らぬ間に夢を見て、いつかこの薄暗い、寄る辺ない生が、日向に根を下ろす日が来るのだと、どこかで期待をしていたのだ。だが夢の正体が見えてみれば、それはひどくがっかりするような、見当違いの形をしていた。
元服の際、広彬信直という名をつけたのが父であることは、正国から聞かされていた。千川家の二代前の当主に、広彬という仁徳に優れたお方がいて、父は顔も見たことのない息子にその名を与えたいと切望したのだそうだ。それは広彬の孤独な魂を、いずこかで暮らす血族に結びつける、細い縁のようなものだった。
生来生真面目で忍耐強い広彬は、千川の血を受けた子なれば、日陰の身であろうとも誇り高くあろうと努めてきた。曾祖父の名に恥じぬ武士になろうと心に誓ってもいた。文武に励む広彬の精励ぶりに、野月家も大鳥屋店主も称賛を惜しまなかった。
元服の折には、千川家から密かに打刀と脇差が贈られた。黒呂鞘の両刀は無銘の正宗で、ハバキに千川家家紋の丸の内花杏葉が彫られた業物だった。
前髪を落とした広彬はずしりと重い両刀を手に取って、はらはらと嬉し涙に暮れたものだった。広彬の名と共に家紋入りの両刀を与えられた。これほどの喜びがあるだろうか。こみ上げる思いを抑えきれなかった。広彬は両刀を腰に差すと、いつまでも屋敷の内を歩き回っては、野月家家人からの祝福に顔を輝かせていたのだった。
今となっては、己の滑稽さに哀れみさえ覚える。
広彬が両刀を腰に帯び、千川家の子息として外の世界を歩くことなど、あり得なかったというのに。
己の努力を卑下するほど広彬は性根のねじくれた子供ではなかったし、野月の家人は広彬をよく導いてくれた。学ぶことに無駄などない。人から褒められるために己を切磋琢磨するのではなく、よき人間となるために己を磨くのだ、と正国は説いたものだった。広彬はそれを深く心に刻み込んで生きてきた。
だが……やはりどこかで、あたたかく生家に迎えられる自分の姿を思い描いていた。父に何と口上を述べようか。恨み言は申すまい。お会いしとうございました、広彬は幸せでございますと言おう。そうしたら、立派になった、辛い思いをさせた、と父が目を潤ませ、やさしく手を取ってくれるのではあるまいか。
腹違いの弟に自分が兄だと名乗ったら、さぞ驚くだろうな、などとも考えた。嫡男の座なぞ望まない。ただ、野月家の兄弟のような、仲の良い兄弟というものに憧れていた。年の離れた弟というのは可愛いものだろうか。俺に懐いてくれるだろうか。最初は怯えて親しんではくれないかもしれないが、忍耐強く語りかけよう。高家の若殿である弟が恥ずかしく思わぬように、文武に励んで立派な武士となろう。
直太郎の母上のお永様は、自分を疎ましく思われるかもしれない。直太郎の脅威になることなどない、ただ弟を助け、見守っておれたら幸せなのですと、心を尽くしてお伝えしよう。──そんなことを夢想しては、不安な心の支えにしていたのだ。
しかし、もはや己を千川広彬と名乗ることさえできぬのだ。
冬の嵐に荒れ狂う海が目に浮かぶ。九つの時、嵐の咆哮を屋敷の外に聞いているうちに、どうしてか海が見たくなった。そんな真似は、これまで一度たりともしたことはなかったのに、気づけば屋敷を抜け出して、濡れ鼠になりながら砂浜に立っていた。
己が何者であるのかも知らず、どう生きていけばいいのかも、どこへ行けばいいのかもわからず、ただ心を殺し、狭い世界で息をひそめて暮らす日々に押し潰されそうだった。春に弟が生まれた。では己は。ここで、いないものとして育てられている己は、どうすれば。
連れ去ってくれ。出来ぬのならば、壊してくれ。名前もわからぬ衝動にふるえながら、そう一心に思っていた。
……俺の人生というものは、所詮こんなものなのだろう。
重い疲れが背に覆い被さるのを感じながら、広彬は大鳥屋店主に乾いた声で告げた。
「申し出は有難いが、わざわざ俺を養子にすることなどなかろう。父上に義理立てをして、厄介者を背負い込む必要などない。もう元服したのだし、一人でどうとでも生きていく。これまで世話になったな」
このご時世、浪人や無宿人など珍しくもない。江戸から遠く流れれば、千川家や大鳥屋、野月家に迷惑がかかることもなかろう。いや、野月家次男の正馬と共に、諸国を武者修行しながら生きていくのもいいか、などとぼんやり考える。
その途端、大鳥屋の四代目は顔色を変え、ひどく憤慨した。
「お言葉でございますが、広彬様。見損なってもらっちゃあ困ります。これは手前がお殿様に託されたことなんで。あなた様はお殿様とお母上様の宝物なんでございますよ。厄介者なぞとんでもないことでございます。お殿様がどれほどあなた様を愛しくお思いか、どれほどの苦しみを胸に納めておられるか、どうかお察しくださいまし。ご自分の価値を下げるようなことをおっしゃるのは、お二方のお心を無にすることです。そんな情けないことをなすっちゃいけません」
「──黙れ。お前にわかるものか!」
そう叫んでから己の大声に驚いた。火を吹くように、両目から苦く熱い涙が溢れ出している。止めようとしても、後から後から溢れて止まらなかった。
「こんな生に何の意味があるというのだ。母は死に、父にはお目にかかったことすらない。誰一人、俺を顧みる人などおらぬ。ただの一度も武家であったこともないのに、今度は町人になれという。……こんなかりそめの生の、どこが宝なのだ!」
お前などにわかるものか、と叩きつけるように咆えながら泣いた。張り裂けそうな胸の痛みに、拭っても拭っても涙は吹き出し、手放しのはげしい嗚咽が喉から迸る。己の幼稚さに嫌気がさした。この男に当たってどうするのだ。馬鹿馬鹿しい。口に出すだけ無駄ではないか。
けれども、訴えずにはいられなかった。どれだけ、待っていたと思うのだ。どれだけ、寂しさに耐えていたと思うのだ。
愛されたいと、そればかりを欲して生きてきた。寂しくて悲しくて、壊れてしまいそうになりながら、己を律し、前だけを見て、すべてを飲み込み生きてきた。その惨めさが、商人なぞにわかるものか。
けれどそれでもいいから、誰でもいいから、自分の傷を晒して痛みを吐き出してしまいたかった。
物分かりのいい、素直で賢い子供の面などかなぐり捨てて、道理も弁えぬ幼子のように、大声をあげてただ泣いてみたかった。
「……結構な威勢じゃございませんか」
号泣しながら、人形のように端正な顔を涙と鼻水で汚す広彬を見下ろして、男が明るい声で言う。
「いいですねぇ。そういう飢えを腹に抱えている人はね、商人にはぴったりですよ。どうぞどうぞ、がつがつ欲しいものを手に入れて、大きくなって下さいまし。そうすりゃその内、こんなに面白い人生もないもんだ、ってお思いになること間違いありません。……大丈夫です。我慢しねぇで、遠慮なく欲しがって下さいまし。なぁに、当店は大店でございますからね、きっとお望みのものが手に入りますとも」
すすり泣きながら広彬は男を見返した。何のことだかさっぱりわからぬ。欲しがったところで、自分が望むものは決して手に入らないではないか。
そう思いながらも、大鳥屋店主の顔から目を逸らせない。
……もう、待っているのは嫌なのだ。来てはくれぬ人を、どこかにあるかも知れない家へ招き入れられることを、待っているのはもう嫌だ。十四年も待ったのに、これ以上虚しく待ちつづけるのは沢山だ。
それならば取りにいけと、この妙な男は言う。
(それも、いいかもしれない)
しゃくりあげながら濡れた目で見上げると、四代目紀堂は赤子が元気に泣く姿を見ているかのように、嬉しそうに相好を崩していた。
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